フィリピーナと共に
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2015年08月20日

755.自動洗濯機的生活と幸せ論

 ブログ村の記事(ブログ村ランキングで自分の近くにいた人の記事、関西方面のお方)で、僕より激しい修行にさらされ、日々神経をすり減らしている人がいることを知り、前回記事で「日々修行」などと偉そうなことを書いた自分を少し恥じた。
 フィリピーナとのお付き合い、確かに気苦労が耐えないこと、想像に難くない。しかしながら、フィリピーナに翻弄される修行もこれまた懐かしいし、ある意味羨ましい。ジェットコースターのようにアップダウンの激しい生活。これほど若返りの妙薬はないとも言えるからだ。
 そんなことを考えながら、思わず回っている洗濯機の中で、もみくちゃにされる自分の姿を想像してしまった。フィリピーナに翻弄される日々は、目が回るけれど身も心も洗われているようなものである。
 つまりこれは、洗濯機的生活というやつだ。水がどんどん注がれているときもあれば泡だらけになることもある。しかし気が付けば色々な意味で搾り取られている。そして、いずれにしても目が回る。目は回るけれど、洗濯後はほのかなよい香りと爽快感を味わえる。汚れてくればまた洗濯をする。これは、全自動洗濯機的生活と言った方がよいだろうか。

 もちろん洗濯機的生活には、ポジティブとネガティブの二つの側面がある。
 フィリピーナを追いかけ、フィリピンに住みつき、八方塞りに陥る人も少なくない。財産を吸い取れら、お金を失った途端、捨てられるように家を追い出された人もいると聞いている。
 反面、いつまでも仲睦まじく暮らしている人がいるし、あるいは微妙な距離を保ち、絶妙な関係を維持している方もいる。もちろん千差万別で、一概に良し悪しを判断できるものではない。虐げられているように見えてそこに幸せを感じている人もいるし、幸せそうに見えても心に闇を抱えている人もいる。
 とにかく人の幸せ感というものは、見た目では分からない。意外と幸せそうに見える人ほど心に穴が開いていることもある。それにいつでも幸福感を維持している人は少なくて、そこには普通、起伏というものがある。
 洗濯機的生活をしている人は、まさにこの起伏にさらされているわけで、普通の人より幸福や不幸とは何かについて体感的に詳しかったりする。しかしそうでなくても、論理的に人は、幸福と不幸の狭間を行ったり来たりするものなのだ。どんな環境に置かれていてもである。
 不幸を通り越すと、どん底というものがある。いや、実際にはだいたい下には下があり、本物のどん底を経験することは難しいのだけれど、とにかくそれに近い経験というものがある。  
 どん底というものは、できれば経験せずに越したことはないけれど、それを知ってみるとそれはそれで面白い。なぜならどん底を知っている人の幸福感は、同じ境遇でもそれを知らない人より高いからである。つまり自分を不幸だと思っている人は、将来、より高い幸せ感を味わう可能性を秘めているし、本物の幸せを得ることができるのかもしれないのだ。
 もっとも本物の幸せとは何か、この正体を明らかにしなければ、この話しはまとまらない。
 
 最近はフェイスブックの利用が当たり前になり、多くの人が色々なことをそこにアップデートするようになった。大抵の人は、自分の関係の写真をアップする場合、幸せそうに見えるものをあげている。私はこんなに不幸なんですとアピールしているものは少ない。
 しかし、これも見た目だけで、本当はどうなのか分からない。中には不幸だからこそ、懸命に幸せそうに見える写真をアップしている人もいるだろう。瞬間的にでも他人との違いをそこに示し、優越感に浸ることで幸せ感を得たいという心理である。つまり自慢や優越感を糧にしないと、幸せ感を得られないというやつだ。
 自慢、強調、行き過ぎる主張、でしゃばり、反目、嘘、見栄、虚栄。みんな自分の自信のなさや不安、不満を擬似的に解消するものだ。
 もちろんフェイスブックにアップされる全てがそうだと言っているわけではない。不思議とそれには人柄のようなものが滲み出るもので、純粋に楽しんでいるかどうかはそれとなく伝わってくる。
 最初は僕もなにげにフェイスブックに適当な写真をあげていたけれど、最近自分ではほとんどアップしなくなった。家族には強要していないけれど、僕は特に、食事の写真をあげないようにしている。少しおしゃれなレストラン、豪華そうに見えるもの、そんな見栄えのよいものほど控えている。それは知人が、日々の食事にも困っていることを知ったためだ。その知人は他人のことを羨み自分を悲観するような人ではないけれど、それでも僕は遠慮している。だから、例えば両親や親密な知人に、こんな生活をしているとか珍しい体験をしたなどを教えて安心させたり喜ばせたいときは、直接メールで写真を送るようにしている。
 こんな風にフェイスブックから距離を置き、他人のアップするものを見る専門になってから、僕はフェイスブックにアップされる記事を、少し冷静な目で見ることができるようになった。
 もともと以前の僕は、ときどきモナに話していたのだ。
「こんなものを食べましたなんてみんなに公開して、何が楽しいの?」
「どうしてプライベートなことを、わざわざ公開しなければならないの?」
「出かけていることを公開して、泥棒に入られるリスクを増やさなくてもいいじゃない?」
「子供の顔はできるだけ出したくない。せめて素性の分かるものがない写真にしてほしい」
 そんなとき、モナから答えらしい答えをもらったことはない。最近は僕もいちいち言わなくなったけれど、嫌味の滲み出ているものには苦言を呈する。
 例えば最近酷いと思ったのは、ベルの投稿だ。
「リッチな子供はスターバックス プアな子供はホームインスタントコーヒー」なんてコメントを、スターバックスにいる写真と一緒に出していた。
 これを見た僕は頭にきて、「ベルはいつからこんな馬鹿になったんだ!」とモナに言った。モナも気付いていたらしく、彼女はベルのことを既に叱ったと言った。そのせいか、この問題投稿はすぐに削除された。
 これを見たときに、僕たちはベルの育て方を間違えているのではないかと考えた。二度と彼女をスターバックスに連れていくものかとも思った。人間の価値とは何か、それをどうやって彼女に教えるべきか、真面目に考えた。所詮はまだ子供で、じきに自然に分かるのだろうかと思ったりもした。
 ベルがいくら図に乗っても、所詮我が家は普通の家庭だ。特別な階級でも大金持ちでもない、ごく一般的な家庭である。おそらくベルには、それが分かっていない。フィリピンの田舎の学校で、ときどきマニラや海外に家族旅行に行ける家庭がとても少ないから、変に鼻が高くなってしまったのだ。だから僕は、今通っているインターナショナルスクールにいる大金持ちの生活実態をベルに見てもらい、我が家が如何に普通であるかを彼女に思い知ってほしいとさえ願っている。我が家の生活も少しあらため、外食を減らし倹約生活に徹することも考えなければならないと思っている。欲しいものを我慢することもしなければならない。

 僕はベルの投稿を機に、衝動的にそんなことを考えていた。しかしふと、なぜ自分がそれほどむきになっているのかと思った。果たして僕は、何に対して憤りを感じているのか。
 これは、自分が憤慨することが、間違いかもしれないという意味ではない。何かベルの方向性が間違えているということには自信がある。しかしなぜそう感じるのか、なぜそう思うのか、それが曖昧なのだ。そしてそれを、いろいろ考えた。

 実は、僕はその答えを既にこの記事の中で述べている。
「どん底を知っている人間は、より幸せになれる」
 これは、どん底を知ることで、世の中の現実を思い知り、背伸びしないようになるからである。
 少し違った言い方をすれば、
「人はむやみに幸せを求めるときりがなくなり、いつまでも幸せになれない」
 ということだ。
 誰かの言葉に、「幸せは、求めると得られないものである」という言葉がある。その言葉を見た当初、僕はよく意味を理解できなかったけれど、今はぼんやりとそれが分かる。

 人の幸せとは何か、それは実は、比較で決めている部分が多い。
 他人より大きい家に住み、他人より高級な車に乗り、他人より多く稼ぎ、他人より美味いものを食える。それ自体に幸せを感じることもあるけれど、実は実際の家の住み心地や車の乗り心地のような価値より、優越感や安心感の部分に幸せを感じていることが多いのだ。現実の厳しさを知らない若い世代は特にその傾向が強く、自分も過去は、知らず知らずそんな罠に嵌まっていた。フィリピンを楽しく感じたのも、簡単に優越感に浸ることができたからだ。
 しかし、こうして得る幸せというものは、すぐに壊れる。上には上があって、全て世界一になることなどほとんど不可能だからだ。よって他人との比較でしか幸せを感じることのできない人は、簡単に不幸になることができる。今まで感じていた幸せが逃げてしまえば、簡単に不幸になってしまうのだ。
 つまり、本当の幸せが何かを分かっていないから、そうなってしまうのである。
 副作用としては、とらわれが多く、物事の本質をうまくつかめない人になる。目先のことや他人の目が気になり、いつも何かに怯えながら、見栄を撒き散らしていなければ落ち着かない。
 これのどこが幸せかという話しだけれど、幸せのふりだけでもしていれば体裁が整うから、懸命にそのふりをしようとがんばる。それができているうちは、そこそこ満足できてしまう。
 これが、相対価値観に振り回される人生というものだ。
 それでもいつまでも優越感に浸れる生活を送れる、もしくはそれほど無理なく幸せのふりを続けられるならいいけれど、ほとんどこれらは砂上の楼閣のようなもので脆いのである。
 僕はベルの投稿に、無意識にその影を見たのだ。僕は自分の子供に、そんな人生を送ってほしくないと思っているから、ベルの投稿に過剰に反応したのである。

 本当の幸せが何かは、人によっていろいろ違いがある。ただ、本物の幸せとはより絶対的なものであって、自分が変わらなくても相対的にその大きさが上下するものではない。これが本物の幸せの特徴だ。
 しかしながら今の世の中、相対価値観に溢れている。それを助長するものもたくさんあって、人はその中で溺れているように見える。これがフェイスブックを見る専門になってから僕の感じることだ。
 では、本当の幸せとは何か、それを子供に教えたり示したりするのはとても難しい。それは親や先生が教えるものではなく、自らが人生の中で何度も現実の厳しさを味わい、悲しい出来事を積み重ね、分かってくるものなのかもしれない。
 とにかくそれは身近なところにあるもので、気付かないことが多いものである。あるいは自分の考え方一つの問題だ。そして他人がどうであろうと、揺るがないものである。

 モナは子供の学校が始まってから、弁当作りを一日も欠かしていない。本当にがんばっていると思うし、僕はそのことに驚き感心し、この上ない感謝の気持ちを抱いている。ご飯と一品か二品のおかずという構成にもほとんど慣れた。揚げ過ぎたまったく歯の立たないフライを一度だけ残したけれど、それ以外はいつもきれいにたいらげている。
 食事は美味しい米と食欲をそそるしょっぱいものがあればそれが一番。それはどんなレストランのメニューにも勝る。
 それが分かって、そんな弁当を美味しく食べられることに喜びや感謝を覚えること(つまりそれに類すること)が、おそらく本物の幸せというものなのだ。この感謝の気持ちが自然とわいてくる状態というのは、幸せであることの大きな目印なのである。
 こんなことに我が家の子供たちは、いつ気付いてくれるだろうか。
 僕はかなりの時間を要してしまい、ずいぶん人生を損したような気がしているから、子供たちはせめて、三十代くらいでそれに気付いてくれるといいなと思う。



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2015年08月18日

754.日々修行

 比較的安定しているマレーシアのインターネットも、ときどき遅くなる。そしてときどき、比較的気付きにくい短い時間切れる。今日も会社で、僕はそのことに気付いた。
 こんなとき僕は想像する。僕が日常的に体験している道路渋滞のようなものが、今まさにインターネットラインの中で起きているのだろうと。
 処理しなければならないデータを処理する前に、次の処理すべきデータがやってくる。コンピュータは「ああ、また来たよ、まだ先が詰まっているのに。まっ、いいか。一つずつじっくりやろう」とケツまくり状態で、マイペースに処理を続ける。データがいくら溜まっていようと関係ない。決まったことを決まったようにやるだけで、のんびり処理をする。
 陰でささやかれる大勢の人の文句は残念ながらコンピュータに届かない。届いたとしても心を持たないコンピュータには決して響かない。だからいつでもコンピュータはマイペース。インターネットラインの中でデータ渋滞の列がどんどん伸びる。

 今自分が置かれる仕事上の環境が、まさしくこうだ。処理すべきものが処理されない状況で、処理すべきものがやってくる。
 されど南国気質の人たちは本当に手強い。
 彼らは叱られるのは嫌いだけれど、焦るのはもっと嫌いだ。休みたいときには休むし、それを邪魔するものは仕事であろうと許さない。それでは、机の前にかじりついているときにその分をしっかりこなしているかといえば、そうでもない。だから未処理の仕事がたまる一方で新しい仕事がどんどんやってくる。つまり、どこかで奮起しなければ永遠に仕事がたまり続ける。
 ん? でも実際はそうではない? 本当にそうならば、無尽蔵に仕事が溜まって都会の高層ビル顔負けの高さで机の上に仕事が積み上がっていくはずだけれど、不思議とそうならない。なぜだろう? どこかでうまく折り合いがついているのだ。僕は最近までこれを、南国マジックと呼んでいた。
 本当に不思議に思ってこの南国マジックを紐解いてみると、なんと、僕が絡んでいた。そう、僕が手を貸して処理していたのだ。
 僕は親切でこんなことをしているのではない。手を貸している本人さえ、実は自分が手を貸していることに気付いていなかった。周囲の仕事が進まないと僕が困るから、僕が焦って動き回っているだけだ。それが彼らの仕事を処理することに繋がっている。焦っていて無我夢中になっているから、僕自身が南国マジックの正体だったなんて、僕も気付かなかった。少し間抜けな話しだ。
 でも、こんなことがなければ、給料の高い日本人は不要になることを僕は知っている。おそらく経営者も気付いている。
 ついでに言えば、至れり尽くせりの日本人駐在員がもっと仕事に励んだら、僕のような現地採用者は不要だということにも、僕は気付いている。経営者がそれに気付いているかどうかは不明だけれど、僕は決してそのことで告げ口などしない。それをすれば、自分の首が絞まるのだから。
 もちろん能力の問題もある。仕事に熱心な駐在員がいたとしても、能力が足りなければ他の力に頼るしかない。しかし今の実態は、能力の問題を考える以前に、やる気の問題があるのは明らかだ。だから他の現地採用社員はそれに対し陰で文句を言う。自分たちに面倒な仕事を押し付けてばかりで、自分たちは一体何なのだと。
 しかし僕は違う。そのおかげで僕は職にありつけると思っている。会社経営上、とても効率の悪いことではあるけれど、僕にしてみればとても有難いことである。駐在員の皆さんには、海外経験を謳歌し堪能してもらえればよい。午前中は本日のランチをどこでとるか心配してもらい、昼食後は夜の食事場所を心配してもらい、その問題が片付いたら食後に行くバーや休日のゴルフの話で盛り上がってくれたらそれでいい。仕事の心配はこちらで引き受ける。これが役割分担というものだ。
「ねっ、そうでしょ?」
 と僕は、真剣に文句を言う同じ現地採用仲間にそう言いたくなったりもするけれど、それも控えている。人の口に戸は立てられないのだ。そしてもちろん、駐在員全員がそうだと言っているわけでもない。

 ということで僕はいつでも、南国気質と正面から向き合う役割を担っている。
 例えばこんなことがあったばかりだ。
 顧客にサンプルを出す日程が迫っている。部品はタイの自社工場がタイのサプライヤーから取り寄せ、マレーシアに送るよう手配した。こちらは部品が到着したらすぐに組み立て、検査をして出荷する。部品の金型作成に手間取り日程に余裕はないけれど、苦しい状況の中での段取りは最善だ。
 いざ部品が届いたら、現地設計者が青い顔をして僕のところにやってきた。
「部品が違います。右と左が逆です」
 そうなのだ。この部品は右用と左用の二種類がある、少し紛らわしい部品なのだ。
 おそらくタイの工場が手配ミスをしたのだろう。あるいは部品サプライヤーが間違って納品したとすれば、タイ工場で確認作業を怠ったことになる。でも僕は、マレーシアで働きだしてから、人のミスを追及したことがない。周囲の人に甘い、優しすぎると言われることもあるけれど、ミスを追及する時間があれば、どう対処するかにそれを当てたいと思っている。それに、南国気質はミスを追及されても反目を招くだけで、あまり効果的ではない。それよりは、期待薄でも自発的反省を期待することにしている。
 とりあえずすぐにタイ工場とテレコンをして、翌日の早朝便で持ってきてくれと依頼した。けれどタイ工場はすぐに明確な返事をしない。
「明日送付すれば月曜の朝一にそちらに届きます。今輸送業者に確認を取りました。それで何とかなりませんか?」
「いや、それだと危ない。税関で何かあったらアウトだから、できれば明日、ハンドキャリーして欲しい」
 部品が入手可能かどうか、そこから確認をするからと、先方は一旦電話を切った。その確認が必要ならば、輸送業者云々の話しは一体なんだったのか?
 それから三十分後、タイ工場から電話がかかってきた。
「以前、そちらに試作品が四個あると聞いていたのを思い出したんですが」
「え? そう? ちょっと待って、今すぐ探してみるから」
 エンジニアにそれを言って、一緒に探してみた。
「あっ、あったあった。え? 何? 試作品は心配?」
 エンジニアが最終金型品を使いたいと言っている。しかしこの試作品は以前のサンプルにも大量に使用して、客先から何も不具合のフィードバックがなかったやつだ。僕はとりあえず、急ぎの一個だけはこれでいこうと決めた。
「分かった。とりあえず明日出荷しなければならない分はこれで対応しよう。残りは必ず明日送付して欲しい。月曜日に届いたらすぐ組み立てして発送すれば間に合うから」
 その翌日、出社途中の僕の携帯に、担当エンジニアからメッセージが入った。
『本当に済みません。体調が悪いので今日は休みます。サンプルは五十パーセントは組み立て済みです』
 しまったと思った。彼が突然休むリスクを考え忘れていた。最近彼はずいぶん活躍してくれていたから、油断的忘却というやつである。
 運転しながらどうするかを考えた。代わりのエンジニアにお願いするとして、それができるのは誰か? できる人がいなければ、僕が自分で組み立てをするしかない。新しく変更した部品は何だったっけ? #と$と%と&と@だったはずだ。組み上がりの確認項目を少し増やそう。ソフトと回路の確認は自分がやればよい。
 それから出社し、組み立てと確認の段取り、出荷の段取り、インボイスの作成など、目が回る忙しさで取り組んだ。代理を務めるエンジニアが運悪く別の予定が入っていたから、僕が自分でできることを全て引き受ける条件で、彼の限りある時間を有効に使わせてもらうことにしたためだ。海外発送は、ある時間を過ぎると翌日に回ってしまうから、どうしても時間内に全てを済ませなければならない。
「何時から組み立てに入れる?」
「昼前」
「昼前って何時?」
「うーん???」
「分かった、組み立ては十一時半から開始しよう。それでいい?」
「オッケー、オッケー」
「組み立て前に必ず僕を呼んでくれる? 立ち会って検査もやるから」
「オッケー」
 こんなやり取りをしたあと、十一時四十分になってもお呼びがかからない。心配になって実験室に行ってみると、丁度彼がサンプルを持って出てきた。
「あれ? それ終わったの?」
 彼は予定より少し早く仕上げたことで、褒めてもらえると思ったのかもしれない。サンプルを持ち上げて、自慢げに「終わったよ」と言った。
「で、通電テストはしたの?」
「した」
「ソフトウェアのバージョン確認は?」
「してない」
「ファンクション確認は?」
「してない」
「寸法確認は?」
「してない。それは分からない」
 やはりそうだ。だから僕は、自分を呼んでくれと言ったのだ。
「オッケー、まだ時間があるから、もう一度通電のセットアップをしておいて。僕は図面を取ってくるから」
 こんな調子で再通電し、ソフトウェアバージョン確認、ファンクションテストを行い、重要ポイントの寸法確認をして使用部品が全て新しいものであることを確かめた。そうやって無事、その日の出荷を終えた。
 そして本日は、次の出荷品のための部品を受け取り、残りのサンプルを出荷しようと考えていた日だ。
 僕は会社に到着するなり、担当エンジニアの机に行った。
「部品はもう入っている? 倉庫に確認を取って」
「さっき確認したんですけど、まだ入っていません」
「そう、もう少しあとになるのかなあ、発送伝票からブツがどうなっているかトラッキングして」
 すると担当者が、また青い顔をして飛んできた。
「物は今日の六時に到着予定です。全ては終わりました。明日にかけます」
 朝一番で届ける話しは、やはりその場しのぎのでっち上げだったようだ。確認したのかもしれないけれど、東南アジアで単に約束を鵜呑みにすれば、ほぼこうなる。
「六時ってPM六時だよねえ」
「そう、PM六時」
「それじゃあ間に合わないなあ・・・なんて言うと思う? 物はもうマレーシアにあるの?」
「はい、営業所に届いてます」
「だったら部品を営業所に行って受け取ってきてくれる?」
 一瞬意表をつかれた顔をした担当者は、すぐに気を取り直して言った。
「車を貸してくれたら行けますけど」
「車? ああ、いいよ」
 僕がズボンのポケットから車のキーを取り出して彼に渡すと、彼は驚いた顔をして「冗談ですよ、冗談」と言った。
「いや、冗談じゃなくて、車ならいつでもいくらでも貸すからすぐに行って」
 彼は一応会社の車状況を確認し、全て出払っていることが分かると、僕の車で部品を取りに行った。
 そして部品と一緒に戻った彼と、短い時間で組み立て、検査、梱包、出荷書類作成を行い、運送業者に引き取りをお願いして無事出荷。

 僕の仕事はもちろんこれだけではない。こんなことをしている合間に、いろいろな問い合わせが社内や社外から飛んでくる。「それ、何の話?」なんていう、青天の霹靂みたいな話しも意外に多い。今日もそれがあった。
「&%プロジェクトは、あなたの担当ですよね?」
 アドミングループの女性が僕のところにやってきて言った。その女性はマレー系で、例のほっかぶりをしている。ずんぐり体型で頭がほっかぶりのせいで妙に丸い形をしているから、僕は彼女のことをドラエモンから取ってドラちゃんと呼んでいる。
「そうだけどドラちゃん、そのプロジェクトと今の話がまるでマッチしない。何か別のプロジェクトと間違えていない?」
 自分のボスから依頼されたドラちゃんは、キョトンとしている。でも彼女は、一つだけ僕の話に食いついた。
「そのドラちゃんって、一体何ですか?」
「え? ドラちゃん知らないの? 気が優しくて頭がとってもいい日本人のヒーローだよ」
 彼女はますますキョトンとしている。
「ねえねえ、@#$さん、&%@の話って、誰がプロジェクトマネージャーなの?」
 僕は近くにいた現地管理者に、その女性の前で尋ねた。
「それはあなたじゃないの?」
「え? いつ決まったの? 僕は何もオフィシャルな連絡をもらっていないけど」
 管理者は呆然としている。こうなると、そこで押し問答をしても時間の無駄だ。
「オッケー、分かった」
 と僕は言い、その女性に言った。
「状況は理解してくれた?」
「ええ、とってもよく」
 そう、こんなことはよくある話で、追及し出すと責任のなすりつけ合いのようなことが始まる。
「理解が早くて助かるよ。たった今、僕がプロジェクトマネージャーに決まったから、それはこっちで引き受ける。ただし、まだ何も情報がないから今すぐには動けない。それにその案件はそれほど急ぎじゃないから大丈夫。来週まで待ってくれる?」
 するとその女性が困惑し出した。それを見ていた隣の人が言った。
「彼女のボスが、彼女にすぐやれとプレッシャーをかけるんだよ。だから急ぎじゃないと言われても彼女は困るわけ」
「それじゃあボスに事情を説明してくれる?」
 ドラちゃんは少し泣きそうな顔をして、無言になった。なるほど、自分ではうまく説明できないらしい。
「そっか、分かった。今すぐ一緒に彼のところに行って、僕が説明するよ。僕自身が何も分かっていないから、すぐに対応できないって」
「オッケー、ありがとう。それでいいわ」
 僕は彼女と一緒に、口うるさいそのボスのところに一緒に行った。そして、何も正式な手続きを経ていないこと、つまりプロジェクト立ち上げのための必要情報をもらっていないことを彼に伝え、少し待ってくれるようお願いした。彼は目を吊り上げて、それを依頼してきた大ボスにすぐ文句を言うと息巻いた。僕もその大ボスに、あとで連絡を入れておくと言ってその場をあとにした。
 ちなみにドラちゃんは、見た目はぼんやりしているけれど、数いるアドミン女性の中で頭の切れ味は抜群なのだ。だから僕は、彼女に貸しを作ることに全く無駄を感じない。僕に困ったことが起きたとき、彼女の助けがとても有効だからである。

 本当は今日一日で起きた事件はこれだけではないけれど、とにかく毎日がこんな感じだ。ときには、まるで幼稚園児を先導しているような錯覚を覚えることもある。
 実はもっと面白くて目を丸くする事件は山ほどあるけれど、一応社内事情で暴露するのはこのくらいが限度だ。
 でも僕は知っている。どこの会社でも、似たり寄ったりのことが起こっていることを。東南アジアで仕事をしている日本人は、多かれ少なかれ南国気質と向き合って、血圧を乱高下させているのだ。
 現地社員の突然の休みなどは普通で、エンジニアが確認すべきことを怠って問題を出すことも普通だ。病欠だと思っていたエンジニアが、一ヶ月の休暇だよ、なんて周囲から教えられることも珍しくない。
 前途多難なことが普通に続く仕事は、ある意味お金をもらって効果的な修行をさせてもらっているようなものなのだ。僕はそのことに日々感謝しているけれど、最近はいつも、妙に首筋が凝って、頭痛に悩まされている。
 モナは、血圧が上がっているんじゃないの? と心配しながら、寝る前に首の後ろをマッサージしてくれる。
 それを見ていたユリとダイチは、最近寝かせようとすると、マッサージを要求してくるようになった。ユリは明確に言葉で言うけれど、ダイチはまだそれができない。だから彼は、うつぶせになって自分の尻をポンポンと叩きながら、ここをマッサージしてくれとお願いするのだ。
 よって二人が寝付くまで、モナがダイチを、僕がユリをマッサージすることが最近増えている。
「今からこれってどうなのよ」
 と僕はモナに言いながら、二人で子供にマッサージをするのである。
 やはり南国気質は、相当手強い。職場も家庭も、日々修行である。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:754.日々修行
2015年08月15日

753.ぶらぶら近所を散歩するかのように

 個人メールで、前回記事のタイトル「反社会的思考」は、本文とどんな関係があるかを訊ねられた。
 確かに分かりづらい。僕はいつも、タイトルを失敗するという自覚もある。そもそも僕は、いつもタイトルを考えて分からなくなって、最後にえいやと適当に決めてしまうのだ。
 実は前回の記事を書いた直後、僕の頭にアナーキーという言葉が浮かんだ。現代社会とは、秩序にうるさくなったけれど、エアポケットのように何か大切な秩序(あるいは規範のようなもの)の抜け落ちている部分があるのではないかということを感じながら書いたからだ。例えばコンプライアンスがどうこうと企業倫理的を訴えながら、法律に引っかからなければ何をやってもよいと考える企業みたいに。そこからアナーキーという言葉が頭に浮かび、少し歪んでタイトルが「反社会的思考」となった。つまり今の社会とは、自分なりにまともなことを考えると、それが反社会的思考になるという矛盾を抱えるのではないかと、ふと思ったのである。
 それだけのことで、あまり深い意味はないけれど、もしかしたらそこに、結果的に深い意味が含まれていたのかもしれない。そんな気もするけれど、自分でもよく分からないしあまり考えてもいない。

 タイトルだけでなく、内容も少し分かりづらい。僕はそのことも自覚している。
 少し前は政治的な話や経済的な話も書いた。そのようなテーマはとても書きやすい。内容はともかく、気持ちが乗ってしまえば短時間で、分量だけはいくらでも書ける。書きながら鼻息が荒くなり、とかく調子に乗りすぎてしまう。
 しかし、そうやってあることないことを書いていたら、何か虚しくなってきた。そこには何も挑戦的な要素がないし、そんな話題を撒き散らして何になる? なんて思い始めたからだ。
 中国が中国元を切り下げ、日本や世界の株価に影響を及ぼしている話しなど大して面白くもないだろう。中国ではエスカレーター事故が再び起きて、今度は誰かが足を切断したという話も、気分が悪くなるだけだ。(中国で暮らすのは、やはりやばいという感じはするけれど)
 そこで最近、方向転換をしている。というか最近は、とても実験的に頻繁な方向転換をしている。日常のさりげない状況をいかに読めるように書くか、をテーマにしているのだ。
 こんな挑戦をしているのだけれど、本当は、こんなネタばらしはしたくない。
「全然読めないじゃないか」と指摘されるのが怖いからだ。
 ともかくご批判もあれば鼻で笑われることもあるだろうけど、最近は、そんなことを意識しながらブログ記事を書いている。できるだけ日常的に、できるだけさりげなく、をモットーに。
 ただ最近はぼんやりする時間があまりない。休日は家族サービスで忙しい。平日は仕事が大変で、夜はぐったりしていることが多くなった。本当に健康的生活だ。健全すぎると反省さえしている。
 だからさりげないことをさりげなく書きたくても、気合を入れなければパソコンをあけてこんな記事も書けないのだ。奮起しないと、よだれを垂らしてソファーでぐったりしている方に流されてしまうのである。
 もっとも、せっかく奮起しても、今日みたいにユリの遊びに強制的に駆出されることが多い。
 今日の遊びはフライトごっこだった。横たわるユリの胴体を僕が両腕で支え、彼女は両手両足を前後に伸ばす。そして僕がそれを、まるで彼女が空を飛んでいるように移動させる(つまり運ぶ)。ユリの大好きな飛び方は体を思い切り傾けて急旋回するもので、僕は十八キロの彼女を抱えて部屋の隅々まで歩きまわらなければならない。百平米を超える部屋の隅々までとなると、僕のTシャツには汗によるしみが浮き出る。とてもいい運動だ。冗談抜きに健康的生活なのだ。
 ようやくフライトごっこから開放されたら、次はヘアスタイリストごっこだ。この遊びは体力を消耗せず楽だけれど、少し屈辱的だ。
 ユリがヘアブラシを持って、僕がその前に座る。そして彼女は僕のヘアスタイルを色々といじるのだ。そこでお気に入りのスタイルになると、
「ワァーオ ソー ハンサム! アイライクズィスヘアスタイル! マミー、ルックアトズィス!」
 などと言って、ユリは僕をモナの前に突き出す。ユリはおおいに真剣だ。だから本来笑ってはいけないのだけれど、モナは我慢できなかったようだ。
「少し若くは見えるけど、なんか頭のおかしい人みたい、っぷぷぷ」
 となったあと、声を殺しながら笑う姿は息苦しそうで、倒れるなよと僕は思った。
 
 およそそんな反応は予想していたけれど、あまりにうけているので鏡の前に行って確認すると、僕の頭はビートルズ全盛期のメンバーが決めていた七三きっちり分けスタイルみたいなやつになっていた。まあ、顔が若ければこれはこれでお洒落ではないかと思うのだけれど、ふけ顔には不釣合いということなのだろう。
 で、僕が両手でヘアスタイルを一旦ぐしゃぐしゃにしてから手ぐしで元に戻すと、ユリは少し怒ってお気に入りのスタイルに戻す。だから僕はユリが寝るまで、モナに笑われながら、家の中で少し頭のおかしい人をやっていなければならない。コーヒーを飲むときもこれを書くときも。
 これでダイチが起きていたりすると、そこからも頻繁にお呼びがかかる。最近iPadに凝っている彼は、何かうまくいかないことがあると、苛立った声で「パパァー」と叫ぶ。少しハスキーぎみの声になるから、本当に「どうしてくれるんだ、まったく」という感情がそこに宿っているように聞こえる。なんで「マミィー」じゃないのか不思議だけれど、とにかく小間使い的なことでは宿命的に僕にお呼びがかかる。宿命的だから僕はいつも従うことにしている。
 今日は帰宅すると彼は既にご就寝だったので、僕は少しホッとした。けれど彼の寝顔を確認しながら、少し寂しく感じたりする。起きていたら煩わしいけれど、寝ていると寂しくて残念だ。
 本当は寝ていて欲しいのか起きていて欲しいのか、どっちがいいのか自分でもよく分からない。けれど突然彼が起きたりすると、僕は喜んで彼を抱き上げ一緒にベランダに行く。そして潮風に当たりながら、ダイチと二人で夜景をぼんやり眺めるのだ。僕の住む部屋は十階にあってそれなりの夜景が見えるし、車の音や犬の声にほどよいフィルターがかかっている。そのうちダイチは再び眠りに入り、僕はほのかな満足感を覚えてそっと彼をベッドに置く。

 こんな状態の中で、もう少し瞑想できる時間が欲しいと思うことがある。もう少しくらい不健康でもよいのではないかと思ったりする。ときには、健康的すぎる生活は実は不健康ではないのかと、あえて疑ってみたりすることもあるのだ。しかし残念ながら、子供に翻弄される生活に、不健康な要素を見つけることはできない。
 しかも人は忙しいと色々としたいことがあって、そのための時間が欲しくなるけれど、実際に時間ができれば何もしない。これが普通の人間である。僕も多分にその傾向を持つ人である。時間ができると突然何もしたくなくなるのだ。
 ただそうやって、僕は無意識に何かのバランスをとっているのかもしれない。それに何もせず何も考えない時間を持てることは、おそらく幸せであることの証なのだろう。明日の食事を心配しなくてよい生活は、それだけで十分幸せなのだ。僕は心からそう思っているし、子供たちにもそのことを認識してもらいたいといつでも思っている。
 モナはときどき、スターバックスに行ってきたら、とか、マッサージに行ってもいいわよと、気遣いの言葉をくれる。しかし不思議とそう言われて、「はいそうですか、ではありがたく」と出かけたことが一度もない。たまにはそんなリラックスタイムもいいと思うし、むしろ憧れてもいるのだけれど、いざとなるとそうできないのだ。子供にもう少し手がかからなくなるか、あるいはフィリピンからママが来てくれたときに、モナと二人ででかけようと思ってしまう。ダイチが母乳を欲しがる今は交代で出かけることもままならないし、ここは公平にいこうと無意識に思っているのだろうか。自分のことながらこれもよく分からないけれど、ある意味これは、僕の家庭内コンプライアンスなのかもしれない。

 ただ僕は、意外に貧乏性な部分も持っていて、何かをしていないと落ち着かないときがある。今思えば、僕がブログを始めたときには、まさにそんな心境だった。
 当時の僕は会社を辞め、社会に何も縛りのない状態で船出したことに不安を感じていた。気付いたら広い海の中に、小船でぽつんと浮かんでいるような感覚だった。
「船の上にオールが一本と適当な水や食料があってさ、そういえば細い釣竿も持ったんだ。で、勢いで海に出てみたけれど、星を眺めていたらいつの間にか眠ってさ、翌日眩しい陽の光で目覚めたわけ。びっくりして半身を起こして周りを見たら三百六十度地平線ばかりでさ、頭の上には真っ白な雲がのんきに浮かんでいたよ。これ、一体どこだろうって思った。意外に陽射しがきつくて、咽の乾きが酷くなって、勢いで水を飲んだあとに突然水が足りるのか心配になってきてさ。それから空腹を覚えて、食事を摂ったら今度はあと何日食いつなぐことができるか心配になってくるんだよ。食料は魚を釣って補充すればなんて簡単に考えていたけれど、釣るための餌をどうするか、釣ったあとはどうやって食べるのか、火だって簡単に使えないからさ、そんなことを考え出すとほとほと自分の無謀さに呆然としたよ。とにかく何もかもが心配になってきてさ。嵐に襲われたらこの小船で耐えられるか、行き先は流れに任せるべきか、自分で決めてオールを漕ぐべきか、体力をできるだけ温存するにはどうすればよいかとかね。もう、船出したことそのものを間違いだったと思い始めたね。
 よし、だったら引き返そうと思ったけれど、さて、どの方向に帰ればいいのか分からないことに気付いてさ、星座や太陽から帰る方角を知る方法をよく勉強しておけばよかったと心底後悔したね。そもそもこの船出はさ、いつでも岸に帰れる場所でぶらぶらしていようなんて魂胆だったような気もしてきてさ。
 たくさん心配していろいろ考えて、じたばたしても何も始まらないことに気付くと、なるようになれと投げやりになって、悩むだけ損だと思い込むよう努力している自分に気付いたんだ。そして小船の上で遺書のような日記のようなものを書き始めて、そしたら少し心の平静を取り戻すことができたんだ。いやあ、これがね、意味もなく焦っているより、不思議に落ち着けるのよ。余計な心配をするより、ずっと精神衛生上よいわけ」
 僕のブログを始めた本当の経緯を語るとしたら、こんな感じかもしれない。
 今でも書き物に取り組んでいると、とても落ち着く。じっくりと瞑想して、アイディアがひらめいて、具現化したものを読み返してがっかりする。
 こんな繰り返しだけれど、それでも止められない。
 何か心配ごとがあるときは、とくにそんなことに取り組みたくなる。

 世の中には、僕と同じような人がたくさんいる。もちろん動機や理由は人によって異なるけれど、物書きに取り組む人が集うサイトもあって、以前の僕は頻繁にそこへお邪魔していた。一度だけそんなサイトに自分の書いたものを投稿してみたけれど、あまりにまっとうな感想が返ってきてつまらなかったので、それ以来投稿するのを止めた。
 ごくたまにある素晴らしい作品には感想も寄せた。そんなサイトは面白いもので、素晴らしい作品になるほどけなされる。それもウンチクがものすごく、僕は落ち込む素人作家を励まし、そんな批判を批判した。
 そもそも小説や文学は、読んで面白い、感動する、共感する、があれば成功だと思っている。メタファーがどうだとか、構成がどうだとか、技巧的なものがどれほど重要かは怪しい。もちろん商業文学は技巧も必要だけれど、それは前面に出るべきものではないのである。プロでもアマチュアでも、引き込まれるのはなぜかを考えたら、なるほどこんな手法やこんなところに乗せられていたのかと気付くような、技巧とはそんな控え目なものであるべきだろうと読者としての経験で思う。
 だからとても不思議だけれど、プロ作家を目指す人の投稿作品より、ブログ記事の方がはるかに面白い。余計なことを気にせず、自らの人間性を前面に出して表現しているものの方が、ずっと魂を感じるのだ。
 けれどこれも不思議で、小説を書こうと思うと、文章から突然その魂が失われる。このことも僕はたくさん経験している。逆に僕の大好きな作家のKIさんは、小説はすこぶる面白いのにエッセイになると途端にだめになる。自らもエッセイは苦手と言っているけれど、そんな人が始めてエッセイ集を出したので買ってみたら本当にだめだった。本当に面白く興味深い現象だ。
 こんなところからも、文学は技巧でないことが分かる。技巧が物を言う世界ならば、小説でもエッセイでも同じ人が書けば面白いはずだからだ。

 さて、何となくぶらぶら近所を散歩するみたいに書いていたら、ずいぶん長くなった。
 最近、ようやくユリに、お約束の新しいガジェットを買ってあげた。いつもダイチが我がままを発揮して、ユリの遊んでいるiPadを取り上げてしまうからだ。ユリはモナ譲りの優しさがあって、いつも小さなダイチに負けながら我慢している。そんなユリがいじらしく、僕は彼女専用のガジェットを買ってあげたのだ。けれど僕はそのことで、ユリを思い切り叱ってしまうことになる。ユリはもう言葉で分かるから体罰はしないけれど、言葉と態度で僕は彼女を傷つけ、僕自身もそれで後悔した。
 次回はその辺りのことを書こうか、それともおせっかいボニーさんのことを書こうか、あるいは相対価値について書こうかなどとぼんやり考えている。
 ここまで書いて、またまたタイトルに悩む内容になってしまったと、少しだけ後悔し始めた。テーマがないのはやっぱりいけないのだろうか。



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