フィリピーナと共に
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2009年04月29日

リン31 一軒家の購入

僕とリンは、前回のBirthdayで書いたように、幸せで順調な恋愛をしていた。

そして帰国後まもなく、家族の住む家を何とかしたいとリンから相談があった。


確かにリンの母親や子供たちの住む家は、掘っ立て小屋のように粗末で狭かった。
しかもそのエリアが、あまり環境の良い場所ではなかったのだ。

一度夜にタクシーで、リンと一緒にその家に行ったことがある。

大通りからある路地に入ると、白熱球のオレンジ色の明かりがかすかに道路脇の家から漏れているだけで、かなり薄暗くなった。
ガラッと雰囲気が変わったと思っていると、目つきの悪い上半身裸の男たちが、道のあちこちでたむろしていたり、徒党を組んで歩いていて、タクシーの中をのぞき込んできた。
酔っ払っているのか薬をやっているのかわからないが、なんとなく足元が不安定で、しかも車などお構いなしで歩いていた。
タクシーは彼らを避けるために、スピードを緩めたり停車しなければならないが、そんな時には誰かに囲まれるのではないかという緊張感があった。

タクシーが小さな路地から更に小さな脇道の前で停車した。
リンのファミリーがいる家は、その脇道沿いにあった。

僕がリンと一緒に車を降りようとしたら、ここは危ないから車の中で待っていてと制止された。
女のリンが大丈夫で、男の僕が危ないと言われるのはしっくりこなかったが、その界隈の異様な雰囲気に気押され、僕はリンの言葉に従った。
リンは「ドアロックを忘れないで!」と言い残し、足早に家に向かった。

5分もせずに戻ったリンを乗せ、タクシーはホテルに戻ったが、タクシーの運転手が路地から大通りに出た瞬間、「ふぅ〜」と息を吐き、自分の胸で十字架を切ったのだ。
それを見て、その界隈がいかに危ないところなのかを悟った。

タクシー運転手のそれを見なくても、いつも見ているセブの光景とは、そこが明らかに違う雰囲気だったことは僕にもわかった。
それだけ特別なエリアだった。

しかし実はセブにはもっとすごいエリアが存在した。
後に偶然知ることになったセブのスラム街である。

海岸沿いの幅5mほどの道路沿いに、距離で1kmほどのスラム街があった。
そこに住む人も住まいも、リンのファミリーが住んでいる場所など立派なもんだと思えるほどすさんでいた。

そこは昼の時間帯にタクシーで通っただけだったが、明るい時間でもここでタクシーから放り出されたら、きっと身ぐるみをはがされるだろうと感じるほどだった。


話を戻すが、リンが唐突に家族の家の話を出したのには訳があった。
セブシティーから車で1時間弱の場所にある知りあいの中古住宅を、買わないかと相談を受けたのだった。
相談を持ちかけた人間は、リンの後ろに日本人スポンサーがいることを知っていたに違いなかった。

その場所は、細長いセブ島を横断するようなかたちで、ちょうどセブを挟んでマクタン島と反対側に位置する田舎の町だった。
価格は400平米の土地が25万ペソ(50万)と破格の安さで、その土地に1階建の鉄筋コンクリートの家が建っていた。
家は平屋ながらも約150平米あり、広さは前の住まいに比べたら、断然よかった。
そしてあの危険地帯から抜け出せるということが、大きな魅力であった。
建物のお金はいらないが、修復が必要とのことだった。

もともと家のことを考えていた僕は、以前セブのモールで見た400万の新築住宅を覚えていた。
本格模型を置き大々的に売り出していたそれは、セキュリティーゲートがある住宅街に、アメリカのような雰囲気で住宅が並んでいた。
各家には芝生の庭やガレージがあり、そんな家が400万だったので、日本では考えられないほど安いと驚いたのだった。
しかし家具その他を入れると、おそらく500万はかかりそうだと思っていたため、足踏みをしていた。

それと比較すると、今回の物件はかなり安く感じた。
リンに、住むにはその場所はどうなのかと尋ねると、全く問題ない、むしろその話に乗りたいということだった。
僕は、本当にリンやリンのファミリーが良ければ、その話を進めようとその場で決めた。

しかしその家を購入することで、後にリンと僕の間にはいろいろないざこざが発生するのだったが、その時点でそんな事は知る由もなかった。

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カテゴリー:国際恋愛
エントリー:リン31 一軒家の購入

リン30 Birthday Party

6月はリンの誕生日の月だった。
リンと付き合い出した時は彼女は23歳で、その後すぐに24歳になった。

そしてその日、リンは25歳の誕生日を迎えた。
二人が付き合いだして、早くも1年と1か月であった。

運よく僕は会社の出張でリンの誕生日を一緒に過ごせることになった。
リンはそのことを、本当に喜んでいた。


リンの誕生日は6月9日だった。

「みんな私の誕生日なんか、すぐ忘れちゃうのよ。お母さんだって忘れる時があるんだから・・」

と言うのでリンにアドバイスをした。

「ハニーの誕生日を誰もが忘れないようにするのは簡単だよ。みんなに私の誕生日はシックスナインと言えばいい。そしたらみんなハニーの誕生日を絶対に忘れない。約束するよ。」

リンは「Oh you are very bad but its nice idea!」(ナイスアイデア)だと言って笑っていた。

実際僕は、初めてリンから彼女の誕生日を聞いた時にすぐにそれを思い浮かべた。
だから彼女の誕生日は忘れたくても忘れられなかった。


誕生日のプレゼントは指輪にした。
一緒にモールへ買いに行った。
リンの要望でペアリングにし、それぞれの指輪にお互いの名前を刻印してもらった。

当日は家族とリンの友達を呼んで、ホームバースディーパーティーをやることにした。
どこかの店でパーティーをした方がてっとり早かったが、リンの誕生日を一緒に過ごせるなんてめったにないので、手作りパーティーにしたかった。
それにフィリピンでは、そんな時はホームパーティーをするのが普通であった。

僕は当日仕事だったが、早めに上がって準備をした。
準備をしている間は、友達と一緒にお茶でも飲んで、映画でもみて時間をつぶしてくれと言って、リンと友達を外へ追い出した。

フィリピンでは、お祝い事には必ずスパゲッティーを用意する。
イタリア料理が得意だった僕は、スパゲッティーと簡単なアペタイザーを担当した。

アペタイザーといっても、トマトのスライスにカッテージチーズ、塩、オリーブオイルをかけたものと、チーズの盛り合わせ、そしてガーリックトーストを用意しただけだった。
スパゲッティーは、ミートソースを手作りで最初から作った。

リンのお母さんは、ルンピアシャンハイと、ごはんのおかずになるようにアドボを作ってくれた。
ルンピアシャンハイは細い揚げ春巻きで、カリカリの皮がおいしいつまみだった。
そしてアドボは鳥肉や豚肉を軽く酢を入れた醤油で煮込んだもので、ごはんが進む一品だ。

彼女の姪たちには、リーチョンバブイという豚の丸焼きを買ってきてもらったり、小さい子供には部屋の飾り付けをお願いした。

リンの姉には花束とケーキをを買ってきてもらった。
あとはライスに飲み物と、買ってきたピザをテーブルの上に用意して、会場はパーティーらしい雰囲気が着々と出来上がっていった。

最後は子供たちにスパゲッティーの味見をお願いした。
どうも本格的なミートソースよりは、甘めの味がよいらしく、結局はリンの姉に味を調えてもらった。

準備がほぼ出来たところでリンを電話で呼び出した。
すっかりパーティー会場になった自分の部屋に、リンとその友達3人が入ってきて、彼女たちをクラッカーで出迎えた。
リンも友達も、様変わりした自分の部屋とクラッカーの出迎えに驚いていた。

乾杯をして、リンに花束とプレゼントを渡した。
みんなの前で、二人でペアの指輪をはめた時には、ひやかしの声があがり、まるで結婚式のような雰囲気になった。

その時リンの目から涙がこぼれ出した。
ありがとうとう、本当にハッピーという声が、かすれていた。

リンが人前で泣くのは意外だった。
リンの涙を見たのはそれが3度目だったが、僕にとって一番うれしい涙だった。

僕も二人でお揃いの指輪をはめた時には、本当に幸せな気持ちになっていた。
僕はその日、慣れない指輪を何度も眺め、何度も触りながら、テキーラで少し酔っ払ってしまった。

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カテゴリー:国際恋愛
エントリー:リン30 Birthday Party
2009年04月28日

リン29 相変わらずの追加送金

リンの家族の問題はというと、それは相変わらずであった。

リンの兄の奥さん、つまり7人の子供たちの母親は一度家に帰ってきたが、また家を出た。
ただしその時は、突然姿をくらましたわけではなく、マニラで働くためであった。

兄は相変わらず、少し仕事を始めては辞めるという繰り返しで、かえって何かを始めるときに必要となるお金ばかりがかかる状態であった。

お金の話になると、リンは少し言いづらそうになった。
僕はその頃、毎月20万を送金していたが、それでは足りないような感じであった。

なぜ20万では足りないのか不思議に思い、電話でその詳細を問いただすことが多くなっていた。
為替の影響は僕でもわかるから、リンが手にする金額が多少増減するのは理解していたが、生活費がかかり過ぎている感じは否めなかった。

アパートに4万、学校に2万、リンの食費他で6万。
リンは毎週1回、母親に5000(1万)ペソずつ手渡していたが、それが月で5万。
それでも17万だ。
多少は余裕があるはずなのに、なぜか足りなくなってしまう。

リンが説明してくれると、まあ大体「そうだね」と言う感じでツジツマはあってしまうのだが、それにしてもかかるなぁとぼやいてしまう。

もっと計画的にお金を使ってほしいという要望は出すのだったが、その計画的ということがリンになかなか伝わらなかった。

最初は、文化の違いや民族性なのかと思っていたが、後にそれは自分の英語のせいではないかと思い始めた。
最初はplan(プラン)を持ちなさいという言い方をしていたが、そうではなくてbudget(予算)はこれだけだ、もしくはbudgetを考えなさいと伝えた方がいいとわかってきた。

それでこちらの言いたいことはリンには伝わるようになったのだが、それでも実際はあまり変わり映えなく、時折追加送金をしなければならなかった。



追加送金の際に、僕は文句を言うことが多くなった。
最後にリンは「its ok」と言って、お金は送らなくてもいいようなことを言う。

電話では送れないという話をして終わるのだが、7人の子供が不憫(ふびん)な想いをしているかもしれないと考えると、ついつい送金してしまうのだった。

送金後にリンに電話をし、「お金やっぱり送ったよ」と言うと、リンは「really?」(ほんと?)とひときわ甲高い声を出して、ありがとうと言いながら、本当に電話口で喜んだ。
その声を聞くと、文句を言っていた自分はどこかへすっかりと消えうせ、なんとも言えない満足感に浸ってしまうのだった。
ある意味それが僕を、送金中毒にしていたのかもしれなかった。

この毎月の送金については、僕がリンと付き合う上で最大の過ちだったと徐々に気づくのだったが、気づいた時にはどうしようもない状態になっていた。

現地では月20万というと、かなり高給取りの部類に入った。

もちろんビジネスを成功させた人で、リッチな人は大勢いた。

しかし月収で20万というと、医者や弁護士などがそのくらいはもらうかもしれないという金額で、サラリーマンではほとんどありえないような金額であった。

例えば工場で働く女の子が、1日12時間近く働いて1か月残業込み2万程度である。
日系企業工場のエンジニアクラスの男性が3万〜5万、管理職クラスで8万といった程度である。
それでもフィリピンの中では、高給取りに入る。
だからそんな日系企業で働く男性は現地では大もてで、彼らが持っている奥さんの写真を見せてもらうと、どれもこれも日本でいうと人気女優のような美人揃いであった。

田舎のモール(デパートにようなところ)では、男性は1か月2万ほどのサラリーだと聞いて、その安さに驚いたこともある。

仮に僕が毎月生活出来ないほど低い給料で、しかも不安定なアルバイトの生活をしているところへ、突然毎月銀行口座に200万や300万、いや100万でもいい、そんな金額が振り込まれ、もしそれを全部使ってしまっても、電話で依頼すると当座必要なお金がまた追加で振り込まれるような生活になったと考える。

おそらく自分の生活は、おかしくなってしまうに違いない。
仕事をせずに毎日遊んで暮らせるのだから、そんな生活にどっぷりと浸ったらもう抜け出せなくなってしまう。
それこそドラッグ中毒のようなものである。

僕はリンに対して、それをしてしまったのだ。
リンという恋人ができて浮かれていた僕には、最初はそんなところまで思慮が全く及ばなかった。
それでは気づいた時に送金を打ち切れるかというと、簡単にできるものでもなかった。

もし彼女が自分の近くで生活をしているのなら、ある程度コントロールできた。
その都度必要な分だけ小分けにして渡せるし、その使途を確認することもできた。
しかし海の向こうでの暮らしぶりは、電話だけではわからなかった。

僕にできることは、リンに文句を言いながらそれを警鐘代わりにするだけだった。

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カテゴリー:国際恋愛
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