フィリピーナと共に
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2015年07月09日

745.よき夫、よきパパ

 月末は給料日で、その日は家族で外食するというのが我が家の恒例になりつつある。
 それが金曜日であればまだ少しましだけれど、本音を言えば翌日も仕事がある日に、きばって外食というのは少し億劫だ。しかし、最近の自民党議員ではないけれど、常に本音を口から発信してよいかといえばそうではなく、僕も立派な社会人、あるいは良い大人として、この自分の本音を胸の内に秘めたまま、先月末も家族との外食に付き合った。
 そもそも平日外食するのに何がそんなに億劫なのか、それを少し説明させていただくと、外食ということで子供たちがお腹を空かせてパパの帰りを待っているのは不憫に思い、僕は忙しい中懸命に仕事を進め、できるだけ普段より早く会社を切り上げようと通常の三〜五馬力増しでがんばってしまうのである。ときには額に汗を滲ませドタバタ劇を繰り広げながら早帰りを画策している我が身のことなど、家族の誰一人として想像していないだろうとは思っているけれど、これは性分だから仕方がない。
 もしここで、翌日朝までに仕上げなければならない用件などあれば最悪で、会社でそれが終わらなければ帰宅後寝る前にやらねばならず、そうなれば楽しい食事は家族だけで、僕はできるだけ早く帰りたくて食事中からそわそわすることになる。
 そして財布の中身が暖かいことを知っている家族の関心が、お腹が満たされたあとにデザートがどうこうよりも、どうしてもショッピングの方へと向いてしまうのがまた厄介だ。
 先日も食後にちょっとだけ本屋さんに行きたいという話しになって、閉店まで三十分しかない中、レストランと同じモールの中にあるブックストアに立ち寄ることになった。
「僕は食後の一服をして合流するから、先に行って欲しい本を選んでおいて」としたところ、ものの五分か十分しか経っていないにも関わらず、僕が本屋に入ったときにモナとベルとユリは両手両脇に買いたい商品を目一杯抱えていたから僕は仰天した。
 何か、逞しさのようなものまで感じて少し感心したのも事実だけれど、選んでいるものはもうすぐスタートする学校用の弁当箱や水筒、筆箱等々の必要なものを多数含んでいたから、「いいよいいよ、この際だから必要なものを早く選びなさい」と甘い顔をしていたら購入品が次々とレジカウンターに積み上がり(持ちきれないから支払いまでの預かりとして)、たかが文房具と高をくくっていた支払いが一万五千円を超えたのには再び目をむいてしまった。
 吹き出る脇の下の汗を感じながらモール閉店(十時)を迎え、一息ついてモールから車を出すと、次は夜中の一時までやっている大型スーパーマーケットに行きたいとなって僕の疲れが頂点に達したけれど、それでも良き夫、良きパパであり続けるため、僕は文句の一つも言わずにハンドルをそちらの方向に切ったのである。
 しかし、僕がどのように良き夫、良きパパであろうと努力しているか、手前味噌で申し訳ないけれど、その真価は実は次のようなところにあるのだ。

 モールでの食事は寿司&日本食のレストランに行ったけれど、そこでベルはサーモン照り焼き、ユリは刺身盛り合わせ、モナは海老天重を食べたいと言ったので、僕はそれに、みんなでつまむためのサーモン三昧(サーモンはらみ、スモークサーモン、あぶりサーモン各種寿司のセット)という寿司セットと、自分用に寿司12巻セットを頼んだ。一番最初テーブルに届いたのは自分用の寿司12巻セットで、それがテーブルの真ん中に置かれると、みんなの手に持つはしが一斉に動いた(ユリが実際に動かしたのは手)。
「こ、これは僕用だったはずだけど……」と思いながら、僕はそれを口に出さず、更に僕が最初につまんだのはかっぱ巻きで、とりあえずみんなのはしの動きが収まるまで、僕はひたすらかっぱ巻きや誰も食べないと知っているイカ、タコなどをつまんでいた。
 それに反してみんなが迷わず狙うのは、サーモン、マグロ、鰻、海老など、寿司で言えば王道にあるものばかりだ。
 マグロ、サーモン、海老、カッパ、マグロ、サーモン、海老、カッパ。
 なんて軽やかな家族のルーチンワークとリズムなんだ、なんて思うはずがない。
 彼女たちは僕のことを考えてくれているのだろうかと本気で疑いたくなるほど目を輝かせて手を動かしているけれど、僕は目を点にしながら、皿の上がどんどん寂しくなる様子をかっぱ巻きやタコやイカを頬張りながらじっと見ている。
 まだ育ち盛りの子供はいざ知らず、これ以上育たなくてもいいだろうモナまでがそうだからまいってしまうけれど、そんな憎まれ口は一切叩かない。僕は無言でカッパ巻きやイカ・タコをときどきつまむのである。
 そのうちモナや娘たちの頼んだサーモン照り焼きや刺身や海老天重がテーブルを賑わし、そしてサーモン三昧が最後にやってきた。それぞれが美味しそうに盛り付けられた料理に感嘆して各自の料理の始末にせいを出す。そしてときどきサーモン寿司にも手が伸びる。
 しかし、もともと小食の家族が、僕の寿司をつまみ食いし、更に自分の分を食べてサーモン寿司まで食べ切れるわけがない。きっとこの美味しそうなサーモン寿司(実際とても美味しい)は、最後に僕の腹に入ることになるだろう。僕は、それを食べれば自分のお腹の具合も丁度よくなるだろうと算段しながら見ていたのだけれど、そこに我が耳を疑うモナの言葉が彼女の口から発せられた。
「パパ、私はサーモン寿司を食べるから、これあげる」
 最近モナは、僕のことをパパと呼ぶことが多い。彼女は自分の海老天重を僕に差し出し、まるで企業が有言即実行と言いながら営業方針をさっと切り替えるように、サーモン寿司の皿を引き寄せそれを食べ始めた。そして仕方なく、僕も差し出された海老天重を食べ始める。
「ああ、このサーモン、おいしい。ヘブン(天国)だぁ」
 彼女は満面の笑みをたたえて幸せそうだ。そして彼女は「ねえ、それも美味しいでしょ。このレストラン、色々美味しいね」と、僕にくれた天重のことを言った。
「ああ、確かに海老天重もいい味出てるね、っていうかさあ、これ、海老がないじゃない」
 僕のもらった海老天重は、その主役であるべき海老天が一個もなく、味のしみ込んだたまねぎと、重に半分ほど残ったご飯に天重のたれが適度に混ざっている。
「えへへ、ごめん、イッチ(ダイチ)も食べたから」
 モナの申し訳なさそうな苦しい言い訳に、「まあ美味しいからいいけど」と、僕は天重たれかけご飯たまねぎ添えを美味しくいただきお腹を満たした。

 こうしたことを、素晴らしい自己犠牲、家族愛だなどと称えないで欲しい。僕は家族の幸せそうな様子を見ながら、自分も悦に入って幸せを感じているのだから。
 それでも僕は、安倍晋三ではないけれど、言わなければならないことは言わせてもらい、やらねばならないことはやるのだ。
 先日夜の対戦時、「久しぶりね、三日くらいあいたんじゃない?」などとモナに言われた。僕は「三日で久しぶりなの?」と思わず言ってしまったが、そんなことを彼女に言わせるのも、普段やるべきことをやっているからである。
 さて、冗談はさておき、家族は今、ときどきこうして美味しいものを食べ、買いたい物を買うことができ、そこそこ広く快適な住居で暮らすことができている。二人の子供をインターナショナルスクールに通わせることができ、相変わらずフィリピンにも、毎月ペソで片手以上のお金を送っているから、モナも実家のことで心配は要らない。
 しかしモナは、こうした暮らしに埋没し慣れてしまうと、その暮らしの源が何であるのかを忘れてしまうようなのだ。
 月曜日の夜、仕事から帰って食事を済ませたあと、モナが突然言った。
「あした会社休める?」
 唐突な話しに、僕は正直、学校に関して何か問題があるのかと思った。
「え? なんで?」
「学校のプロジェクトで、買わないといけないものがあるのよ」
「それをどうして今言うの? もっと早く言ってくれればモールだって十時までやってるんだから行けたのに」
 結局よくよく話しを聞けば、必要なものは一つを除き普通のスーパーマーケットでも買えるものばかりで、夜十時半から車を出して、夜中過ぎまでやっているスーパーマーケットまで車を走らせた。
 買えなかったものはその翌日、帰宅後にモールで購入し、ついでに夕食も家族一緒に外で済ませてきたのだけれど、僕がモナに言ったのは、僕の仕事に対する彼女の考え方である。
「こうして暮らせているのは、僕に働ける場所があってそこそこのサラリーを貰えるからだよね。でもさ、僕のサラリーは現地の社員に比べてすごく高いんだよ。これは当たり前のサラリーじゃなくて、特別なサラリーだ。日本で就職しても、今と同じサラリーをもらうのは難しいくらいの条件なんだよ。住む場所も車や携帯の支給も特別で、何もかもが特別だ。つまり、もし会社が僕を不要と思えば、会社は高いサラリーの僕をすぐ首にしたくなる、とてもリスキーな条件だ。だから僕は、いつでも会社に必要な人間だと思われるように働く必要がある。仕事の中身も大事だけれど、まずはそう思われることが大切なんだよ。そのために僕は真面目に仕事をしている。そうしなかったら、こうした暮らしを維持できないからだ。だから簡単に会社を休めるなんて思わないで欲しい。休むことはできるけれど、それは計画的に休むか緊急事態が起こったときだけで、買い物があるから休んで欲しいなんていうのは勘弁して欲しい」
 僕はこの話を彼女にしたとき、その言葉に、なんて嘆かわしいのだという感情を込めていた。いつでもニコニコしながら、なんでもどうぞどうぞというわけではない。
 モナに限らずだけれど、フィリピンの人は「働く」ことについての考え方に甘さのある人が多い。低い条件で働くならそれなりの姿勢で働いても構わないけれど、適当にやってサラリーだけはたくさん欲しいという勝手な考えは、どこの国であろうと通用しないのである。替わりは簡単に見つからないというところで勝負しなければ、高い条件を得たり維持するのは難しいのが現実だ。そしてこのことは、よく考えれば分かることだけれど、自分たち家族にとって、とても重要なことなのだ。自分たちの暮らしは、今の会社に依存しているのだから。お金は井戸水のように地面から湧いてくるわけでもなければ、雨のように天から降ってくるのでもない。僕の場合、全て日頃の働きに応じた対価として貰っているのである。
 彼女にこうした話しをしたのは初めてではない。これまで何度かしているけれど、彼女にはこうした考えが体に染み付いていないから、何度も伝える必要がある。何度も伝えることでボディブローのような効果を期待しているけれど、はたして効き目があるのかどうかは自信がない。
 それと同時に、僕はモナや子供たちに、生きるための貪欲さを身に付けて欲しいと思っている。この思いは自分が歳を重ねるごとに強くなっているけれど、自分が家族の支えになれなくなったとき、立派にとは言わないまでも、自立できるようになって欲しいのだ。不自由のない暮らしをしている中、突然僕に何かがあれば、そのあとの生活は我慢の連続となる。苦から楽への転換は容易だけれど、その逆は二重苦、三重苦の連続となること必至だ。だから僕は家族に、逞しくなって欲しいと願っている。食べるときは貪欲に、買って貰えるときは少しくらい欲張り、節約できるところは節制し、時間の無駄遣いを極力避け、要求はそこそこはっきり、そして多少のかけ引きができるようになって欲しいと、心のどこかで思っているのである。
 実際には、さもしい行動は品がないと叱ったりもするから、そのさじ加減が難しいのだけれど、食べたいものに食指を動かし買い物できるとなれば目一杯抱え込むほどの態度を感心したと言ったのは、あながち冗談ではないのだ。
 たかられる身になれば大変だけれど、たかる身になればそのように願っているのだから、本当に勝手な話しである。しかし僕は、日本人や他の外国人にぴたりと寄り添うフィリピンやタイなどの女性たちの気持ちや環境を、こうしたところから少しは理解しているつもりでもある。

 その点末っ子のダイチは、まだまだ人間の本能むき出しだ。欲しいものもはっきりしていて、要る、要らないを率直に表現する。テーブルの上にあるジュースでも食べものでも、指差しでこっちに持って来いと指示をするし、間違ったものを差し出すと難しい顔つきで違うと主張する。
「今はダイチが我が家のキングだ」とモナが言うけれど、まさにその言葉通り、彼は傍若無人だ。それでも愛嬌があるから全てを許せるのである。
 今日はソファーに座ったダイチから、「パパ、パパ」と、キッチンカウンターでコーヒーを飲んでくつろいでいるところを呼びつけられた。
 モナが笑いながら、「パパ、お呼びよ」というのでソファーに行くと、彼はベイビーチョコレートというつぶつぶチョコレートが入った容器のふたを開けることができず、それを僕に差し出して「オーペン(あけて)」と言うのである。
 僕は容器から五粒のチョコレートを取り自分の手のひらに載せ彼に渡そうとすると、彼はそれを手に取って食べるのではなく、自分の口を僕の手のひらにもっていき、犬のようにチョコレートを食べ始めた。しかし一度に五粒全てのチョコレートを口に含むことができないから、手のひらに残ったチョコレートを同じように食べようとするのだけれど、口が下向きだから今度は一度口に含んだチョコレートがこぼれ落ちる。全てをたいらげようとダイチは懸命にその動作を何度も繰り返しているうちに、僕の手のひらからもチョコレートがこぼれ落ちた。ダイチはそれを拾い、自分の口に入れると思ったらそうせず、僕の手のひらにチョコレートを戻してから、また同じスタイルでチョコレートを食べることに懸命になるのだ。
 僕はそれを笑って見ていたけれど、彼が真剣になればなるほど可笑しくてますます笑ってしまう。(もちろん全ての食べ方がこうであれば、僕は叱って教える)
 こんな愛嬌が多少の傍若無人ぶりも許せてしまうのだけれど、それはある種のフィリピーナが持ち合わせている特性に共通するものであることに気付くのである。子供たちには、こんな純粋さを持ち続けたまま逞しく育ってもらえたら人生でたくさん得をするのではないかと、親として願っているのが僕の本音かもしれない。
 僕はモナや三人の子供たちを、本当に羨ましい性格だと思いながら、日々見守っているのである。



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カテゴリー:マレーシアにて
エントリー:745.よき夫、よきパパ
2015年06月28日

744.朝から得した

 日本人の平和ボケが一番問題なのかもしれないというコメントをいただいて、あらためて日本は幸せな国だと再認識する。
 僕が日本にいるときも、この「平和ボケ」という言葉はあったけれど、僕にはそれが何のことかさっぱりピンとこなかった。海外に出てそのことを分かるようになり、今ではよく知っているつもりでいるけれど、実はそれほど自信がない。海外で暮らしていると、やはり日本人特有の油断をしてしまうときがあるからだ。
 例えば食事をする際、テーブルの隅に携帯を置くとか、車を駐車する際、外から見える位置に鞄を置くとか。食事のテーブルに新聞売りがきて新聞はどうかと話しかけてきながら、巧妙に持っている新聞でテーブル上の携帯を隠され奪われた人が実際にいるし、車の場合は窓ガラスを割られる危険性が増すから、たとえ大したものが入っていなくても貴重品(おいしそう)に見えるものは外から見える場所に置かないのが、治安のよいここでも鉄則である。
 しかしである、ときにこの平和ボケは警鐘や侮蔑のような意味合いで使われるけれど、平和ボケするほど日本が平和だというのは賞賛に値することだ。そんな国を作ってきたのは日本人の功績だろうし、この日本の平和がこの先もずっと維持されることを願ってやまない。平和ボケ万歳である。
 
 さて、再び余計なことだとは承知していながら、ついつい口を挟みこみたくなるので少しだけ。
 先日百田大先生が、自民党若手議員の研修会で失言した。僕は比較的早くこの情報をキャッチしていたけれど、おっ、また騒ぎ出すぞと予想したら(あえて主語は抜いている)、結果その通りになった。そのあと朝日、毎日も来るぞと思っていたら順番まで予想通りだったから少し可笑しくなった。
 それにしてもあのくらいのことで、なんでファシズムという言葉が出てくるのだろうか。
 そもそもファシズムって何? どんな意味で使っている? 日本の議会制民主義がそう簡単に消滅する? 一体どうやって? 本気でそう思っている? 僕も平和ボケか? どうしてその手の言葉が好きなんだろう?(これは素朴な疑問)
 同時に、ネトウヨって何? どんな意味で使っている? というのも具体的に訊きたい衝動にかられる。蔑む意味で使っているのは分かるけれど、その言葉を使う人の中で、その言葉の定義がどうなっているのかを一度確認してみたいものである。ついでに、ネトウヨがどうこうという人は、それじゃあ自分たちは何のつもり? ということも訊いてみたくもなるのだ。
 果たして、「本物の憂国の士だ」なんて答えが返ってくるのだろうか。そう言いたげな感じが伝わってくることは確かである。もしそうだとしたら、「憂国」についてはそうかと思うけれど、どうみても「士」ではないだろう。士とは短絡的かつ印象的な言葉に頼らず、自分の志を自分の言葉で淡々と説明できる者だと僕は思う。
 とにかく、人の印象を操作しやすい言葉を選んで使うところ(イメージ戦略か?)は、共産党系の癖のようなもかもしれない。最近、そうか、あの人は(隠れ)共産党員か、と思ってようやく少し納得できたのだけれど、ファシズムとかネトウヨとか、そんな言葉ばかり選りすぐんで使っているという印象が強く、内容が単調になって面白みがないからもう少し趣向を変えてくれたらいいのにと自分勝手に思っている。
 というか、本当に、日本はファシズムに向かってまっしぐらなどと思っているなら、頭脳が時代錯誤状態に陥っていないかどうか、一度総点検をお勧めしたい。それとも、本物の士にはその道筋が見えているのだろうか。(これも素朴な疑問。そんな疑問を持つ僕は、やっぱり平和ボケしているのかと再自問自答)

 しかし、百田大先生の発言も、浅はかさを含んだものという点については同感だ。実際沖縄の人に聞いてみると、そのようなこともあるらしいけれど、全てではないだろうことも想像できる。
(このご時勢に、年間五百万円以上をもらっている人が三千人を超えていることは正直驚いた。沖縄は、思想傾向の強い人が入り乱れていることが、問題を分かりにくくしていると思われる。現地の映像を見る限り、普通ではない人が大勢いるのは確かだ)
 沖縄の新聞社については酷いと思うけれど、それも相手にしなければいいだけで、つぶしてしまえとあのような席でぶちまけるのはどうだろうか。権力側に立って発言するならば、軽率な物言いである。
 しかし、ファシズムと騒ぐ人たちも矛盾している。新聞社がこぞって非難を始めるだろうことを明確に期待しているようだけれど、それがある種の弾圧を期待しているのは明確だ。それは、気にくわない発言はそうやって封じ込めてしまえと言っているのと同じである。
 思考の根底が民主主義の上に成り立っていないことが、そんなところから分かるにも関わら、民主主義の崩壊だなどと喚くから「ん?」と思ってしまうのだ。民主主義など要らないと堂々と言えばいいのにと、僕は心から思っている。正々堂々と主張するなら、僕はそれはそれで立派だと本当に思うのだ。
 新聞社も事実をできるだけ客観的に伝えてくれれば大筋役割を果たせると思うけれれど、そこに思想をちりばめて世論や何らかの結果を誘導しようとするから、そんな変な人が増えるのではないだろうか。
 ちなみに僕は、百田大先生の「永遠の零」があまりに話題になっていたので、単行本を買って読んでみた。評判と随分乖離しているという感想を持ったけれど、もう一冊だけ買って読んでみて、お金がもったいないからもう買うのはよそうと思った。百田大先生の本は、小説としてお金を出すだけの魅力を感じられなかったし、作者にシンパシーを感じる部分もあまりなかったというのが僕の率直な感想だけれど、それと実際の人物像が一致するかどうかは定かでない。もちろん世間には大勢のファンがいるはずで、それらの人たちを否定しているわけでもない。
 いずれにしても、政界の人も、ブログの人も、マスコミの人も、文化系の人も、共産党の人も、本当の売国思考の人も、朝鮮大好き人間も、中国大好き人間も、みんな何かを発信しようと懸命なのだろう。正確ではないけれど、先人の言葉に次のようなものがある。
「人は与えられたもので生活を作り、与えることで人生を作る」
 僕はこの言葉に出会ったときに、ハッとしてその通りだと思った。それで具体的に掘り下げて考えてみたら、本当にそうなのか分からなくなったけれど、それでも僕はこの言葉を、たぶん正しいのではないかと思っている。
 僕は世間の様々な発信について、内容はまちまちだけれど、みんな自分の人生を作ることに必死なんだろうと好意的に受け止めている部分もあるのだ。

 僕の場合、非国民と言われようが、本当は世間で騒がれていることに一々茶々を入れるほどゆとりがあるわけではない。目の前のことで、正直いっぱいいっぱいである。
 最近、はっきりと自我が芽生えたダイチを含む子供三人が、ソファーに並んで座っているのを見ると、いつの間にか、どうしてこんなに子供がたくさんいるのか? と驚いてしまうことがあるのだ。変な言い方かもしれないけれど、二人と三人では、随分と印象が違うのである。
 少し早まったかな、なんて考えたり、でも実際楽しいよねと思い直したり、これからまだまだ大変だと身を引き締める前に腰が引けたり、あらゆる思いが複雑に交錯するのである。
 週末土日の休み、僕はみんなの食事の料理担当をすることが多い。一昨日、昨日と、三食全ての食事は僕が担当した。(モナが一度だけクラブハウスサンドを作って、土曜の昼食に僕が作ったスパゲッティーに添えていたけれど)
 こうして家事をしていると、三人の子供を食べさせるのは本当に大変だとつくづく感じるのである。この二日間、僕はずっと料理をしていたようなものだ。
「パパ、スーパーゴトムナァ」(すごいお腹空いている)なんて調理中にユリに言われると、「ちょっとこれ食べて待ってて」などと言って、焦ってモナの作ったクラブハウスサンドを先に食べさせたりするのだけれど、三人の子供の要求がそれぞれ三様だから、その交通整理だけで目が回ることがある。
 僕が仕事でいないときは、毎日モナがこんなことを仕切っているのだろうと考えると、主婦も大変だなと思うのだ。外での仕事は大変で、ひいひい言いながらやっているけれど、「主婦と外での仕事、どっちを選ぶ?」なんて本当にチョイスできる状態で訊かれたら、正直悩んでしまいそうだ。
 それでも僕は、案外楽しんで週末家事をこなしている。
 食後の皿洗いが終了し、一息ついたところで飲むコーヒーも格別だ。コーヒー豆はスターバックスから仕入れている。キッチンカウンター脇の回転椅子に座り(最近、そこが自分の指定席のようになっている)、そのコーヒーを飲みながら、「僕はまさに今、こうして自分の人生を作っているのだろうか」などと考えているのだ。人間時間があると、意外にこんなことは考えないもので、こうして追われていると哲学的な自問自答をしたりするから不思議である。しかし、与えることで自分の人生を作れるなら、惜しまず与えようなどという気になり、フィリピン家族に対する支援もさして気にならなくなってくるから面白い。これもポジティブシンキングの巧妙だなと、一人で勝手に納得している。

 僕が汗を流して家事をこなしている間、モナはキッチンカウンターの上にペーパーを置いて、記号をたくさん使ったフローチャートのようなものに取り組んでいた。「何を書いてるの?」と訊くと、「ビジネスフロー」という答えが返ってくる。
「なんの?」
「ゴールド」
 それでピンときた。最近モナは、金の売買に首を突っ込もうとしているのだ。金の売買でお金を儲けようという話しに僕は反対しているから、如何にお金をかけずに儲けるか、それを考えているらしい。元手の心配がないなら好きにやっても構わないけれど、少し話を聞いてみると、これまたとてもよくできている。
 これはモナの友人が実際にやっていることで、それが趣味なのか本気の取り組みなのかは知らないけれど、その取り組みにモナが新たな仕組みを追加しようと提案しているらしいのだ。 
 話しの内容は、「参加者全てが儲かってハッピーになれる」である。よくでき過ぎていて、何かの詐欺みたいな話だ。
「でも、誰も騙さないよ」
「それだったら誰も仕事なんてしなくていいじゃない。僕も仕事やめていい? みんなで金をやってみんなでハッピー? 世界中の人が参加するぞ、きっと」
「そうよ。仕事辞めていいよ」
 モナがあまりに自信たっぷり言うものだから、少しだけ突っ込んで話を聞いてみた。聞いた結果、よく分からない。とにかく仕事を辞めるのは、まだまだ先になりそうなことは分かった。
「どこかに落とし穴があるはずだ」
「あなたが分からないだけよ。みんなハッピーになれるんだから」
「みんなが儲かるお金は、一体どこから湧いてくるの?」
「だから、こうやってグルグル回しているだけで、お金が儲かるのよ」
 それでは答えになっていない。
「それじゃあ質問を変える。金の価格が下がったらどうなるの?」
 ここでモナは、悠然と語っていた言葉が突然出なくなる。
「あれ? もしかして損をする?」
「金の値段って下がるの?」
「それは上がったり下がったりするでしょう」
「下がったら損する」
「で、その場合、誰がその損を払うの?」
 モナは再び少し無言になったあと、この会社が払う(はず)と言った。僕は詳しく知らないが、何か元締めの会社があるらしい。どうやらその変に、何かの落とし穴がありそうだ。実際は金の価格が下がらなくても、手数料以上に金の価格が上がらなければ損をすると思われるのだけれど。そしてこれは、先物系ではないかという疑いもある。
 当たり前だけれど、リスク無しで確実に儲かる話は基本的にない。もしその元締め会社がそんなことを言っているとしたら、その会社が苦労して人など集めず、その仕事を懸命にやればいいのである。
「もしかしてその会社、ボランティアなの?」
 再びモナが、自信を取り戻してきっぱり「そうよ」と言ったので、僕はここで笑ってしまった。この段階で、この話しはどうみてもアウトだけれど、そういい切るフィリピン人の思考回路を理解できない僕は、それ以上この話に突っ込みを入れるのを止めた。普段家事と子育てに追われているのだから、週末くらいは好きなことをゆっくり納得ゆくまでやらせてあげるのもよしではないかという気がしたのである。
 そこで僕が念を押すのは、金は出すな、サインはするな、連帯責任は負うなの三つである。あとは社会勉強として、ある程度ご自由に、という感じだ。少しくらいの損失であれば、それも社会勉強としてはいいだろう。モナによれば、多くのフィリピン人がやっているらしいけれど、そのうち詳細を調べてみようと思っている。

 ここまで書いて、僕は重大な事実を知ってしまった。
 実は金曜日、日本のお客さんに、月曜の朝一で読めるよう一つのレポートを提出して欲しいとお願いされていた。内容はボリュームはないけれど、少し難しいもの(今おきゃくさんと、禅問答のようなやり取りをしている)だったので、土日にゆっくり考えさせて下さいと返答していた。
 今日僕は、ふと朝四時に目覚め、そのレポートを書くのを忘れていたことを思い出し、がばりとベッドから飛び起きたのだ。
 すぐにキッチンカウンターに置いてあったパソコンをあけ、その仕事に取り組んだ。アイディア勝負のレポートだったから、アイディアが出れば終わり、出なければ必死に絞り出すというもので、幸いすぐに終わってメールでレポートを提出、余った時間で安心してこのブログを書き始めたのである。
 七時過ぎ、モナが起きたので僕は言った。
「そろそろ会社に行くよ」
「日曜なのに仕事なの?」と、モナはまだ眠そうな目をこすり言った。
「何言ってるの、今日は月曜でしょう?」
「違うよ、今日は日曜よ。私の携帯見てよ」
 ベッドの脇にある彼女の携帯を見たら、僕の目にSUN(サンデー)という文字が飛び込んできた。それでも信じられない僕は、キッチンカウンター上の自分の携帯も見たけれど、やっぱりSUNで、狐につままれる。僕の中で時間が止まり、少し呆然した。そして頭の中で、何が起こっているのか整理した。
 おかしい、僕はベッドから飛び起きたとき、確かに今日が何曜日か少し混乱した。だから真っ先に、自分の携帯で曜日を確かめたのだ。そこでMON(マンデー)という文字を見て、やっぱりそうかと諦めて僕は仕事にかかったのである。
 その後このブログを書き始め、土日に料理したことを書いた。実はそのとき、二日間全てのメニューを思い出せず、変だなと思ったのだ。正直、歳をとって直近の記憶が怪しくなっているのではないかと思ったけれど、そんなことを気にするのは数年前に卒業している。ま、いいかと簡単に諦めて、ブログを書き進めた。
 五十歳を超え自分の頭に嫌疑をかけながら、能力が落ちた部分を受け入れることも多くなっている。特にいつもだめだと思うのは、シャワーだ。
 我が家のシャワーは、通常の壁掛けハンドシャワーと、真上からのシャワーを切り替えられるようになっている。一人暮らしのときにはいつもハンドシャワーを使っていたから問題なかったけれど、モナがときどき天井シャワーを使っていることで、問題が起こるのだ。
 温水シャワーではあるけれど、最初は冷たい水が飛び出すので、僕はいつもハンドシャワーの向きを壁の方にむけ水を出すのだ。すると決まって、真上から出る冷たい水が僕の体に降りかかり、僕は「ひぇっ」と驚いて、心臓が止まるかと思いながらまたやられたと一人ごちるのである。シャワーを出す前に、水の出口がどちらになっているか確かめなければならないといつも思いながら、いつもそのことを忘れるのだ。いつかこれが原因で、僕は心臓麻痺で死ぬのではないかと思っていてさえ、である。

 とにかく、今日が日曜であることにおろおろする僕を見て、モナは笑っていた。そして日曜であることを確信して、「いやあ、なにか得した気分だなあ」と晴々と言う僕に、モナの笑いは更に高鳴った。
「それじゃ、もう一杯コーヒー飲むかな。あなたも飲む?」
「おお、飲む」
 今使っているコーヒードリップ用ペーパーは、モナが選んだものだ。僕が小さいのではないか、一つ大きなやつを買おうと言ったのに、彼女が「大丈夫、問題ない」と僕を押し切って買ったものだ。昨日モナが初めてそれを使い、「これ小さいなあ。時間かかる」とぼやいていたから、僕はすかさず、「だから小さいって言ったのに」と得意げに言ってやった。二百枚も買ってしまったからしばらく我慢しなければならないけれど、使う度に、まるで若い女性のパンティーみたいだなんて僕は思いながら、なせそんな連想してしまうのか、自分でいつも不思議だと思っている。
 僕は今朝もそんな連想と共に二人分のコーヒーを淹れながら、さて、今日の朝ごはんは何にするかなと考えていた。 
 もう僕は、立派な主夫である。



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