フィリピーナと共に
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2015年08月01日

750.あれの考察

 ある方が、ブログに気を持たせるタイトルをつけられると(例えば『あれ』とか『これ』とか)、あらかた後悔するのは分かっていてもついつい読んでしまうとご自身のブログで書かれていたので、僕もそういったタイトルをつけてみることにした。題して「あれの考察」である。
 さて、一旦『あれ』とうたってみたけれど、『あれ』を何にするのか決めていなかったので、困ってしまった。
 そこで、その『ある方』がご自身のブログの中で、禿げをどのように考えるべきか、興味深い内容に触れられていたので、僕も少し勇気を出して、同じテーマに挑んでみることにした。
 『禿げ』という言葉は何か露骨で刺激的すぎる気がするから、以下『薄い』、あるいは『毛がない』、ときどき『薄々』などという言葉に置き換えさせていただきながら、自分が感じていることを述べてみたい。

 僕が真剣に信じている『薄いとは何か』について僭越ながら述べさせてもらえば、それは人間の進化の一つに他ならない。
 当たり前のことだけれど、人間の進化には、気の遠くなるような時間がかかる。我々は、その長いスパンの中、自分自身の気付かないところで刻々と変化を遂げているのである。そして、頭の毛などなくても大して困らないのであれば、『進化の方向性として、頭の毛は無くなるのは正しい』というのが、僕の持論だ。
 とすれば、脇や更に下の毛はどうなのか、という指摘を受けそうだけれど、そこまではまだ深く考察していないので、よく分からない。耳の穴から毛が飛び出す現象などさらに分からないけれど、まだまだ深くない考えの中では、汚染度の高い部位の毛は、なかなか進化しない(毛がなくならない、減らない、逆に増える)のではないか、と僕は推論している。
 しかし頭の毛は、いつでも新鮮な空気にさらされ、しかも散髪などをしてそこが余分な毛であることの情報を常に遺伝子に送り込んでいるものだから、頭だけは早い進化を迎えている、ということではないかと思っている。
 つまり、人類の歴史がまだ続くとの前提で述べるならば、おそらく千年後の人の頭は全てつるつるで、毛がある人は「気持ちわるい」と指を差される存在になっている、と、僕の持論の上ではそうなっているのである。
 千年後に、何かの拍子にこのブログが発見されたら、『千年前は、驚くべきことに、人の頭に毛が生えていたことが分かった。しかもこのブログ記事は、頭に毛があることが当たり前の時代に、将来人間の頭がつるつるになることを予言している』などとニュースになって、それが世界を駆け巡ることになる。

 突拍子もない話に思われるかもしれない。しかしこの話しには、それなりの根拠があるのだ。まだ誰にも打ち明けていないけれど、それを少し説明すれば、次のようになる。
 進化と共に高度な文明を築いている地球外生物は、既に光の速度を超えて移動する技術を持っている。ときどき地球に姿を現す彼らは、間違いなく高度な技術と文明を持っているのだ。そうでなければ、地球にふらりと旅行にくることなど、到底できないことである。
 そんな彼らに、ふさふさの髪の毛を持っている姿を見たことがあるだろうか。写真や図で紹介される彼らには、見事に毛がない。ロン毛の宇宙人など、想像しただけで笑えてしまうだろう。 
 あまり毛に執着すると怒り出す方がいるかもしれないので、少し余談も挿入しておきたいけれど、今の人間にとって本当に必要なものは、脳と目と耳と口である。逆に手足は、車を含む機械の発達で、それほど重要ではなくなってくるのだ。よって、地球に旅行に来る彼らの多くは、進化した大きな毛のない頭と、ようやく顔に収まる大きな耳や目や口を持ち、手足が細く退化している。(想像していただければ、頭の中に、見事な宇宙人が現れる)
 つまり、高度な文明を持つ彼らは、自らも進化を遂げてあのような姿になっているのである。よって、『毛がないということは進化の証である』ということは、既に彼らが証明してくれていたのだ。
 機械の発達による手足の退化について、これは少し誇張し過ぎかとも思ったけれど、人類が自ら作った機械に翻弄され、飲み込まれつつあることは事実である。
 バイクや自動車、あるいは飛行機による事故のため、人が亡くなる。このようなことは日常的にさえなり、身近で起こってしまった事故については被害者・加害者、そしてその家族の心情は慮るけれど、頻度という点ではさして驚くことでもなくなった。
 そして昨日、普段あまり危険を意識することのないエスカレーターに、生きた人が飲み込まれる事故の映像を見てしまったときには、人類は本当に、自分たちで作った機械に飲み込まれつつあることを実感して寒気をもよおした。
 これは中国で起こった事故だけれど、いい加減な使い方や接し方をすれば、今の世の中はとんでもない事故が多発することを示唆する惨事である。
 ユーザーが利便性を求め、企業が利益を求めながら、社会にはさまざまな機械が氾濫している。そのせいで人の手足が退化するのは、それほど的を外した意見ではないと思える。
(エスカレーターの事故は、子連れの母親が上りきったモールのエスカレータを降りた際、降りた直後の足元のはめ板が陥没し上半身を残し落ちてしまうのだけれど、母親は子供を少し先の床に降ろし、そのあと回転するエスカレータに巻き込まれて、顔を恐怖に歪ませながら引きずり込まれ姿を消した。思い出しただけで気分が悪くなる事故である)

 気を取り直して、進化の話しを続けよう。
 現在の地球において、たまたま人間は進化の過程にあって、髪の多い人と少ない人がマーブルチョコレートのように入り乱れている。しかし僕の推論が正しければ、あと数百年もすれば、薄いのとそうでない人の立場はまるで逆転し、ふさふさな人はそれを隠すため、頭を剃らなければならないはずである。
 僕は会社の会議中、この想像の中に一人深く入り込み、我に返って周囲を見渡したとき、特に女性の長い髪が、人間に何か異常なことが起こっているように見えて仕方なかった。人が無用な髪を長く伸ばしていることに、激しい違和感を覚えたのである。そんなことを思う自分をとても不思議に感じたのも事実だけれど、僕はここで確信したのである。
 人間に髪の毛は不要だし、外観上不つり合いだ。

 つまり僕が言いたいのは、薄いのは人間の当然の進化系として、人より進んだ人(進んでしまった人と表現すると、それはまた変な印象を与えるから不思議だけれど)であり、決して蔑まされるものではないし、隠すものでもないということである。愚かな人間はそのことに気付かず、ときどきくすくすと笑ってしまうこともあるけれど、多くの人はどこかで、「薄々」そのことに気付いているのだ。
 問題は、現在薄いことを負い目に感じている人が、現実的に、あと数百年も待てない、ということである。人間の寿命を考えると、こればかりはどうしようもない。
 薄い人にエールを送るつもりで書き始めたのだけれど、(それが余計なお世話だということも重々承知しているけれど)、ここでそれらの人たちを谷底に落とすようなことになり、大変申し訳ないと心底思う。しかし薄い人は、どうか、自分は先進技術ならぬ先進人だという自負を持っていただき、堂々と生きて欲しいと思っている。
 この辺りで、大切な友だちを失うかもしれないという恐れを感じ始めながら、僕がどれだけ薄い人に一目置いているのか、既に失敗であけた大きな穴を、さらに言い訳で大きく広げるように、その辺をもう少し詳しく述べておきたい。

 世の中を見渡すと、薄い人には特別な人が多い。もちろん全部ではないけれど、すごく頭が良かったり、社会的な偉業を遂げたり、目つきがむやみに鋭かったり、人並み以上の何かを持っている人が多いような気がしている。
 僕はそのことを随分前に気付いたのだけれど、それから、なぜそうなのか、薄いことと人間的能力やまとっている特別な雰囲気、放っているオーラに、何かしら相関はないのかを考えていた。そしてふと、ある推測に至ったのである。
 実は薄い人というのは、地球外生物の遺伝子を、色濃く受け継いでいるのではないか。
 薄い人たちというのは、祖先をたどれば、本当は地球外生物との接点があるはずだけれど、上手に記憶を書き換えられ、資料を改竄され、真の歴史をたどれないようにされた人たちの末裔ではないのだろうか。おそらく彼らが普通の地球人と少し違った能力を持っているのは、そのせいなのである。
 もし丁寧にインタビューをしていけば、ときどき不思議な夢を見るとか、むらむらと内から沸き起こる得たいの知れないパワーを感じることがあるとか、念じてみたら触っていない物が動いたとか、『この女は俺に気がある』と人の気持ちや考えていることが分かってしまうことがあるとか、そんな共通点が見つかるのではないだろうか。だからついつい、『俺だけは違う』、などと気付いてしまうのだ。自覚がないから中々たどり着かないのだけれど、『俺だけは違う』と思ってしまうのは、実は『生粋の地球の人と自分は違う』ということを、無意識に感じ取っているのではないと僕は予測するのである。
 もしかしたら彼らは、本当はもっとすごい、潜在的特殊能力を身に付けているのかもしれない。

 この「薄い」というのは、よく考えれば(実はよく考えなくても)、本人に選択の余地がない。これは、自分の趣味で赤い派手なTシャツを好んで身に付けるような、選択的結果ではないのだ。もちろんそれは、不摂生をした結果でもないし、不真面目に生きてきた罰でもない。単に地球外生物から刷り込まれた遺伝子のせいで、普通の人より先に進化しただけということは、既に述べた通りである。
 それでも、もし薄いということで何か後ろめたさを感じることがあるとしたら、これほど理不尽なことはない。
 何か後ろめたさを感じるとすれば、その理由は単純に、『マイノリティー(少数派)』ということである。
 やはり理不尽だ。
 理不尽とはすなわち、道理をつくさないこと。道理に合わないこと。また、そのさまという意味である。
 言い換えれば、『薄い』イコール『道理に合わないさま』となってしまう。
 何か、神にでもすがりたくなるような言葉だ。
 一応言っておきたいのだけれど、この辺りで僕の文章に悪意を感じる方がいらっしゃれば、それはまったく誤解である。僕はここで、
『普通の人は薄いことと地球外生物遺伝子の因果関係を知らないから、道理に合わないとなってしまうのある。しかし本来は、ここに道理を考えてはならないのである』
 ということを言いたいのだ。
 しかしなぜか日本人は、こんな簡単なことをできない人が多い。
 でも、フィリピン人は違う。この道理を考えない。もしかしたら、考えが及ばないだけなのかもしれないけれど、いずれにしても彼ら彼女らは、自然のことを自然に受け入れることができるのである。
 薄いことだけではなく、包茎、早漏、短足、デブ、ネコ背、小心(チキンハート)、貧乏性、いぼ痔など、本人が好んで選択したことでないこと、言わば自然の成り行きのようなものについて、彼ら彼女らは自然のこととして受け入れてくれるのだ。最後に『お金さえ持っていれば』、と付け足すと身も蓋もなくなるのだけれど、僕はそうではなく、何か付け足す言葉があるとすれば、それは『愛さえあれば』だと信じ切っている。

 フィリピン関連ブログをうたっている関係上、このまま『薄い』だけで話しが終われば困ると思っていたけれど、ようやくフィリピンを関連付けできたので、僕のくどい話はここで終了させたい。
 僕はこの文章を書くにあたり、ずっと頭の中にある方を思い浮かべていた。正直に本心を述べれば、僕はそのある方を心から尊敬し、大好きである。だから、本日の文章の中に悪意というものは微塵もないのだけれど、それでも『誤解』というものが生じてしまう恐れもある。
 だから残念だけれど、大切な友人を失うことを避けたい一心で、ある方が誰であるのかここで披露せず、そのことは墓場まで持っていこうと強く決心している。

 

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posted at 09:55
Comment(2) | TrackBack(0)
カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:750.あれの考察
この記事へのコメント
エスカレーターの踏み板が抜け落ちて人が飲み込まれたり、足首から下を切断するような話は中国以外では聞いた事がないような気がするのは気のせい?
Posted by ジェンさん at 2015年08月03日 22:18
>ジェンさん
実はエスカレータ事故は、マレーシア映像も多いんです。こちらは宗教色を帯びたひらひらの服を着ていることが多いので、それがエスカレータに巻き込まれ、手すりレールの上に引きずり込まれ下に転落、死亡、なんていうのが。
飲み込まれた事故映像は最近出回ったらしく、昨日のモールでは、踏み板をジャンプする人も多かった。
僕もできるだけレールにつかまろうとして、足だけが先に進んだり、もしくは大またで歩いたり。。。
子供は大人ではさんで、何かがあったら動ける方が子供をすぐ避難させるとかを決めておいたり。

あんな事故は本当に起こって欲しくないですね。
踏み板事故、あれは明らかに人災です。
Posted by Mark at 2015年08月04日 00:19
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