フィリピーナと共に
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2015年06月28日

744.朝から得した

 日本人の平和ボケが一番問題なのかもしれないというコメントをいただいて、あらためて日本は幸せな国だと再認識する。
 僕が日本にいるときも、この「平和ボケ」という言葉はあったけれど、僕にはそれが何のことかさっぱりピンとこなかった。海外に出てそのことを分かるようになり、今ではよく知っているつもりでいるけれど、実はそれほど自信がない。海外で暮らしていると、やはり日本人特有の油断をしてしまうときがあるからだ。
 例えば食事をする際、テーブルの隅に携帯を置くとか、車を駐車する際、外から見える位置に鞄を置くとか。食事のテーブルに新聞売りがきて新聞はどうかと話しかけてきながら、巧妙に持っている新聞でテーブル上の携帯を隠され奪われた人が実際にいるし、車の場合は窓ガラスを割られる危険性が増すから、たとえ大したものが入っていなくても貴重品(おいしそう)に見えるものは外から見える場所に置かないのが、治安のよいここでも鉄則である。
 しかしである、ときにこの平和ボケは警鐘や侮蔑のような意味合いで使われるけれど、平和ボケするほど日本が平和だというのは賞賛に値することだ。そんな国を作ってきたのは日本人の功績だろうし、この日本の平和がこの先もずっと維持されることを願ってやまない。平和ボケ万歳である。
 
 さて、再び余計なことだとは承知していながら、ついつい口を挟みこみたくなるので少しだけ。
 先日百田大先生が、自民党若手議員の研修会で失言した。僕は比較的早くこの情報をキャッチしていたけれど、おっ、また騒ぎ出すぞと予想したら(あえて主語は抜いている)、結果その通りになった。そのあと朝日、毎日も来るぞと思っていたら順番まで予想通りだったから少し可笑しくなった。
 それにしてもあのくらいのことで、なんでファシズムという言葉が出てくるのだろうか。
 そもそもファシズムって何? どんな意味で使っている? 日本の議会制民主義がそう簡単に消滅する? 一体どうやって? 本気でそう思っている? 僕も平和ボケか? どうしてその手の言葉が好きなんだろう?(これは素朴な疑問)
 同時に、ネトウヨって何? どんな意味で使っている? というのも具体的に訊きたい衝動にかられる。蔑む意味で使っているのは分かるけれど、その言葉を使う人の中で、その言葉の定義がどうなっているのかを一度確認してみたいものである。ついでに、ネトウヨがどうこうという人は、それじゃあ自分たちは何のつもり? ということも訊いてみたくもなるのだ。
 果たして、「本物の憂国の士だ」なんて答えが返ってくるのだろうか。そう言いたげな感じが伝わってくることは確かである。もしそうだとしたら、「憂国」についてはそうかと思うけれど、どうみても「士」ではないだろう。士とは短絡的かつ印象的な言葉に頼らず、自分の志を自分の言葉で淡々と説明できる者だと僕は思う。
 とにかく、人の印象を操作しやすい言葉を選んで使うところ(イメージ戦略か?)は、共産党系の癖のようなもかもしれない。最近、そうか、あの人は(隠れ)共産党員か、と思ってようやく少し納得できたのだけれど、ファシズムとかネトウヨとか、そんな言葉ばかり選りすぐんで使っているという印象が強く、内容が単調になって面白みがないからもう少し趣向を変えてくれたらいいのにと自分勝手に思っている。
 というか、本当に、日本はファシズムに向かってまっしぐらなどと思っているなら、頭脳が時代錯誤状態に陥っていないかどうか、一度総点検をお勧めしたい。それとも、本物の士にはその道筋が見えているのだろうか。(これも素朴な疑問。そんな疑問を持つ僕は、やっぱり平和ボケしているのかと再自問自答)

 しかし、百田大先生の発言も、浅はかさを含んだものという点については同感だ。実際沖縄の人に聞いてみると、そのようなこともあるらしいけれど、全てではないだろうことも想像できる。
(このご時勢に、年間五百万円以上をもらっている人が三千人を超えていることは正直驚いた。沖縄は、思想傾向の強い人が入り乱れていることが、問題を分かりにくくしていると思われる。現地の映像を見る限り、普通ではない人が大勢いるのは確かだ)
 沖縄の新聞社については酷いと思うけれど、それも相手にしなければいいだけで、つぶしてしまえとあのような席でぶちまけるのはどうだろうか。権力側に立って発言するならば、軽率な物言いである。
 しかし、ファシズムと騒ぐ人たちも矛盾している。新聞社がこぞって非難を始めるだろうことを明確に期待しているようだけれど、それがある種の弾圧を期待しているのは明確だ。それは、気にくわない発言はそうやって封じ込めてしまえと言っているのと同じである。
 思考の根底が民主主義の上に成り立っていないことが、そんなところから分かるにも関わら、民主主義の崩壊だなどと喚くから「ん?」と思ってしまうのだ。民主主義など要らないと堂々と言えばいいのにと、僕は心から思っている。正々堂々と主張するなら、僕はそれはそれで立派だと本当に思うのだ。
 新聞社も事実をできるだけ客観的に伝えてくれれば大筋役割を果たせると思うけれれど、そこに思想をちりばめて世論や何らかの結果を誘導しようとするから、そんな変な人が増えるのではないだろうか。
 ちなみに僕は、百田大先生の「永遠の零」があまりに話題になっていたので、単行本を買って読んでみた。評判と随分乖離しているという感想を持ったけれど、もう一冊だけ買って読んでみて、お金がもったいないからもう買うのはよそうと思った。百田大先生の本は、小説としてお金を出すだけの魅力を感じられなかったし、作者にシンパシーを感じる部分もあまりなかったというのが僕の率直な感想だけれど、それと実際の人物像が一致するかどうかは定かでない。もちろん世間には大勢のファンがいるはずで、それらの人たちを否定しているわけでもない。
 いずれにしても、政界の人も、ブログの人も、マスコミの人も、文化系の人も、共産党の人も、本当の売国思考の人も、朝鮮大好き人間も、中国大好き人間も、みんな何かを発信しようと懸命なのだろう。正確ではないけれど、先人の言葉に次のようなものがある。
「人は与えられたもので生活を作り、与えることで人生を作る」
 僕はこの言葉に出会ったときに、ハッとしてその通りだと思った。それで具体的に掘り下げて考えてみたら、本当にそうなのか分からなくなったけれど、それでも僕はこの言葉を、たぶん正しいのではないかと思っている。
 僕は世間の様々な発信について、内容はまちまちだけれど、みんな自分の人生を作ることに必死なんだろうと好意的に受け止めている部分もあるのだ。

 僕の場合、非国民と言われようが、本当は世間で騒がれていることに一々茶々を入れるほどゆとりがあるわけではない。目の前のことで、正直いっぱいいっぱいである。
 最近、はっきりと自我が芽生えたダイチを含む子供三人が、ソファーに並んで座っているのを見ると、いつの間にか、どうしてこんなに子供がたくさんいるのか? と驚いてしまうことがあるのだ。変な言い方かもしれないけれど、二人と三人では、随分と印象が違うのである。
 少し早まったかな、なんて考えたり、でも実際楽しいよねと思い直したり、これからまだまだ大変だと身を引き締める前に腰が引けたり、あらゆる思いが複雑に交錯するのである。
 週末土日の休み、僕はみんなの食事の料理担当をすることが多い。一昨日、昨日と、三食全ての食事は僕が担当した。(モナが一度だけクラブハウスサンドを作って、土曜の昼食に僕が作ったスパゲッティーに添えていたけれど)
 こうして家事をしていると、三人の子供を食べさせるのは本当に大変だとつくづく感じるのである。この二日間、僕はずっと料理をしていたようなものだ。
「パパ、スーパーゴトムナァ」(すごいお腹空いている)なんて調理中にユリに言われると、「ちょっとこれ食べて待ってて」などと言って、焦ってモナの作ったクラブハウスサンドを先に食べさせたりするのだけれど、三人の子供の要求がそれぞれ三様だから、その交通整理だけで目が回ることがある。
 僕が仕事でいないときは、毎日モナがこんなことを仕切っているのだろうと考えると、主婦も大変だなと思うのだ。外での仕事は大変で、ひいひい言いながらやっているけれど、「主婦と外での仕事、どっちを選ぶ?」なんて本当にチョイスできる状態で訊かれたら、正直悩んでしまいそうだ。
 それでも僕は、案外楽しんで週末家事をこなしている。
 食後の皿洗いが終了し、一息ついたところで飲むコーヒーも格別だ。コーヒー豆はスターバックスから仕入れている。キッチンカウンター脇の回転椅子に座り(最近、そこが自分の指定席のようになっている)、そのコーヒーを飲みながら、「僕はまさに今、こうして自分の人生を作っているのだろうか」などと考えているのだ。人間時間があると、意外にこんなことは考えないもので、こうして追われていると哲学的な自問自答をしたりするから不思議である。しかし、与えることで自分の人生を作れるなら、惜しまず与えようなどという気になり、フィリピン家族に対する支援もさして気にならなくなってくるから面白い。これもポジティブシンキングの巧妙だなと、一人で勝手に納得している。

 僕が汗を流して家事をこなしている間、モナはキッチンカウンターの上にペーパーを置いて、記号をたくさん使ったフローチャートのようなものに取り組んでいた。「何を書いてるの?」と訊くと、「ビジネスフロー」という答えが返ってくる。
「なんの?」
「ゴールド」
 それでピンときた。最近モナは、金の売買に首を突っ込もうとしているのだ。金の売買でお金を儲けようという話しに僕は反対しているから、如何にお金をかけずに儲けるか、それを考えているらしい。元手の心配がないなら好きにやっても構わないけれど、少し話を聞いてみると、これまたとてもよくできている。
 これはモナの友人が実際にやっていることで、それが趣味なのか本気の取り組みなのかは知らないけれど、その取り組みにモナが新たな仕組みを追加しようと提案しているらしいのだ。 
 話しの内容は、「参加者全てが儲かってハッピーになれる」である。よくでき過ぎていて、何かの詐欺みたいな話だ。
「でも、誰も騙さないよ」
「それだったら誰も仕事なんてしなくていいじゃない。僕も仕事やめていい? みんなで金をやってみんなでハッピー? 世界中の人が参加するぞ、きっと」
「そうよ。仕事辞めていいよ」
 モナがあまりに自信たっぷり言うものだから、少しだけ突っ込んで話を聞いてみた。聞いた結果、よく分からない。とにかく仕事を辞めるのは、まだまだ先になりそうなことは分かった。
「どこかに落とし穴があるはずだ」
「あなたが分からないだけよ。みんなハッピーになれるんだから」
「みんなが儲かるお金は、一体どこから湧いてくるの?」
「だから、こうやってグルグル回しているだけで、お金が儲かるのよ」
 それでは答えになっていない。
「それじゃあ質問を変える。金の価格が下がったらどうなるの?」
 ここでモナは、悠然と語っていた言葉が突然出なくなる。
「あれ? もしかして損をする?」
「金の値段って下がるの?」
「それは上がったり下がったりするでしょう」
「下がったら損する」
「で、その場合、誰がその損を払うの?」
 モナは再び少し無言になったあと、この会社が払う(はず)と言った。僕は詳しく知らないが、何か元締めの会社があるらしい。どうやらその変に、何かの落とし穴がありそうだ。実際は金の価格が下がらなくても、手数料以上に金の価格が上がらなければ損をすると思われるのだけれど。そしてこれは、先物系ではないかという疑いもある。
 当たり前だけれど、リスク無しで確実に儲かる話は基本的にない。もしその元締め会社がそんなことを言っているとしたら、その会社が苦労して人など集めず、その仕事を懸命にやればいいのである。
「もしかしてその会社、ボランティアなの?」
 再びモナが、自信を取り戻してきっぱり「そうよ」と言ったので、僕はここで笑ってしまった。この段階で、この話しはどうみてもアウトだけれど、そういい切るフィリピン人の思考回路を理解できない僕は、それ以上この話に突っ込みを入れるのを止めた。普段家事と子育てに追われているのだから、週末くらいは好きなことをゆっくり納得ゆくまでやらせてあげるのもよしではないかという気がしたのである。
 そこで僕が念を押すのは、金は出すな、サインはするな、連帯責任は負うなの三つである。あとは社会勉強として、ある程度ご自由に、という感じだ。少しくらいの損失であれば、それも社会勉強としてはいいだろう。モナによれば、多くのフィリピン人がやっているらしいけれど、そのうち詳細を調べてみようと思っている。

 ここまで書いて、僕は重大な事実を知ってしまった。
 実は金曜日、日本のお客さんに、月曜の朝一で読めるよう一つのレポートを提出して欲しいとお願いされていた。内容はボリュームはないけれど、少し難しいもの(今おきゃくさんと、禅問答のようなやり取りをしている)だったので、土日にゆっくり考えさせて下さいと返答していた。
 今日僕は、ふと朝四時に目覚め、そのレポートを書くのを忘れていたことを思い出し、がばりとベッドから飛び起きたのだ。
 すぐにキッチンカウンターに置いてあったパソコンをあけ、その仕事に取り組んだ。アイディア勝負のレポートだったから、アイディアが出れば終わり、出なければ必死に絞り出すというもので、幸いすぐに終わってメールでレポートを提出、余った時間で安心してこのブログを書き始めたのである。
 七時過ぎ、モナが起きたので僕は言った。
「そろそろ会社に行くよ」
「日曜なのに仕事なの?」と、モナはまだ眠そうな目をこすり言った。
「何言ってるの、今日は月曜でしょう?」
「違うよ、今日は日曜よ。私の携帯見てよ」
 ベッドの脇にある彼女の携帯を見たら、僕の目にSUN(サンデー)という文字が飛び込んできた。それでも信じられない僕は、キッチンカウンター上の自分の携帯も見たけれど、やっぱりSUNで、狐につままれる。僕の中で時間が止まり、少し呆然した。そして頭の中で、何が起こっているのか整理した。
 おかしい、僕はベッドから飛び起きたとき、確かに今日が何曜日か少し混乱した。だから真っ先に、自分の携帯で曜日を確かめたのだ。そこでMON(マンデー)という文字を見て、やっぱりそうかと諦めて僕は仕事にかかったのである。
 その後このブログを書き始め、土日に料理したことを書いた。実はそのとき、二日間全てのメニューを思い出せず、変だなと思ったのだ。正直、歳をとって直近の記憶が怪しくなっているのではないかと思ったけれど、そんなことを気にするのは数年前に卒業している。ま、いいかと簡単に諦めて、ブログを書き進めた。
 五十歳を超え自分の頭に嫌疑をかけながら、能力が落ちた部分を受け入れることも多くなっている。特にいつもだめだと思うのは、シャワーだ。
 我が家のシャワーは、通常の壁掛けハンドシャワーと、真上からのシャワーを切り替えられるようになっている。一人暮らしのときにはいつもハンドシャワーを使っていたから問題なかったけれど、モナがときどき天井シャワーを使っていることで、問題が起こるのだ。
 温水シャワーではあるけれど、最初は冷たい水が飛び出すので、僕はいつもハンドシャワーの向きを壁の方にむけ水を出すのだ。すると決まって、真上から出る冷たい水が僕の体に降りかかり、僕は「ひぇっ」と驚いて、心臓が止まるかと思いながらまたやられたと一人ごちるのである。シャワーを出す前に、水の出口がどちらになっているか確かめなければならないといつも思いながら、いつもそのことを忘れるのだ。いつかこれが原因で、僕は心臓麻痺で死ぬのではないかと思っていてさえ、である。

 とにかく、今日が日曜であることにおろおろする僕を見て、モナは笑っていた。そして日曜であることを確信して、「いやあ、なにか得した気分だなあ」と晴々と言う僕に、モナの笑いは更に高鳴った。
「それじゃ、もう一杯コーヒー飲むかな。あなたも飲む?」
「おお、飲む」
 今使っているコーヒードリップ用ペーパーは、モナが選んだものだ。僕が小さいのではないか、一つ大きなやつを買おうと言ったのに、彼女が「大丈夫、問題ない」と僕を押し切って買ったものだ。昨日モナが初めてそれを使い、「これ小さいなあ。時間かかる」とぼやいていたから、僕はすかさず、「だから小さいって言ったのに」と得意げに言ってやった。二百枚も買ってしまったからしばらく我慢しなければならないけれど、使う度に、まるで若い女性のパンティーみたいだなんて僕は思いながら、なせそんな連想してしまうのか、自分でいつも不思議だと思っている。
 僕は今朝もそんな連想と共に二人分のコーヒーを淹れながら、さて、今日の朝ごはんは何にするかなと考えていた。 
 もう僕は、立派な主夫である。



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カテゴリー:マレーシアにて
エントリー:744.朝から得した
2015年06月24日

743.安全保障法制法案について3

(前回の続き)
 このようなアメリカ情勢の中、今世界各地で起こっている衝突や摩擦は何か。
 つまり、ISILが世界の耳目を集めたけれど、彼らが行っていることは何か。中国がチベットや南シナ海で行っていることは何か。韓国が日本を敵対視するのは何か。ロシアがヨーロッパを牽制し始めているのは何か。アメリカが中国を意識するのは何か。
 これらの対立や侵略、摩擦の中に、かつての米ソ冷戦に見たような主義の違いはない。宗教的対立の背景もない。ISILはイスラム教を掲げているけれど、それはたまたまであって、彼らが目指すのは自分たちの存在を世界に認めさせることである。もちろんISILの産みの親、育ての親がアメリカであることは承知しているし、ISILの言動には、あまりに都合よく利用された民族としての怒りが含まれていることも想像に難くない。
 つまりこれらは全て、民族としての主張や民族としてのエゴ拡散、押し付け、貫きであって、よって僕は現在の状況を、民族主義の台頭と述べたわけである。その背景には、アメリカの暗躍、策略、その失敗と影響力の減退などが密接に関わっていると思われる。同時に中国の悲願は、アメリカに代わって世界の国々を実質上自分たちの配下に置く、世界の覇者になることである。強大な権力を手に入れ、思うがままに世界を操りながら自分たちの私腹を肥やしたい、その一心だろう。そのため数年前より、軍拡はもとより、世界各地への大々的な資本投下など、中国は様々な手を具体的に打っている。もちろん金融面では、中国元が世界でイニシアティブを取ることが中国の悲願であり、実現可能かどうかは別として、前述のIAABはその布石の一つと考えるべきだろう。
 もちろんアメリカの本音は、中国の勢力拡大をできるだけ食い止めたいところにあるはずだ。これは決して世界平和のためではない。アメリカのすることは、世界平和、正義の名の下、自分たちの利権を維持し、それが脅かされるのを食い止めるためであることは明白だ。それはかつて日本が開戦に追い込まれたときのように、いつでも策略と事実の捏造によって行われる。
 よってアメリカは現在、インドとの急接近を果たし、日本を始めとする東南アジア諸国との関係を見直し、その中にオーストラリアまで含めている。こうして中国包囲網を強化しようとしているのだ。
 本来アメリカは、韓国にもその陣営に入って欲しいはずだけれど、しかし韓国の態度が曖昧かつ韓国が中国とアメリカとの間でコウモリ外交を繰り返していることから、アメリカは韓国を見放そうとしているように見受けられる。そんな状況とともに、従軍慰安婦問題を始めとするアメリカの対韓国政策において、米国議会や米国国民の考え方、意見の方向性が大きく転換されつつあるのだ。韓国はそれに対し不満を漏らしながらも、孤立する恐怖に怯えだしている。同時に韓国は無能な指導者を持ったことで、経済状況を含む国内状況が目に見えるほど悪化した。干ばつや伝染病がそれに拍車をかける中、不思議とあの国を助けようと動く国がないことが、ますます孤立感を高めている。韓国はこのまま、中国の属国になる道を選ぶのだろうか。
 
 話しを戻すと、今の世界は露骨とも言えるほど、弱肉強食の時代である。資本主義システムに先鞭をつけた国が力をつけ、それらの国々が後塵を拝した弱い国から搾取し、ますます力を蓄えるという構図である。既得権益を持つ国々はそれを手放したくないし、搾取される側の国では、権力者が国民の犠牲の上に自分達が潤えばよいという政策が見え隠れする。発展途上国と呼ばれる国々では、権力者が、まるで国民を差し出して自分達の安泰を保証してもらっているような格好だ。
 経済的な力関係が中々縮まらない仕組みの中で、どの民族も世界で大きなイニシアティブを発揮できる国でありたい、搾取される側より搾取する側になりたいと願っているのである。そしてときに、暴挙に出る民族が出現する。中国は経済的に奇跡的な逆転劇を成し遂げ、千載一遇のチャンスに世界トップの座を虎視眈々と狙う。
 一昔前ならば、アメリカは出る杭を打つため、中国との開戦に持ち込んだかもしれない。しかし現在、世界経済は複雑に絡み合い、一国の失敗や滅亡が自国に跳ね返るというジレンマが存在する。その加減を見ながらの綱引きとなるからややこしいのである。
 例えば中国とアメリカは、お互い戦争も辞さないということを言いながら、水面下では中国TTP加入の交渉を行っている。経済圏では仲間になろうとし、勢力圏では敵対関係に拍車がかかろうとしているのだ。この妙にねじれた事例は日本にも当てはまる。中国から撤退表明する日本の会社や工場が増えているとは言え、日本経済に中国経済の影響は大きい。おそらく日本は、世界で一番中国景気動向の影響を受ける国ではないだろうか。日本の対中国輸入/輸出が共に十数兆円になっている現在、中国が倒れれば日本の打撃は計り知れない。現在の安倍政権が中国に対し強気の態度を示すことができるのは、まさにこのせいである。影響が大きいのはお互い様であり、お互いがそのことを意識せざるを得ないことを逆手に取った作戦だろう。民主党政権のように、国益を無視し中国や韓国にへつらうだけの態度は、相手を付け上がらせるだけで日本に何も益がないことを見越した対応だと思われる。
 特に中国は、本当に信用ならない国である。GDP世界第二位の有力国になってさえ、これほど世界の中で傍若無人な行動を取る国が他にあっただろうか。第二次世界大戦以降、武力を背景にした他国侵略、人権蹂躙を実行する国は中国だけという事実を考えても、中国だけは用心する必要があるだろう。中国人の心の深層には、未だに国取りゲームの感覚が根付いているのではないだろうかと思われるくらい、彼らは侵略・弾圧にアグレッシブである。
 外からは中々見えないけれど、中国国内における権力争いも熾烈だ。習近平国家主席は政権発足当初、胡錦濤や江沢民に配慮した勢力均衡配慮型の人事を取らざるを得なかったにも関わらず、その後地道に勢力拡大を図り、先日、未だに陰で大きな影響力を発揮していたた江沢民元国家主席の寝首をかくため江沢民側近数名を要職から追放、そしてこれまでのタブー視されていた江沢民の地元訪問を決行し明確な反旗をあげた。(確か、地元にかかる大きな橋の名前を、江沢民を称えるものから蔑むものに変更した)これを乗り切った習近平は、地方と中央官僚にその力を誇示することに成功し、これまで江沢民を恐れていた役人たちが、今度は習近平を恐れ何事も逆らえない状況になっている。もし習近平の逆鱗に触れれば、それは更迭などという生易しいものではなく、粛清という名の死が待っているからである。こうした生き馬の目を抜くような世界で、彼らは常に人を騙し出し抜き、自らの安泰を手にすることを考え実行しているのだ。こうした人たちに、果たして性善説は通用するのだろうか、僕は甚だ疑問に思っている。 
 前編で僕が、異民族は自分達と違うと書いたことを思い出してほしい。個別に向き合っている間はそれらを理解できていると思うけれど、なぜか日本人はそのことを忘れ、すぐに性善説に基づいた思考に傾く。
 常識的に考えれば侵略などあり得ない、武器を使わない日本人は世界からそのことを尊重される、平和的対話の精神を貫けば平和を手にすることができる、人とは元来そのようなものだ、こちらの平和的理念は同じ人間として相手の心に必ず響く。
 それは理想だけれど、果たして本当にそうか。それをギャランティーできる裏づけが何かあるのか。
 相手がいることで、もちろんそれは相手次第だけれど、それが通用する相手もいれば、通用しない相手も世界には間違いなくいるということも言えるのではないか。結局は相手次第ではないのか。無力のチベットが中国に何をされたか、それほど遠くない過去に起きた現実をどう考えるべきなのか。

 フランス文学の世界に、構造主義というものがある。詳細は忘れたけれど、全ての事象には構造があり、その構造を抽出して事象を解析したり本質を捉えようというものだ。構造主義そのものにはあまり興味をひかれなかったけれど、一つだけその中で、僕の心の中に居座った文言がある。それは、「世の中に普遍的なものは極々僅かしかない」というものだ。これは、人があまりに常識と思っていることや普遍的なものと思っていることも、実はそれらのほとんどは、その時代、その場所、その環境で育まれた極めて限定的なものであり、百年も経過すればそれに対する考えや感覚は変わってしまうという意味合いだ。限定的なものであるならば、それは普遍とは言わない。つまり、本当の普遍的な物事とは、非常に稀ということだ。
 そうした目で世の中の事象を眺めてみると、何が正義で何が真理なのか、次第に分からなくなってくるのである。前編で書いた子供の虐待の件にしても、親の子供に対する愛情について、次第に世の中の感情そのものが変わってきているのではないかという疑いまで持ち始める始末だ。(よって僕は、虐待に嫌悪感を抱くし嫌いだけれど、何が正しいのかは分からないということを書いた)
 もう一点、直近の例を示せば、かつて湾岸戦争のとき、自衛隊を派遣するかしないかで大激論となったはずだ。当時、何をするにしても派遣はならんという強硬意見が目立ったと記憶しているが、今議論されているのは一歩進んで、派遣はPKO(Peace Keeping Operation)の範囲にとどめるべきとなっている。いつの間にか自衛隊派遣は、内容次第になっているように見えるのだ。湾岸戦争はたかだか25年前のことだから、それだけの期間で日本人の感覚も随分変わったと思うのだけれど、僕はこうした変遷を見ながら、一つの常識や感覚は百年も継続しないという先人の言葉を、確かにその通りだと感じるのである。同時に世界の中での日本の立ち位置や振る舞いも、情勢や状況に合わせて変えていくべきではないだろうか。
 
 日本人の常識は、あくまで日本人の常識に過ぎない。ときが経てば常識が変わるのと同じく、場所が変わってもそれは変わるし他国のそれとは違うのだ。そして、異民族が自分達と同じ思考を持つというのは幻想と思った方がよい。仮にそれが間違っていたとしても、セーフティーフェールとしてはその方がいいのである。 
 そして時代と共に、現実の環境は刻々と変わっている。そのような中、中国と面と向かって喧嘩をするわけにもいかない日本が取るべき戦略は何か、それが現在試されている。
 丸腰万歳、平和主義貫徹か、独自に強力な軍隊を再構成するか、中国またはロシアと友だちになるか、あるいはアメリカと手を組むか。選択肢はそれほど多くない。
 僕はアメリカを腹黒い国だと思っているけれど、日本一国でこの状況に臨むより、実績のあるアメリカとの同盟強化が無難な選択ではないかと思っている。もちろん中国と組むのは論外だ。

 さて、現在紛糾している安全保障法制関連法案は、気付けば政争の道具となっている感がないでもない。いつの間にか話しは、これを許せば戦争だ、徴兵制度だと飛躍している。もともと日本が許容してきた従来の自衛権発動としての武力行使は、次の三要件に該当するかどうかで判断されることになっていた。

旧三要件
(1)我が国に対する急迫不正の侵害があること
(2)これを排除するために他の適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

 これに対し、今紛糾している武力行使の新三要件は、次の通りである。
新三要件
(1)我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
(3)必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

 公明党が本法案に大きな足かせをはめたことが伺えるこの新要件は、何かあったときに、緊急で現実的対応が可能なのだろうかと心配になるほどである。また新要件は、旧三要件と比べ何が問題なのかよく分からない。言っていることは、当然の内容にしか見えないのである。
 そこに様々な不安を煽る文言を重ねて目を吊り上げる人たちとは、一体何が目的の何者なのか。法案文に対し、もっと直裁な議論ができないものだろうか。あちらこちらから色々な話を担ぎ出すのは、法案への直接議論を避ける狙いがあるのだろうか。あるいはここぞとばかり、何かの憂さ晴らしをしているのだろうか。
 このように、この手の話題にアレルギー体質のある日本において、これほど明確な方向性を打ち出した安倍さんを、僕は支持したい。少なくとも僕には、常に臭いものに蓋をし、国民と官僚の間を行き来し双方の機嫌を取り、我が保身ばかり考える政治家よりも遥かにましに映るのである。
 よく思い出して欲しい。現在の消費税を決めたのは、日本がデフレで喘いでいるときに民主党が決めたことだ。官僚に言いくるめられたに違いないけれど、デフレ時に消費税増税など、自らの無能を宣言しているに等しい政治判断である。愚行はそれだけではなかった。それに対し、時局を鑑みその実施延期を決めたのは安倍さんである。極めて対称的なそういった一つ一つの判断実績をみて、日本は安倍さんに随分救われたと思っている。同時に中国や韓国、そして米国に対する態度も民主党とは見事に反対だ。そして悪くない結果を残している。僕はそういったリーダーを信じて、安倍さんを支持したい気持ちになるのである。
 それでも仮に安倍さんが、日本を安直に戦争に導くようなことをすれば、僕は突然アンチ安倍になるだろう。戦争が極力避けたいことであることは当然である。まして、自分の子供や孫が徴兵で取られ戦場に行くなど、考えただけで体に悪寒が走る。そう言いながら、自分の家族が蹂躪される事態になるなら、自分は銃を取って戦う道を選ぶだろう。座して屈辱を味わい、座して死を待つことなど到底できないことである。そしてそういった事態を極力回避するために、強い抑止力が必要という考えも変わっていない。
 なぜなら、世界には自分達とはかけ離れた性質の民族や国が、実際にあるからである。
  


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742.安全保障法制法案について2

(前回の続き)
 世の中では様々変化が起こっているけれど、その内容は極めて分かりやすいものもあれば、分かっているつもりでも、実際はそれほど見えていないものもある。
 例えば三十年前、仕事はほとんど図面もレポートも手書きだったけれど、今はパソコンが当たり前になっている。現代はパソコンがないと仕事ができないと言っても、普通に通用する時代だし、本気でそう思っている人がとても多いはずだ。人がパソコンを道具として使う時代を謳歌していたら、実は人口知能に仕事をさせることが積極的に模索される時代に入ろうとしている。
 韓国では国境警備に人型ロボットが配備され、それがロボコップのように人を撃つことができるようプログラミングされているから、世界の大きな非難の的になっている。人工知能が搭載されているか否か、韓国は口をつぐんでいるけれど、もし搭載されているとすれば人類の大きな脅威になり得るとの警鐘が発せられている。
 携帯電話も当たり前になり、便利な世の中になったと思っていたら、あれよと言う間に持ち歩き自由のパソコンのようなスマートフォンが普通になった。インターネットはどこでも繋がり、いつでもどこでもクラウドサーバーにアクセスできる。携帯で撮った写真を、データ移動の操作をせずに自宅のパソコンで見ることも、普通にできるようになった。
 逆に仕組みを把握しておかなければ、個人情報がもれなく流出してしまうこともある。携帯などは情報を全部消したつもりでも、アカウント情報を入力したら勝手に電話番号情報を始めとする個人情報が完璧に復元されてしまうことがあるし、携帯の情報消去はインデックスを消去するだけで、中身の実態がメモリに残っているから、データ消去はただ見えなくなるだけということを知らなければ、中古携帯だって人によっては簡単に情報を復元できてしまう。
 こうして振り返ると、こうした身近な事柄については、世の中随分変わったものだとその違いは一目瞭然でも、変化の過程では何が起こっているのか分かりづらいことも多く、具体的なことになると知っているつもりで知らないことも意外にあるものだ。

 冒頭、IT関連の変化を例として書いたけれど、これは世の中の変化として、比較的分かりやすい事例である。
 しかし、例えば世界情勢という観点での変化についてはどうだろうか。
 世界情勢と言っても様々なカテゴリーがあるけれど、経済や紛争、食料や環境問題やエネルギーや、それらを含むパワーバランス等において、今に至る経緯と現状についてはどうだろうか、ということである。
 唐突に、なぜ今、世界情勢? と思われるかもしれないけれど、それは最近、様々な方による日本の方向性の議論が盛んで、インターネット上でそれに対する意見を述べる記事を多く目にするからだ。そして僕はそれらの記事の中で目にする、ときに一方的に感じる意見が、日本を取り巻く世界情勢を鑑みてのことだろうかという素朴な疑問を持つからである。
 このような素朴な疑問が誘引される一つの理由として、これは反現行政権意見の一つの例だけれど、それらの記事の中に、安倍総理を始めとする与党の人間を、嘘つき、売国奴、チンピラ、跳ね上がり、素人、魑魅魍魎という表現を使い断罪しようとする意図が見え隠れすることである。そして意見が違う対立者に、何らかのレッテルを好んで貼りたがる人が多く見受けられることだ。
 僕は熱狂的な安倍さんファンではないし、反政権意見の中に同調するものも含まれることがあるけれど、意見を述べたいならばレッテルを貼る必要はないし、失礼な表現を使うこともないだろうと思っている。
 あまりにそのような表現を使いながら一方的にまくしたてられると、それは本当に正しいことなんですか? 自信があってそこまで言うんですか? と、へそ曲がりの僕は思ってしまうのである。

 特に気になるのは、アメリカの高官や日本の政治家、評論家、新聞、雑誌の意見を持ち出し、それが全てであるような表現を使いながら、自分と意見を異にする相手を貶めたり悦に入っている記事である。
 自分自身のユニークな意見を常に参照記事の裏に隠している(誰かに代弁させている)のだから、相当自分に自信がないのだろうと思っているけれど、その割りには人を攻めるときの威勢がよいから気になってしまうのだ。気に入らない人や組織をくず呼ばわりする(排除したい気持ちの現れ)のであれば、せめて根拠なり説得力のある意見、説明をしてからにして欲しいものである。
 
 一つだけ具体例をあげると、あるアメリカの元高官が、アジアはとても安定しているという発言をしているから、安倍総理は嘘の理屈をこねて日本人の危機意識をあおり、自分の野望を遂げようとしていることが明らかになった、という主旨の記事があった。しかし一方で、現役のあるアメリカ高官は、北朝鮮とその周辺は、世界で最も危険な地域と言っているのである。あるいは最近、元アメリカ高官が、このままでは米国は、中国といつ戦争になってもおかしくないと発言している。同時に中国共産党下部組織と言っても差し支えない新聞社が、アメリカとの間に戦争も辞さないと言っている。
 この矛盾する発言はどれも知名度の高い方や組織のものだけれど、本当は危険なのか、安全なのか、これらは一体どのように解釈したらよいのだろうか?
 僕自身は北朝鮮という国を信用しておらず、特に最近の無節操な粛清話しを聞きながら、歴代独裁者の中で最悪の人がトップになったのかもしれないと思っている。もし彼が真正の馬鹿であれば、何か事を起こす(他国に対する水面下工作やテロ行為を活発化させる等々)こともあり得ない話しではないと思っているのだ。特に日本は、国防という観点で非常に不利な地形と、更に海岸線に原発を抱えているので、北朝鮮の脅威は常に意識する必要があると思っている。
 また中国については、南シナ海での埋め立て強行や地中海でのロシアとの合同軍事演習実行など、欧米牽制の動きやアメリカに対する挑発言動が活発になっている。中国が地中海でロシアと合同演習を実施したことは、アジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加表明したヨーロッパの国々にはさぞかし衝撃だったに違いない。欧州は、改めてロシア・中国対応策を熟慮しなければならないだろう。また中国は、次(八月)は日本海でロシアとの合同軍事演習を行うと言っている。領土・領海の侵略を進めながら、それを脅かすのであれば軍事行動もやむなしとあからさまな挑発行動を取る国が中国なのだ。
 最近、二階堂氏が率いる日本の訪中団が、中国による異例の歓待を受けたが、中国はこの現代社会においてもみえみえの飴と鞭を使い分け、遠慮なく策略を繰り広げる国である。これを警戒しない方がおかしいと思うのは、僕だけだろうか。
 
 他にも防衛白書の件、安全保障法制法案の件など、詳細に確認もしくは指摘したくなる内容は満載だけれど、とにかくそれらの一つ一つがあまりに重箱の隅だったり言葉の揚げ足取りで、世の中の大きな流れをつかんた上で物事を考えているのか疑問に思えてくるのだ。そして常に近視眼的で偏った思考と物言いに、起こっている事象にはそれの原因となる様々パラメータがあることを、承知しているのだろうかと思えて仕方ない。
 パラメータは多岐に渡り複雑に絡み合うけれど、昨今はこれがますます複雑になっていて、頭の悪い人には国の舵取りが難しくなっているように感じられるし、政治家や専門家にしても、それら全体を見渡せるバランス感覚を持つ人が少ないようにも思える。多くの人が自分の専門知識をひけらかし、自分の立場を考慮しながら発言するのに終始する。よって世の中で権威と呼ばれる人の言うことが正しいわけではなく(むしろ偏っている方が多い)、とにかく世に出回る情報は鵜呑みにしてはならないことを痛感するし、情報は自分の思考で租借しなければならないと思われるのだ。そこにおいて、立場や感情は脇において、ということである。
 
 さて、最近の世の中の変遷について、僕は次のように捉えている。
 かなり大雑把に言えば米ソ冷戦、その終結、アメリカ覇権の時代、その終焉、そして今、民族主義の台頭という流れではないだろうか。
 自由資本主義と共産主義の闘いに決着がつき、実際には世の中に右も左もなくなった。それに気付かない人、認めたくない人も多くいるようだけれど、実際に対立軸を失い、日本の政党、政治が迷走したのは記憶に新しいところである。これらのことは、事実上、日本の中でも左右主義が崩壊した証である。
 対立軸を失った日本の政治状況は、野党が与党の揚げ足取りに終始する構図を生み出した。その愚行に多くの国民が嫌気がさしたことも記憶に新しい。これらの情勢下で、社会党党首、民主党党首の首相が誕生したことは画期的なことであったけれど、せっかく千載一遇のチャンスを与えられた民主党は、国民の期待を大きく裏切ったと僕は考えている。今の日本の中に存在する自民党支持は、民主党のあまりに酷かった政権運営の反動ではないだろうか。民主党政権を経験した日本人は、政治に単なる思想や高尚な理想、金のばらまきではなく、首相や与党としてのリーダーシップや手腕を強く期待するようになったと感じられる。
 そして、安全保障法制法案という久しぶりの明確な対立軸を手にした日本の政界は、与野党間でその攻防の激しさを増している。野党は再編を睨み色めきたち、小沢さんもこのチャンスに乗ろうと動き出しているようだけれど、目の前に立ちはだかる小沢アレルギーをどうやって崩していくのか、ちょっとした見ものである。再び『作っては壊すだけの人』になれば、小沢さんの実質的な政治生命は終わりになるような気もしないでもない。
 安倍政権が高い支持を維持する現在の日本で、やはり日本人が賢いと思えるのは、最近騒がれている安全保障法制法案の不支持率が高いことである。自民党支持層の中でも、現在の法案審議において、説明が不十分と思っている方々が八割程度いたように記憶している。
 この法案の背景には、もちろんアメリカと自民党政府の目論みが見え隠れする。アメリカは世界の警察官として疲れ始めた、疲弊した、金もないと表現する人がいるけれど、昨今のアメリカの動向を決めているのは、そんなことではないと思われる。それは、世界先進国のアメリカ離れが決定的な要因になっているのではないだろうか。アメリカのイラク、アフガン撤退で、世界中がアメリカは世界最強の国ではないことに気付いてしまったということである。最強というのは、常に戦略的に思惑を達成し、それを遂行するための物理力があり、世界の金融まで支配しているという意味になるけれど、度重なる戦略失敗に、アメリカはもはや世界のキングとしての器はないと、世界が思い始めたということである。同時に、ブッシュの唱えた「世界の悪を駆逐するための戦争」という言葉の信憑性が極めて疑わしいことも、世界のアメリカ離れを加速させたのではないだろうか。
 それを思わせる決定的な出来事が、アジアインフラ投資銀行(AIIB)でアメリカが不参加表明をしたにも関わらず、欧州各国が参加を決めたことであった。アメリカはこの件について、水面下で世界主要国と調整をしていたと思われるが、結果的にヨーロッパ各国が参加表明をした。このことは、世界におけるアメリカの影響力が衰えたことの証左であり、そのことはアメリカ自身が痛感していることと思われる。
 よってアメリカは、対中国戦略を中心とする世界との関わり方について、独自路線を弱め他国との強調路線に重きを置く方法に転換した。この方が行動の支持を得やすい上に、負担も軽く、そしてアメリカの存在感を示しやすいからである。
 さらにアメリカは、オバマと国防省との関係がうまくいっていないという国内問題も抱えている。アメリカの軍事戦略において、このことは致命的だ。イラク、アフガン撤退は、オバマが国防省の猛反対を押し切って断行したと伝えられているけれど、これは核廃絶や世界平和を大々的に唱えたオバマが、自身のメンツを保つために強行したことである。このような事情を知れば、アメリカの最近の行動が、『世界の警察官として疲れたから』ではないことが分かってくる。(続く)



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