フィリピーナと共に
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2015年06月24日

741.安全保障法制法案について1

 気が付けば、随分長期間ブログを放置してしまった。モナに指摘され、焦って記事を書き出した次第だ。しかし内容は、タイトルに示した通り、こちらの近況とは程遠いものである。
 よって最初に簡単な近況を述べると、「元気ではつらつとやっている」という一言に尽きる。ダイチが腕白ぶりを発揮し、おでこに縫い傷を負うハプニングがあったりするけれど、当の本人はすぐに復活し僕とモナをいつもハラハラさせている。家族のマレーシア滞在VISAは無事に取得し、ベルとユリの学校も決まった。あとは学校の入学金と月謝の心配をするだけである。
 決めた学校は勉学一筋の名門校というより、勉学とモラル教育の双方に重きを置く方針の緩やかな校風で、一応インターナショナルスクールである。校舎はリゾート内にあり、前面が海辺になっている。そんなロケーションを活かし、料理や散策や全学年通しての様々なイベント活動が多く、学校責任者の人柄は申し分ない。キリスト系の学校であることは、モナが一番飛びついたところである。
 さて今回、少しお堅い内容の記事を書いた。書いてみれば非常に長くなったので、三日連続投稿で完結させたいと思う。書いた内容は正しいか正しくないか分からない。賛成と反対もあるだろうが、一つの読み物として書いたつもりなので、肩の力を抜いて読んで頂ければと思っている。特に初日の内容は、これとタイトルに何の関係があるのかと思う方もいらっしゃるはずだけれど、我慢して読み続けてくれれば繋がる箇所が出てくる、はずである。
 これらの内容で目を吊り上げた言い争いはしたくないし、その価値もないものだと思っているので、その程度でお付き合い頂ければ幸いだ。
 以下、本文となる。


 ベッドの上で、手足を投げ出し眠るダイチを見ていると、思わず寄り添い小さな手や柔らかい頬を触りたくなってしまう。眠っていながらも、子供が差し出した指に反応したりすると、可愛くて仕方なくなりその場を離れられない。そうこうしているうちに僕も居眠りし、気付いたら朝になっていた、ということも何度かあった。そんなときには決まって、僕はモナに「昨夜、僕はどうやってベッドに寝たんだっけ?」と訊ねてしまう。
 一方ユリはまだ親とのふれあいが恋しい歳だから、ときどき僕とモナのベッドにやってくる。今朝も妙に窮屈で起きたら、ユリが僕とモナの間にもぐりこんでいた。ベッドの端にダイチが寝ているから、大人と子供併せて四人が一つのベッドに寝ているわけで、僕はどういうわけか体をユリに向けて横向き体制だったけれど、九十度寝返りをうって上を向けばもうベッドから落ちるというぎりぎりの位置にいた。
 あまりの窮屈さにたまらずベッドを抜け出しあらためて眺めると、ぐっすり眠るモナの両脇に、二人の子供が無邪気にすやすやと寝息を立てているという構図だ。僕はそれを見て、今日も仕事をがんばらねばと奮起する。
 このような日常的で小さなことが、家族と共に暮らす幸せなのだろう。とかく子供は、ときに煩わしいくらいやかましいけれど、僕とモナの生活に潤いをもたらしていることは確かである。 
  
 こんなふうに、普段小さな子供と接しているせいかもしれないけれど、たまにインターネット上で見かける子供への虐待シーン(実録)には、たまらなく暗い気持ちにさせられる。特別探しているわけではないけれど、今は偶然、そのような画像に出くわす機会が多くなった。拡散の意味かどうか知らないが、FBなどでそのような画像が頻繁にアップされるのだ。FBの画像は無修正でかつストレートなものが多く、ときにグロテスクである。子供への虐待シーンも同様で、それらを見ると救えるはずもないのに、できることなら救ってあげたいという気持ちが胸のうちに湧いてくる。そして見たあとは、どうしようもない憤りや無力感に襲われる。
 特に酷いのは、中国人の子供に対する暴力だ。
 四、五歳の子供の背中に容赦ないとび蹴りをくらわし、コンクリートの床に全身を打ちつけぐったりする子供の足を取り、洗濯物の皴を伸ばすように上下に振って床に打ち付ける。更に子供を乱暴に床から拾い上げ、何度もコンクリートの地面に放り投げる。
 同じような幼い子供を足蹴りで倒し、頭を何度も力いっぱい靴底で踏みつけ、それでも足りないのか周りにあった道具を手に取り、それで子供の体や頭を渾身の力で殴りとおす。
 いずれも子供はすでにぐったりし、まだ生きているかどうかも怪しい有様だ。
 他にも、ヒステリックになった母親が子供を何度も殴るシーンなどは枚挙に暇が無い。何も抵抗できない小さな子供は、泣き喚くかぐったりするかどちらかでしかないけれど、どちらにしても暴力を振るう大人は手を緩めることを知らない。

 何か理由があるにしても、全ての映像においてなぜそこまでと、その行動は微塵も理解できない。 
 冒頭でも述べたように、この手の暴力ビデオ主役は中国人が圧倒的に多く、次いで韓国人が続くという印象だ。両国人の場合、子供への暴力に限らず、何かをきっかけにヒステリックな状況に陥った様子を映し出す映像が非常に多い。
 もちろん日本でも、子供の虐待事件はあるようだ。幼い少女が親の虐待に耐え切れず家出をし売春で食いつなぐことや、それを食い物にする怪しい組織があることなど、一部報道されたり書籍化されている。以前僕が住んでいた街でもそのような組織が摘発され、新聞沙汰になった。
 しかし中国人の子供に対する虐待は、何かの腹いせという域を超え、子供を殺すのが目的のように行われる。虐待する大人の中には、きっと子供の実の両親もいるのだろう。いや、むしろ親が虐待を行っている方が多いのかもしれない。また、韓国人のヒステリックは、逆上し自らが車に惹かれたり高所から落下したりと、ときに自分の命を奪うほどである。
 これらの様子は、一度火がつくと癇癪の赴くままという具合で、とても人間の仕業とは思えないほどだ。
 もちろん中国人や韓国人が、全て同じ資質の人ばかりと思っているわけではない。両国人にに、とても紳士的な人を僕も個人的に知っている。しかし同時に、ビデオの中に登場する狂人的な人を、僕は日本人の中にほとんど見たことがないし聞いたこともない。

 さて、僕が今回言いたいのは、実は子供の虐待に関することではない。
 僕が言いたいのは、これらの仕業を見ながら、子供をいたぶる、あるいは癇癪を起こし自己コントロール不能状態になる彼ら彼女らが、自分たちと同じ種類の人間に思えないということである。
 それは大げさな物言いだと疑う方がいれば、インターネット上で探して見て欲しい。決して見て気持ちのよいものではないけれど、どれだけ悲惨かは一見すれば分かることだ。自分が仮にその場にいれば、間違いなく子供を虐待する大人を殴り倒したい衝動に駆られるだろうくらい、とにかく酷い。
 人はよくそのような仕業を、これが中国人や韓国人のDNAだと言うけれど、僕はそれに少々異論を持っている。それらはDNAのせいではなく、人の育つ環境の違いから生じているのではないかと僕は思っているのだ。人間を鬼畜にしてしまう何らかの環境が、そこにあるのではないかと考える。もちろんDNAの影響をまるで疑っていないわけではないけれど、生まれたばかりの人間は白紙状態で、育て方次第で人にも動物にもなるのである。

 よく日本人の視点から、フィリピン人、中国人、韓国人がどうこうと言われることがある。僕も同じように、考え方、食習慣、行動習慣、あるいは細かいところでは計算方法やりんごの皮をむくときのナイフの使い方まで、モナと自分の違いを発見しては騒ぐことがある。
 しかし育った環境が違う者同士、色々な違いがあるのは当たり前だ。その境地にたどりつくまで僕も随分時間がかかったけれど、これは明確な事実であり、同時に不思議なことでもなんでもないのである。
 だからフィリピン人や中国人や韓国人も、各々自分たちの視点で日本人はどうこうと言っている。違いがあることや自分基準での相手への評価はお互い様で、しかもそれらは長年染み付いた習慣やその国における常識がベースになっているから、自分の方が正しいと思うことが多いというのも納得できる。おそらくその違いは、最後まで交わらないこともあれば、どこかで交わるものもあるのだろう。

 ただ、以前も書いたような気がするけれど、大切な部分での価値観が一緒ならば、決して交わらなくても許容できる違いもあるし、あるいは互いの違いが交わるのを待つこともできる。
 結局は、どうしても譲れない部分における価値観の一致が重要になる。例えばモナが自分たちの子供に対し、中国人がビデオで見せるような癇癪による虐待を度々行うようであれば、僕は子供たちを連れて彼女から離れるだろうし、彼女があまりに自分基準の常識からかけ離れた言動を繰り返すようなら、僕はそれも問題視するだろう。
 しかし僕は彼女が、基本的な躾け、マナー、道徳や他人への思いやり、愛情等々の観点で概ね自分と一致した価値観を持つことを理解しているから、ときには習慣の違いで腹の立つことがあってもそれが二人の関係に決定的なダメージを与えることはないし、安心して生活を共にできるのである。
 このようなことは、個別の家庭問題でなくてもある話しで、海外進出する企業が、現地の宗教が何かを重要視する理由もこの一点に尽きる。現地で普及する宗教は、現地の人たちと自分たちとの間で、人の言動を成す根幹的な価値観に大きな差異がないかどうかを判断する大切な指標なのである。一緒になって協力体制を築けるかどうかは、企業にとって当たり前に大切なことだ。

 話しを少し戻すけれど、僕は前述したインターネットに登場する超暴力的な人物については、決して自分と交わることのできない、自分とは決定的な違いを持つ人種だと思っている。それらの行動が仮に一時の過ちだとしても、それが決してあり得ない行動だからである。人の命を軽視し思いやりや愛情が著しく欠如していることが、画面からひしひしと伝わってくるのだ。自分と彼らと、どちらの考えが正しいかは深く考えれば不明だけれど(なぜこのような言い方をするかは後の記事で述べる)、とにかく僕は、彼らの暴力的行動に嫌悪感を抱くのだ。
 しかしよく考えれば、中国は十三億の人口を持つ国で、中国国民の生活環境は上海のような大都会もあれば山奥で電気や水道・ガスのない暮らしを強いられるケースもある。広大な土地を持ち、教育や習慣は同じ国の中で千差万別だ。
 そのような状況下、ごく少数の数パーセントの人に、自分たちとは相容れない思想や価値観や行動様式を持つ人がいても、それほど不思議なことではない気がするのである。しかも十三億の数パーセントが何人に相当するのかを具体的に考えると、その絶対数は恐ろしく多くなる。つまり、あくまでも仮であるが、中国人の十パーセントが日本人の考える異常な人だとすれば、それは日本人全員が変ということと同じ規模になる。もしそれが一パーセントであれば、東京都民全員が異常ということと同じだ。たとえ数パーセントの異常人格者含有率でも、その絶対数はとてつもなく多くなる。
 ならば韓国はどうかと言えば、人口は五千万程度で、決して大きなばらつきを持つ規模ではないけれど、彼らの癇癪をインターネットだけでなく、実際に目にする機会が非常に多い事実を考えれば、国全体の中で、そのような資質が育つ背景を持つ国ではないかと疑いたくなってしまう。
 そしてどこの国の人にも自分たちとの間に傾向的な違いが見えて当たり前だけれど、更にその中には、自分が許容できる人とできない人が含まれるのだ。もちろんそれは、個別に突き詰めていけば、自分が生まれ育った国の中の同国人にも言えることである。

 このような事実については一先ず受け入れるしかないけれど、その上で個人的には、僕は自分の許容できない人とできるだけ関わりを持ちたくないと思っている。そして、社会に、特に自分の周りに危険な性質を持つ人が相当数増える状況は、特に自分の子供を含む家族のことを考えて、直感的に嫌であるしノーと言いたい。
 これは決して人種差別と違い、実際に心配しなければならない事案が世間で一般的になる恐れがあるなら、そのような種はできるだけ社会の仕組みとして摘み取ってもらいたいというのが、一個人としての率直な思いだ。これを決して人種差別でないと言えるのは、このようなことが、仮に対象が日本人だとしも同じだからである。安心できる社会で安心して暮らせることは、住むべき場所としての基本的で重要な要件である。
 もし自分の近隣に、インターネットに登場するような癇癪持ちがいたならば、僕はその人を普段から意識せざるを得ない。その人にどこか遠くへ行って欲しいと願うだろうし、家族にはそんな人に近寄らないよう注意を促し、それでも自分の子供が犠牲になったとしたら、それは悔やんでも悔やみきれないということになる。
 逆に、もし自分がそのような危険人物の多い国に住む必要性が生じれば、僕は真剣に家族を呼び寄せるかどうかを検討するし、もちろんできれば、自分自身もそのようなところには住みたくないと考える。
 
 この辺りから、ようやく話題の核心に入っていくのだけれど、人間はこのように、当たり前ながら人によって違いがあるし、人種による傾向的違いがある。人類はみな兄弟というのは、同じ人間の姿をしているという点ではそうかもしれないけれど、内面まで考えればそれは嘘である。
 実際、他民族との交流は大切だと直接あるいは間接に言っている人でさえ、意見が対立したり言動が気に入らない人に対し、同じ民族でもそのような相手を排除しようとする。(立派なことを言う人ほど言葉が好戦的で、人としての地が見える)本人は自分の犯しているそういった矛盾に気付いていないようだけれど、結局人間とはそのようなものなのだ。
 同じ日本人同士でさえそうなるものを、更に毛色の違う他民族との間で、人類は皆仲間だ、話し合えば分かる、交流を促進し何でも和平的に解決しようなどと声高に言うことは、僕には到底理解できないことである。仮にそれを真剣に言うのであれば、意見の違う人ともきちんと建設的な関わり方をすべきであって、自分の足元でそれすらできない人が他民族との関わり方において理想論ばかりまくし立てるのは、少々愚かではないだろうか。
 少なくとも僕は、他民族との間で、手放しでそのような理想的な展開を期待するのは無理だと思っている。他民族交流は面白いし魅力的な面がある反面、リスクもあるからだ。そのリスクが表面化する確率は小さくても、表面化したときに人の命に関わる可能性があるならば、なおさら他民族との関わり方には十分考慮が必要だと僕は思っている。
 だから、そういった事実に気付かないのか、もしくは見えないのか、あるいは見ないようにしているのか分からないけれど、日本人の嫌韓、反中というある意味自然の嫌悪感から沸き起こった社会現象に、様々な理屈をつけてレッテルを貼ろうとする人を僕は、もっと素直に現実の事象事実を見つめるべきだと思っている。(だからと言って、非人道的な行動でそれを表現しようとすることに賛成しているのではない)
 民族派か何か知らないけれど(そもそも民族派って何? って思うのだけれど)、常に理想論ばかり唱えるそんな人たちは、円安で日本に大量に押し寄せる中国人や韓国人に引っ掻き回される日本の観光地の現状をしっかり捉えて考ええるべきではないだろうか。世界中で中国人や韓国人が嫌われるのは、そうなるべき理由があることをよく考えるべきなのである。

 最近はかつてのように、一部の、それなりに見識やマナーを備えた人だけが海外旅行できる時代ではない。金のない人が借金をして、金を稼ぐために海外へ出向くことや、犯罪目的の一環で渡航するなど、誰もが海外を行き来できるようになった。加えて社会や犯罪を含む様々なものが複雑化し、オーバーステイはもとより、密入国さえ珍しいことではなくなっている。そのことで、出向いた方と出向かれた方の双方が遭遇するメリットやデメリットが顕在化しているのが事実である。その意味で、社会に歪みのようなものが見受けられるようになったけれど、おそらくそれらに対処する制度や仕組みやマンパワーが追いついていないのだろう。仮に本腰を入れたとしても、完全に対処するのは難しいということも理解できる。
 ただし、もし傾向的にデメリットの部分が増長する現象や心配があるならば、国や自治体が何らかの処置をするのは当然だし、それを願う国民が増えることも自然のことである。それは少し極端に言えば、偏狭なイスラム原理主義者の入国を、国として極力阻止することに通じるものがあるだろ。つまり、場合によっては排除という強制措置も止む無しなのだ。(同じ民族でも、犯罪者は隔離される仕組みがどこにでもある。排除イコール差別というレッテル貼りは止めて欲しい)
 よって他民族との交流は、決して手放しで推奨されるものではないと思うし、僕自身は中国人や韓国人に警戒心を持っている。その上で相手の人間性を見極め、関わり方を決めるようにしている。そして、もちろん海外で出会う怪しい日本人にも、同様の心構えを持つようにしている。
 いずれにしても、他民族は違うという認識を持つことは、災難を避けたり、逆に良好な関係を維持する意味で重要なことではないだろうか。人類は皆兄弟ではないのだ。
 異民族同士、分かり合う努力が大切だということは否定しないけれど、実際には、理解し合うことが極めて困難なケースもあるということである。これは、前述した中国人や韓国人の具体例のようなケースもあれば、目的のために殺人を平気で行うISILにいる人たちのようなケースも含めて僕は言っている。(続く)



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