フィリピーナと共に
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2015年07月18日

748.在比邦人は、なぜ右傾化するのか

 安全保障関連法案が衆院本会議を通過し、参院審議へ送られたけれど、相変わらず強行採決、民主主義崩壊などと騒がれている。選挙で選ばれた人たちによって、正式な手続きを経て決められた物事のはずが、なぜ民主主義崩壊という言われようなのか。議会制民主主義は、日本国民が同意しているものとして、これまでも、そしてこれからも、自分たちの代表を決める選挙というイベントを実施しながら維持されていくものだろう。内容が気に食わなければ独裁だのファシズムだのと、悪印象を与える言葉を並べて如何にも現政府が極悪とのイメージを振りまく悪態は、それこそ議会制民主主義の否定ではないだろうか。
 要はそのような人たちの主張とは、自分たちの意に沿うか沿わないか、それだけが問題なのだろう。あるいは権力打倒が目的で、権力を締め上げることのできる材料があれば、内容はどうでもよいのだろう。言論弾圧と騒ぎながら、一方で平気で言論弾圧をする人たちである。(最近、現政策追従派で有名な人のアメブロブログがアカウント丸ごと削除となったらしい。とても有名な方らしく、ちょっとした騒ぎになっている)民主党など、政権に君臨していたときにはマスコミに脅しと取れる発言をし、強行採決も何度も行っている。とにかく言う事とやる事が矛盾だらけで、その矛盾を隠すために、常に姑息な手段を用いるのが今の野党第一党であり、その他烏合の衆である。
 
 随分古い本で、山本七平さん(イザヤ・ベンダサン)の書いた「空気の研究」という著書がある。今手元にはないので、正確な引用ができず残念だけれど、アマゾンの著書内容紹介には、以下のように書かれている。
『昭和期以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では“空気”はある種の“絶対権威”のように驚くべき力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人びとを拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独得の伝統的発想、心的秩序、体制を探った名著』
 
 僕はこの本を読んでいたから、どこかの先生に何かの設定で、日本人が一番恐れるものは何ですかと質問され、空気だと答えて褒められたことがある。
 反政府、反権力思考の人たちは、この空気を作り、利用しようと懸命になっているのが明々白々だ。個人ならまだしも、公共の新聞・テレビや政党までもが空気を作るのに奔走し、そのためには捏造、誇張、あら探し、人の利用と使い捨て、謀略を平気で行い、好んでトリックを使う。
 僕は少し前、新聞は事実を客観的に書いてくれたらそれでいいと言ったけれど、会社経営上、他社と差別化のために特色を出したくなる行為は理解できる。
 だからといって新聞という公器が、空気を作るために著しく脚色した言葉を並べ、議会制民主主義を取る国のその手順に則り進められた事柄で、民主主義の崩壊という主旨のことを紙面で書くのは、本末転倒と言わざるを得ない。それは端的に言えば、前述した理由により、嘘だからだ。
 新聞やテレビは、どれだけ物事の本質に迫り、どれほど緻密で正確な取材に基づいた記事を書けるかという点で差別化を目指すべきだということを、すっかり忘れている。これらは、決して思想をばら撒くものであってはならないのだ。思想をばら撒く公器であるなら、それこそ危険な存在である。なぜなら、それが正当な意見であると勘違いする人が多くいるからだ。新聞やテレビは、間違ったことを言わない、嘘をつかないと誤解している人が、まだまだ多くいる。
 実際その新聞記事をたてに、「ほら、天下の新聞だってこう言っているでしょ」と、勘違いした人がさらに勘違いする人を増やす行動にでる。ブログへの新聞・雑誌記事貼り付けなど、まさにそれを象徴している。
 そんな人が、自分で物事を考えることが大切だと言っているから、僕の頭の中にはクエスチョンマークがいくつも並ぶ。自分で物事を考えるということを、自分はこんなに調べているんだと訴えるように、あさった記事をたくさん並び立てることだと勘違いしているようだけれど、そうではない。考えるということは、集めた情報を分析し、自分の考えを形成することである。もし分析の過程がなければ、自分が間違ったときに振り返りができない。どこで間違ったのか分からないからだ。するといつまで経っても間違いを正すことができず、そのうち頭が凝り固まってしまう。そして手遅れとなる。
 
 彼らは空気を作ることに精を出し、世間を煽り、デモに参加して努力が実ってきていると高揚する。僕は過去、民主党員や共産党員と直接浅くない関わりを持っているから、彼らの主張や行動様式、手段などをよく知っている。末端の人は純粋だったりするけれど、頭の堅さは天下一品だ。
 人を諭すのは好きだけれど、人の話を聞くのは苦手だ。難しいことを難しい言葉を並べて偉そうに言ったりするけれど、素朴な質問をすると迷路のような理屈を並べ、答えにならない答えで煙に巻こうとする。それでも単純な質問を繰り返すと、そのうち怒り出す。なぜ怒るのかと訊ねるとますます怒るから、まともな会話にならない。なぜかパターンは、場所や時代に関わらず似ているから不思議だ。
 
 なにやら説得力のない様子に、彼らの目的は一体何かという観点で考えてみたらと、それは虐げられた(これも彼らの言い分)民衆の代弁者として権力に抗うふりをしながら、世間で一目置かれる存在になったり、自分の意見や思想を通しやすい社会を目指していたりする、極めて狭い世界の人たちに行き着くような気がした。もう少し言えば、それらの様子が、先日述べた共産党幹部腐敗が蔓延する中国と、重なるのである。
 なぜかとそう思うかと言えば、そのような人たちは、素晴らしい理想を唱える割りに、その言葉の節々から「自分が一番可愛い」ことが時々見えてくるからだ。
 例えば、あくまでも例だけれど、新国立競技場であれだけ金を使うなら、世界の貧しい人たちを助けるべきだと批判を述べる人がいる。それだけならば、「うん、そうかもしれない、そうできればいいね」と思う。しかしその主張の中に、「日本に貧しい人がいなくて、福祉も充実していて、金が余って国の借金もないならば」のような、前提条件とも取れる発言が含まれる。
 世界の貧しい人を本気で助けたいならば、食料やエネルギーを平等に分け与えたいならば、自分たちの生活を切り下げなければならないのだ。先進諸国の多くの人の生活レベルを切り下げなければ、生活レベルの世界平準化は無理である。世界の貧しい人を助けることは、それだけの覚悟がなければ決してできないことで(もちろん個人の見える範囲で個人的な人助けはできるけれど)、「税金無駄遣いという主張をそれと抱き合わせで言われるなら、そこまでの覚悟を持って言いなさいよ」というのが僕の感想である。
 もちろん僕も自分や家族が可愛いし、そのために働いてお金を稼いでいる。稼いだお金を世界の貧しい人のために、毎月半分を寄付に回すなどという発想はない。だから僕は、心を痛めることがあったとしても、政府批判と抱き合わせで、貧しい人を助けるべきだなどということは決して言わない。
 しかし、日本国政府が、世界の貧しい人たちの状況を分析し、これだけのお金があればこんな助けになると具体的に説明し、だからみんなで千円か二千円を集めましょうということであれば、これが真面目な話しであるなら十分前向きに検討できる。いや、むしろしたいと思う。
 結局は僕も自分が可愛い。世界中の貧しい人のため、今の自分の生活レベルを二割や三割にしようなどとは思っていない。この度の法案に賛成の立場を取るのも、自分が可愛いからである。これがアメリカの思惑に加担することになるとしても、今の世界情勢の中で日本の現状を守ることに繋がるならば、致し方ないと思うところがある。
 
 ある友人が、かつてよく、こう言っていた。
「フィリピンに住むと、日本人はみんな右翼になっちゃうんだよね」
 その友人からは、当然僕も右翼扱いである。しかし実は、僕には元々右翼や左翼という隔ての思想がない。僕は十五年か二十年前まで、右翼や左翼って何? って思っていた人で、その違いを明確に述べよと言われたら、分かりませんと答えていた人である。その違いを感覚的に分かるようになったのは、やはり日本の近現代史問題ではなかっただろうか。ただ僕は、自分で右を目指そうとか、左であるべきとか、そんなことを意識したことは一度もない。どちらかと言えばステレオタイプには嫌悪感を抱くほうで、右翼だ左翼だと騒ぐことの方に違和感を覚える。
 それでも僕は、日本人が自国を敬うことは間違いでないと思っているし、日の丸に敬意を表することにも抵抗はない。僕は日本国から身分を保証してもらっているし、日本のブランド力に助けられてもいるからだ。日本人というだけで、何かしらの信用をもらったことも数知れずである。会社における今現在の特別な待遇も、個人の能力というより、日本人という事実がそれを大きく後押ししてくれているのだと、僕は感謝している。
 しかし、そこには個人の自由があってしかるべきであり、僕は日の丸を踏みつける人に目を吊り上げて説教をするつもりなどさらさらない。ただ、馬鹿な人だと思って関わらないようにするだけである。あるいは日本人としての恩恵を理解できない、かわいそうな人だと思うだけである。そんな人と言い争いをしたところで、議論が平行線を辿るばかりで疲れるだけだから、もう境界を越えて話しをしようなどとはあまり思わない。

 ただし、海外に出てしまえば、自分など本当にちっぽけな存在であることを実感するのは事実だ。そして、海外で数少ない拠りどころが、日本人であるということである。
 ここマレーシアには、近隣諸国から出稼ぎに来る人が大勢いる。ほとんどの人が下働きで苦労している。自分とは月とすっぽんの条件で、大勢の人が身を粉にして働いているのだ。
 通勤は徒歩か自転車で、毎朝夕、信号のない危険な道路を必死で渡ろうとしている。その手には、昼食の弁当をぶら下げている。ときには生活に必要なものを買い出して、炎天下を汗を垂らして運んでいる。食料品は、いつでも安い野菜を厳選している。もちろん着るものにお金などかけていないことは、一目瞭然だ。
 そんな人たちを見る機会は多いのだけれど、僕はそのとき、とても複雑な気分になる。僕はそんな彼ら彼女らを見ながら、自分の楽しみなど後回しで、自国に住む家族に懸命に送金しているのだろうと想像するのだ。そこから、がんばって欲しいという気持ちや、幸せに働いて欲しいという気持ちが自然と湧いてくるし、そのがんばりに尊敬の念さえ覚えることもある。同時に、自分がそのような苦労をしなくて済むのは、日本でキャリアを積んだという事実があるからだということを、身に沁みて感じるのである。その事実が物を言うのは、日本という国の信用であり、高度成長を支えながらそれを築き上げた、日本の先人のおかげであることは言うまでもない。
 このようなことを感じるは、マレーシアもフィリピンも同じである。
 僕は、最初の渡比から、車の後部座席で踏ん反り返りる日本人を見て、それを感じていた。能力や努力の違いが、この立場の違いを作っているのではない、これは国力に絡んだ環境要因でそうなっているのだと。
 自営業を営んでいる方は少し事情が違うかもしれないし、全く違う苦労を十分されていると察しているけれど、それでも飲み屋やどこかで、日本人ということでちやほやされたりすることはあるだろう。
 それを認めたくない人はそれも勝手だけれど、そのようなことを謙虚に感じたり受け止めている人は、自然と日本という国を敬い、日本を守りたいという気持ちが醸成されるのではないかと思っている。
 その気持ちは、決して抽象的で感傷的なことではない。おそらくそれは、自分たちの立場を守ることに通じることであり、自分の子どもを含む、家族にも影響を及ぼすことなのである。これは、日本に暮らしていたら決して分からない感覚だ。
 そして、おそらく海外にいる自分たちは、日本にいたら見えなかったこと、例えば日本の常識が、世界では常識でないことを経験的にいくつも知ったりすることで、客観的に、かつ俯瞰的に日本を見ることができるようになっている。
 そのようなことを言うと、それ自体が勘違いだと指摘されるかもしれないし、その指摘は正しいのかもしれないけれど、海外に出る前と出た後では、物の見方に違いが発生している箇所がいくつかありそうな気がしている。それは、たまに日本に行ったときに、違和感として自分の中に沸き起こる何かがあることで気が付くことも多いのである。

 これまで日本は、自衛隊の設立からして、色々なことを騙しながらやってきた。そこを明確にしようとする勇気ある政治家、リーダーシップを発揮できる政治家は、中々いなかったのが実情だ。
 今回の法案を、すぐに戦争や徴兵制に直結する人がいるけれど、これからのメジャーな国同士の対決は、おそらくそのようなことではないと思われる。中国が強行な主張を繰り返し、じわじわと他国領土で油田開発をしたり軍事施設を作ったり、そして経済分野で策略を巡らしたりと、対立とはそのようなことで行われる。いや、既に実際行われている。そこを、主張と実際の行動をちらつかせながら押し返すためには、平和という言葉を呪文のように唱えるだけでは無理があると思っている。それは、今行われている中国の侵略行為が、平和憲法を有する日本に実際に行われていることからも、明らかだと思っているからだ。

 今は、世界中がお互いの国を牽制し合い、秩序を無視して勢力拡大する国を抑えようとしているのが現実だ。簡単に言ってしまえば、どこの国も、許されるならずるをしてでも自国の勢力を拡大したいのが本音だろうけれど、それができないから、「あんたずるいじゃないか、そんな卑怯な方法は許さない」と言って、どうにかバランスを取ろうとしているのである。
 もちろん、口ではそのように言って、裏で上手にずるをすることもあって、アメリカは最近ばれてしまったけれどその手のやり方が多く、中国は比較的堂々とやっている。
 そのような状況の中、アメリカが日本に協力するのは、日本が可愛いからではない。日本はアメリカの経済基盤を支える重要な国であり、さらに防衛上でも、重要なポジションにあるから協力するのである。日本が中国に飲まれてしまえば、アメリカと中国のバランスは大きく崩れる。アメリカはそれが怖いのだ。だからアメリカが日本に対し言うのは、隙を見せるな、隙があるなら早いうちにふさげということになる。そして中国にとってはその裏返しで、日本を取り込めれば戦略上大きく優位に立てるのだから、多くの揺さぶりをかけてくる。結構単純な構図だ。
 だから、日本が中国につくならそれでもいいのだけれど、果たして日本の国民は、それを望んでいるのだろうか。もしそうでなければ、味方につけるのはアメリカではないのか。
 アメリカとの付き合い方として、今回の法案を通す行為は必要だったのではないだろうか。あとは運用で、上手にやっていければよいのではないかと僕は思っている。
 憲法違反だと騒ぐのであれば、確かに憲法違反だろうから、憲法を変える必要があるということだろう。そもそも自衛隊だって憲法違反なのだから。
 その上で中国に
「不法占拠は許しませんよ、不法に建設したものは壊しますから、人は全て非難させて下さい。通告通り戦闘機を飛ばしてミサイルをぶち込みますよ。もう言いましたからね。誰かが死んでも責任は負えませんよ、いいですね」
 と言いながら実際に空爆を実行したら、中国はどうするだろうか。そこで中国が何も実力行使できなかったら愉快だけれど、面子をつぶされた中国は何かしらの反撃をするだろうし、日本もそこまではやらないしできないだろう。しかし、中国が何もできないという確信を持つことができるなら、侵略を戒める行為として、そうしてもいいのではないだろうか。
 国と国のかけ引きとは相手の状況次第で戦略や作戦が変わるというものであり、お人よしは飲み込まれる危険が増すだけである。それは海外に暮らす日本人個人にも当てはまることであり、他国の人たちは、意外なほどにしたたかな面を持っている。
 日本を出たことのない人は、おそらく想像すらできないことだろうけれど。
  
 また話しがあらぬ方向に向かってしまいました。何度もくどいだろうかという気がしながら、おそるおそる投稿します(汗)



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