マレーシアのあるセミナーで教えられた。
「緑は進め、赤は止まれ、で、黄色は急げだ」
黄色は急げ、でみんなの笑いが起こったから、それは冗談である。
しかし、子供の頃から青信号とすり込まれた自分にとって、交通信号の一つを緑と呼ぶのは未だ慣れない。
例えば「信号が青だよ」とボケっとしているドライバーに言うものなら、たちどころに指摘される。
「青って何? え? 信号? 緑でしょ?」
そこでじっと信号機を見つめてみると、確かに色は緑色だ。しかしすり込まれた習慣は抜けず、緑色が青に思えてきて、青色ってどんな色だっけ? となる。
どうして日本は、信号色の一つを青と教えるのだろうか? 実際に日本の信号機の色は、青だったのだろうか?
これまでの長い人生でさんざん見てきたはずの物なのに、こうして振り返ってみると記憶は曖昧だ。
四国のある企業が青色ダイオードをこの世に送り出し、信号機のダイオード化が進んでいる。ダイオードの青は、紛れもない青だ。すると、これまで青と教えてきた信号が緑ではまずいから、国は教えてきたことに実態を合わせようと懸命になっているだろうか。それともやっぱり、日本の信号機の色は元々青だったのか。長く日本を離れているせいで、どうにもはっきり思い出せない。
もしそれが元々青ならば、どうして海外の信号機の青は緑色なのだろう。ちなみにこちらでは、日本で言う青を緑と教える。まあ青でも緑でも、実際の信号機に直面すればすぐに意味が分かるから実害はないけれど。
海外の交通事情は日本と随分異なる。マレーシアで交差点の信号は、四方向の一つ一つが青に切り替わっていく。つまり、向かい側が青になり、次に右側が青になり、その次に左側が青になり、ようやく自分の側が青になる。交差点で青は一方向しかないから、右折でも自分の行く手を妨害する直進車両はない。そこは便利でも、順次切り替わる方式のため、赤信号の時間がじれったいほど長い。そのために、信号渋滞が出来やすくなる。
ここでキングオブザロードのバイクは、信号の色を気にしない。突然色弱を装う。それでも死にたくはないようで、赤信号に当たれば周囲を見回しているが、どこにも車がいなければ無視して突き進む。周囲の確認行為に見落としがあれば、あるいは進行してくる車の速度目測を誤れば、当然接触事故となり痛い目に遭う。
そんなことが目の前で起こっても、キングオブザロードであるバイクドライバーは学習しない。学習する気もない。赤も黄色と同様、その意味は“急げ”である。
他人が事故るのはそのドライバーが間抜けなせいで、自分に限っては問題ないと信じ切っている。おそらく死ぬまで、それを信じて疑わない。
せっかくだから、ここで周囲の人がどんな運転をするかを披露すると、こんな感じだ。
左折したいときには、自分が三車線や四車線道路で一番右を走っていようとも左折する。
理由は単純で、左折したいから。
これは車もバイクも同じだ。交差点手前で突然自分の目の前に車が右斜め後ろから割り込み、こちらが驚いてブレーキを踏んでいる間に、割り込み車両は悠々と左折していく。最初は酷いやつがいるものだと思ったけれど、結構みんなが酷いやつだった。
渋滞になるとこちらの人は、一台でも多くの車を抜いて前に進もうとする。自然と渋滞の中で、車の車線変更が多くなる。しかしここでは、渋滞で詰まる車の間を時速八十キロくらいの速度でバイクがすり抜けていくのだ。それも予測不能なくらい頻繁に、車の前後左右を。前後というのは、バイクも車線を変えようとするのだ。
そんな状況下で車が頻繁に車線変更を繰り返すと、もちろんときどきバイクと車が接触し、いくらキングと呼ばれる存在であっても軽量級のバイクが負ける。車線変更で斜めになった車の側面に人間魚雷のように突っ込むのもあれば、速度のついたバイクの側面を車に当てられ、コントロールを失ったそれは左右に大きく揺さぶられて違う車に突っ込むということもある。
バイクドライバーは次の瞬間、予期せぬ空中散歩を強いられる。その後地面に叩きつけられて、すぐに起き上がる人もいれば、アスファルト上で大の字になり、瞬きをしない目で虚ろに空を見る人も出てくる。人の命のあっけなさを不思議に思う一瞬だ。今までロードレーサーさながらの豪快な運転をしていたのに、次の瞬間にはあの世に召されている。誰にも想像できないほど簡単に。もちろん本人は、想像どころか後悔さえできない。
おばさんライダーは、路上で痛いところを押さえ、ひと目をはばからず大泣きしたりする。道路の真ん中に座り込むのは危ないから、とにかくどいてくれと言いたくなるのもしばしばだ。
そんなに泣くなら、最初から無謀な運転をしなけりゃいいのに。そう思うけれど、南国の人はシリアスな予測も想像も苦手なようだ。楽観的思考、希望的観測は大得意なのに。
渋滞中、ちょっと携帯をながめて前の車が進んだのに気付かないでいると、たちどころにクラクションを鳴らされる。それだけならよいが、渋滞にも関わらず前の車両との間に車一台分にも満たない車間距離を開けるだけで、ヘッドライトのパッシングを浴びせられる。それを無視すると、後続車は狭い路肩で追い越し、強引にこちらの前に割り込んでくる。そうなると、どうせ渋滞で進まないのになぜ待てないのだろうと、腹が立つ前に不思議が先行する。
南国の人は時間にルーズな割にせっかちなところがあり、特に何か買いたいものや行きたいところについて考え出すと、悠長な性格が反転して全く待てなくなったりする。そんな特性とこの運転は、どこかで関連しているのかもしれない。
とにかくここの運転でびびるのは、朝夕のバイクの多さだ。それのほとんどが、無法者のキングオブザロード。最初はそれらに囲まれて車を運転するのが苦痛だったけれど、今は随分慣れてしまった。バイクも車に当たるのは嫌だから、こちらから相手に分かるように迫っていくと、向こうが逃げてくれるのが分かったからだ。
ただしたまに、バックミラーに激しく当たり、それも気にせず逃げていくバイクが多いのは少し問題だ。ここでは車を買えない人がバイクに乗るという傾向があり、そんな人たちは自分たちと考え方が少し違うようだ。
とにかく他人に当たりたくない相手が逃げるのは分かったけれど、自分のマレーシアでの運転ポリシーは、できるだけ車線変更をしない、である。支障がない限り、ひたすら真っ直ぐ進む。真っ直ぐ進む運転で、ボーッとしていると曲がらなければならない場所で曲がり損ねる失敗もたまにあるが、ここで運転して数年、おかげで未だに無事故となっている。(追突されたのは二度)
できるだけ進路変更しない運転は、今のところ功を奏しているが、ふと、自分の人生ではどうだったかを考えてみると、実はまるで真っ直ぐ進んでいないではないか、ということに気付く。
天の邪鬼的気質に気分屋で、そんな性質が関係するかどうかは知らないけれど、現状に飽きると、つい変化を求めてしまう。
おかげで事故多発。周囲の人にも迷惑をかけながら、自らも多くの苦難に見舞われた。
もっとも、自分の苦難は自業自得である。それに過去、キングオブザロードにように自分だけは大丈夫、などと考えていたわけではないし、この先だってどうなるかはさっぱり分かっていない。希望的観測は、一切持っていないのだ。どちらかというと最近は、気付けばいつでもリスクマネージメントに傾いている。
人生も車線変更はそろそろ控えたいと思っているし、紆余曲折な事態に突入する気力も失われつつある。できれば穏やかな心境で、残りの人生を過ごしたいというのが本音だ。おかげで自分は、さっぱり冒険できない体質に変わりつつある。
現在の生活は、その意味で落ち着いているのかもしれない。しかしいかんせん、先が長過ぎる。一番下の子を考えると、あと十五年は頑張らなければならないのだ。生きているかどうかも分からない年月、今のように、いや、様々なことが衰えることを考えれば、今以上に歯を食いしばって頑張る必要がある。果たして自分はそんな過酷な余生に耐えられるだろうかと心配になるくらい、先を悲観している。
もし子供がいなければ、もっと気楽に物事を決められるかもしれないし、まだ車線変更を繰り返しているのかもしれない。
しかし、フィリピーナ妻と三人の子供たちがふれあう様子を見ていると、子供たちがいることに心から感謝したい気持ちになる。
食べさせなければならないし、我儘もきいてあげなければならない。携帯やパソコンを買ってやらねばならず、旅行は飛行機代が五人分かかる。それでも子どもたちの存在に感謝の念を抱くのが不思議になるけれど、自分も妻も子供に囲まれ癒やされているのだ。もし自分がポックリいっても、妻に心の支えがあることは安心材料の一つでもある。
どこかのカードコマーシャルが言ったように、世の中お金で買えない価値がある、ということなのかもしれない。
日本の信号の色は思い出せないが、昔のコマーシャルが言った 、カード会社のキャッチコピーがやけに身にしみる、昨今のマレーシアライフである。
そのマレーシアライフでストレスといえば、日々繰り広げられる、仕事上の南国気質との闘いだ。地元エンジニアにレポートを要求しそれが届くと、顎のちょうつがいが外れるのではと思うくらい、開いた口がふさがらない。
技術レポートなのに、報告はメール文章のみ。内容は、こんなことをやって、結果問題なし、というもの。
「うん、めでたしめでたしだね……、なんて言うと思う?」
相手のエンジニアが、キョトンとする。問題なしなのに、何が悪いの? という顔だ。
彼らは元々、レポートを残すという習慣がない。
会社は給料を払っているのに、これでは技術の蓄積などまるでできないではないか、などと偉そうなことを考えているのではない。自分が日本のお客さんへ報告できないのだ。そんな報告を右から左へ通過させてしまうものなら、自分も南国気質化してしまった日本人と、途端に白い目を向けられる。
「技術レポートに説明は要らない。見れば全てが分かるデータが付いていれば、それで十分」
これまで何度も言ってきたことだ。しかし、三歩歩けば全てを忘れる南国気質。毎回同じことでバトルが繰り広げられる。
「データは記録してません」
「メモも取ってない?」
「はい。全てはここです」
人差し指を頭につけて、憎めない笑顔を振りまくエンジニア。
(やはり……)
「結果に自信があるなら、データを作れ。覚えてるんだろう?」
普通なら、え? という反応となるはずが、ラッキーと言いたげな顔で、すぐにやるという返事が返ってくる。
これで自分も立派な共犯者。そして自己嫌悪のため息。
もちろん怪しげで危ない内容であれば、自分が実験室に行ってエンジニアと一緒にデータを取るか、エンジニアが忙しければ自分一人でそれをやる。終って机に戻ると、忙しいと言ったエンジニアはとっくに帰宅済みということは普通中の普通で、そうなると、別の意味でのため息をつくことになる。
エンジニアの仕事は、とにかく精度が悪い。直感で仕事をするのが得意で、いつでも楽観的思考、希望的観測に基づく直感は、常に自らを楽な方へと導く。必要なデータ取りや確認を省き、「その可能性はないので確認の必要はありません」みたいなことを断言する。
お前は預言者かと、喉まで出かかった言葉を飲み込み、「見ていないのに、どうして分かるのか?」と尋ねる。
そこで顎を引いて、うっと言葉を詰まらせてくれたら可愛気もあるが、「分かりきっているのに時間をかけて調べるのは時間の無駄です」などと言われる。
今度こそ本当に、お前は預言者かと言いたくなる。
時間を無駄に使うのが、こちらの人は本当に嫌いなのだ。それが本当に無駄ならば、それは良いことだと思う。
この押し問答こそが、自分にとっては時間の無駄なんだよ、という言葉を飲み込み、一から説明するか、それが面倒になれば、とにかくやってみてくれとお願い口調で伝える。決して命令口調で言ってはならない。
時間を無駄に使うことを極端に嫌う彼らは、いつでも仲間同士でおしゃべりしながらのティータイムを、長時間楽しむ。自分たちの有意義な時間が会社にとって大きな無駄であることに、彼らの考えは決して及ばない。
仕事の精度は悪いが、スピード感はある。これだ! と一旦決めると、あっという間に物事が進む。ただし、検討や確認すべき内容は大幅に省略されているが。それでも経験則が通用する場合、幸運にも問題がないこともある。成功率は、大体半分くらいである。
この半分くらいの成功体験が、時間が経てば成功率百パーセントの体験になるのが南国気質の特徴だ。
先日アストロという、多チャンネル番組配信会社に一言言ってやろうと、鼻の穴を広げて事務所に殴り込みに行った。
「インターネットが遅すぎる。しかもぶつぶつ切れる。金を返してもらいたいくらいだ」
「インターネットは別会社ですよ」
不細工な受け付け嬢が、しらっと答える。それが五年間もせっせと視聴料を支払い、会社の礎(いしずえ)となっている客への口のきき方か。その口は一体、どこについてるんだ。
僕のこめかみを、一瞬電流が走る。
内心は、『われぇー、なめとんのか、てめえの会社の営業がインターネットのセットプランが得だとほざいて契約したんじゃろうが』ってな具合であるが、根が紳士である自分は穏やかに言ってしまう。
「それは分かる。だけど僕のインターネットはおたくの会社を通して契約しているんだよ。どう考えても苦情の窓口はあなたたちでしょ?」
結局こちらの契約ナンバーを伝え、その嬢がタブレットで僕の契約内容を確認し、何やらうんうんと頷いた。
「分かりました。あなたが契約した頃はまだ十メガスピードだったのですが、今は標準で百メガスピードをサポートしています。ただしあなたの使用しているルーターが古いので、それを交換しないと百メガスピードが出ません。ルーターを交換しますか?」
おお、その気になれば話が分かるじゃない。
もちろん、十メガより百メガがいいに決まっている。
「そりゃあ交換したいけど、どうすればいいの?」
彼女は待ってましたとばかり、説明を始める。
「ルーターの交換は、二つの方法を選べます。一つはご自分で購入し、設置してから私共に申告して頂く方法。もう一つは私共から無料ルーターを提供し、設置から全てのサービスを提供させて頂く方法。これであればあなたの負担はありませんが、契約更新という扱いで、二年間契約継続義務が発生致します」
「つまり無料を選択したら、一年で契約を打ち切りたい場合、ペナルティを払わなければならないということ?」
あなたは察しがいい、と言いたげな不細工な笑顔が僕に向けられた。
「はい、全くその通りでございます」
「で? もし一年で止めたら、そのペナルティはいくらになるの?」
彼女は電卓を叩いて言った。
「千二百でございます」
一応僕は確認する。
「米ドルじゃないよね?」
「もちろんリンギットでございます」
なんか急に態度が丁寧になっているのを妙に感じながら、さっき一瞬だけ切れそうになって、自分の目が座ったのが効いたのだろうと思うことにした。
「そう……」
頭の中で、会社と一年契約を更新したばかりであることが頭をよぎる。ペナルティは最悪ケースで千二百リンギット。(大体三万円二千円)
「僕の一存では決められないから、嫁さんに相談させて。また後で来る」
「どうぞどうぞ。しっかり相談して下さい」
こんな成り行きで奥さんに相談すると、やはり南国気質の彼女の回答は予想通り。
「ただになるならお願いしようよ」
「でも、ギャンブルだよ」
「それはその時よ」
「うん、そうだね」
脳が既に軟質化している自分は、簡単に同意した。将来の布石より、明日の食い物が大事である。僕はすぐにアストロへ戻り、新しいルーターの設置をお願いした。
翌日、最近インターネットが遅いよねと普段からぼやく日本人に、少し胸を張り気味に、自分が百メガにアップデートしたことを報告した。
「月々の料金は据え置きらしいよ。契約縛りが二年ついちゃうけど、ルーターも無料だって」
「え? 今の最低速度は、元々百メガじゃなかったっけ?」
「そうなの? けれどルーターが古いと、百メガが出ないらしい」
僕はパソコンのキーを叩いて、アストロのインターネットパックを調べてみる。
「僕はとっくにルーターを交換したけど、まだ遅いんだよねえ」
そら耳だろうか、何か不穏なことを聞いた気がした。
パソコン画面を見ると、確かに百メガプランが最低になっている。
「契約縛りが付くなら、新規契約と同じじゃないの? だったら新しく入り直した方が安いかもよ。なんか騙されてない?」
確かにその通りである。百メガスピードという言葉に浮かれて、さっぱり気付かなかった。
そういえば、彼女がカウンター奥にいる男性職員に僕の依頼内容を伝えるとき、彼女は指でピースを作って、これはオーケーと言ったのを思い出す。あれは、二年間縛りゲット! の意味ではないだろうか。
少し腹が立ってくる。
彼女は二十四時間以内に電話がいくから、そのときにルーター設置の日時を係と相談してくれと言った。しかし現在、四十八時間以上経過したのに、僕の電話は一向に鳴らない。おそらく九十六時間経っても電話はこないだろう。
そんなことを考え出すと、虫の居所は益々悪くなってくる。
もし次の休日まで何も音沙汰がなかったら、今度こそ殴り込みだ。
日本人気質を思い切り前面に出し、百七十三時間と三十八分待っても電話がこないんだけど、一体どうなってるの? という具合に。
僕の鼻息が、勝手に荒くなる。
そこまでして手に入れた百メガスピードのインターネットが、実効で一メガ程度のパッチもんだったら、金属バットも持参しなければならない。
『なめとんのかぁ、おんどりゃあ』というセリフを吐いて、金属バットを振り回す。頭の中で、僕は髪を振り乱して暴れていた。
そして翌日、僕は日本とマレーシアでとても有名な人になるのだ。
『マレーシアで日本人逮捕。動画配信会社のアストロ事務所で、金属バットを振り回す』
僕の憤慨は想像の中で膨らみ、興奮がピークを迎える。