フィリピーナと共に
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2009年08月04日

リン117 帰国

フィリピンでの生活は本当に楽しかった。
川口さんが一緒だった時にはモナが企画した川遊びに出かけ、その後はダバオのリゾート地でのんびりし、モナの田舎では昼食会をしながらのミニイベントや観光をこなしながら、時には自然の中でのんびりとする。
日本での仕事がなければ滞在を延長したかったが、お客とのミーティングの予定が入っていたために、どうしても期日通り帰国する必要があった。

帰国に際しては、マニラでモナと二人の時間を3日間取ることにしていたので、タバコシティーを少し早めに出ることになっていた。
ダディーとママ、ベルが地元の空港まで車で送ってくれた。
モナの両親からは、特に二人の結婚に関して賛成や反対の直接コメントはなかったが、最後は認めてくれるのだろうという感触は得ていた。
空港で別れ際に僕は、心からもてなしをしてくれたことに深く感謝している旨を伝えた。
特にママは、毎日僕が食べるものに気を使ってくれたので、きっと気疲れしただろうと思っていた。
ダディーも僕が少しどこかに移動しようとすると、日本人が一人で出歩くのは危険だいい、その度に自分のトライシケルを運転して送り迎えしてくれた。
実際にはホテルの周辺を一人で歩き回ったこともあったし、道端でトライシケルを拾い新しい家を建設している場所に行ったこともあったが、それほど危険を感じることはなかったが、モナが言うには僕の安全を守るのがダディーの責任だということらしかった。
それが僕の受け入れを了承した者の務めだとダディーは考えていた。

僕はこの旅行で、それまで感じていたフィリピン人の心の温かさや豊かさを、また別の次元で体感した。
モナの親戚にあたる人も、僕をまるで友人のように扱ってくれた。
みんなで泉に遊びに行くと、ダディーもモナのおじさん達も、まるで子供に帰ったように遊んだ。
僕もモナのおじさんとすもぐり競争をしたり、潜水水泳の距離を競い合ったりした。
ひ弱そうな日本人の僕に負けるとおじさん達は地団太を踏んで悔しがり、勝利するまで何度でも僕に勝負を挑んできた。
そのうち女性陣が用意した料理の数々が出来上がると、料理とお酒をみんな一緒に楽しみ、疲れた人は昼寝をしたり、酔っ払ってますます泳ぎに夢中になったりする人もいた。
地元の人はブランディーを好んで飲んだ。
なぜブランディーなのかと聞いたところ、それが一番安いからだそうで、実際にスーパーで価格を確かめてみると、日本円で通常サイズ一本が300円ほどだった。
そのかわり香りも味も、ブランディーグラスを手のひらで温めて飲むあの芳醇なものとは程遠く、雑味があって日本で口にするどんなブランディーよりもまずい。

モナのファミリーとそんな遊びをしていると、この人達は日本人より幸せに生きているのではないかと思うときが多々あった。
フィリピン人はファミリーという集団で、できるだけお金をかけずに最大限楽しむ術を身につけ実践していた。
何かがあるとその場で臨機応変に対応し大概のことはなんとかしてしまうたくましさをフィリピン人は持っていた。
日本人のように、例えばキャンプをするために専用道具を一式買い揃え、準備万端整えるようなことを彼らはしなかった。
ピクニックをするのであれば、出かける前にいくつかの鍋にそれぞれ料理をこしらえてそれを丸ごと持っていくし、現地で焼き魚を食べたくなれば、即席のかまどをつくり木を拾い集め火を起こす。
遊び道具もそのときにある縄やビニール袋や寄せ集めのもので、何でも作り上げてしまう。

彼らと行動を共にすることで安心感がある理由もわかりかけてきた。
彼らには人を欺いたり利用するような計算がない。
楽しいときは笑い、疲れたら休み、寂しいときには話しかけてき、心配ごとがあれば相談にくる。
しかも自由気ままに見えるのだが、遊びに行く以外では決して昼からお酒を飲むようなだらしのない行動はしなかった。
少なくとも常に行動を共にしたモナのファミリーには、日本人に共通するような規範に沿ったモラルが存在していた。
彼らには当然人間である以上損得勘定もあるのだろうが、それを超えた情で結びついている部分が多くあることは確かだった。

僕が最初にフィリピン人と関わりを持ち戸惑いを感じたのは、きっと相手が損得勘定で自分と接しているのだと考えているのに、実際にはそうではないフィーリングを相手に感じてしまう時だった。
彼らはもともとファミリーの絆から得たホスピタリティーを備えているのである。
それは日本人をはるかに凌いでいることは間違いない。
フィリピン人が介護などの仕事に向いていると言われる所以だ。
そこに時折生きていくための損得勘定が見え隠れしたりするから、こちらが混乱してしまうだけである。
しかし第6感で感じたフィリピン人の温かさは、やはり本物だと思っても良さそうだというのが、今の自分の考えになっている。
それまで数々のフィリピン人と接してきて、フィリピン人の心がだいぶ理解できるようになってきた。
特にモナのファミリーと密着した2週間は、フィリピン人やその生活を知る上で、この上ない貴重な体験だった。


モナと二人でマニラに戻ったが、田舎とは大違いの暑さにいきなりうんざりした。
渋滞、排気ガス、人ごみ、体からにじみ出る汗まで何かに汚染されているような気持ち悪さがあった。
ホテルに付いたらすぐにシャワーを浴びないと落ち着かない。
マニラのホテルは、それまで少し贅沢をしたので安いキンバリーホテルにした。
僕は初めて利用するホテルだったが、ロビンソンモールに歩いていける便利な場所にあり、部屋の広さも30平米はある小奇麗なホテルだった。
中の雰囲気からインド人が経営するホテルではないかと想像され、宿泊客の中にもインド系の人がちらほらと見えた。
それまでマニラやセブで宿泊したのは、ランクがまあまあ上のホテルが多かった。
それは出張で来比することが多かったため、出張者のセキュリティーを確保するための会社の方針だったからである。
しかしキンバリーのような安いホテルでも、実際に宿泊してみると部屋も広く清潔感もあり、なおかつプライバシーがきちんと保たれているので何も問題はなかった。


マニラでの3日間は、特に予定もなく、モナと二人でマニラをぶらぶらするつもりだった。
モナがどうしても観たい映画があるというので渋々付き合ったが、それがタガログの映画であることをスクリーンを目の前にして初めて知り閉口した。
しかしラブストーリーの単純な映画は、言葉がわからなくともざっくりとしたストーリーが伝わってきて、最後には映画を観た気になってしまったから不思議だった。
時折ロビンソンに散歩に出かけ、本屋に入ったり1杯300円以上もする高いコーヒーを飲んだりと気ままに過ごした。
マニラの大きなモールともなると、どのショップに入っても日本のそれとあまり変わらず、品揃えが豊富で遊び心がたっぷりつまった商品も多い。
生活必需品以外の物が売れるということは、それだけ生活にゆとりが出てきた証拠でもある。

マニラはぶらぶらするだけで、お金が急激に目減りしていく。
食事やドリンク代が日本とさほど変わらないので、金銭的には東京をぶらぶらするのと大差ない。
ロビンソンに入っている専門店、例えばイタリア料理などは、むしろ東京よりも高いといえた。
ランチで一人1000円を超えるほどで、夕食の時間になるとその倍近い料金になる。


ホテルのロケーションが良かったせいもあるが、極力タクシーは使わずに周辺を歩き回った。
マカティでも感じたことだが、マラテエリアも至る所でマンション建設が盛んに行われているのが目に付いた。
新築マンションは、日本円でおよそ1000万ほどだそうである。
首都の一等地で1000万円は安いと考えることもできるが、それが雨後の竹の子のようにこれでもかというくらい建設されていく様をみると、フィリピンの生活もこれからますます変化していくだろうと思われた。

マニラともなると、女性の雰囲気も少し変わってきたように思えた。
モナはファッションにはそれほどこだわらないが、それでもある程度のお洒落には気を使う。
しかしマニラの街では、頭のてっぺんからつま先までしっかりとコーディネイトされた洗練された女性を見かけることが多くなった。
それと比べると、モナが純朴な田舎娘に見えてしまう。
僕はフィリピンの生活レベルや考え方の変化という観点からそれらを観察しているのだが、あまりじろじろ見ているとモナは「あっちがいいか?」と僕に釘をさすのを忘れない。
僕が見ているせいもあり、中には女性連れの自分に堂々と色目を使ってくる女性もいるし、僕の目の前では高いランチを食べている若い二人組の女性が、近く座ったいたアメリカ人の二人組と積極的にお近づきになり、ちゃっかりと自分達の食事を彼らに払わしたあとに4人一緒にどこかへ立ち去る姿もあった。
モナはすごいなぁと驚いていたが、シャイだと思っていたフィリピーナも都会ではこのように変化を辿っているのが見受けられた。
近代化し何もかもが多様化していく中では、万国共通で同じ現象が出現するのだろうが、日本でも昔同じようなことを感じたなぁと思うと、それを焼き直しで見ているようで面白くもあり、また少し残念な気持ちも残った。

マニラ最終日の午後にはエレナがまた僕達の部屋にやってきた。
子供二人と妹を連れての登場に、僕は少し腰が引けてしまった。
モナはエレナに「今日は二人の最後の日だから、あまり時間を取られたくない」と遠まわしに会うことを断ったのだが、彼女には伝わらなかったらしい。
モナは僕に「彼女はすこしアンセンシティブ(鈍感)だなぁ」と耳打ちしたが、後の祭りだった。

そこから不思議な光景が繰り広げられた。
エレナは僕のパソコンにかじりついて自分のヤフーメールをチェックしたりインターネットで何やら調べ始め、二人の子供は冷蔵庫の中の物を好き勝手に飲み食いしながら大騒ぎで遊び、エレナの妹はベッドの上で寝転んでいる。
ベッドを占拠された僕はしばらく椅子に座っていたが、話をするでもなく何もすることがないので、本を持って外へコーヒーを飲みに行くことにした。
モナもどちらかというと、その光景に唖然としながらもやることがなくて宙に浮いていた。
モナが僕にかけた「どこへ行くの?」という声にエレナが反応した。
「コーヒーでも飲みに行こうかと思って・・・」と僕が言うと、エレナはさっとパソコンをやめ、それだったら私達も一緒に行くと言い出した。
(一人にさせてくれた方がいいんだけれど・・・)と思いながらも、僕の口からはそれとは反対の「そう?それでもいいけど・・」という言葉が出ていた。

結局ロビンソン内の、ハンバーグでもカレーでも何でも揃っているレストランに6人で入った。
妹と子供たちはしっかりと食べていたが、エレナは食が進まないようだった。
そこで予定通り加藤さんの話になったが、それは過去の話の繰り返しで、彼女の話も僕とモナの話も、以前の録音した会話を再生しているような味気ないものだった。
僕は、エレナは自分の話を誰かに聞いてもらえば気が済むのだと割り切っていたので、彼女の話にそれほど神経を使っていなかった。
子供達にご飯を食べさせ、エレナ自信も話が終わると彼女の顔には少し生気が戻ってきたように見えた。
それを見計らったモナが、「私達はこれから映画を見に行くから、ここでお別れしていい?」と切り出した。
本当は映画を見に行く予定などなかったのだが、既に見終わった映画のタイトルを口にして、それを見に行くと言った。
エレナが「あ〜、ごめんね、二人をおじゃまして・・。映画楽しんできて!」と、翌日が僕の帰国であることに初めて気づいたような口ぶりで言った。

エレナを追いつめているものは、生活苦と加藤さんの裏切り、そして夢描いていた未来が突然真っ暗闇の世界になってしまったことである。
それらが同時に襲ってきたのだから、彼女の心中はモナも僕も十分過ぎるほど理解していた。
現在が辛くても将来が見通せるならば我慢できるが、先が真っ暗闇で何も見えないことの辛さはよく分かるつもりだった。
しかし他人が助けてあげられることには限りがある。
後は自力で立ち上がるしかないというのが、僕とモナの一致した見解だった。

建物の外に出ると、空に浮かぶ雲がオレンジ色にきれいに染まっていた。
フィリピンでは例えマニラのような都会でも、空が日本と違うと感じる。
フィリピンの空は、アメリカの西海岸と似ていて日本よりも高くて広く見える。
マニラのごみごみとした雰囲気は嫌いだったが、僕はその空だけは好きだった。

エレナ御一行と別れてから、そのフィリピンの空の下で、自分も翌日日本へ戻らなければならない疲労感のようなものを感じていた。
できるならそのままフィリピンに居座りたいと、心から思っていた。
それは過去にも帰国前に必ず自分を襲っていた哀愁のようなものだったが、その時はいつもよりも強烈にそう思っていた。
僕とモナはそれから二人で最後の夜を過ごし、翌日モナは自分の田舎へ、そして僕は日本へと22日振りに帰国した。

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2009年08月03日

リン116 フィリピンでの生計

モナの田舎に滞在中のある午前、Lyn Looから久しぶりにメールが入った。
約半年ぶりのメールだ。
それはたまたまホテルでインターネットをつなげ仕事をしている時だった。
部屋にはモナとベルが一緒にいた。
僕がLyn Looからメールが入った件を告げると、モナが興味深そうにパソコンの画面を覗き込んできた。

Lyn Looは、相変わらず「元気?ミスタープレイボーイ。今何をしている?」と言ってきた。
僕は少しLyn Looを試してみたい衝動にかられたが、あまり気の利いた返事が思いつかなかった。
「今僕は日本にいないよ。どこにいるかわかりますか?」と返事をしたところ、LynLooの返信はもうそれっきり返ってこなかった。

Lyn Looはおそらく、僕がフィリピンにいることを知らなかったのではないだろうか。
しかし僕の返事で僕がフィリピンにいるかもしれないことを悟ったLyn Looは、僕との会話を避けたようだ。
以前Lyn Looは自分のことを、モナの身近な人間で彼女のことや僕のことを何でも知っていると話していたから、対話ができなくなってしまったに違いなかった。
僕がフィリピンにいる間、Lyn Looからのメールはそれきりだった。
彼女から次のメールが来るのは、僕が日本へ帰国後約1ヶ月を経過してからとなる。

そう、僕は数日間だけフィリピンで仕事をした。
僕はその時のフィリピン訪問に際して仕事を一つ持ち込んでいたのである。
フィリピンと日本でやり取りを行い、設計業務が正常に行えるかという実験を兼ねながらの仕事であった。
それは自分の実験というよりは、むしろ自分のクライアントに問題がないことをわかってもらうための試みと言った方がよかった。
日本とのやり取りは、メール、電話、スカイプを利用した。
フィリピンでの通信インフラに関して、その速度は業務に耐えうるぎりぎりであった。
たまたま使用していた回線だけなのかもしれないが、通信速度が遅すぎてインターネットでの調べ物に時間がかかりすぎた。
感触としては、ホテルのwifiサービスで1Mbps?もしくはそれを少しきるくらいである。
モナの家で引いている回線で、有線で接続して同じような感触だった。
空港で接続した時には若干それよりも早く感じた。
画像の現れ方から2Mbps以上はあるものと思われたので、全てが遅いというわけではなく、使用する回線や、当然基地局からの距離に大きく依存すると思われた。
ここで述べた通信速度はあくまでも使用して感じた感触であって、正確な数字をデータとして聞いたわけではない。
いずれにしても日本ではいつも最大100Mbpsの光回線を使用し、実効スピードが常に10Mbpsは出ていると思われるので、それと比較すると当然遅いと感じてしまう。

ただしインターネット回線に関しては、もっと早いものをモナが用意すると話していたので問題は簡単に解消するかもしれない。

移動時のモバイルインターネット端末もスマートブロというものを試してみた。
しかしこれは通信速度が遅い上に、利用料金(ロード)はカードを購入しチャージするタイプなのだが、想定以上に残高が早くなくなるので料金が高すぎだと感じた。
詳細は忘れたが、単位時間当たりの接続料が決まっており、それに基づいて計算するよりも実際のロードの消費が早い。
僕はロードを節約するために、使わない時間はいちいち回線を切りながら使用していたのだが、おそらく一度接続する度に、例え短い時間の使用であっても単位時間当たりの度数がなくなってしまうのだろう。
そうでなければどうしても実際の使用時間とロストしていくロード残高の計算が合わなかった。
そして電波強度が十分でも、スマートブロでスカイプの画像と音声を同時につなぐのは無理があるようだった。
もっとも移動中にインターネットを使用することなど滅多にないので、それほど大きな問題にななりそうもなかったが、通信速度は予想以上に遅いということがはっきりした。
ただしメールのやり取りに関してはほとんど支障がないようである。

僕の中には、もし自分がフィリピンへ移住した場合、フィリピン国内で回路やソフト開発の仕事を安く請け負えないかという企みがあった。
生活費は日本にいるよりも安く済むのだから、設計費を半額かそれ以下にすればクライアントと自分の双方でメリットがある。
月の売り上げ目標を30万から40万ほどに設定しておけば、生活も貯蓄も十分できると踏んでいた。
ひと月に2件ないしは3件の仕事をこなし、この目標金額を達成できるような設計費を設定すれば、双方に十分なメリットを見出すことができるのではないかと考えていた。
この時点ではまだ漠然とした考えをもとにクライアントにその話を相談していたのだが、先方も一応は乗り気になってくれていた。

しかし僕には一抹の不安もあった。
僕は個人で設計業務をしているが、大きな会社の仕事を請け負う場合、大会社が個人の口座に設計料を振り込むことはない。
そこにはお金の受け渡しを仲介する会社が必要となる。
僕が付き合っている仲介会社は技術部門や営業部門を持っている設計会社だった。
仲介会社の営業が顧客から何かの案件を持ち込まれ、それを社内で対応できない場合僕がその営業の人間と一緒に顧客に出向き、案件の詳細を確認したり技術的内容における相談を受ける。
そして僕が設計した場合の見積もり金額を仲介会社に提出し、仲介会社はその設計費に自分たちの営業手数料を上乗せした見積もりを顧客に提出する。
顧客がそれを了承し正式発注がかかると、基本的にはその仕事を自分が手がけることになり、仕事が完了すると仲介会社が僕の口座に設計費を振り込むという仕組みになっている。
仲介会社は僕の設計で営業手数料が手に入るばかりでなく、回路やソフトとセットになっているメカ設計の仕事も受注できるので、社内で対応不可能な案件でも積極的に僕のような外部の人間を活用したがった。

しかしフィリピンで遠く離れて暮らした場合、顧客との打ち合わせに簡単に出かけることができなくなる。
クライアントが技術的スキルの理由で社内対応できない場合は日本から遠く離れた自分に仕事を出す必要性も出てくるだろうが、それ以外でわざわざ不便な場所にいる自分に声がかかるのだろうかという不安を僕は払拭できなかった。
実はその仲介会社には、自分の他にも仕事を出す外部のソフト開発者がいる。
その人は普段広島という遠方に住んでいるという理由だけで、ソフトの仕事をその人には出さずに自分に回ってくることが過去に何度かあった。
つまり今後フィリピンに住んでいる僕に仕事を出すメリットは、金額を安くできるというその一点だけである。
仲介会社がメリットとリスクのバランスを考えた時に、それが僕に仕事を出すメリットに大きく傾いたときだけ自分に仕事が回ってくるということが考えられた。

僕はモナにその不安を正直に話していたが、彼女はそのリスクを回避するために、何かビジネスを始めようと言っていた。
土地や家を担保にすれば、多少の資金を銀行が融資してくれるというのである。
小さなレストランでもやればいいんじゃないといった軽いのりだった。

しかし土地や家を担保に入れることだけは僕は反対だった。
それが借金のかたに取られることがあったら、それこそやり直しができないような気がするのだ。
フィリピンでは十分すぎるほどの土地を担保に借金をし、返済ができなくなると家ごと取り上げられるケースがよくある。
例えば100万円の価値がある土地を担保にし5万や10万を借り、それが返せないとその土地が取り上げられる。
どうせ取り上げられるならば、最初からその土地を売却した方がはるかに得だと思うのだが、傍で見る限り誰もそんなことを考えているようには見えない。
お金を貸す方も良心的にそのようなことを進言する分けではなく、無情に土地を取り上げる。
最初からそれが狙いだったかのようにも見えるのだった。
だから僕は最初から、家や土地を担保にお金を借りるのは抵抗があった。
ましてや新しくビジネスを始めるといっても、僕の頭の中ではどうにもそれに対して焦点が合わなかった。

新しいビジネスについては、具体的なアイディアも少しは浮かんだ。
町を見ていると、乗り合いタクシーなどは盛んに行き来している。
車を購入し、ドライバーに1日700(1400円)ペソから1000ペソ(2000円)で貸し出ししようかと思いダディーに相談したが、それも認可を取るのが難しいという話だった。
認可待ちが多くあり、新しく認可を取るのが難しいために既にタクシー業務をしている人は、車体番号を変更せずに車のメンテナンスを繰り返し続けながら30年、40年と同じ車を使い続けるのだそうだ。
エンジンがいかれたらそれすら丸ごと交換し、同じ車体を使い続けるのである。
古いタクシーが多いのは、そんな事情もあるのかと初めて知った。
ちなみにサイドカーのようなトライシケルも認可が必要で、タバコシティーは認可を受けた営業エリアごとにトライシケルのボディーカラーが決まっている。
無秩序に見えるフィリピンでも、詳細を聞くと何にでもいろいろと制約があることがわかってきた。


僕はフィリピンでの就職事情もよく知っていた。
僕は仕事をえり好みするつもりはなく、日雇いの労働作業でも何でもよいのだが、いかんせん簡単にありつける仕事は給料が安すぎた。
贅沢をするつもりはないのだが、それ以前に本当にそれで食っていけるのかという安さだった。
最近のフィリピンの物価はずいぶんと高騰傾向で、先日ある方からここ10年間で物価が2倍になった話を伺ったが、それは決して大げさな話ではなかった。
しかしフィリピンのサラリーが10年間で2倍になったかというと、業種によって違うだろうが、僕ができそうな仕事は依然安いままだった。
きちんとした職業に見えるモールの店員ですら、月に1万ペソや2万ペソ(2万円〜4万円)という低賃金である。
今やスーパーで食料品を少し買いだめすると5000ペソ(1万円)にはなるので、物価と給料はどうみてもアンバランスであった。
普通の人がどのように生活しているのか、不思議なくらいだった。
フィリピンに入ってしまえば、僕は所詮歳を取った外国人である。
様々な状況を知れば知るほど、自分の力だけで家族を養いながらフィリピンで生き抜くことができるのだろうかという不安が尽きない。
しかし、せめて住む家があるというのが心の支えになるはずだった。
それを失うリスクだけは負うわけにはいかないと思っていた。


僕がその時体験しているフィリピンの生活は、必要なお金を持って旅行のついでに体験している生活に過ぎない。
衣食住の心配をせず、気楽に自然の中で生活していたらそれは楽しいに決まっている。
移住することと旅行でちょっと立ち寄るのとは、前述したように雲泥の差があるのだ。
それは今回のように、具体的に考えてみて初めて身に染みて分かる話だった。
それでもフィリピンの人たちを見ていると、何とかなるだろうという気になってしまうのだが、それに流されると後々きっと後悔することになるとの予感でいっぱいだ。
日本に帰りたくなっても、その旅費すら捻出できないなんて羽目になりかねない。
遊びで歩き回りながら、ここでの暮らしは楽しそうだと思っていることと、実際にそこでお金を稼ぎながら暮らしていくことを考えることには大きな隔たりがあることを痛感していた。

もしフィリピンでの生活がうまくいったらそれに越したことはないが、最悪のケースを想定し、どうしてもその時のシナリオを用意しておきたかった。
机上の空論に近いものであれば、いくつか思いついた。

実は自分の専門は設計の他にもう一つある。
それはクオリティーエンジニアと呼ばれる品質管理の仕事だ。
僕は海外の工場のほとんどが、日本や欧米の厳しい品質管理要求にほとほと困り果てていることを知っていた。
僕は過去に、日本や欧米の名だたる企業が納得する品質システムをいくつか作り、それをフィリピンや中国のサプライヤーに導入した経験がある。
システムを作るのは簡単だが、それを実効あるかたちで運用するのが難しく、そこにノウハウがあり指導が必要となる。
だから自分のそんなスキルを利用して、日系企業のコンサルタント業務はできないかなどとも考えた。
しかし海外工場は、目に見えるコスト削減にはお金を出すが、品質などという見えにくい部分にお金を出し惜しみすることも事実だった。

それ以外にも、日本人が経営する店などで雇ってもらえないかなども考えてみたが、それも虫の良い話であった。
唯一多少現実味がある話は、現地人を相手に日本語の先生をするというものだった。
これは意外とニーズがあるらしい。
幸いフィリピンの大学で日本語の教師をしている日本人を一人知っているので、それは後々具体的に相談してみようと思った。

このように僕にとっては、異国の地で生計をたてようということに関して理想と現実のギャップが大きく感じられた。
それを本当に実践しようと思うと、これまでのほほんと日本で暮らしていた感覚を一切捨ててかかる必要がありそうで、少しでもリスクを小さくする手段を講じておきたいと考えていた。
この旅行から数ヶ月経った今でも、実はそのことに関して恐れおののいているのである。

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2009年07月29日

リン115 娘のベル

モナの娘ベルは、もう3ヶ月で6歳という歳だった。
ベルは小さな顔と大きな目が母親譲りで、その顔にツインテールの髪がよく似合う可愛らしい女の子だ。
大人になったらきっと美人になるだろうと思われる、整った顔立ちをしていた。

彼女は大方のフィリピーナと同様恥ずかしがりやで、少し我侭な子供だった。
気に入らないことがあると、誰とも口をきかなくなる。
僕はその我侭な性格が気になった。
本人のためを考えるなら、もっと厳しく育てたほうが良いとモナに言った。

「アコは厳しいよ。だから彼女はアコが怖い。問題はママよ。ママはベルにすごい甘いだから。前はベルもそんなに我侭じゃなかったよ。でも横浜から帰ってアコ驚いた。だってベルの様子がすごい変わってるから。前はあんなに我侭じゃなかったよ。」
「いや、まだあなたも甘い。甘すぎだよ。ダディーも話してたでしょ!子供がだめになるから甘やかすなって。本当に僕もそれ思うよ。僕があなたと結婚したら僕はベルにも責任あるから、今からあなたにもベルにもちゃんと言っておくよ。甘やかすのはだめだし、ベルが我侭しているときにはきちんと叱るべきだって。」

ベルは少し不思議な子だった。
子供っぽく我侭なところがあると思えば、突然大人びたことを言ったりした。

僕とモナはベルの前でキスをしたり抱き合ったりすることは避けていたが、一度たまたまベルがTVに夢中になっていると思い、二人で挨拶のようなキスをした。
気づいたらベルがこちらを見ていたので二人は慌てて離れたのだが、ベルは何事も無かったように再びTVを見始めた。
(ベルは少し動揺したかな?嫉妬もしたかもしれないな・・)などと思っていたら、少ししてから「ダディーとマミィーは仲がいい方がいいね。その方が家族がハッピーになれるでしょ!」と言われた。
しっかりとこちらを見ながら彼女は彼女なりに考えていたのだが、こちらの心配ごととは全く違う次元の話をされて、少し面食らった。

ある日ベルの本当の父親からモナにメールが来た。
「僕は今マニラの病院に入院している。僕があなたに悪いことをしたから、神様が天罰を下したと思っている。今とても体の調子が悪い。結婚した妻ともうまくいっていない。全て神が自分の行いを悪いと判断し自分に下した罰だ。あなたには心から謝りたい。そして僕は今あなたに会いたい。娘のベルにも一目だけでいいから会いたい。このお願いを聞いてくれないだろうか。」
というような内容だった。
モナはそれを僕に見せてくれた。

「マハール、どうすればいい?彼が可愛そうな気もするけれど、アコは彼に会いたくない。もう会う必要ないもん。彼はアコが妊娠した時、一回も会いにこなかったよ。何で今頃こんなことを言うのか理解できない。だからベルにも会わせたくないよ。マハルはどう思う?どうしたらいいかな?」
「あなたは会う必要はないでしょ?もしあなたが会いたいだったら仕方ないけど、会いたくないならはっきり断れば?ベルのことはベルに聞いてみようよ。彼女が会いたいだったら会わせてもいいかもしれない・・。ここはちょっと難しいよね。でも本当のお父さんのことは、あなたからベルに話しているんでしょ。だったら一度ベルに聞いてみようよ。」
「わかった。ちょっと聞いてみる。ベール、ちょっとこっちへおいで。話ある。」

ベルは返事をせずに、TVの前から僕とモナの前にやってきた。
「ベル、あなたの本当のお父さんが、あなたに会いたいって言っている。彼は今病気だって。ベルはどう思う?あなたも本当のお父さんに会ってみたい?」

ベルはちょっと下を向いて考えるような態度をとってから
「その人はダディーじゃないよ。アコとマミィのことで何も責任とってないから。だから会わなくていい。アコのほんとのダディーはダディーマークだけ。」
とだけ言って、言い終わるか終わらないうちにまたTVの前に行ってしまった。

僕とモナは思わず無言で顔を見合わせた。
あまりにも大人びた話だったので、二人で驚いた。
結局モナはすぐに、そのベルの話も添えて彼にメールを返信した。
彼からすぐに返信が来た。
「残念だけれどわかった。それじゃあなたとベルの写真を送って欲しい。それだけお願いできないかな?」

モナは少し意地になっていたかもしれない。
なぜ二人の写真を送らなければならないのかと言った。
そして二人の写真を万が一彼の奥さんが見たときに、奥さんがどう思うかということも気にしていた。
彼女の中では写真は送らないつもりでいたようだったが、僕は病気の彼のことを考えて、ベルの写真だけ送ったらいいと進言した。
それだけだったら、彼の奥さんが見ても理解するんじゃないかと思った。
しかしモナは少し思案してから、あなたとアコとベルの3人の写真を送ろうかと言い出した。

結局3人で仲良く写っている写真を一枚選んで、
「この人が私のハスバンド(夫)でベルのお父さんになる人です。ベルもよくなついていて、彼のことを本当のダディーのように慕っています。ベルは私のダディーは彼だけだと話しています。だから私たちのことはもう何も心配しないで下さい。昔のことは全て忘れました。私は今とても幸せです。そしてこれからもっと幸せになります。だからもう私たちのことで苦しむ必要はありません。早く元気になって下さい。」
というメールに選んだ写真を添付して送信した。
それから彼の返事が途絶えた。
おそらくモナは、彼を見返してやりたい気持ちがあったのではないかと思った。
忘れたと言いながらも、心のどこかにはかすかなわだかまりがあったに違いない。
モナは3人の幸せそうに写っている写真を送りつけて、これで気が済んだかもしれないと僕は思っていた。
病気の彼には可愛そうだが、彼が過去に取った態度はその程度の報いがあっても仕方がないことだと僕も納得していた。

ベルは本当にシャイな子だった。
ベルは最初空港で会ったときに、ちょっと握手をしただけですぐにママの後ろに隠れるほど恥ずかしがっていた。
しかし町を歩くときに、ベルは僕とモナの間に入り本物の親子のように手をつないで歩くことが好きだった。
いつもベル自ら手をつないでくる。
意外となついてくれるのが早かったなと思い、調子にのって僕がベルを抱き上げようとすると、最初ベルは嫌がった。
恥ずかしくて逃げるというより、本当に嫌そうな顔で嫌そうな態度をとった。
モナが「まだ無理よ。ベルは少し難しい子だから」と言った。

しかし僕がモナの両親に結婚の話をした頃から、ベルの態度は変わり始めた。
僕がベッドの上で寝そべっていると、一緒に遊ぼうと言ってくるようになった。
僕がベッドの上に馬の格好をすると、ベルはそれにまたがった。
僕がわざとベルを自分の背中から落とそうとすると、ベルは僕の首にしがみ付いて大喜びしながら必死に踏ん張っていた。
それでも落ちてしまうと、すぐに僕の背中に乗ってきた。
さすがにその遊びは疲れるのだが、それよりも僕は、ベルとスキンシップが取れるようになったことの方が嬉しかった。
それからベルは、町を歩きながらの肩車にも応じるようになった。
自然にスキンシップがとれるようになり、僕はようやくベルと、本当の親子になれる自信を持ち始めた。

将来彼女が大きくなったときに、本当の父親のことが何か問題になるのではないかという懸念も払拭されつつあった。
私の父親はダディーマーク一人だけと言った時の彼女は、理屈でそう思っていたのか感情的にそれを口にしたのかは定かでないが、いずれにしてもそれを口にした意思の強さのようなものを彼女に感じたからだった。
おそらくベルの中には、母親であるモナ譲りの頑固一徹さがあるのではないかと思えるほどだった。

これでベルとの間に固い絆を築くことができれば、彼女が我侭を言っているときに遠慮なく叱ることができる。
ベルが我侭をいいぐずっている時に、このままではいけないと思うときが多々あるのだが、それまではベルを叱るのが怖かった。
僕はそれがもどかしくて仕方がなかった。
きちんと言い聞かせるにも、彼女の英語力はまだまだである。
今後ベルに対する接し方、特に叱るときにどうするかは、僕の中では大きな課題だった。

僕はベルに対して、態度で叱っていることを示す必要があった。
ある程度自信がもてるようになった僕は、ベルの気になる態度を見かけたときに
「ベル!」と大声でいい、首を左右に何度か振るようにしてみた。
彼女の言動が一瞬止まり、僕をじっと見たあとで彼女は僕の言うことを聞くようになった。
それを見ていたモナは、子供にはやはり父親が必要なんだねと言った。

すでに自我に目覚め始めているベルは、これからどんどん難しい年頃に突入していくはずである。
僕はベルの親として責任を果たすために、モナの両親以上にベルとの絆を深める必要性を強く感じていたのだったが、どうやらその第一関門は突破したように思われた。

今僕とベルは日本とフィリピンで離れ離れになっているが、ベルは毎日モナに、ダディーはいつくるのか、早く会いたいなぁと話しているそうである。

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カテゴリー:国際恋愛
エントリー:リン115 娘のベル

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