フィリピーナと共に
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アイリーン:カテゴリの記事一覧です。

2009年09月15日

アイリーン18

彰祐はアイリーンの目をしっかりと見据えて、息を整えるように一呼吸置いてから話し始めた。

「君は若いからまだわからないかもしれないが、どんなにお金や地位のある人でも、若さだけは手に入れることができないんだ。みんな若さということに羨望の念を抱いている。若いということは、それだけ大きな可能性を持っているからだ。出会いや恋愛、仕事でも、これから生きる長さの分だけ、その人生にはすばらしいことや苦しいことが数多く待っている。そう、楽しいことばかりではない。失敗や挫折を繰り返し、そこには苦しいこともたくさんある。それは今の君のようにだ。でもそれを乗り越えたときに一皮向けた自分を見つけることができる。少し頭がよくなって、心が強くなる。そして次のステップを踏み出すんだ。それがうまく繋がっていくと、人生が充実する。最良の結果が出なくても、一生懸命がんばったら納得する。時間はたっぷりあるから、何か大きな事を成し遂げることだって十分可能だ。しかし心が折れてしまったら、そこで歩みは止まる。みすみす将来手に入るかもしれない幸せを、そこで取り逃がすことにもなる。人生とはそんなものだよ。しかし僕もそうだったが、若いときにはそれが中々分からないんだよね。だから僕は君にそれを教えている。君はそれを信じてるべきだ」
彰祐は、アイリーンを我が子として話をしていた。

「でも今の私はどうすればいいのかわからない。頼る人もいない。誰にも相談すらできないのよ」
アイリーンは少しむきになっていた。彼女の口調に初めて感情がこもったことで、彰祐はそのことを感じた。

「そうだね。君は少しハンディがあるようだ。普通は親が子供を導く過程で、少しばかり助け舟を出したりする。支えてくれる友達もいる。しかし今の君にはそれがない。それどころか、確かに今の君は身動きできない状況にある。しかし相談したり頼る人ならば、今目の前にいるじゃないか」

アイリーンはハッとして、目を見開いた。
「あなたが・・・」
「そう、現実に今僕は、こうして君の人生に関わる話をしている。僕が冗談でこんな話をしているように聞こえるかい?それは興味本位でもなければ、何かを企んでいるわけでもない。それを信じるかどうかは君次第だが、おそらく君にはそれがわかっているんじゃないかい?だから君は今、ここにいる」
「それは・・・」

今度はアイリーンが次の言葉を詰まらせた。アイリーンは彰祐に対して、ずっと不思議な印象を感じていた。昨日、初めて会って話をした時は、普通の会話をしただけなのに、確かに自分を包み込むような温かさを彼に感じた。
今日はそれに加えて、明確なメッセージを含んだ話をしてくれる。それも彰祐自身が言うように、冗談や興味本位の話しには聞こえない。彼には本当に頼ってもいいような親近感を感じてしまう。

しかしアイリーンを惑わしているのは、その親近感が、男と女の愛とは違うということだった。
もしお互いにそんな気持ちが見え隠れするのであれば、それはアイリーンにも分かりやすかった。
彰祐とのやり取りは、そんなメルヘンチックなものではなく、もっと大人の落ち着いたやり取りであり、そのようなコミュニケーションは、アイリーンにとって初めての体験だった。アイリーンは自分の考えや気持ちに戸惑いを感じ始めていた。

「あなたはなぜ私に親切にしてくれるの?」
アイリーンは彼に心を開こうとしていた。信じようとしていた。しかし最後の念を押すように、彼女は訊いた。

「僕はただあなたと話をしているだけだ。それくらいであれば簡単なことさ。大したことはない。もしそれを親切だと感じてくれるのなら有り難いけどね。いいかい、僕が君を元気付けたいと思っているのは確かだけれど、一番大変なのは君自身だ。もしこれから立ち直るにしても、過去を振り切って一歩ずつ歩を進めるのは君だよ。それを励ますくらいは、君の大変さに比べたら些細なことだ」

彰祐は自分で歯切れが悪い言葉だと分かってはいたが、この時点でどうしても本当のことを告げるわけにはいかなかった。

「あなたの態度は、親切よ。私はあなたのような人に今まで会ったことはないわ。だから本当のことを言うと、私は今戸惑っているの。私は自分を殺すことで、今の生活に耐えることができているの。夢や希望を持っていたら、とてもあの生活に耐えられない。全てを捨てたからこそ、あそこで生きていけるのよ。でもあなたは、私がようやく自分の想いを閉じ込めた箱の蓋を開けろと言っている。それは私にとって、とても勇気がいることだわ。でもあなたの話を聞いていると、もう一度夢を見てみようと思ってしまう。私の夢なんてそれこそ些細なものよ。フィリピンに帰って、家族と一緒に普通の暮らしをする。ここに比べたら、バーで働くことだって普通の生活よ。私の願いはそれだけなの。でもそれすらかなわない今の状況で、希望を持つということは本当に勇気がいるのよ。蓋を開けたとたんにさよならされたら、私はどうしたらいいかわからない。私はあなたの言葉を信じていいの?」

アイリーンは彰祐に、自分を支えて欲しいと言いたかった。しかし、もしかしたら単なる気まぐれのおせっかいを行使している人に、自分を支えて欲しいなどと直接的な表現は使えなかった。
それでも彰祐は、アイリーンの言いたいことを手に取るように理解した。そしてそれは、彰祐こそが望むことであった。

「信じていいよ。僕が君に何をしてあげられるかはわからないけれど、少なくとも君の望みが叶うまでは、君のそばにいるよ」
その言葉が、アイリーンの心に力強く響いた。

「ありがとう、特にあなたに何をして欲しいということはないの。ただ時々こうして励ましてくれるだけでいい。お願いしたいのはそれだけ。あなたとは知り合ったばかりだけれど、私はわかったわ・・、苦しいことや悩んでいることを話せる人がいるだけで、気分が全然違うってことが。少し心が軽くなった」
アイリーンに自然な笑みが浮かび、彰祐は、彼女の顔に優しさが蘇ったような気がした。

「そう言ってもらえると、僕も君と話をした甲斐があるよ」先ほどまで緊張感が漂っていた彰祐の顔も和らいで、目じりにできた小じわに優しさが滲み出ていた。
その時アイリーンは、彰祐の目に優しさが宿っていることに気が付いた。
(ああ、この目だ。私はこの人のこの目に優しさを感じ、彼を信じる気になったんだ)

「人間って、目を見るとその人の内面がわかるのね。初めて気が付いたわ」
「僕は君に信じて欲しいと思っているよ。でも、あまり簡単に人を信じない方がいいと忠告しておく。あの手の店に通う人間の言葉は特にね」
「分かっているわ。彼らの目的は一つだけだもの。今までだって、彼らはただのお客。ただの一度だって、心を許したことはないわ」

彰祐はその話を聞いて、満足げに頷いた。アイリーンは日本で見かける同年代の女の子よりも、はるかにしっかりしていると彰祐は思っていた。きっとそれは、これまで苦労をしてきたせいであり、そして紆余曲折を経て、いま凄惨な目にあっているからだろうと考えていた。それを思うと、彰祐はアイリーンが痛ましくてならなかった。

彰祐はまだ自分が父親だと名乗るわけにはいかなかったが、そろそろ自分の素性の一部を彼女に話すべきだろうと思った。

「ところで君は、ミスター喜多川を覚えているかい?」
「ええ勿論。彼には以前お世話になったし、ここにも一度、私の様子を見に来てくれたわよ。あなたはミスター喜多川を知っているの?」
「白状すると、君のことを教えてくれたのは彼なんだ。彼から君のことを聞いて、できれば力になりたいと思ってね」

アイリーンはその言葉にハッとした。
「もしかしてあなたが昔フィリピンでお世話になって人って、私の知り合い?」
「リンさんと僕の昔の恋人が知り合いなんだ」

その言葉がアイリーンに衝撃をもたらした。ようやくアイリーンの中で事情が繋がったと同時に、突然彼女の中で、懐かしさと感激の入り混じった感情がこみ上げ、彼女の大きな目に涙が溢れ出した。
自分は男に騙され、家族や知人から遠ざけられた。自分はこの世の中で孤立無援だと思っていた。仮に叔母が自分の境遇を知ったとしても、助ける気持ちなどないだろうし、兄弟や父親がそれを知ったとしても、物理的に助けることができないことを知っていた。
しかも自分は、家族にはろくに事情も説明せず、独断専行でシンガポールに渡ろうなどと考えたから、自分に天罰が下ったのだと諦めていた。
しかしそうではなかった。故郷の家族や知人は、自分のことを気にかけてくれていたのだ。

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カテゴリー:アイリーン
エントリー:アイリーン18
2009年09月14日

アイリーン17

売春宿の入り口に入ると、前日受付けに立っていたヤンが仲間とカードをやりながら、横目で彰祐を見てニヤリと笑った。ヤンは前日に訪れた彰祐を覚えているようだった。
ガラス張りの部屋の中には、一人も女の子がいなかった。昼と夜が逆転している世界である。早い時間から開店しているわけがなかったが、彰祐はそんなところまで考えが及んでいなかったことに、その場で気が付いた。
おそらくアイリーンもまだ寝ているのだろうと思った瞬間に、ヤンがカードを続けながら声をかけてきた。

「ウライかい?彼女だったらもう起きてるよ。営業時間外だけれど、彼女と遊んでいく?」
「もし彼女が起きているのなら、少し会いたいな」
「ちょっと待ってな」といい、ヤンはカードをテーブルの上に置いて、店の奥に入っていった。5分後ヤンがさっきとは打って変わった愛想笑いを浮かべ、彰祐の前に一人で戻ってくるなり、「何分?」と聞いてきた。

彰祐が財布から100SD(6500円)を取り出し、ヤンに渡そうとした時、Tシャツにジャージの下をはいたアイリーンがやってきた。
アイリーンはヤンが部屋にやってきた時に、まだ時間が早いことを理由に客を取ることを断ったのだが、前日の日本人の客だと聞いて会うことを了承したのだった。

彰祐はヤンに向かって「もし彼女が良ければ、外でランチでも食べたいのだけれど、ここはそれが許されるのかな?」と訊いた。
「本当は外で会うのは禁止だけれど、特別にお願いするんだったら見なかったことにするよ」と、卑しい目つきでヤンが答えた。彰祐はヤンの意味するところをすばやく察し、財布から更に100SDを取り出し、ヤンに合計200SDを渡した。
そして今度はアイリーンに、「君はそれでもいいかな?」と声をかけた。
「たまには外に出るのもいいかもね。ちょっと待ってて、着替えてくるから」

アイリーンはジャージをジーンズにはきかえただけで、すぐに戻ってきた。
彰祐には、Tシャツにジーンズ姿で化粧のないアイリーンが、どこにでもいるような普通のあどけない女の子に映った。そんな姿を見ると、とても売春宿で仕事をしている子には見えない。
外に出る際、ヤンはアイリーンに携帯を渡し、1時間毎に自分に電話するように言った。

外の通りに出ると、強い日差しにアイリーンがひるんだように顔をしかめ、目の上に手をかざしながら歩き出した。
「厳しいね。電話はいつものことなの?」
「お客と外に出るのは初めてよ。外へ誘うお客はいないし、もし言われても断るわ。でも外出するときはいつもそう。逃げられたら大変だから、いつも連絡が取れるように携帯を持たされるの。私が電話しなくても、きっと彼から電話がかかってくるわ」
電話連絡の事など鼻にもかけない調子でアイリーンが答えた。

「なぜ僕の食事の誘いは断らないの?」
「さあ・・、たまたまは外に出てみたくなっただけよ」
「ところでどこで食べたらいいのかわからずに誘ってしまったけれど、近くのホテルのレストランでいいかな?」
「この辺りには気の利いたホテルはないわよ。それより小さなレストランならゲイランロード沿いにいくつかあるわ。少し歩くと大きな公園もあるわよ」

二人は車が行きかうゲイランロードを肩を並べて歩いていた。街路樹が植えられた広い歩道は、車が多いにも関わらず散歩道として悪くなかった。
彰祐は周囲の景色を眺めながら、時折アイリーンの横顔を盗むように見ていた。彼女が自分の娘だという実感を持つまでには至っていないが、しかしその子が自分の娘だと思うと、言いようのない不思議な想いが胸の内を占めてくる。何よりも、彼女が今自分の手の内にあることに、安らぎと安心感を抱いていた。いっそこのまま、彼女を連れてシンガポールの外へ逃がしてやりたい衝動に駆られるのだった。

彰祐は道から少し奥まったところに、こじんまりとした喫茶店のような店を見つけた。店の前にはテーブルが並び、その上を覆った重なり合う木々の葉が、強い日差しを遮っている。
「ここはどうかな?簡単な食事くらいはできそうじゃないかい?木陰で外の空気を吸いながらゆっくり食事をしたいな」

二人がテーブルにつくと、すぐに店員が水の入ったボトルとグラス二つを持ってやってきた。アイリーンはコーラとハンバーガー、彰祐はコーヒーとサンドイッチを注文した。

外のテーブルについている客は、彰祐とアイリーンの二人だけだった。店の中には数組のカップルらしい客がいるだけである。騒がしい音楽がかかっているわけではなく、ログハウスのようなたたずまいの店に似合った、落ち着いた雰囲気が満ちており、それが彰祐の気持ちを楽にしていた。

「日本ではこんな風にリラックスできる店は少ないんだ。日本以外の国には、どこでも自然の中に溶け込んだ、ゆったりと過ごせる店がたくさんあるんだけどね」

そんな彰祐の言葉にアイリーンは答えず、「本当にまた来たのね」と彰祐を見ながら彼女は静かに言った。そう言われて、彰祐の中で一瞬時間が止まった。

アイリーンはいつも淡々としている。感情というものを、まるでどこかに置き忘れてきたかのような話し方や態度だった。
しかし彰祐は、そこに冷たさのようなものは感じなかった。彰祐はこれまで、普段愛想が良くても、いざとなると氷のように冷たくなる人間を散々見てきた。逆に歯に衣着せぬ物言いで、愛想のかけらもないような人間が、実は本当に信じるべき人間だったという経験も数多くしている。相手を観察しその本質を見抜く力を備えている彰祐のアンテナには、アイリーンは後者に映っていた。
それが親子の絆が成す技なのか彰祐にはわからなかったが、少なくとも彼女と一緒にいると、彰祐の心は和んだ。

それはアイリーンも同じだった。それまでたった一度しか会っていない客に、自分のプライベートな時間を割くことなど、今までの自分では考えられないことだった。それだけ彰祐との会話は、アイリーンの心に何かを残していた。なぜそんな気持ちになるのか、彼女は不思議だったし、彼女は無意識にその理由を知りたくなっていた。

「今日はここに来るつもりはなかったんだけど、とつぜん君に会いたくなった」彰祐は照れ隠しで頭をかきながら、正直な気持ちをそのまま言葉にした。
「なぜ?」
「なぜ・・・う〜ん、それは僕も知りたいな。ただ君といると気持ちが安らぐよ」
「自分で理由がわからないの?人を心から好きになると、なぜ好きなのか理由がわからないそうよ。可愛いとか優しいとか頭がいいとか、指を折りながら好きな理由を言ってるうちは、それは本物の恋じゃないんだって。あなたはそれじゃないの?」アイリーンは珍しく笑みを浮かべて、冗談めかして言った時に、頼んでいたドリンクが運ばれてきた。

「その話しは興味深いけれど、それとは違うな」
「嘘でも、そうだと言えばいいじゃない。あなた女性にもてないでしょ」
「そうだね。だから今でも独身なんだな、きっと」
「え、あなたは独身なの?今まで一回も結婚したことないの?」
「そうだよ。残念なことに、今まで女性に縁がなくてね」
「恋人もいないの?」
「若い頃に恋人と呼べる人が一人だけいたよ。そこで運を使い果たしたかな・・ははは」
「おかしいな。あなたは優しい人なのに・・なんで恋人ができないの?」
「ずっと仕事だけを一生懸命やってきたから。僕は会社の責任者だから、今まで必死だったんだよ」
「それであなたの人生は幸せといえるの?家族がいなくて、寂しくない?」
そう言ってから、アイリーンは「ごめんなさい。それは余計なことだったわね」と自分の言葉を取り消すように謝った。

その時、オーダーをしていたハンバーガーとサンドイッチを、若いウエイトレスが持ってきた。ハンバーガーは、大皿に丁度収まるほどの大きなサイズで、ナイフとフォークで食べるアメリカンタイプだった。
彰祐はアイリーンに食事を促してから、言葉を続けた。

「確かに君の言う通りかもしれない。人間は働くだけじゃだめだね。一生懸命働いているうちは夢中で余計なことは考えないけど、歳を重ねるとそのうち、自分は何のために働いて、何のために生きてるんだろうなんて考えるようになるんだ」
「歳をとらなくても、同じことを考えることはあるわ」アイリーンは背筋をぴんと伸ばした姿勢を崩さずに、まっすぐ彰祐を見ながら抑揚のない口調で言った。

「君の言いたいことはわかるよ。でも君はまだ若い。これからいくらでも人生を変えることはできる」
その言葉にアイリーンは、表情を一層硬くしながら答えた。
「人間にはどうしようもないこともあるの。今のわたしがそう。あなたにはそれがわかっているはずよ」

彰祐は再び言葉に詰まってしまった。
もうすぐ君をあの暗黒の世界から助け出してやると、声を出してアイリーンを勇気付けたかった。しかしまだそれを告げるわけにはいかなかった。
余計な希望を持たせた後に、もしそれが失敗に終わった場合、彼女を更に奈落の底へ突き落とすことになりそうな気がするからだった。それについてはもう少し確信を持ってから、彼女に伝えたかった。
しかし、自分の素性だけは明かした方がいいだろうと思っていた。彰祐はそのタイミングと、どのように話をすべきかを考えていた。
ただし父親であることは伏せておかなければならない。自分はお前の実の父親だなどと唐突に話をしても、それは彼女の混乱を招くだけである。それはアイリーンをフィリピンへ返し、彼女が落ち着いてからの方が良かった。


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カテゴリー:アイリーン
エントリー:アイリーン17
2009年09月13日

アイリーン16

第8章
ゲイランの売春宿を出た彰祐は、暑いシンガポールにいるにもかかわらず寒々とした気分に襲われていた。初めて会ったアイリーンの顔には、はっきりとメリアンの面影が読み取れたし、そしてその顔はチャイニーズ系のフィリピーナのようでもあった。それは日本人の血が混ざっているからであって、彰祐は直接会ってみて、アイリーンが自分の娘だということを確信した。その娘が、シンガポールの裏世界でさらし者になっている。自由を奪われ、薄暗い一室で日々を送っている様子を、その目で確かめてきたのだ。

大通りに出た彰祐であったが、タクシーをつかまえることが中々できずに、宿泊しているホテルのあるオーチャードの方角に歩いていた。所々にある沿道の喫茶店では、どこも丁度その頃開催されていたワールドカップのサッカーをテレビ観戦する人々でごった返していた。人々がサッカーで熱狂する姿が、彰祐にはまるで絵空事のように思えた。
道行くタクシーを見逃すまいと、時折振り返りながら歩いているが、10分歩いてもつかまらない。シンガポールではどこでも、タクシーをつかまえるのが大変だった。デパートの前でもタクシー乗り場の前は、いつでも人々が長蛇の列をなしている。
道端で立ち止まりタクシーが来るのを待っていた方が楽だったが、それでも彰祐は歩いている足を止めることはできなかった。気持ちが何かにせかされて、じっと立ち止まることができなかった。それはホテルについてからも同様だった。部屋でのんびりとする気分にはなれずに、ついつい表に出てふらついていた。その夜は適当なバーに入り、遅くまで酒を飲んで過ごした。

昨夜寝たのは深夜2時にも関わらず、彰祐が目覚めたのは朝の6時だった。その日はかねてから知っている弁護士のサイモンを訪ねることになっていた。約束は午前10時だったからもっとゆっくりとできたのだが、彰祐の気ははやっていた。朝食を適当に済ませ、8時過ぎにはホテルを出ていた。彼は弁護士事務所のあるシェントンウェイまで、少しでも早く近づきたかったのだ。オーチャードにあるホテルからシェントンウェイまでタクシーを使えば、ほんの10分で到着する。距離にして2キロほどしか離れていない。彰祐はその2キロを歩いてサイモンのオフィスに向かっていた。

弁護士のサイモンとは電話で約束をしていた。彼のオフィスはシンガポールの高層ビル群があるシェントンウェイ3番地の、周囲のビルと比較するとやや見劣りする古いビルの一室になっている。サイモンには詳しい要件までは話していないので、きっと彼はいつものビジネス上の話だと思っているに違いない。まさか一人の少女を売春宿から救い出す相談などとは、夢にも思っていないはずだ。

サイモンは中国系シンガポール人で、彰祐がシンガポールでビジネスを初めて展開した5年前からの付き合いだった。彼はまだ30歳半ばと若く、しかも小柄で頼りなく見える人物だったが、実際にビジネスを始めると、ビジネスパートナーの人物や財務調査、契約関係、行政機関への届出関係など、的確なアドバイスと事務処理をこなしてくれた。眼鏡をかけたサイモンは、中国系のシンガポール人に多い神経質そうな印象を漂わせた、とっつきにくい人物だったが、付き合いが深まると、冗談を言うようになりお互いに打ち解けあい、またその実直な仕事振りが信頼に値する人物であると彰祐は評価していた。そして彼が普段取り組んでいる案件は、欧米や日本企業のビジネス上のものが多く、行政関係に太いパイプを持っている点で、今回の相談相手としても適任だと彰祐は思っていた。
サイモンのオフィスビルには、9時前に到着した。約束の時間まで1時間もあったので、近くのコーヒーショップで10時まで時間をつぶした。

久しぶりにサイモンのオフィスに入ると、中はひんやりと冷房が利いており、汗で濡れたシャツが背中に触ると冷たかった。事務職員3人が黙々とパソコンを相手に仕事をしている。窓のブラインドがおろされ、部屋の中には大きな観葉植物が一つ置かれていた。どちらかというと殺伐とした静まり返っている部屋に、空調から吐き出される風の音と、パソコンのキーを打つ音だけが妙に大きく響いていた。若い女性一人が彰祐に気付き、仕事の手を止め歩み寄ってきた。

「久しぶりね、ミスター沢木。ボスがあなたを待っているわ。彼の部屋へどうぞ」
彼女に案内され、彰祐は丁度一年ぶりにサイモンの部屋へ通された。一つ奥の部屋がサイモンの部屋となっている。久しぶりに顔を出した彰祐に、サイモンがすぐに椅子から立ち上がって歩み寄ってきた。
「久しぶりだね、ミスター沢木。ビジネスは順調かい?」と言いながら、サイモンが握手の手を差し出してきた。彰祐も「久しぶり。元気そうだね」と挨拶を返しながら、右手を差し出しサイモンと握手を交わした。
二人は小さなテーブルを挟んで、ソファーに腰を下ろした。すかさず先ほど案内をしてくれた女性が、冷たい飲み物を持ってきてくれた。

「ミスターサイモン、今回はビジネスの用件ではないんだ。実はプライベートのことで相談とお願いがあって、ここへ来たんだ」
彰祐が世間話もせずに、いきなり用件を切り込んだ。サイモンの顔に一瞬怪訝な表情が浮かんだが、彰祐はかまわず続けた。
「これから話をすることで、もしあなたが私を助けることができないなら、誰か他の適任者を紹介して欲しい」
静まり返る部屋の中で、彰祐はこれまでの経緯をサイモンに最初から順を追って説明した。それを聞くサイモンの顔からは次第に笑みが消えていき、彼は時折冷たいお茶を口に運び、簡単な相槌を打ちながらも一気に彰祐の話を聞いた。

「それはとても深刻な話ですね。アイリーンを売り飛ばした組織が問題です。それはおそらく、アジアにまたがるマフィア組織の一つです。それらの組織については、これまで何度も噂を聞いたことがあります。そこがまだ絡んでくるようだと、少し厄介そうですね。売春宿だけであれば、おそらくお金で決着できると思います」
「お金についてはできるだけ用意するつもりです。それとこの問題に決着を付けることができたら、あなたにもそれなりの報酬を支払う用意がある。とりあえず今日着手金を置いていくつもりだが、力になってもらえるだろうか?」
「わかりました、ミスター沢木。まずは事情を調査してみましょう。この類の話は、表から調査をしても最良の解決策は見えてきません。まずは裏事情に詳しい連中から情報を集め、詳細が見えてきたら、表から攻めましょう。ゲイランの売春宿は行政の管理下です。彼らは役人に弱い。そこは役人を絡めて話を持っていった方がいいかもしれない。あなたの娘さんのケースは、明らかに違法な人身売買によるものです。正攻法でいっても良いのですが、それだと時間がかかることと、マフィアの面子の問題が残る可能性がある。場合によっては、役人の袖の下を用意してもらうかもしれません。進め方は逐次相談をしながらで良いですか?」
「ええ、お願いします。とにかく娘をできるだけ早く、しかも安全にあそこから救い出してやりたい。方法は任せます」
「わかりました。この件は引き受けます。あなたの娘さんはこうして助けてくれる人がいて、ラッキーですね。あそこでは、他にも同じような境遇の子がたくさん働いている。でもほとんどが泣き寝入りですよ。自分たちの力だけではどうにもならない」
サイモンは次の言葉を飲み込み、無言で首を左右に振った。

彰祐はそんなサイモンの前に、現金3000SD(約20万円)の入った封筒を着手金だと言って差し出した。成功報酬は実費を除いて6000SD(約40万)だと提示し、勿論サイモンの同意を得た。彰祐はその金額が多いことはわかっていたが、ぶら下げる人参が大きいほど、速やかにかつ確実に問題が解決するように思えたから、最初からその数字を用意していた。家族のいない彰祐にとって、その程度の金額はそれほど無理をしているものでもなかった。
「わたしはしばらくマンダリンホテルに滞在している。とりあえず一週間で目処をつけて欲しい。できますか?」
「わかりました。明日から調査を開始します。ミスター沢木、実費は2000SDほどかかるかもしれませんが、よろしいですか?」
「構いません。くれぐれもアイリーンの身の上に危険が及ばないよう、それだけは気をつけて進めて下さい。事前に売春宿の店主に話が漏れることがあると、例の組織も動き出す可能性がある。もう一点、私がアイリーンの父親であることは、折を見て私自身から彼女に話をするつもりです。ですからそのことも伏せてくれるようにお願いします」
「わかりました。ミスター沢木の提示した報酬範囲内で、もしかしたらその手の問題に詳しい同僚の手を借りるかもしれませんが、その点は十分気をつけます」

サイモンのオフィスを出た彰祐は、まだ尚落ち着かなかった。娘のアイリーンに会ってしまったことが、彼の心から平静を奪っていた。話で聞くことと、実際に自分の目で確かめることとは、天地が逆転するほど彼の心に及ぼす動揺の度合いが違っていた。前日会ったばかりだというのに、彼はまたアイリーンに会いたくなっていた。昨日は、あまりにもいたたまれなくなり彼女の部屋を早々に切り上げた。しかし一段落すると、もう一度彼女とじっくりと話をしたくなってきた。しかし彼女の前で、平静を装うことができるだろうかと、その自信も持てずに、やりどころのない気持ちをもてあましていた。

他にもすべきことはあった。シンガポールに来ることは、フィリピンにいるメリアンにも話していたから、彼女に経過を報告しなければならない。アイリーンを助け出した後、それからどうするかについて考える必要もある。しかし彰祐の頭は、普段の社長業をしている彼とは全く別人のように、どれをどの順番で片付けていいのかさえわからなくなるほど、混迷を極めていた。

メリアンと別れ、その後20年も彼女達とは全く別の世界で、がむしゃらに生きてきた彼である。メリアンのことは忘れていなかったが、彰祐の中で彼女はとうの昔に別世界の人間になっていたし、彼女にとってもそれは同じはずだと彰祐は思っていた。
しかし彼女は、彰祐の分身と信じていた娘と長年一緒に暮らしながら、彰祐を常に身近に感じながら過ごした20年だったのだ。自分のその気持ちと、メリアンの気持ちのあまりに大きいギャップを考えた時、彰祐の中にはとてつもなく大きな、罪悪感に似た感情が沸き起こっていた。彰祐はどこから償っていき、どのように修復していけば良いのかも見当がつけられなかった。いや、そもそも修復できるものなのか、それすらわからなかった。しかもよくよく考えると、何を修復するのか、それもわからなくなっていた。

そして血の分けた娘が、車で30分足らずのいかがわしい場所で働かされている。この複雑な事実と状況が、ビジネスの世界に20年も埋没していた彰祐の心を突然揺さぶりかけたのである。混乱するなという方が無理だった。
ただ自分の気持ちに正直の応えるのであれば、彰祐はアイリーンにすぐにでも会いたかった。彼は目の前を走るタクシーに衝動的に手を上げていた。通常であれば止まらないタクシーが、その時に限って目の前に停車しドアが開いた。彼はタクシーに乗り込み、「ゲイラン18」と告げた。


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