フィリピーナと共に
ブログ構成がわかる目次はここから入れます

アイリーン:カテゴリの記事一覧です。

2009年08月22日

アイリーン9

ふと気が付くと、部屋の入り口に若い女性が立っていた。氷のように冷ややかな雰囲気を漂わせた美しい女性を見たときに、アイリーンは、彼女がその家の主であることを直感した。
「ママはどうしたんですか?なぜ急に倒れたの?」
「さっきドクターに診てもらったわ。彼女は急性肺炎を起こしているようよ。熱も高くなってる。薬が効いているいまのうちに、セブの病院に移した方がいいわ」
「でもうちには病院に入るようなお金は・・・」アイリーンの声が、そこで途切れてしまった。
「お金はわたしが何とかする。もしあなたたちが良ければ、いますぐセブにいくわよ」
「でもそんなお金、返せるかどうかわからない」アイリーンの目からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ出していた。
「今はそんなことを考えている場合じゃないでしょ。アイリーン、あなたはメアリーの着替えを家から持ってきなさい。それからアニー、あなたはレイにメアリーが倒れたことを伝えなさい。マルセルは貸切りの車を一台ここに連れてきなさい。30分後にここをでるわよ」
ハッと我に返ったように、アイリーンは母親のそばを離れ、涙を拭いた。
そのとき女主人の携帯が鳴った。彼女は電話にでながら廊下に出た。ビサイアではなく英語の会話なので、相手は地元の人間ではない。彼女の姪たちは、その相手が誰であるかすぐにわかった。

「・・・そう、メイドが急病で倒れてあぶないの・・・ハニー・・そう200タウサント・・わかった、病院は・・ありがとう」
アイリーンは、あれこれ考えている場合ではないと悟った。
「アニー、お願い。ダディーにこのことを伝えて。ダディーはきっとロンの家の前にいるわ」アイリーンはアニーの両肩に手を置きながらそう言い、自分も女主人にペコリと頭を下げて、部屋を飛び出していった。

時間通りにアイリーンとアニーが戻ってきた。レイはいつもの場所にはいなかったために、連絡がつかなかったらしい。車は既に家の前に待たせてあった。
「そう、仕方がないわね。それじゃもうこのまま行くしかないわね。マルセル、わたしは一緒にセブについていくから、後はお願いね」
メアリーを車に乗せるために、彼女を起した。うっすらと目を開けたメアリーに女主人は言った。
「メアリー、これからセブの病院に行くわよ。車で行くからもう少し我慢してね」
「病院なんて、わたし、行けない。恥ずかしいけど、そんな、お金はないの。家に、帰ります」
メアリーの声は、熱のせいで弱々しく途切れがちだった。

「お金のことは私が何とかするから気にしないで。さっきドクターに診てもらったけれど、ちゃんとした病院に行ったほうがいいって言われたわ。あなたの子供たちもみんな心配しているわよ。さあ、いくわよ」
「ママ、お願い。病院に行って。私も働くから、お金は心配しないで」アイリーンが目に一杯の涙を浮かべ、メアリーの手を握りながら言った。
「ごめんなさい、リンさん。本当に迷惑をかけて」メアリーはアイリーンから女主人に視線を移し、ベッドの上で腰を折るように深々とお辞儀をしたが、その姿にはもはや生きる力が尽きかけるような弱々しさが漂っていた。


アイリーン、そして彼女の子供たち、そして女主人のリンは、家の前に待たせてあった貸切りのワンボックスカーに乗り込み、リンが「セブまで1500でお願い」と言った。ドライバーは無言で車を発信させた。通常であれば、セブに行く人間を7〜8人集め、一人150ペソで運ぶ。だから満員時の運賃に少し色を付けた価格で、ドライバーに文句はないはずだった。

セブまでは一つ山を越えなければならない。車がカーブに差し掛かるたびに体が揺れる。車の中では目を閉じてぐったりとしたメアリーの体を、アイリーンが隣で抱きかかえるように支えていた。肌を通してメアリーの熱の高さが伝わってきた。

先ほどママがリンと呼んでいた女主人は、サングラスをかけて助手席に座り、まっすぐに車の行く手を見つめている。あの若さで田舎とはいえ大きな家を持ち、そしてママの入院に対する決断力や的確な指示を出したこの女性は、いったい何者なのだろうとアイリーンは考えていた。
一見何事にも動じない氷のような冷たい印象を持つ女性だが、これまでも彼女には、細かいことで助けてもらっている。今回もこの人のおかげで、ママをきちんとした病院で診てもらう事ができる。
アイリーンは「リン、さん・・っていうんですか?今回は本当にありがとうございます。あなたがいなかったらどうしたらいいかわからなかった」とあらためてリンの後ろ姿にお礼を言った。リンはチラッと後ろを振り向き、一言だけ「イッツオーケー」と返し再び前方に目を向けた。

セブの病院へいったメアリーは、即入院となった。
「彼女は心臓が弱っているようですね。かなり無理を重ねてきたのではないですか?とりあえず今問題なのは急性肺炎です。抗生物質を投与しましたが、正直それで熱が下がらなければあとは手の施しようがありません。いずれにしても今夜が峠だと思われます。とにかく本人の気力と体力に期待して様子を見ましょう。」と宣告された。
ベッドの上で点滴のチューブを腕に付けられたメアリーは、相変わらず高い熱で意識が朦朧としていた。子供たちはメアリーの傍らから片時も離れず、彼女を見守っていた。窓の外はいつの間にか暗くなりかけている。

「アイリーン、ちょっといい?」リンが廊下の方へアイリーンを手招きした。
「レイがようやくつかまったようよ。今マルセルから電話があったわ。今日はここへこれないようね。とにかくメアリーの熱が下がるのを待ちましょう。それから子供たちの食事はジョリビーで何か適当なものを買ってくるけど、それでいい?」
「何から何までありがとうございます」アイリーンは見た目の印象とはまるで違う、リンの優しさと気配りに心から感謝した。
そこへ見知らぬ男がやってきた。フィリピン人ではないが、アイリーンにはどこの国の人なのか判断できなかった。
「ハニー、ごめんなさい。大変なことになっていて・・」リンが彼をハニーと呼んでいることで、アイリーンはその男がリンの恋人であることを知った。

「それで様態はどうなの?」彼もまた英語を使っていた。「思わしくないわね。今夜が峠だと言われたわ。今彼女には子供たちがそばについている。お願いがあるんだけどジョリビーで子供たちの食べ物を買ってきてくれない?」
そして思い出したようにリンは言った。「ハニー、この人はメアリーの娘でアイリーン」と言ってから、リンは次にアイリーンの方を向いて「彼は私の恋人の勇也、喜多川勇也よ。彼は日本人」と紹介をしてくれた。アイリーンにとって初めて見る日本人だった。彼女は頭の中で「ユウヤ、ユウヤ」とその日本人の名前を反復した。
「始めまして。お母さんは気の毒だったね。早く良くなることを祈っているよ」と勇也は真剣な眼差しで語りかけてきた。

勇也はリンに「あれはオーケーだから。あとで・・」といい、リンも「ありがとう」と答えた。アイリーンには何のことを話しているのかわからなかったが、二人の間には以心伝心のような物があると感じ、リンと勇也が昨日、今日の付き合いではなさそうだということがその雰囲気から伝わってきた。
「ハニーが病院に連絡を入れてくれたおかげで助かったわ。おかげですぐにドクターに診てもらえた」
「どういたしまして、それはよかった」
フィリピンではお金がないと、病院に死にそうな人を担ぎこんでも門前払いをくらってしまう。勇也は病院に、自分は日本人であること、そして勤め先を告げ、お金は自分が保証するから、リンという女性が到着したら、彼女が連れてくる病人をすぐに診て欲しいとあらかじめ連絡を入れていた。このような場合、フィリピンでは日本人というブランドが効力を発揮することを、勇也はよく知っていた。
「それじゃ僕はジョリビーに行って、何か食べ物を買ってくるよ」と言い残し、勇也は立ち去った。

メアリーの熱は夜中になっても下がらなかった。子供たちは母親の傍らで、ただただ神に祈りを捧げるばかりであった。メアリーの意識は相変わらず混濁しており、ただ目を閉じてベッドの上に横たわっているだけだった。まだ幼いカミルやサリー、ジミーは、病室の床の上で膝を抱えながら居眠りをしていた。メアリーの傍らに立ったまま付き添っていたのは、アイリーン、アニー、マックの3人であった。
勇也は翌日仕事があるからとホテルへ戻ったが、リンはその場に残っていた。

「私も何年か前に、同じように死にそうになったの。高熱が続いて、ドクターにはフィフティーフィフティー(生死の確立が半々)と言われたらしいわ。でも神様に、お前はまだ生きなさいって言われた。あなたのママのことも、きっと神様が決めるわ。あなたたちも少しやすんだらどう?」
リンは3人の子供たちに声をかけたが、どの子もそれに従う気はないようだった。

↓宜しければどうかポチっと m(__)m
人気ブログランキングへblogram投票ボタン



posted at 07:00
Comment(4) | TrackBack(0)
カテゴリー:アイリーン
エントリー:アイリーン9
2009年08月21日

アイリーン8

そんな空気を察してか、彰祐は話題を切り替えた。
中国人がいかに戦略思想に富んでいるかとか、アメリカも同じで彼らの天敵は最後は中国人になるだろうとか、イギリスの料理はまずい、シンガポールの方がはるかにうまいなど、アイリーンが頭の中で思い描くことのできない未知の世界の話ばかりであった。中には難しすぎて、アイリーンがさっぱり理解できない内容もあるのだが、彰祐がそれを敏感に察知すると、説明の仕方を変えたり話題を切り替えるなどして、アイリーンが退屈しないように気を使っているのがわかった。

「とにかく僕は仕事で色々な国を見てきたよ。でもその中でフィリピンは一番印象に残る国だったよ」
「なぜ?」
「それは一言で言うと、あの国の空気かな?どこの国とも違う、何か引き込まれしまうような空気があった」
「私にはよくわからないわ。私はフィリピンよりも日本の方がずっといい国に思えるけど」
「それは価値観の違いかもしれないね。日本は住んでみると疲れる国だよ。何から何まで整然としすぎているから、面白みもない。まああなたには、わかりにくいかもしれないけどね。良かったらそのうち日本に招待するよ」
と、その時彰祐は突然時計を見ながら「ごめん、今日はこれから少し行きたいところがあるから、もう帰ることにするよ。また寄らせてもらうから、よろしくね」と不意をつくように言った。

「え?でもまだ時間は半分も残ってるわよ」と言いながら、アイリーンは少し混乱した。
もう帰るという彰祐のその言葉に、アイリーンは、何となく掴みかけていた彰祐のことが、全てリセットされてしまうような気がしたのだ。
既に立ち上がり帰ろうとしている彰祐を見ながらアイリーンは、もう少し話をしてというお願いの言葉を、咄嗟に飲み込んだ。

立ち上がった彰祐は、ズボンの後ろから黒皮の財布を取り出し、その中から100SD(6500円)を抜き出してアイリーンに差し出した。
「これは何?」
彼女は彰祐が何か勘違いしているのかと本気で思った。料金が60分で60SD(3900円)なのに、100SDもチップをくれる客は見たことがなかったからだ。
「こういうのは、この場所ではチップとは呼ばないの?」という彰祐の言葉に、やはり彼女は耳を疑った。素直に受け取りたい気持ちとは裏腹に、彼女の口からは「そんなにたくさんチップをくれる人はいないわよ。しかもただ話をしただけで。あなたはクレイジー?」という言葉が出ていた。
「ははは、そうかもね。大丈夫だよ。あなたに何かお願いしたりしないから、これは素直に受け取っておいて」と、彰祐は手に持った100SDをベッドの上に置いて、すぐにドアのキーを外してからドアノブに手をかけた。
アイリーンはベッドの上に置かれた100SDをチラッと見てから、狐につままれたような感覚を引きずりながら、彰祐の後を追うように廊下へと出た。彰祐は構わず出口に向かって歩いていた。
そして顔だけアイリーンの方を向け「また来るよ」と笑みを浮かべながら言い、立ち止まりもせずに店の外へと消えていった。

部屋に戻ったアイリーンはベッドの上に置かれた100SDを見つめながら、まだ何が起こったのかわからない、不思議な感覚に包まれていた。
彼女はシンガポールに来て、人の心に触れたのが2度目のような気がしていた。
1度目は、かつてフィリピンで会った、喜多川勇也だった。彼は自分のことを心配して、1度会いに来てくれた。そして今回が、もしかしたら2度目かもしれない。かもしれないというのは、アイリーンは、彰祐がどんな意図があり自分に会いに来たのか、まだ掴みかねていたからだった。しかし彼女は彰祐に、喜多川勇也と、同じ匂いを感じ取っていた。それは理屈ではなく、彰祐と話していた時の安心感や、癒されるという感覚からくる、直感めいたものだった。

最後に彰祐が言った「良かったら日本へ招待するよ」という言葉が、アイリーンの頭の中で、彼女の意思とは関係なく反芻されていた。
その時店から出た彰祐は、先ほどとは打って変わった険しい顔つきで、ゲイラン18通りを大通りに向けて歩いていた。


第4章
先ほどまで激しく降っていた雨がうそのように上がった。フィリピンの天候は変わりやすい。
アイリーンは妹のアニーと一緒に、菜園から今日のおかずになるキャベツとナスを収穫にきていた。野菜にはまだ雫がたっぷりとついている。
「アニー、そこに大きなナスがあるでしょう。それをとって」と言いながら、アイリーンは大きなキャベツを二つ収穫しようとしていた。その間にアニーはナスを十個ほど摘み取っていた。
トマトが一個、赤々と熟していたので、ついでにそれも摘んだ。フィリピンでトマトは野菜としてみなされない。トマトはスパイスの扱いになる。醤油、酢に、こまかく刻んだトマトやたまねぎを入れ、青唐辛子を入れたら、焼肉のたれのようにして何でもそれにつけて食べる。日本のようにトマトをそのまま食べる習慣はない。しかしアイリーンはトマトを丸かじりするのが好きだった。兄弟は誰一人それを真似るものはいない。トマトをそのまま食べるのは、家族の中でもアイリーンだけだった。野菜を抱えて家に戻る途中、アイリーンは摘んだばかりのトマトに噛り付いていた。

あとは母親のメアリーの帰りをまつばかりであった。メアリーメイドの仕事に出かけているたが、もうじき帰ってくる時間だった。
家のドアががたごとと音を立てたので、メアリーが帰ったのだと思った。しかし入り口から聞こえてきたのは、若い女の声だった。

出てみると、そこには息を切らしたマルセルが立っていた。マルセルは母親がメイドをしている家に住んでいる娘で、アイリーンは年が近いこともあり、以前何度か話をしたことがあった。
「アイリーン、メアリーが大変なの。突然倒れて今うち休んでいるから、すぐに一緒にきて」よほど急いで来たのか、マルセルは息を切らせていた。
「え?ママが?」突然のことで頭が真っ白になった彼女は、それ以上言葉が出てこなかった。妹や弟たちも、その言葉に一斉に動作が止まった。
「とにかくみんなきて」とマルセルに促され、ようやくみんなが我に返ったように、動き出した。

子供7人の集団が、マルセルの家に小走りで向かっていた。雨上がりの舗装のない道はところどころに水溜りがあり、急ぐみんなの足を泥だらけにしたが、アイリーンにはそんなことに気をつかう余裕などなかった。
マルセルの家につくと、メアリーがベッドの上に寝かされていた。唇の色が紫に変色し、明らかにいつもと違う母親の顔に、アイリーンは狼狽した。
子供たちはメアリーのもとへ駆け寄り「ママ、どうしたの?だいじょうぶ?」と、それぞれが声をかけた。

↓宜しければどうかポチっと m(__)m
人気ブログランキングへblogram投票ボタン



posted at 07:00
Comment(2) | TrackBack(0)
カテゴリー:アイリーン
エントリー:アイリーン8
2009年08月20日

アイリーン7

第3章
ある日の夜、見慣れない日本人客が店に入ってきた。髪をきちんと整え、身なりもしっかりとしていた。
ガラス張りの部屋で待機している女の子たちは、その客がまだ指名の無い一見であることに気付き、一斉に客に向かって熱い視線を投げかけ出した。日本人は女の子が嫌がることを無理強いしないし、馴染みになるとチップをくれる人も多いので人気がある。特にその客は見るからに上客だったので、誰もが色めきたった。
しかしアイリーンだけは、どんな客が訪れても物欲しそうな態度は取らずに、じっと客の方を見ているだけである。彼女のそのスタイルは、自分がその世界に心から身を沈めていないという、ささやかな抵抗の表れでもあった。

ガラスの内側では、自分を指名してくれるかもという期待感が充満しているのだが、その客はガラスの中の女性には見向きもせずに、何やら受け付けのヤンと話し込んでいた。アイリーンは値段のことで交渉でもしているのかと思ったが、客と話をしながらヤンが時折自分をちらちらと見るので、あの男はもしかしたら、フィリピーナを求めに来た客ではないかとアイリーンは思った。
次の瞬間ヤンが部屋の中に頭だけ突っ込んで、アイリーンに向かい「ウライ、60分」と言った。とたんに他の女の子たちが無愛想な顔に戻り、好き勝手なことを始めた。
一見の客が女性の品定めを全くしないで自分を指名したことに、やはりフィリピーナを探してきた客だったと思いながら、アイリーンは立ち上がり客の前に出てちょこんとお辞儀をした。それに対してその客は、流暢な英語で「はじめまして」とアイリーンに挨拶を返した。

いつものようにアイリーンが先に立って薄暗い廊下を自分の部屋へと向かって歩いていく。
そしてドアを開けてその日本人客を自分の部屋の中へと招き入れた。
客がベッドに腰掛け、アイリーンがその脇で服を脱ごうとしたその時「服は脱がなくていい。そのままでいいから、ちょっと横に座ってくれないかな」と、その客は右手を彼女の方へ差し出して、彼女が裸になろうとするのを制止した。
アイリーンは「あなた英語が上手ね。でも日本人でしょ?」と言いながら、言われた通り、彼に並ぶようにベッドに腰掛けた。日本人で英語をすらすらと話せる人は少ない。しかもこんな場所に来て珍しいことを言う客だと思いながら、彼女の中にはその客に懐疑的な想いが沸きあがっていた。そんな客に限って、後でとんでもない要求を投げてきたりする場合があるからだった。

「あなた、ここがどんな場所か知ってて来たの?ここは男が女を買う場所よ」と相手の考えを探るように彼女は言った。
「勿論知ってるさ。だから僕はあなたの時間にお金を払ったでしょ?ここには必ずあなたと僕が裸にならなければならないルールでもあるの?」と軽い笑みを浮かべながら客が答えた。
「そんなルールはないけれど、後で文句を言われても私は困るわよ。時間は60分だからね」
「文句は言わないよ。服を脱がなくていいというのは僕のリクエストだから絶対に言わない、約束する。もし時間が足りなかったら延長すればいいんでしょ」
「ここは延長というシステムはないの。新しくもう1セットが追加になるのよ」
「それでも構わない。もし必要だったら1セットでも2セットでも追加しよう」
まるで金には糸目をつけないと言っているようで、アイリーンにはそれが少し癇に障った。少し意地悪をしたい気分になり「わたしだって別の客がきたらいつまでも相手できるわけじゃないわよ」と言ってみたが、「そしたら今からもう1セット分の料金を追加で払おうか?それだったら早いもの勝ちでしょ?」と余裕たっぷりに返された。アイリーンは、いちいち言うことがキザな奴だと思った。

「僕の名前は沢木彰祐(さわきしょうすけ)、45歳。日本人だよ。名前を覚えておいて。あなたの名前は・・」と、彰祐は彼女のネームプレートを覗き込みながら「ウライ?ウライでいいの?」と確認してきた。
アイリーンが「そうよ」といい終わるか終わらないうちに、彰祐は「あなたフィリピン人でしょ?なんでウライなの?ウライってタイの名前でしょ?」と訊いてきた。
「そうよ。あなたは詳しいのね。なんで私がフィリピン人ってわかるの?なんでウライがタイ人の名前って知ってるの?」彼女は、あなた遊び人でしょうと、少し含みを持たせて言ったつもりだったが、「だって僕は仕事でタイもフィリピンも行くんだから、それくらいわかるよ。あなたの顔は間違いなくフィリピン人だよ。他のタイ人と並んでいても、全然顔が違うじゃない」と、彰祐はさらりと受け流した。

「ねえ、もしよかったら、あなたのフィリピンの名前を教えてくれる?」と彰祐は、少しいたずらっぽい顔で、彼女の顔を覗き込むようにしながら本名を尋ねた。
アイリーンは少し時間を置いてから、ふて腐れるように「アイリーン」と一言で答えた。
彰祐の顔に一瞬緊張したような反応が現れたが、うつむき加減だったアイリーンは、それに気付かなかった。
アイリーンはふと、なぜ自分がこの客にイライラするのか不思議になっていた。このまま時間がくれば、いやな仕事をしなくても済みそうなこの客は、紛れもない上客であるはずだったのに、妙に彼の言う一言一言が癇に障るのだ。それは彼女自身気付いていなかったが、彰祐の真意を掴みきれないことへのイライラだった。

「アイリーンか、うん、いい名前だ。これからは君のことをウライじゃなくアイリーンと呼ばせてもらうよ」
「これからって、あなたはまたここに来るつもりなの?」
「そうだよ。時々あなたとこうして話をしにくるつもり。だめ?僕は体の会話はできないから、こうしてあなたとの口での会話を楽しむために、これから時々ここに来る」
「体の会話がだめってどういうこと?セックスができない体なの?」と言ってしまった後に、アイリーンは余計なことを訊いてしまったと、すぐに後悔した。しかし彰祐は、全く意に介さず「そう、あそこが機能しなくてね。だから僕が来たときには、いつもこのスタイルでお願いするよ」と、日に焼けた顔に照れ笑いを浮かべ、左手で自分の後頭部を撫でる仕草をしながら言った。

最初はおかしな客だと思ったのだが、アイリーンの警戒心が少し緩み始めた。
「ねえ、私がそれを直してあげようか?試してみるだけでもやってみようか・・」
そう言ってからアイリーンは、自分もおかしな事を言っているなと自嘲した。
「ありがとう。でも平気だよ、気にしないで。それより少しフィリピンの話を聞かせてくれないかな?例えばあなたの生まれた町のことなんか・・」
アイリーンはギクリとして、少し身を固めた。忘れてしまいたい故郷の話など願い下げだったから、ついつい無言になってしまった。
「ごめん、何か気に障ることを訊いてしまったかな・・」と、彰祐もその様子を察して、頭を掻きながら続けた。

「それじゃ僕の話を少ししていいかな?」
「どうぞ。お金を払っている時間はあなたが王様よ。好きにして」
ほんの少しのやり取りを経て、いつの間にか二人の間の空気が、冷ややかなものから穏やかなものへと変化しつつあった。
「僕は日本で自分のビジネスをしている。パソコンやそのソフトウェアを売ったり、部品を売ったりしている。だからパソコン関係の需要があるところへは、どこにでも行くんだ。売っているのはパソコン関係だけじゃないよ。物を作るためのアレンジをしたり、人の会社を助けたりする仕事もしている」
「そう?あなた社長さんなんだ」
「社長と言っても小さな会社だよ。今はたまたまマレーシアで回路基板の製造関係の仕事をしているから、休暇でシンガポールに来てみたんだ」
「休暇でこの国に来て、なんでわざわざ、こんな所へ話をしに来たの?」と言いながら、アイリーンの目には、再び疑いの色が浮かび始めた。
「以前シンガポールで長いこと仕事をしていたから、ちょっとこの国を懐かしく思ってね。たまたまホテルの人に、このエリアにこんな宿があると聞いて、興味を持っただけなんだ。あなたはこの辺りじゃ、ちょっとした有名人みたいだよ。ここに可愛いフィリピーナがいるって話をある人に聞いて、それじゃ会ってみようかと思ってね」
「だから私を指名したの?」
「そう、最初からそのつもりで来た。名前がわからなかったから、受付で少し尋ねてみたんだ。この界隈じゃフィリピーナは珍しいでしょ?」
「そうね。あなたはどうしてフィリピーナを指名しようと思ったの?」
「昔フィリピンで世話になった人がいてね。だからフィリピンの話でもできたらいいかなと思ってさ。あなたはフィリピンの話はしたくないの?」
「わたしはあの国が嫌いよ。何もいいことがないから」

いつの間にかアイリーンは、本音を素直に口にしていた。彰祐の静かな物言いが、アイリーンの心を次第に懐柔している証拠だった。アイリーンは、彼のペースで会話が進行することに警戒しているつもりだったが、気がつくと彼のペースに引き込まれている自分に、違和感を覚えていた。

「そう?僕はあの国が好きだな。自然がいっぱいだし、優しい人がたくさんいて。フィリピンの人はみんな明るいでしょう。だから僕はここであなたと会ったら、きっと楽しい話ができるかなと思っていたんだ」
「それは期待外れだったかもね。私は楽しい話なんかできないし、性格だってごらんの通り明るくなんかないわよ。ここで生活している女はみんな同じようなものよ」
彼女は、あなたは何も知らない癖に何を言ってるのと思いながら、フィリピンの話題になりかけたことで自虐的な気分に陥いっていた。

↓宜しければどうかポチっと m(__)m
人気ブログランキングへblogram投票ボタン



posted at 07:00
Comment(0) | TrackBack(0)
カテゴリー:アイリーン
エントリー:アイリーン7

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。