フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2011年11月22日

387.ドコモバージョンi-phone

フィリピンで使用している携帯電話の明細が送られてきた。
そこに全ての使用履歴が載っている。通話の場合は日本と同様、相手先の電話番号、通話時間が料金と共に記載されている。

内容を確認すると、ローミング扱いで自分の携帯からフィリピンのモナの携帯に送るSMSテキストメッセージ1通が15ペソ(30円)。
10月22日から11月11日までのほぼ20日間で、71通のテキストを自分の携帯からモナに送っていることが分かった。一日3通強のペースだが、パソコンが目の前にある時には、パソコンを利用して無料テキストを彼女の携帯に送れるので、そちらを優先している。それを加味すると、もともと面倒くさがり屋の自分にしては、結構な頻度でモナとやり取りをしているような気がし、自分のことながら驚いてしまう。
単にI love youと送っただけでも30円。それが高いか安いかは、人により判断の分かれるところだろうが、どこにいても簡単にテキストのやり取りができることは、便利で安心感がある。

ローミング扱い(3G)でインターネットにアクセスした場合、どのくらいぼられるのかを調べるために、ちょっとだけインターネットを使ってみた。
3回使用したが、そのうちの1回は670kbのデータ送受信で530ペソ(約1000円)の料金となっていた。
これは単に、GPSで自分の位置を確かめただけのことだが、地図情報の受信があるのでデータ量はまあまああるだろうと予想していた。しかし、もし迷子になるたびにこれを使用すれば、一回1000円であるから、極めて高い。
インターネットで電車の乗り継ぎを調べ、更に現在宿泊しているホテルの電話番号を調べた際には、418kbのデータ量で354ペソ(約700円)。これとて頻繁に利用できないほど高額である。
勿論WiFi環境があれば、無料でいくらでもインターネットは利用できるが、日本は意外に、無料のインターネットサービスが不足している。フィリピンやマレーシアの方が、その点のサービスは充実している。

これでローミングの3Gインターネット接続は、使えないことが明らかになった。もし料金を気にせず普通に利用したら、10万円や20万円の高額請求は必至である。
以前紹介してもらった、1カ月や3カ月、6カ月インターネット無制限接続サービス付きシムは、数千円から1万2千円程度だが、インターネット利用では大変安いことが良く分かった。
フィリピンの携帯とのSMSによるやり取りも、インターネット経由でchikkaなどのサービスを利用すれば、その分は全て無料となる。
もともと携帯通話は別の日本の携帯を利用しているので、次に長期で滞在する場合は、最初からそのシムを購入することにしようと思う。

そのような諸々の利用を併せ、フィリピンの携帯会社からの請求は合計6900ペソ(約13000円)であった。もともと仕事用として用意した携帯であり、日本で利用したローミングサービス代を考えれば想定内の金額だが、「これってフィリピン人の単純作業者月給の半分?」であることを冷静に考えると、恐ろしく高いものにも思えてくる。
もし安く上手に使える手立てを発見できれば、フィリピンに関係している方々に有益な情報を発信できるかもしれないと思っていたが、これでは到底お勧めできる内容はない。

一つだけ面白いと思ったのは、僕のi-phoneはローミングのために、ほとんどドコモの電波を拾っていて、それがi-phone上に表示されるので、一見ドコモバージョンのスペシャルi-phoneのように見えることだ。知らない人にちょっとそれを見せると、「え?なんでなんで?」という話しになる。
もちろん日本国内では、日本の携帯と同様、国番号などを付けずに普通にダイヤルすれば、相手に繋がる。
ただし僕の場合は、ローミングなので、通話料金が少し高い。
まあ、種明かしをしてしまえば、何の役にも立たない屁のようなものではあるが、残念ながら、せいぜいそのくらいしか特筆できることは無かった。

・・・が、しかし、これって何か上手にやれば、ドコモだってi-phoneが普通に使えますよ、ということにはならないだろうか。いまやAUとソフトバンクにi-phoneで水をあけられているドコモなのだから、何か思い切った戦術を行使しても良いだろうと思われる。
例えばローミングの使用料はドコモがフィリピンの携帯会社に請求するのだろうが、その分をドコモで持ち、通常の国内電話と同様の負担だけを利用者に課すようにすれば良い。
フィリピンの携帯会社と独自契約を結び、フィリピンからi-phoneを輸入したらどうだろう。
電話番号の問題くらい、ドコモであれば何とかできるだろう。一番の問題は、ハードのサービス関係か・・・???

現実的ではなさそうだという予感を抱きながらも、「フィリピンに優しく、フィリピーナとの交流に便利なドコモ i-phone」などという唯我独尊のキャッチフレーズまで考えてしまう僕は、やはりどこかのねじが外れかけているのだろうか。


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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:387.ドコモバージョンi-phone
2011年11月21日

386.お土産購入

僕は今も相変わらず、毎日バスの中で200円を握りしめる生活を続けている。
日本に来る前、Sさんにいつフィリピンに帰ってくるかと訊かれた時に、2〜3週間で戻れるはずだと言った僕の返答に反し、モナはそれで済むはずがないと言った。

「すごいねぇモナちゃんは・・、ちゃんと見抜いていたんですねぇ〜」と、Sさんはモナの先見性を褒め称えるような口ぶりで電話の向こうで感嘆したが、これまで散々前科を重ねてきた張本人にすれば、モナがそのように言うのは当たり前という感覚であった。
確かにスケジュールに関し、僕がモナに信用がないのは十分承知している。しかし今回の仕事は、ほぼ間違いなく予定通りにいくだろうと踏んでいたから、僕は、まあ見ていろと心の中で囁いていた。
よって今回の帰国日延長は、僕にとって青天の霹靂と言うべき想定外の出来事だったのである。

VISAの関係で来日が遅れた分を努力と根性で穴埋めし、予定していた仕事は顧客の希望納期通り終わらせた。
宿泊費や飛行機代の元を少しでも取っておこうと、小さな仕事まで入れて、それも終わらせた。
後はフィリピンに帰るだけだと、フィリピン航空にてマニラへの片道チケットも既に購入していた。それが急遽、ある人の我儘で日本滞在が延長になった。
マニラまでのチケットは購入翌日にキャンセルしたが、購入後たった一晩しかあけていないのに、キャンセル料を2万円も取られた。たった1日で、フィリピン国内労働者1か月分の給料を取られてしまったことに、僕は、まるでフィリピン航空に2万円を寄付した感覚に陥った。

そのような紆余曲折はあったが、今度こそ帰れそうだと言えば、オオカミ少年が周囲に信じてもらえなかったのと同様、僕が「間違いない」と訴えるほどモナには嘘っぽく聞こえるらしい。
しかしこれまでの前例で、僕がフィリピンに持ち帰るお土産を実際に買い始めると、モナも「おやっ?これは・・」と信じる気持ちになるようだ。

昨日の日曜日、僕は昼過ぎから本格的に、フィリピンに持ち帰るお土産の買い出しに出かけた。
地元の駅ビルで買える物は昼過ぎにあらかた済ませ、あとは面倒でも、お目当てのコーヒーを手に入れるために、どうしても隣駅のM街まで行かなければならない。
ならば地元の手近なところで探しても見当たらなかった卵焼き用の四角いフライパンや、リクエストされたママの口紅などもM街で買い、ついでに夕食は大好きなラーメン屋で取ろうと、夕刻電車に乗った。

まずはコーヒーを買いに行った。そしてコーヒー豆屋さんの近くのド@キホ−*に行くと、そこでようやく四角いフライパンを見つけた。価格が1380円もしたのは予想外だったが、荷物が重くなるから勘弁してくれと哀願しても、絶対に買ってくるようモナより厳命されていた四角フライパンであったから、それを手にしてようやく一息ついた気分になった。

ついでに色々と辺りを見回してみると、お土産の定番である日本のチョコレートを買っていないことに気付き、15個ほど買い物籠に入れた。一度たがが外れると、そういえば前回お土産で買ったソフトサキイカが好評だったことを思い出し、それを含むつまみ類も数点購入した。
店内を見れば見るほどあれもこれもと買いたくなるが、できるだけ衝動を抑え買ったつもりでも、支払いは締めて7千円にもなった。
お土産というのは不思議なもので、家族の喜ぶ顔を思い浮かべると、ついついあれもこれもときりがなくなるので、禁断の場所を早々に切り上げた。

次にママの口紅を買うために百貨店へと移動した。
日曜のせいか店内には大勢の人がいて、今や百貨店は時代錯誤で客が少ないという噂がまるで嘘のようだった。特に若いカップルが多い。
店内の高級で洗練された雰囲気に、大きく膨らんだド@キホ−*の黄色いビニール袋を提げて歩くのは場違いな感じがして少し気恥ずかしかったが、それに加え、フライパンの取手部分が黄色の袋を突き破り外にはみ出していることに気付いてしまってから、根っから人間が小さくできている僕は、生きた心地がしなくなった。しかもナッツセットやサキイカ、洗濯ネットなどという文字が袋の表面に透けて見えている。買い物の順番を逆にすれば良かったと後悔した。
何とも格好が悪く、できるだけ店内に留まる時間を短縮するために案内嬢に化粧品売り場を尋ねると、「当店はシャネルのようなブランド品はございませんが、メーカーの御指定などはございますか」などと訊かれ、「特にありません」と言えば「失礼致しました、それであれば・・」と教えてもらった化粧品売り場へ、場違いな雰囲気を振りまきながら向かった。

ママの要求は、「茶色っぽい赤でダーク系」というものであったから、対応してくれた店員に伝言ゲームのようにそれを伝えると、「なんとも曖昧でお困りでしょう」などと言うが、本当はそう言われて自分が一番困っているのがありありの表情を顔に浮かべながらも、いくつかの口紅サンプルの色を自分の手の甲に塗り、実際の色を確かめながら候補を絞ってくれた。
そして、使用する人の歳は50くらいだと言うと、年配の方にはこれが不思議なくらいリピートが多いのですよと、ソフトブラウンという色を勧めてもらった。最後はローズとソフトブラウンのどちらにするかを悩み、最終的に3千円で、ソフトブラウンを購入した。

また少し増えた荷物を抱え、次に書店で数冊の本を購入し、それを持ってコーヒーショップで一休み。
最後は僕の大好きなラーメン屋に是非寄りたいと思っていたが、少し遅めに食べた昼食のとんかつ弁当がまだ胃の中で存在感を放っていたので、本を読みながら胃袋空間にゆとりができるのを待つような格好となり、それでも待ち切れずに、7時頃ラーメン屋で味噌ラーメンをたいらげ、へとへとになってホテルに戻った。

そう言えばラーメン屋の帰り道、M街の駅ビルに入っている百貨店にコーチの専門店を見かけた。モナがコーチの大き目の鞄が欲しいというのを思い出して、再び場違いなフライパンの取っ手がはみ出している黄色の袋をぶら下げ、高級な匂いをぷんぷんと放っているその専門店に、思い切って入ってみた。
早速店員が寄ってきたので、「奥さんがコーチの大きめのバッグを欲しいなどと言っていたので、今日は価格の下見調査だけですよ」などと言い訳がましく応えながら価格を覗き見ると、概ね7万前後であった。
ちらちらと黄色い袋をさげすむように見る店員を見返すために、「これ下さい」などと、いとも簡単に言ってみたい衝動も無かったわけではないが、もし衝動買いをすれば、フィリピンに帰るまでの数日間、また100円で何日暮らせるかという無謀な挑戦に挑まなければならなくなるので、ここはグッと堪えてその店を出てきた。

使ったお金はお土産や食事代で4万円ほど。フィリピンで使用している浄水器のフィルタが結構高かった。それ以外はたいしたものを買っていないようで、お金だけは意外と無くなっている。
早速購入したお土産の数々を、モナにスカイプで披露し、これでようやく、もうじき帰るということを信じてもらった。
早速今朝、追加のお土産オーダーがモナから入った。
早くフィリピンに帰らなければ、これは真面目に生活苦に陥るかもしれないと、少々危機感を抱きながらも、とりあえず元気に了解と答えておいた。


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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:386.お土産購入
2011年11月15日

385.200円に思う

かつて、日々の生活が大変困窮していた時の話しである。
モナとの結婚を決心し、モナの両親へ二人の結婚の承諾を貰うために訪比した。
せっかくの機会だからと、初めて二人でミンダナオのリゾート地へ旅行し、その後現在の居住地となっているタバコシティーへ移動し、モナの両親への挨拶かたがた、1週間以上かの地に滞在したのではなかっただろうか。
その時には、入国時に貰える21日間のツーリストVISAを、目いっぱいに使った記憶がある。

3週間の旅を終え日本へ帰国して間もなく、モナの妊娠が発覚した。
3週間の旅でそれなりに散財した直後、僕は急遽二人の結婚やフィリピンへの移住、モナの出産を同時に考えることになり、それらに備え少しでもお金を用意しなければならなくなった。
そこで少々まとまったお金を得るために、無理をして大きな仕事を取り込んだ。

大きな仕事は、難易度も高くボリュームもあり設計期間は長くなるが、その長い期間、仕事の完成まで支払いは無く、万が一技術的な壁に行き詰まり仕事を未完に終わらせようものなら、長い期間精魂を費やした仕事の報酬が零になり、なおかつ信用を失うというリスクを伴った。

一方で、モナは定期的に定期健診を受けるために病院に通い、しかも自ら働けないため僕は彼女と彼女の家族のために、日本から検診代や生活費を送金しなければならない。
大きな仕事の合間に、小遣い程度を稼げる小さな仕事を拾い、それで現金を得ては仕事に必要なインターネットや電気を維持するための公共料金・通信費を払い、そして残りをフィリピンにせっせと送金していた。当時住んでいた賃貸マンションの賃料も払えず、窓口の不動産屋さんへ事情を説明し、賃料を数カ月待ってもらうこともした。
自分の手元にはいつもわずかなお金しか残さず、連日徹夜の仕事に励みながらも、自らの生活は徹頭徹尾倹約し、毎日の食事は安い食パン一斤で何日食いつなぐかを考えるような凄まじく荒んだ生活であったが、モナが苦しい自分の状況を理解してくれ、十分ではない送金に心から感謝の気持ちを示しくれる時には、僕はそこから元気をもらい、それをまた仕事への励みとした10カ月間だったのである。

梅雨時のある雨の日、仕事の打ち合わせと仕事料の支払いのため、ある会社の事務所へ来てくれと連絡があった。
いつもであれば交通費を節約するために自転車で駆け付けるが、その日は生憎の激しい雨で、ずぶ濡れ状態で事務所を訪れるのもみっともないと考え、仕方なくバスを使って行くことにした。
小銭入れを確認してみれば、中には208円しか入っていない。勿論大きな財布の中に紙のお金は一枚もなく、我が生活はまさに背水の陣、崖っぷちという様相を呈していたが、バス料金の170円を使い事務所に出向けば数万円という現金が手に入るのだから、とりあえず余力を振り絞って行けば、後は何とかなる見込みだった。

とにかくこのようなぎりぎりの金銭状態というのは、なんとも居心地が悪く、いつも生きた心地がせずに精神衛生上も大変悪いものだと最初は思っていたが、しかしそれも次第に慣れてくれば度胸もつき、100円で何日暮らせるかの記録を作ろうなどと、くだらないことに前に向きに取り組んだりするようになっていた。
吸殻をばらし、まだ燃えていないたばこの葉をかき集め、それを切り裂いたノートに巻き直して新しいタバコを作るという試みも、その頃には日課のようになっていた。

外に出てみると、傘をさしているにも関わらずズボンの裾が濡れ、靴の中も湿っぽくなってくることに不快感を覚えながら、とにかく僕は激しい雨の中、数万円を目指して駅前のバス乗り場まで歩いた。
通りの家々の塀の内側から道路にせり出した満開のアジサイが、雨に濡れて綺麗な紫色を発色していた。まるでそれは、自分の奈落の底のような境遇を際立出せるかのように美しく輝いていて、自分が普段、如何に部屋に閉じこもりモグラのような暗澹たる生活をしているのかを思い知らされた。

そのバスは駅のロータリーから乗ることになる。5名程のバス待ち人の列の先頭に行き覗きこんだ時刻表から、幸い15分も待てば目的のバスがやって来ることを知り、僕は列の最後尾に並び直した。
バスが来た頃には、最後尾だった僕の後ろに、更に5〜6名のバス待ち人が列を伸ばし、総勢10名強の人間が始発である駅前停留所からバスに乗り込んだ。
途中からも濡れた傘を持った人が乗り込み、バスの中は湿っぽい空気が充満していた。
僕は窓に背を向ける形で長椅子に座り、一向に止みそうにない激しい雨を、体をよじって窓越しに眺めながら、ただただ虚ろな時間を浪費していたような気がする。

その当時は寝不足と疲労のため、自分がいつも虚ろな状態にあったように記憶している。少なくとも自分の意識の中で、自分の状態はそうであった。
来る日も来る日も寝る間も惜しんで突き当たる技術の壁と向き合い、それを克服すると更に新しい問題が襲ってくるという未知の仕事に、いつでも胃が重たく、毎日吐き気と頭痛と闘い、更には空腹をこらえながら、ようやく生きながらえているという状況だった。
その状態で煩わしい短納期の別仕事も取り込んでいたから、少しでも気を抜くと、まさに発狂しそうな心持ちが続いていた。

とにかくバスの中でも、僕は一切の思考を放棄したかのような、生きる屍のような態であった。
それでも変なところに几帳面さを残していた僕は、目的の停留所があと2つという所で、バスを降りる準備として、100円玉2個を小銭入れから取り出して握りしめた。
それから間もなくして、目的の停留所名が車内にアナウンスされ、僕はここで降りますという意思表示として車内の降車ボタンを押した。ピンポーンという音と同時に、車内のボタンに一斉にピンクの光が灯った。

バスが間もなく停車というところで、僕は椅子から立ち上がり、左手には傘と鞄、右手には100円2個のコインを握りしめ、降車口である運転席の方へと歩いた。
とその時、停車する停留所脇の細い道から、赤い小さな車が飛び出してきた。バスの運転手は衝突回避のために急ブレーキをかけ、車内の乗客の体が、一斉に前方へと揺すられた。
立ち上がっていた僕も思わず金属の手すりにつかまったが、その時、右手に握りしめていた100円玉2個が、僕の手を離れバスの床へと落下した。
その直後にバスは何事も無かったように停留所へ停車し、降車口のドアを開いたが、僕はその時、床に落下した100円玉を拾っていた。
1個はすぐに見つかったが、もう1個が見つからない。椅子の下のどこかへ転がってしまったようだ。
這いつくばって探しても良いのだが、さすがに人目が気になり、見つからない100円玉1個を諦めていそいそと運転席の方へと歩いた。

いざ運賃を支払う段になり、手に持った100円を運賃箱に入れた後、バスの運転手が見つめる中小銭入れを広げてその中を覗いた時に、僕は思わず「あっ!」と声をあげてしまった。
小銭入れの中には、5円玉1個と、1円玉3個の、合計8円しか入っていない。バス料金は170円だから70円不足となる。
ほんの数分前まで覚えていたのに、降車直前で、ぎりぎりのお金でバスへ乗車したことがすっかり頭から抜け落ちていた。
一瞬つま先が客席の方へと向きかけたが、コインを落とした場所へ戻り、失った100円を探す度胸は僕には無かった。
仕方がないので事の顛末を運転手に告げ、運転免許証を預けるので不足分の運賃は後ほど支払わせて欲しいと恥を忍んでお願いした。
バスの乗客全ての視線が僕に背中に集中しているような気がし、また僕の説明とお願いに、全ての人が聞く耳を立てているような気がして脇の下に汗がにじんでくるのを感じた。
するとバスの運転手は、僕の動揺を見透かすように落ち着き払った低い声で、「次に乗った時払って下さい」と言ってくれた。
その声が運転手のマイクを通して車内に響き渡ったから、僕は礼を言ってからバスから逃げるように降車した。
バスを降りた後の僕は、雨の中を歩きながら、なんとも惨めな思いに打ちのめされていた。

僕は今でも、目的地から2つ前の停留所をバスが出ると、小銭入れの中を確かめ、そこからバス賃を取り出し、それを手の中に握りしめながら降りる準備をしている。
毎日バスの中で200円を握りしめる度に、僕の中にはこの苦い思い出が蘇り、当時の苦しかった生活を懐かしむような不思議な感慨に浸るのである。
今となってこの200円事件は、当時の生活の有り様を物語る象徴的な、忘れ難い出来事なのである。

この苦しい生活が始まったきっかけは、モナがユリを身ごもったことであった。
モナの両親に挨拶した当初、僕とモナの間では、具体的な結婚をそれから1年後くらいに考えていた。
その1年で、僕は日本の仕事や生活を整理し、フィリピンに移住してからの食いぶちをどうするかに目鼻を付け、モナは新しい家を少しでも完成に導くというつもりでいた。
生活費や家の仕上げにかかるお金については、僕が日本からできるだけ送るつもりでいた。

しかし、意に反しモナが妊娠し、それを知ったママは、二人の正式な結婚を少しでも早くと望むようになった。結婚前に子供を身ごもり、ママはベルの時の二の舞かと焦り、モナ自身も二人の将来に対して、僕が本気で二人の結婚を考えているのかという疑心暗鬼に陥った。
僕も早く正式に籍を入れて、モナやモナの家族を安心させてあげたかったが、そこはこらえどころで、とにかく当座必要なお金を作ることが先決だった。
一旦どっぷりと仕事にはまってしまうと、フィリピンへの渡航費や時間が簡単に捻出できない状況になり、できるだけ早く日本での仕事をすっきりさせることに邁進した。

このように、ユリが生まれるまでの数カ月、日本とフィリピンでお互い精神的・金銭的に苦しい時期を過ごしたことになるが、それだけにモナが無事に元気なユリを出産した時の喜びは、ひとしおであった。
あの当時矢継ぎ早に、フィリピンでの仕事の決断、苦しい仕事の完遂、そして結婚手続きを進めることができたのは、全てモナがユリを身ごもり出産したことに繋がっている。

そのユリは今、フィリピンの家族の中で常に笑いの中心にいる。
生まれた当初のユリは女の子にも関わらず、まるで男の子のような顔立ちだった。僕が思わずおにぎりのような顔だと形容するほどに不細工で、その将来を真剣に心配したほどだったが、彼女は成長するにつれしっかりとレディの顔付きになり、人並みの人間として意思表示をし、お絵描きが大好きで、会話までできるようになった。
甲斐性の薄い僕を大声で「パパ〜」と呼び、「早く帰ってきて、会いたい」などとたどたどしい日本語で語りかけられると、すぐにでもフィリピンに飛んで帰りたい衝動にかられるほど、ユリは目に入れても痛くない存在となった。
そのユリを大切に見守ってくれるモナやベルとの関係も、ようやく夫婦ごっこ・親子ごっこのような軽薄さが抜け、いつしか本物の家族としての重みのある絆のようなものが芽生えてきたことを感じるようになった。当然二人も、自分のかけがえのない妻と子供になっている。

ユリは本日11月15日、すくすくとした成長過程の中、とうとう2歳を迎えた。
早いものでユリがモナのお腹の中に登場してから、3年近く経ったということである。
モナの妊娠当時、お互い多くの苦しい想いはしたものの、それが現在の家族を支える糧になっているのではないだろうかと振り返れば、今ビジネスを軌道に乗せるための苦難もまた、将来への布石と前向きに考えることができる。
僕は相変わらず日本に居て、せっかくのユリの誕生日に本人の傍にいてやれなかったことは残念であり、それを同じように残念がっているモナにも申し訳ないと思う。
しかし僕は日本の地で、ユリの誕生日を単なる祝い事としてではなく、200円というお金から連想する彼女が生まれてきた頃の背景や意味を噛みしめながら、心から彼女の誕生を祝いたい気持ちに浸っている。
これからもユリが健やかに育って欲しいと強く願うと共に、あらためてこの家族を守っていきたいという自らの願いをも確認する、ユリの誕生日であった。

明日16日は、モナの誕生日だ。
二人とも、誕生日おめでとう。
ユリはこれから優しく賢い女性に育ってくれる事を、心から願っている。
モナにはこの我儘な男を、これからも愛を持って支えて欲しいと願っている。
僕はこの家族を、がんばって幸せにしていきたい。
今日の記事は、モナとのこれまでの道のりを振り返りながら、遠い日本の地で愛する妻と娘に捧げるものである。


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