フィリピーナと共に
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2014年02月10日

723.マニラ・マッタリバケーション5

 時間も真夜中を過ぎた頃、Hさんがそろそろ帰ろうと言い出した。しかしHさんは、それからどうするのか僕に全く告げず、タクシーを拾い、成り行き任せでそれに五人で乗り込むことになった。会話にタガログが混ざるので、僕には今後の展開が本当に分からない。
 タクシーが暗黒の前に差し掛かると、負傷兵たちが「パラ」と言い出した。「パラ」はジープで、降りるという意思表示の言葉である。
「あら? ここで降りるのかな?」と思っていると、タクシーは止まらず直進した。ここで初めて、パラが冗談だと分かった。
 このままいけば、きっとタクシーはホテルまで行く。するとどうなる? その場合、新人ちゃんと僕がペアとなるのだろう。
 
 タクシーがホテル前に停車し、全員で降車した。その後、誰も何の疑いもなく、全員がホテルに入る。このまま全員が、Hさんの部屋に行くわけがない。絶対に途中で、二組に分かれることになる。
 部屋に帰る前、僕には一つ、やっておかねばならないことがあった。実は僕の財布の中に、あまりお金が入っていなかったのである。
 僕はそのことを、ライブハウスにいる時から気にしていた。その場でもし解散となれば、そこまで付き合ってくれた新人ちゃんに渡すチップが足りない。僕は何度か、ライブハウスを抜け出してATMに行こうと思っていたが、そのタイミングを掴めずにいた。
 エレベータに乗り込んだHさんに、僕が詳しい内容を告げずに言った。
「済みません、ちょっと散歩に行ってきますので、お先にどうぞ」
 Hさんは「どうぞどうぞ」と言い、半分エレベータに乗りかけていた新人ちゃんを、エレベータの外に押し出した。お二人でどうぞという意味である。

 僕は新人ちゃんにも、自分がどこに行こうとしているのか詳しく告げず、外に向かって歩き出した。彼女に「どこに行くの?」と訊かれても、僕は「すぐそこまで」としか答えなかった。せっかくだから、僕は彼女の反応を確かめてみようと思っていたのだ。
 深夜のマラテ、アデリアティコ通りを目的も分からずズイズイ歩いていくのだから、彼女は一抹の不安を覚えたのかもしれない。
「ねえ、どこに行くの?」二度目の問い合わせだ。
「心配しているの?」
「心配はしていないけど、ただ訊いているだけ」
「もうすぐだよ」
 三分も歩くと、いつも使うATMが、ライトに照らされているのが見えた。どうやら稼働中のようである。
「ここに来たんだよ。お金をオータン(借金)しにきた」
 ようやく合点がいった彼女は、「あー」と言ったあと、僕のオータン(借金)と言った言葉にふふふと笑った。事情が分かって少し安心したようである。お金をおろして後ろ向くと、彼女は僕から少し離れ、道路の方を見ていた。僕がいくらおろすのか、興味深く見てはいなかったようで、僕は彼女を、なかなか行儀のよいお嬢さんだと思った。

 お金を財布にしまうと、最初から決まっていたかのように、二人でホテルの方へと歩き出した。
 そのすぐあと、突然僕は、暗黒で働く人には拒否権があることを思い出した。そう言えば、それまで僕は、彼女の意思を何も確認していなかったのだ。それをはっきり確かめてみたかったが、それがまるで、これから部屋に行ってすることをしようと誘うみたいに思え、僕は確認することを止めた。
 すると彼女の方から、「コンドー君を持っている?」と訊いてきた。
 僕が「持っていないよ」と答えると、彼女はすぐ前に見えるセブンイレブンを指して、そこで買っていこうと言った。
 なるほど、拒否権を発動するつもりはないようだと、僕はそこで彼女の意思を確認することができた。しかし、僕のひねくれた性格が、ここで発揮された。
「コンドー君は不要だ」
 きっぱり言った僕のこの言葉に、彼女の身体が強張ったように思え、足取りも一瞬止まったように見えたが、やや間をおいて彼女は、「イッ、イッツオッケー」と言った。
 彼女は最初の「イ」を、しっかりどもった。僕は、彼女が激しく動揺したことを確信しながら、その反応を楽しんでいた。本当に悪い趣味だが、せめてそのくらいはチップのうちに含めさせてもらうと僕は思っていた。
 ここで彼女の表情は、いきなり暗くなった。あまりの落ち込みように可哀そうになり、僕は本当のことを言ってあげようと思った。
「今日は、これ以上のサービスは不要だって意味だよ」
 僕は彼女を安心させるためにそう言った。この言葉に、彼女が喜ぶと思ったが、彼女の反応は意外にも、まるでその逆だった。コンドー君不要宣言の時よりもますます落ち込み、彼女はうつむいたまま無言になったのだ。僕はその理由を分からずに、どうしたのだろうと思っていた。すると彼女が、静かに悲しそうに言うのだ。
「私はサービスでお金をもらっているの。だから仕事がないと言われると、本当に困るの」
 文句を言う風でもなく、今にも泣きそうに、小さな声で言うのだ。
 僕の遊び心がここで吹き飛んだ。僕は彼女に、なんとも悲しいセリフを吐かせてしまったことを、深く後悔した。
「いや、そんなつもりで言ったんじゃないよ。あなたにはこの時間まで付き合ってもらったんだから、あなたの時間に対してお金を払うつもりだよ。だからさっき、ATMでお金をおろしたんだ」
「え? そうなの? ほんと?」
「ほんと、ほんと」
 ここで彼女が笑顔を取り戻したので、僕はホッとした。
 
 ホテルの一階に、コーヒーショップがある。ショップは電気が消え、もちろん誰もそこにいなかったが、二人はそこのテーブルに向かい合わせで座り、誰にも見られていないことを確認してから、お礼の言葉を添えてチップを渡した。通常の宿泊料金の相場プラスアルファである。プラスアルファは、先ほど心配をさせたお詫びと、僕がそれまで楽しませてもらったお礼のつもりだった。もちろんタクシー代として、細かいお金も付け足した。
 彼女はありがとうと嬉しそうに言ったが、そのあとにこう言った。
「サービスをしなくてよい人は初めて」
 その言葉は、彼女がお金を稼ぐため、何人もの男とベッドを共にしてきたことを僕に連想させた。何も知らずに見ていたら、彼女はそのような仕事に従事する女性には決して見えない、子供のような無邪気さをたたえている。
 彼女は「お金をしまうね」と言い、鞄から財布を取り出し、その中を僕に広げて見せてくれた。
「本当は、もうコインしか入っていなかったの」
 彼女は軽く財布を振って、優しい笑みを僕に投げている。その時のジャラジャラというコインの音が、僕の胸にズキリと響いた。
 もしここでチップを払わず、「ご飯も飲み物もご馳走したから、これでチャラだろ」などと言われ、タクシー代だけを握らせ放り出す客がいたとしたら、彼女はどんな気持ちになるだろう。
 そんなことを考えている僕の前で、彼女は僕から受け取ったお金を、大切そうに財布にしまった。

 お金を受け取った彼女はすぐに帰ると思ったが、彼女は僕に、質問をしてきた。
「あなた、あそこから女性をテイクアウトしたのは初めてなの?」
「初めて」
「ほんとうに? ほんとうに初めて?」
「ほんとうだけど、どうして?」
「どうしてわたしだったの?」
 なかなか難しい質問をしてくる。成り行きと答えるのは失礼だし、そもそも成り行きの英語が分からない。気に入ったと答えるのも抵抗があった。「愛しているから」はどう考えても、もっと無理がある。
「ただのフィーリングだよ」
「フィーリング……。で、どうしてサービスは要らないの? わたしがきらいだから?」
「きらいじゃないよ。僕にはフィリピン人の奥さんがいる。子供もいる。フィリピン人の奥さんに、僕はいつも監視されているから、誰とも浮気はできないよ」
「監視って? どうやって? カメラで見てるの?」
「そう、きっと見ている。僕が悪いことをしようとすると、必ずこの電話にTV電話がかかってくる。フィリピン人の勘はすごい」
「そうかなあ、試してみる?」
「試して失敗したら終わりだ」
「そしたらわたしは絶対にいい子になる。何もしないわよ」
「あなたがいい子になっても、僕がどうなるか分からない」
「あなたは大丈夫よ。あのHさんも同じ。二人はとてもいい人よ。わたしにでも分かる」
「Hさんは確かにいい人だ。でも僕は自信がない。絶対にTV電話がかかってくる」
「そう?」
 彼女は随分子供っぽい顔で、意表をつかれたような表情をしていた。
 しばらく無言になった彼女は、なぜか突然、身の上話しを始めた。
「わたしは十八の時に子供を産んで、今その子は三歳なの。だから今は二十一。でも今年二十二になるけどね」
「なるほど、まだ若いね。だからかな? あなたは今、すごく子供みたいに見えるよ」
「それってセクシーじゃないって意味?」
「そう。可愛いけどセクシーじゃないな。子供が待っているなら、タクシーで帰った方がいい。タクシー代はさっきので足りる? 足りないなら、まだ細かいお金を持ってるよ」
「ううん、だいじょうぶ。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」

 子供の父親はどうしたのか、もしかしたら今、その旦那が家で待っているのか、それともとうにその人とは別れ、もしくは捨てられ、現在違う恋人がいるのか、養う家族は子供だけなのか、ちなみに住んでいる場所はどこか、どんな家に住んでいるのか、普段の生活はどのような状態か、少しは自分の楽しむことをしているのか、何か夢はないのか。
 こちらから訊いてみたいことは、山ほどあった。しかし僕は、彼女が自ら話すこと以外、一切尋ねることをしなかった。深入りすることが躊躇われたからだ。それを聞いて、僕が彼女を助けられることは何もないのである。僕ができることはただ一つ、自分が楽しんだ分の感謝の気持ちを、彼女に渡すことくらいである。
 彼女も多くを語らなかった。最後に彼女は一つだけ、「本当は、わたしは日本に行って働きたい」と、自分の夢というか希望を語って去っていった。

 世の中にはやり逃げ野郎と揶揄される人がいる。しかし僕は、またしてもやらずに相手に逃げられた。後にHさんには「いくじなし」と言われたが、本当にそうだと思う。モナと結婚をしてから、僕は本当に「いくじなし」になった。自分でも不思議に思うくらい、変わってしまったのだ。
 しかしこのいくじなしは、今回のことで、五歳くらい気持ちが若返った。久しぶりにときめいたのだ。つまり冒険は、大成功だった。
 やらないのに何が大成功だと思う方に、その理由を言ってやりたい。やって気分を害し後悔する相手より、やらずにもったいなかったと後悔する相手と一緒した方が、ずっと幸せだからである。

 敢えて危険を承知で、僕は春を売る女性の生態の一部を、ここに体験談として紹介した。どうか彼女たちに、気持ちよく仕事をさせてやって欲しいと、僕は暗黒ファンに望まずにはいられないのだ。
 翌朝、Hさんと最後の朝食を一緒にとりながら、マッタリバケーションを二人で振り返った。負傷兵もとうに帰ったあとで、二人の会話を邪魔する人はいなかった。
 お互いに色々あって、本当に楽しかった。余計な美辞麗句を並べるよりも、このシンプルな言葉が自分の気持ちを一番よく表している。
 今回は、またしてもHさんに大変お世話になり、再び懸命に働く元気をもらった。Hさんに、足を向けて眠れないくらい、感謝の気持ちで一杯である。
 Hさん、本当に楽しい三泊四日のマニラ・マッタリバケーションを、ありがとうございました。ここに心より、感謝の気持ちを表したいと思います。どうかこれからも、暗黒ワールドで元気にロクデナシ街道を突っ走って下さい。


 
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722.マニラ・マッタリバケーション4

 Hさんから、六時の方向に注目せよとの指令が飛んだ。さり気なく確認するには、かなりきつい角度である。二日連続のマッサージで身体がほぐれているとはいえ、首の回転だけで確認するのは不可能だ。僕は仕方なく、身体ごと向きを変えた。
 どこからわいてきたのか知らないが、いつの間にかその女性は、本当に僕の真後ろすぐにいた。彼女は負傷兵と話していて、僕から見えるのは横顔となっている。清楚な白のブラウスとパンツ姿で、痩せ型の小柄な人だ。身体のおうとつが目立たない服装や化粧の薄いところが、ベテランらしくない。
「おお」と思わず感嘆するような美人ではなさそうだし、言ってみれば、その辺のどこにでもいそうな普通の人である。しかし暗黒では、そのような普通の人に希少価値があるという見方もある。その普通の人に、初めて自分の中で、ピピっとくるものを感じた。
 彼女の雰囲気は、もの欲しそうでない、落ち着きなく周囲を物色している様子もない、隙あらば相手からできるだけ金を引き出そうという匂いがない、どちらかと言えば控え目で真面目そうで、こちらがスケベ根性を丸出しにすれば、スーッと引かれそうな気配まで彼女は装備していた。
 それでいてこの敵兵は、視界の端で僕がわざわざ確認したことに気付いていたはずだが、僕のことをまるで気付かない振りをしている。つまり僕は、しかとされているのである。それをよく解釈すれば、普通の人に見えるけれど、どうやら彼女は既に、駆け引きを始めているのかもしれない。悪く解釈すれば、彼女は僕に、全く興味がない。いずれにしても、そのところになぜか燃え上がるものを感じてしまう。
「面白いではないか、うん、うん、うん」
 数回頷く僕の反応に、Hさんも満足気だ。

 しかしこれからまだまだと、欲を出して捕獲しなかったのがいけなかった。
 気付いたらその伏兵は、白人に挑んでいた。というか、白人が伏兵に挑んでいる、と言った方が正確かもしれない。少なくとも僕にはそう見えた。
 伏兵はどちらかと言えば、白人好みの顔立ちではないだろうか。これまでの僕は、白人好みの女性にいつも首を捻るばかりだった。しかし今回は不思議と感じ入り、いよいよ自分も焼きが回ったかという気はしたものの、燃え上がるものはそれを理由に鎮火することはなかった。
 貴重な捕虜捕獲の機会を逸した二人は、少々焦りを感じた。Hさんは、もはや負傷兵の二人でいいと腹を決めている節がある。
 一人はパーフェクトな後ろ美人だ。前方観察では可もなく不可もなくという顔立ちだが、如何にもベテランという雰囲気が身体からにじみ出ている。
 もう一方は、体型が「今くるよ」であった。くるよちゃんは、一旦店から出てしまえばその商売の方には全く見えず(逆にそうだと言われても信じられない)、性格も角が取れた身体と同じで、人のよいおばちゃんという風体だ。笑うと少し多めの歯茎が顔から覗き、それが人懐っこさを感じさせる。

 このお二人で次に行くのもよしと思っているところで、なんの手違いがあったのか、先ほどの伏兵が再び自分たちのテーブル近くに現れた。そして今度は、僕の気持ちを見透かしたHさんが、すかさずここに座れと伏兵を促した。もしHさんがそうしなければ、僕がそうしていたかもしれない。
 こうして彼女は、ついに我々の捕虜になった。
 テーブルについた彼女は、第一印象の通り、明け透けな嫌らしい態度がなく、暗黒にそぐわない雰囲気を持っている。
 Hさんが、時折彼女に鋭い視線を向けた。彼女のことを、これはどんな女なのかと観察しているのだ。僕の手前、酷い女性を一緒させるとまずいという気遣いが、Hさんのそういった行動に繋がっていることを、僕はよく理解していた。タガログでインタビューもしている。学生だという彼女から、IDまで取り上げて確認をする念の入りようだ。聞けば彼女は、暗黒に出入りしまだ日が浅い、新人ちゃんということだ。
 そしてHさんより、めでたく「合格」の言葉が、誰にも分からない日本語で僕に伝えられた。これで役者が揃ったことになる。
 こうして五人は、暗黒を後にし、ライブハウスに向かって歩いた。

 ライブハウスはすぐ近くだと思っていたが、十分も歩いたかもしれない。随分昔は僕もたまに通ったが、それがどの場所のどの店だったのか、さっぱり分からなくなっている。
 道々、Hさんがくるよちゃんとベテランを連れ先頭をきって歩き、僕と新人ちゃんがその後ろをついていく恰好となった。道すがら、新人ちゃんがベテランの後ろ姿を、とてもセクシーだと言う。そう言われて眺めると、確かにハッとするほどその通りだった。スタイルで言えば真逆のくるよちゃんは、時々後ろを振り返り、僕と新人ちゃんの様子を気にしている。彼女はロクに口をきかない僕のことで、心配していたのかもしれない。
 ライブハウスに入ると、広い店内がほぼ満席状態だった。バンドのステージ演奏が、広い店内に鳴り響いている。それでも店内の客は平静を保っていて、踊っている人は誰もいなかった。
「ふーむ、ここは誰も踊らないのだろうか」
 久しぶりに音楽に埋もれ踊りたい気分だが、客の様子と音響の具合が、熱烈ダンスに移行するという雰囲気ではない。不完全燃焼で終わりそうな予感がする。
 料理と飲み物を注文し、一先ず様子見と決め込んだ。ピピッときた新人ちゃんとの会話は、相変わらずたいして盛り上がらない。「いざ鎌倉」となってみて、僕はあまり話すこともないし、無理に話をしようとも思っていなかった。しかしあとで考えれば、この僕の態度が新人ちゃんに、変なプレッシャーを与えていたかもしれない。これは、とても悪いことをした。
 反面Hさんはますます勢いづき、場を盛り上げる。新人ちゃんが手持無沙汰になっていることを僕は気付いていたので、僕はテーブルの全員が腹を抱えて笑ってしまうHさんの冗談や余興に救われた。

 ここで敢えて余興と言うのは、Hさんのパフォーマンスが、あまりに素晴らしいからだ。僕が初めて見たHさんのダンスは、金を取って見せるステージで充分通用するほど、本物である。その辺りのバクラ顔負けで、奇妙な身体の動かし方をさせれば天下一品だ。
 そこで絶妙な笑いの効果を発揮するのが、Hさんの目であった。間違いなく、いっちゃっている。Hさんが、ある方の目を時々いっちゃっていると言ったが、Hさんの方がはるかにやばいではないか。
 しかしである。いっちゃった目が元に戻らなければ、それは面白さを通り越して恐怖を感じたりするものだが、この人はそのいっちゃった状態から突然、「マークさん、今日は楽しみましょう」と、いつもの真剣な目と口調に変わるのである。この二つの状態をHさんは行ったり来たりし、その度にテーブルにいる四人は、腹の底から笑わされてしまうのだ。

 僕は混乱した。どちらが本物のHさんなのか? どちらも作り物には見えない。しかし、どちらも本物に見える二つのHさんの状態は、その落差が恐ろしく大き過ぎるのである。
 これは天才だ。Hさんは天才と呼ぶにふさわしい、根っからのエンターテーナーである。これがこの人の、他人を惹きつける最大の魅力であることに、僕はあらためて気付かされた。
 ずっといかれっ放しではこちらも戸惑うが、適度な間隔で真剣さや真面目さをまとい、こちらに迫ってくる。しかもその時、得体のしれない迫力まで伴っている。こちらは自然と、なにか分からないけど、この人すごいなあということになってしまうのである。
 そういえば、通常の会話の中でも、小ぶりながら同じようなことが普段から多くあることに思い当たる。そしてそれが、こちらを心から楽しい状態に引き込んでしまうのだ。
 この人は、意識してこんな芸当をしているのだろうか? 僕はしばらく、このHさんのマジックに興味津々となり、その様子をまじまじと観察してしまった。ベテランやいくよちゃんは、おそらくHさんのことをよく知ってその場も楽しんでいるのだろうが、初めて一緒する新人ちゃんまでが、完全にHさんの魅力に引き込まれていた。

 おかげで場も和み、僕の中に存在していた緊張感のようなものもほぐれてきた。そこになぜか新人ちゃんではなくいくよちゃんが、僕にステージ前で踊ろうと誘ってきた。もともと踊るきっかけが欲しかった僕は、渡りに船でその誘いにのった。
 二人でステージ前にいくと、僕は一段上のお立ち台に立たされ、いくよちゃんと向い合せで踊ることになった。
 いくよちゃんは、ビヤダルを二回りほど強調した体型を持っているため、ただでさえ目立つが、そのいくよちゃんのダンスがとてもかっこいいことに、僕はその数秒後に驚かされることになった。向き合っている自分のダンスが、恥ずかしくなってくるほどだ。しかし身体に軽く汗が滲んでくると、かっこいいダンスに触発されて、こちらの気分が最高にいい。
 ダンスが終わりテーブルに戻ってから、いくよちゃんは僕が楽しめるよう、細々と気を遣ってくれる。トイレに立つと場所まで案内してくれ、飲み物、食べ物を勧めてくれ、話しかけてくれ、絶妙なタイミングで再びダンスに誘ってくれる。次第に僕は、歯茎を出す笑顔が天使の顔に見えてきて、いくよちゃんのことがとても好きになった。
 新人ちゃんもHさんに気分をほぐされ、かなり気さくになってきた。こちらへの話しかけ方も自然になっている。随分打ち解けたムードが出来上がってきて、彼女はダンスにも参加し始めた。
 金になるなら、それくらいするだろうと思う方は、大間違いである。いくよちゃんは最初から、僕にくっつこうなどと思っていない。彼女はあくまでもHさんの後見人だ。
 どちらかと言えばいくよちゃんが、新人ちゃんのことを心配しているのを僕は分かっていた。僕が気乗りせず一人で帰ると言えば、梯子を外された新人ちゃんは収入を得られないことになるかもしれない。僕をどんな人か分からずライブハウスまでついてくれば、その後にお金になるかならないか、彼女たちにとっては気がかりの一つにもなっていただろう。あとで分かったことだが、新人ちゃんもそれをとても心配していたはずだ。なぜなら彼女の財布には、コインしか入っていなかったからだ。
 とにかく彼女たちにとって僕は、先の読めない困った人だった。
 しかし実は、僕自身もこの先がどうなるのか、分かっていなかった。どこかで解散になるのか、それとも暗黒に戻るのか、もしかしたらみんなでホテルに行くのか。
 僕はある理由で、途中から、それがとても気になり始めていた。


 
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2014年02月09日

721.マニラ・マッタリバケーション3

「実はお話ししなければならないことがあるんですよ」
 げっそりとするHさんは、作ってもらったばかりのスクランブルエッグを片手に持ちながら、かすれ声で言った。
 まるで風邪をこじらせ、高熱にうなされている人のようである。声も酷かったが、目がうつろで死んでいた。今日のスケジュールは変更かなと、見ている僕が一瞬覚悟を決めたくらいである。
「あれから、あの女が来たんですよ」
「どこに? え? ここに? あれから?」
 昨夜ホテルに戻ったのが夜の一時半で、それから……ということであれば、寝たのは早くても明け方に近い時間ということだ。小学生でも三秒で計算できる。
「で? 今は部屋で寝てるんですか?」
「仕事があるからと、もう帰りました」
 その女とは、最近Hさんにぞっこんになり、僕と時間を共にしたそれまで、Hさんの携帯に数えきれないほどのメッセージを送りつけていた女性のことである。
「そこまでしてくれるのに放っておいたら可哀そうだから、合流すればいいじゃないですか。僕は全く気にしませんよ」
 そう言っても、Hさんは首を横に数回ふらふらと振り、いやいやをするだけだった。体力と神経がかなり消耗している。今にも手に持つスクランブルエッグと共に、床に倒れ込みそうだ。話を聞けば、もう気力がない中で、朝方帰り間際に最後の魂を抜かれたらしい。
「もう分かりました。あれはかなりの好き者です」 
 テーブルについてから、自分にまとわりついてしまった怨霊に怯えるように、Hさんがボソリと言う。
 そんなことを気力を振り絞るように朝から言われたら、羨ましいと思う気持ちより「お気の毒に……」という言葉が喉の奥から自然に出そうになるが、僕はその言葉を飲み込んで、Hさんを無言で見守るしかなかった。
「僕が代わりに魂を抜かれてあげますよ」と慰めてあげたかったが、万が一、「いいですか? 次は是非!」などと提案に飛びつかれても自分は対処しきれないので、僕はこの言葉も気付かれないように飲み込んだ。
「ストーカーですよ、あれは」と言いながら、Hさんは再び首を、数回左右に振る。
「真人間Hという目標を掲げていたのに…」とHさんはうなだれるが、聞けばそれは不可抗力というものだ。それまで十分種を蒔いたのはHさんで、自業自得という言葉も一瞬僕の頭の隅をかすめたが、不可抗力ということでも辛うじて通用するだろう。Hさんのうつろな目が、そういうことにしておいてくれと訴えている。
「少し眠った方がよいのではないですか?」
「サウナで寝ますから、大丈夫です」
 そう言って朝食を静かに食べ始めたHさんは、食事の途中で、「もういやだ」と独り言を吐いた。

 そんな幸先の悪い一日のスタートになったが、食後のコーヒー歓談でHさんは少し気力を取り戻し、前日と変わらない雰囲気になってきた。抜けた魂が、少しずつ身体の毛穴を通して戻ってきているようだ。
 丸々一日を二人で一緒に過ごすのが、いよいよ最後の日となる。今日の夜は暗黒を覗いてみようと、その時点でHさんから提案があったように記憶している。その後にライブハウスにでもどうか、暗黒の誰かと……、などという筋書きは、ほぼ朝のうちから出来上がっていた。血のたぎるようなご提案だった。
 つい先ほどまで、もういやだと打ちひしがれていた人とは思えない、転換の速さである。ロクデナシ修行で師範の座を長年温めてきただけあり、七転び八起きは当たり前、真紅の起き上がりだるまも真っ青になるほどの、偉大な師匠だ。
 しかし後遺症もただならぬものがあるようで、その後サウナに向かう道すがら、そしてサウナ室や風呂の中でHさんは、「フィリピン女性の情熱はすごい」と何度か口にした。よほど堪えたという意味なのか、やっぱりいいねという意味なのか判断の難しいところだが、僕は後者にとった。というか、僕がそう思うからである。そんな真っ直ぐさや一生懸命さが、カビが生えそうだった年配男を奮い立たせ救うのだ。

 この日の朝、二人の間である男性が話題に上った。話題と言っても決して悪口ではない。二人が好意を持つ男性のことであるから悪い話ではないが、その人の言動について面白おかしく話をしていただけである。
「あの人ね、時々目がいっちゃっているんですよ」とHさんが教えてくれた。いっちゃってるの意味を明確に示唆してもらえなかったから、もしかしたら自分の誤解があるかもしれないが、僕は一般的な意味でそれを捉えた。
「分かりました。今度会った時に、よく観察してみましょう」と僕は答えたが、その話が僕の記憶のどこかに引っかかっていた。これが後に、Hさんの魅力の秘密を解き明かすヒントになる。

 その日もサウナと昼食、そしてマッサージである。
 サウナの手順は、Hさんに手ほどきを受けていた。サウナにきっかり十二分、そして水風呂に浸かる。このインターバルを二度行い、最後はお湯の風呂につかって身体を温めてから浴場を出る。
 その後電動リクライニングシートの並んだ部屋で、日本語放送の映る大型液晶TVの前に隣同士で陣取り、半分TVを見ながら話し込む。
 昼過ぎに昼食を取り再びリクライニングシートでリラックスし、腹ごしらえが済んだらマッサージ、そして最後にサウナと髭剃り、歯磨きをして終了。
 しかしその日は昼食後、抜かれた魂を呼び戻すため、Hさんはリクライニングシートに身を預け眠りに入った。三十分と言っていたHさんは一時間経過しても目覚める様子がなく、眠りが深いようである。思わず何かいたずらをしたくなるような、口をあけ軽くいびきをたてる無防備な様子から、明け方の戦闘で相当の痛手を負っているのが読み取れる。僕も一眠りしようと思っていたが、思わず前方液晶TVで放映中に映画にはまり、ついつい寝そびれてしまった。
 映画が終わると同時にHさんは目覚め、「値千金の睡眠だった」と回復宣言した。そしてマッサージを受け、仕上げのサウナを終了、最後の夕食となる。
 その頃になると、「最初は、今回いつになく時間があると思っていたが、気が付けば最後の夜で時間の経過が早すぎる」と、お互い言い合っていた。楽しい時間というのは、本当にあっという間に過ぎるものである。僕はそろそろ、翌日のマレーシア行きが脳裏をかすめ、それを憂鬱に感じ始めていた。

 その日の夕食を大虎さんで取り、その後予定通り、暗黒へと足を運んだ。
 土曜日のせいか、それともチャイニーズイヤーという特別の日のせいか、それとも年がら年中なのか、店内はものすごく混んでいて、座るテーブルを探す羽目になった。日本人の姿は見当たらず、目につくのは韓国人と欧米人である。場内は真っ直ぐ歩くのもままらないほど煩雑で、タバコとアルコールと香水の匂いが入り混じった空間に、得体の知れないどろりとしたエネルギーが充満している。一人で出入りする度胸はないのだが、明らかに僕好みの雰囲気だ。
 慣れない僕は、最初は落ち着かないが、それでもその日は積極的に店内を観察した。その日の僕はいつもより、気合が入っていたのだ。血が騒いだというか、騒ぐように自分を仕向けていたのか分からないが、テーブルについてからも、定期的に周囲をぐるりと見回していた。
 しかしパッとする人が見当たらない。まあこれは、いつものことである。そして不思議なことに、いつも入店と同時にまとわりつく負傷兵も寄ってこなかった。
 もしかして……。
 Hさんは、サウナ通いの恰好で、頭にトレードマークの帽子をかぶらずタオルを巻いた出で立ちで来たものだから、負傷兵がすぐに気付かないのだ。
 しかしそれも時間の問題で、今日は外れかもしれないとHさんが言った辺りから、にわかに周囲が騒がしくなった。予定通りというか、想定内というか、気が付けば二人は負傷兵に囲まれていたのである。そうなると、目ぼしい人がこちらに寄ってくるはずもなく、しばらくは不毛の時間を負傷兵相手に過ごすことになる。

 既に指揮官の顔になっているHさんが焦れ始め、負傷兵に命令を下す。
「良いのを見つけてきたら、コミッションを払う」
 その指令に負傷兵は生き生きとした顔になり店内をうろつき始めるが、少しして戻って来ると、口を結んだ難しい顔を左右に振り、今日はいないと言うのだ。
 いや、そう言えば「ぬらりひょん」のような妖怪を一人連れてきたような気がするが、それが自分たちにあてがうための方であったのか、その時の僕にはよく分からなかった。結局ぬらりひょんは、いつの間にか姿を消した。
 とにかく何度か探索してくれていたようだが、釣りで言えば、あたりも感じないくらい釣果を期待できない日であった。
 負傷兵が店内を駆けずり回っている間、テーブルの上ではHさんと二人で作戦会議である。
「マークさんの二時の方向の方はどうですか?」
 額を突き合わせたひそひそ話の後、いきなり顔を向ければ敵兵に作戦がバレバレとなるので、そこはできるだけさりげなく自然に指示された方向を見ると、どうも僕にはピンとこない。
「Hさん、僕には少し濃すぎますね。僕的には、Hさんの十二時の方向と十時の方向の方がいいですね」
 Hさんもその方向の敵兵をさりげなく確認し、「僕とマークさんは、絶対バッティングしないことが分かりました」と報告してくれる。
 僕はブス専という領域において、Hさんとかなりかぶるのではと思っていたので、その言葉がやや意外であった。ここで少し、二人でブス専に関する議論が展開される。ここで僕は、顔立ちより雰囲気重視だという言い訳じみたことを言う羽目になる。
「いやいやマークさん、僕は違うんですよ、本当は」
 僕はHさんのこの言葉に梯子を外されたような気がし、一瞬胸の中に冷たい一陣の風が吹き抜けた。
 しかし時間は刻々と過ぎていく。最終日の冒険の成否がかかっているのだ。しばらく二人の間に、白熱した時計の針の位置が飛び交った。会話の内容はできるだけ他人に気取られないよう、二人は額を近づけ作戦会議に必死になった。
 ところが思わぬ伏兵は、僕の目の届かない、自分の真後ろにいたのだ。


 
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