フィリピーナと共に
ブログ構成がわかる目次はここから入れます
2015年08月15日

753.ぶらぶら近所を散歩するかのように

 個人メールで、前回記事のタイトル「反社会的思考」は、本文とどんな関係があるかを訊ねられた。
 確かに分かりづらい。僕はいつも、タイトルを失敗するという自覚もある。そもそも僕は、いつもタイトルを考えて分からなくなって、最後にえいやと適当に決めてしまうのだ。
 実は前回の記事を書いた直後、僕の頭にアナーキーという言葉が浮かんだ。現代社会とは、秩序にうるさくなったけれど、エアポケットのように何か大切な秩序(あるいは規範のようなもの)の抜け落ちている部分があるのではないかということを感じながら書いたからだ。例えばコンプライアンスがどうこうと企業倫理的を訴えながら、法律に引っかからなければ何をやってもよいと考える企業みたいに。そこからアナーキーという言葉が頭に浮かび、少し歪んでタイトルが「反社会的思考」となった。つまり今の社会とは、自分なりにまともなことを考えると、それが反社会的思考になるという矛盾を抱えるのではないかと、ふと思ったのである。
 それだけのことで、あまり深い意味はないけれど、もしかしたらそこに、結果的に深い意味が含まれていたのかもしれない。そんな気もするけれど、自分でもよく分からないしあまり考えてもいない。

 タイトルだけでなく、内容も少し分かりづらい。僕はそのことも自覚している。
 少し前は政治的な話や経済的な話も書いた。そのようなテーマはとても書きやすい。内容はともかく、気持ちが乗ってしまえば短時間で、分量だけはいくらでも書ける。書きながら鼻息が荒くなり、とかく調子に乗りすぎてしまう。
 しかし、そうやってあることないことを書いていたら、何か虚しくなってきた。そこには何も挑戦的な要素がないし、そんな話題を撒き散らして何になる? なんて思い始めたからだ。
 中国が中国元を切り下げ、日本や世界の株価に影響を及ぼしている話しなど大して面白くもないだろう。中国ではエスカレーター事故が再び起きて、今度は誰かが足を切断したという話も、気分が悪くなるだけだ。(中国で暮らすのは、やはりやばいという感じはするけれど)
 そこで最近、方向転換をしている。というか最近は、とても実験的に頻繁な方向転換をしている。日常のさりげない状況をいかに読めるように書くか、をテーマにしているのだ。
 こんな挑戦をしているのだけれど、本当は、こんなネタばらしはしたくない。
「全然読めないじゃないか」と指摘されるのが怖いからだ。
 ともかくご批判もあれば鼻で笑われることもあるだろうけど、最近は、そんなことを意識しながらブログ記事を書いている。できるだけ日常的に、できるだけさりげなく、をモットーに。
 ただ最近はぼんやりする時間があまりない。休日は家族サービスで忙しい。平日は仕事が大変で、夜はぐったりしていることが多くなった。本当に健康的生活だ。健全すぎると反省さえしている。
 だからさりげないことをさりげなく書きたくても、気合を入れなければパソコンをあけてこんな記事も書けないのだ。奮起しないと、よだれを垂らしてソファーでぐったりしている方に流されてしまうのである。
 もっとも、せっかく奮起しても、今日みたいにユリの遊びに強制的に駆出されることが多い。
 今日の遊びはフライトごっこだった。横たわるユリの胴体を僕が両腕で支え、彼女は両手両足を前後に伸ばす。そして僕がそれを、まるで彼女が空を飛んでいるように移動させる(つまり運ぶ)。ユリの大好きな飛び方は体を思い切り傾けて急旋回するもので、僕は十八キロの彼女を抱えて部屋の隅々まで歩きまわらなければならない。百平米を超える部屋の隅々までとなると、僕のTシャツには汗によるしみが浮き出る。とてもいい運動だ。冗談抜きに健康的生活なのだ。
 ようやくフライトごっこから開放されたら、次はヘアスタイリストごっこだ。この遊びは体力を消耗せず楽だけれど、少し屈辱的だ。
 ユリがヘアブラシを持って、僕がその前に座る。そして彼女は僕のヘアスタイルを色々といじるのだ。そこでお気に入りのスタイルになると、
「ワァーオ ソー ハンサム! アイライクズィスヘアスタイル! マミー、ルックアトズィス!」
 などと言って、ユリは僕をモナの前に突き出す。ユリはおおいに真剣だ。だから本来笑ってはいけないのだけれど、モナは我慢できなかったようだ。
「少し若くは見えるけど、なんか頭のおかしい人みたい、っぷぷぷ」
 となったあと、声を殺しながら笑う姿は息苦しそうで、倒れるなよと僕は思った。
 
 およそそんな反応は予想していたけれど、あまりにうけているので鏡の前に行って確認すると、僕の頭はビートルズ全盛期のメンバーが決めていた七三きっちり分けスタイルみたいなやつになっていた。まあ、顔が若ければこれはこれでお洒落ではないかと思うのだけれど、ふけ顔には不釣合いということなのだろう。
 で、僕が両手でヘアスタイルを一旦ぐしゃぐしゃにしてから手ぐしで元に戻すと、ユリは少し怒ってお気に入りのスタイルに戻す。だから僕はユリが寝るまで、モナに笑われながら、家の中で少し頭のおかしい人をやっていなければならない。コーヒーを飲むときもこれを書くときも。
 これでダイチが起きていたりすると、そこからも頻繁にお呼びがかかる。最近iPadに凝っている彼は、何かうまくいかないことがあると、苛立った声で「パパァー」と叫ぶ。少しハスキーぎみの声になるから、本当に「どうしてくれるんだ、まったく」という感情がそこに宿っているように聞こえる。なんで「マミィー」じゃないのか不思議だけれど、とにかく小間使い的なことでは宿命的に僕にお呼びがかかる。宿命的だから僕はいつも従うことにしている。
 今日は帰宅すると彼は既にご就寝だったので、僕は少しホッとした。けれど彼の寝顔を確認しながら、少し寂しく感じたりする。起きていたら煩わしいけれど、寝ていると寂しくて残念だ。
 本当は寝ていて欲しいのか起きていて欲しいのか、どっちがいいのか自分でもよく分からない。けれど突然彼が起きたりすると、僕は喜んで彼を抱き上げ一緒にベランダに行く。そして潮風に当たりながら、ダイチと二人で夜景をぼんやり眺めるのだ。僕の住む部屋は十階にあってそれなりの夜景が見えるし、車の音や犬の声にほどよいフィルターがかかっている。そのうちダイチは再び眠りに入り、僕はほのかな満足感を覚えてそっと彼をベッドに置く。

 こんな状態の中で、もう少し瞑想できる時間が欲しいと思うことがある。もう少しくらい不健康でもよいのではないかと思ったりする。ときには、健康的すぎる生活は実は不健康ではないのかと、あえて疑ってみたりすることもあるのだ。しかし残念ながら、子供に翻弄される生活に、不健康な要素を見つけることはできない。
 しかも人は忙しいと色々としたいことがあって、そのための時間が欲しくなるけれど、実際に時間ができれば何もしない。これが普通の人間である。僕も多分にその傾向を持つ人である。時間ができると突然何もしたくなくなるのだ。
 ただそうやって、僕は無意識に何かのバランスをとっているのかもしれない。それに何もせず何も考えない時間を持てることは、おそらく幸せであることの証なのだろう。明日の食事を心配しなくてよい生活は、それだけで十分幸せなのだ。僕は心からそう思っているし、子供たちにもそのことを認識してもらいたいといつでも思っている。
 モナはときどき、スターバックスに行ってきたら、とか、マッサージに行ってもいいわよと、気遣いの言葉をくれる。しかし不思議とそう言われて、「はいそうですか、ではありがたく」と出かけたことが一度もない。たまにはそんなリラックスタイムもいいと思うし、むしろ憧れてもいるのだけれど、いざとなるとそうできないのだ。子供にもう少し手がかからなくなるか、あるいはフィリピンからママが来てくれたときに、モナと二人ででかけようと思ってしまう。ダイチが母乳を欲しがる今は交代で出かけることもままならないし、ここは公平にいこうと無意識に思っているのだろうか。自分のことながらこれもよく分からないけれど、ある意味これは、僕の家庭内コンプライアンスなのかもしれない。

 ただ僕は、意外に貧乏性な部分も持っていて、何かをしていないと落ち着かないときがある。今思えば、僕がブログを始めたときには、まさにそんな心境だった。
 当時の僕は会社を辞め、社会に何も縛りのない状態で船出したことに不安を感じていた。気付いたら広い海の中に、小船でぽつんと浮かんでいるような感覚だった。
「船の上にオールが一本と適当な水や食料があってさ、そういえば細い釣竿も持ったんだ。で、勢いで海に出てみたけれど、星を眺めていたらいつの間にか眠ってさ、翌日眩しい陽の光で目覚めたわけ。びっくりして半身を起こして周りを見たら三百六十度地平線ばかりでさ、頭の上には真っ白な雲がのんきに浮かんでいたよ。これ、一体どこだろうって思った。意外に陽射しがきつくて、咽の乾きが酷くなって、勢いで水を飲んだあとに突然水が足りるのか心配になってきてさ。それから空腹を覚えて、食事を摂ったら今度はあと何日食いつなぐことができるか心配になってくるんだよ。食料は魚を釣って補充すればなんて簡単に考えていたけれど、釣るための餌をどうするか、釣ったあとはどうやって食べるのか、火だって簡単に使えないからさ、そんなことを考え出すとほとほと自分の無謀さに呆然としたよ。とにかく何もかもが心配になってきてさ。嵐に襲われたらこの小船で耐えられるか、行き先は流れに任せるべきか、自分で決めてオールを漕ぐべきか、体力をできるだけ温存するにはどうすればよいかとかね。もう、船出したことそのものを間違いだったと思い始めたね。
 よし、だったら引き返そうと思ったけれど、さて、どの方向に帰ればいいのか分からないことに気付いてさ、星座や太陽から帰る方角を知る方法をよく勉強しておけばよかったと心底後悔したね。そもそもこの船出はさ、いつでも岸に帰れる場所でぶらぶらしていようなんて魂胆だったような気もしてきてさ。
 たくさん心配していろいろ考えて、じたばたしても何も始まらないことに気付くと、なるようになれと投げやりになって、悩むだけ損だと思い込むよう努力している自分に気付いたんだ。そして小船の上で遺書のような日記のようなものを書き始めて、そしたら少し心の平静を取り戻すことができたんだ。いやあ、これがね、意味もなく焦っているより、不思議に落ち着けるのよ。余計な心配をするより、ずっと精神衛生上よいわけ」
 僕のブログを始めた本当の経緯を語るとしたら、こんな感じかもしれない。
 今でも書き物に取り組んでいると、とても落ち着く。じっくりと瞑想して、アイディアがひらめいて、具現化したものを読み返してがっかりする。
 こんな繰り返しだけれど、それでも止められない。
 何か心配ごとがあるときは、とくにそんなことに取り組みたくなる。

 世の中には、僕と同じような人がたくさんいる。もちろん動機や理由は人によって異なるけれど、物書きに取り組む人が集うサイトもあって、以前の僕は頻繁にそこへお邪魔していた。一度だけそんなサイトに自分の書いたものを投稿してみたけれど、あまりにまっとうな感想が返ってきてつまらなかったので、それ以来投稿するのを止めた。
 ごくたまにある素晴らしい作品には感想も寄せた。そんなサイトは面白いもので、素晴らしい作品になるほどけなされる。それもウンチクがものすごく、僕は落ち込む素人作家を励まし、そんな批判を批判した。
 そもそも小説や文学は、読んで面白い、感動する、共感する、があれば成功だと思っている。メタファーがどうだとか、構成がどうだとか、技巧的なものがどれほど重要かは怪しい。もちろん商業文学は技巧も必要だけれど、それは前面に出るべきものではないのである。プロでもアマチュアでも、引き込まれるのはなぜかを考えたら、なるほどこんな手法やこんなところに乗せられていたのかと気付くような、技巧とはそんな控え目なものであるべきだろうと読者としての経験で思う。
 だからとても不思議だけれど、プロ作家を目指す人の投稿作品より、ブログ記事の方がはるかに面白い。余計なことを気にせず、自らの人間性を前面に出して表現しているものの方が、ずっと魂を感じるのだ。
 けれどこれも不思議で、小説を書こうと思うと、文章から突然その魂が失われる。このことも僕はたくさん経験している。逆に僕の大好きな作家のKIさんは、小説はすこぶる面白いのにエッセイになると途端にだめになる。自らもエッセイは苦手と言っているけれど、そんな人が始めてエッセイ集を出したので買ってみたら本当にだめだった。本当に面白く興味深い現象だ。
 こんなところからも、文学は技巧でないことが分かる。技巧が物を言う世界ならば、小説でもエッセイでも同じ人が書けば面白いはずだからだ。

 さて、何となくぶらぶら近所を散歩するみたいに書いていたら、ずいぶん長くなった。
 最近、ようやくユリに、お約束の新しいガジェットを買ってあげた。いつもダイチが我がままを発揮して、ユリの遊んでいるiPadを取り上げてしまうからだ。ユリはモナ譲りの優しさがあって、いつも小さなダイチに負けながら我慢している。そんなユリがいじらしく、僕は彼女専用のガジェットを買ってあげたのだ。けれど僕はそのことで、ユリを思い切り叱ってしまうことになる。ユリはもう言葉で分かるから体罰はしないけれど、言葉と態度で僕は彼女を傷つけ、僕自身もそれで後悔した。
 次回はその辺りのことを書こうか、それともおせっかいボニーさんのことを書こうか、あるいは相対価値について書こうかなどとぼんやり考えている。
 ここまで書いて、またまたタイトルに悩む内容になってしまったと、少しだけ後悔し始めた。テーマがないのはやっぱりいけないのだろうか。



↓ランキングはここ
にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ



この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/424200049
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。