フィリピーナと共に
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2011年09月09日

345.すごいにっぽん

少し前にレガスピで買ったライターガスの調子が悪い。
ガスの調子悪いってなに?とお思いの方もいらっしゃるかもしれないが、まず、日本で購入したターボライターには全く使用できず。(日本では、コンビニで購入したガスで全く問題なかった・・しかしフィリピンには持ち込めないので置いてきた)

ガスを満タンにしても中々点火せず、ようやく火がついたと思えば、最初から風前の灯のようなポポポ〜というもの。
まあこれは、ターボライターの場合ノルマルブタンよりイソブタンを使用した方が良いなどがあるので、フィリピンで売っている粗悪ブタンガスでは無理があるかもしれないなどと思った。

そこで地元で購入したライターにそのガスを入れてみたら、普通のライターでもターボライターでも、どちらでも同じような結果。
単にライターガスと言っても、メーカーによりノウハウのような成分混合比があり、また不純物除去具合でも性能の違いが出るらしいが、ボンベの中には火のつかないどうにもならない粗悪ガスが入っているようだ。
最低限の機能くらいは保証してほしいと強く願うも、値段も100円を少し上回る程度だったから、仕方がないと諦めた。

そこで地元のモールにライターガスを買いに行った。
ライターガスはありますか?と訊いたら、店員がライター点火用の石を出してきた。
石(ストーン)ではなく、ガス、ライターガスだと言ったら、この店にはライターガスは無いと言われた。
ライターガスがない・・・。
色々訊いてみたが、タバコシティーでは売っていないのではないかと言われこちらは絶句。
ライターガスが手に入らない町・・・、とんでもない町に住んでいると、あらためて認識してしばらく絶句継続。(これでも12万人くらいの人が住んでいる町ですが・・)
茫然としている僕を、店員が不可解そうに見ていた。

時間と交通費をかけて隣町に行けば、使い物にならない粗悪ガス。地元では全く手に入らない。値段は少々高くても、まともなものが欲しいのだが、どうにもならない。
飛行機代をかけてマニラに行けば、おそらくまともなライターガスがあるのだろうが、それは日本で言えば、秋田や山形から飛行機に乗って、東京へライターガスを買いに行くようなものだ。(ローカルの飛行機でも、ガスボンベは没収対象かもしれないが・・)

今月は僕の誕生日。
昨日モナに、誕生日のプレゼントは何が欲しい?と訊かれ、迷わず「ライターガス!」と答えたら、彼女は呆れて笑っていた。

こんなことはライターガスだけではない。和食材料が手に入らないことはこれまでも書いたが、他にはボックスティッシュ、ボトルシャンプー・リンス、輸入コーヒー、普通のシェーバー、まともなベルトや財布や靴・・・。
まともな・・と付く物はほとんどないから、まともであれば何でも欲しい。
とにかく何でもすぐに壊れる。笑えるくらいの粗悪品だらけ。

ボックスティッシュがないというのは、かなり不便だ。
先週風邪をひいていたが、鼻水が出てもティッシュがない。仕方ないので普段ズズズーっとすするが、シャワーの時に手で鼻をかみ水で洗い流す。
外を歩いていると、よく地元の人が鼻に手をあて、顔を横向き気味にしてフン!と鼻を飛ばしているのを見かける。さすがに僕はそこまではできないが、シャワー時に手鼻をする時には、これも現地化の兆候だろうかなどと不安がよぎる。
ちなみにティッシュと言えば、こちらにはポケットティッシュはある。しかし中身は、よくレストランにおいてある紙ナプキンと同じようなもの。ごわごわして、大変使い辛い。
フィリピーナはあのレストランのナプキンをよくティッシュと呼ぶが、なぜそう呼ぶのかこちらにきてよく分かるようになった。

このように不便な生活をすると、日本の質の良いものが手軽に手に入る有難味というものを、いやというほど実感する。
日本は本当に、身近に何でもある。
ボックスティッシュやライターガスなど、24時間いつでもコンビニで買えることが当たり前のような感覚になっていたが、実はそれは、とてもすごいことなのである。
文房具も雑誌も弁当もコーヒーも、何でもすぐに買える。
初めてそれを見たフィリピン人には、きっとそれは目玉が飛び出るくらいの驚きだろう。(自動販売機にも驚いて、その前で記念写真まで撮ると聞くが・・)
すごすぎる、にっぽん。
世界を見れば日本が分かる・・・まさにこのことである。


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エントリー:345.すごいにっぽん

344.フィリピンの教育現場

少し前、平日にも関わらず、ベルがいつも家にいた。
学校はどうしたのかと訊けば、先生が休みだから授業がないという返事が返ってくる。
先生はなぜ休みなのかと訊けば、どうやら病気らしい。
一旦学校に行くのだが、行ってから先生が休みということがわかり、そのクラスの生徒が帰される。

それで3日くらいは学校を休んだろうか。
ようやく先生が学校に出てきたと思ったら、またすぐ平日の休み。
また先生が病気になったかと訊けば、今度は出張でいないらしい。
そして再び平日家にいるベルに、今度は何かと訊けば、今日は先生のストライキだとか。

先生も病気になるだろうし出張もあるだろうが、それでそのクラスが休講になるなど、まるで大学のようだ。
大学では、各講師が専門分野を教えるのだから休講は理解できるが、小学校では極めた専門分野があるわけではないから不思議だと思っていたが、どうやら先生の数が足りないらしい。

ストライキは給料を上げろというものだろう。
低賃金が常態化しているフィリピンで、サラリーが上がっているのは学校の先生くらいのものだが、それに味をしめてストライキを度々やっているのだと思われる。

子供が多いフィリピンなので、ベルの通う小学校では一クラスに40人強の生徒がいる。
学校はそれほど立派なものではなく、平屋作りの3〜5教室ある建物が校内に点在している。日本のような学校を想像している人には、初めて見た時にはそれが学校だとは分からないようなお粗末な施設だ。

狭い教室で、しかも一人一人に机はない。椅子の肘かけの部分の片側に、ノート一つが乗るくらいの板がついていて、それが机代わりとなっている。
予算がないから机も無いのだろうと思うが、今は椅子だけで教室が一杯になっているから、仮に机の予算がついたとしてもそれを入れるスペースがない。

子供が使う教科書は支給だが、それは使い回しするもので、過程が終了したら学校に返却する。返却された教科書は、また翌年、下から上がってきた生徒に配布される。だから全てぼろぼろで汚い。当然教科書にメモを書き込むことはできない。
どうせ小学校の教科書など大きくなれば捨ててしまうものだから、資源節約に一役かえて良いとは思うが、当然フィリピンのそれは、資源節約が目的でそうなっているわけではない。

学校の設備が老朽化すれば、父兄でお金や労力を出し合って修復する。
例えば外壁の再塗装、生徒が使用する椅子の再塗装など。ペンキはそれほど安くないので、ゆとりのある家庭がペンキ購入係。ペンキを買えない家庭は、ペンキ塗り作業係を買って出る。そうやって分担しながら、学校を少しでも綺麗にしようとする。
我が家はいつも、ペンキ購入係。最初は不公平だと思い、今度は俺がペンキ塗りをやると言っていたが、最近はお金を出せない家庭の実状が分かってきたので騒がない。学校に対するドネーション(寄付)だと割り切っている。
しかし、本当は広く薄く集めれば良いと思うのだが、フィリピンでは出せる人が出すという発想にしかならないらしく、そのようなところは未だに不思議だと思っている。

放課後は日本の学校と同じで、教室の掃除を生徒がやる。
床はコンクリートなので、ほうきで掃いた後拭き掃除をするが、これにも驚いた。
生徒が何かの上に乗ってずりずりと歩いているので、何かの遊びをしているのかと思ったが、よく見れば両足の下にあるのは、半分に割ったヤシの実である。
割った側を床にし、それを床にこすりつけることで、床の拭き掃除をしているのだ。なるほどヤシの油成分で、ワックスがけをしながら拭き掃除をしているのかと感心した。

このように、フィリピンの学校は、極めて貧乏だ。(ちなみにこれは、公立小学校の話し。私立はもっとお金をかけていると思われるが、見た事がないのでどうなっているかはわからない)
教育は国づくりの根幹事業なのに、まるで予算がないのが良く分かる。
当然子供たちは他の国の状況を知らないから、その環境が酷いということなど知るよしもなく、普通に明るく学校で過ごしている。

その状況下で、フィリピン全体の賃金が低迷する中、先生の給料だけが上がるというのも何か皮肉めいているが、更に給料アップ要求のストライキは子供へしわ寄せがいく。
以前の記事で書いた通り、国会議員には自分の裁量で使えるお金が結構あるにも関わらず、子供の教育に全くお金がまわらず、半分は議員のポケットに入る。
そのようなところは、貧乏な発展途上国としては当たり前なのかもしれないが、かけるお金がまるでないわけではないのだから、やはりどこか狂っていると強く感じるところである。

肝心の教育レベルは、当初アメリカ方式の授業形態(子供たちに自由に発言させる、親の参観も自由で開放的)に、議論できる生徒を育てるには良いと思ったが、その割にフィリピン人は議論できない。数学や科学・歴史の話しをすれば、大卒でも驚くほどレベルが低い。経済や政治の話も今二つ。
ヨーロッパやアメリカの歴史、世界経済は言うに及ばす、フィリピンのそれについても日本人の僕が解説をする始末。
よって基礎がないから、フィリピン人は全てにおいて論理的思考が苦手のようだ。
直感的思考と結果オーライの世界が蔓延するフィリピンで、さて、一体ここはどうなっているのかと、いつも不思議に思っている。

屋外でイベントなどをすれば、大体は人の行動力や知恵といった頭の良さがわかったりするが、それを見る限りは素晴らしい人が多い。その意味では、潜在能力は決して低くないはずだから、おそらくこの国の教育システムには、何か欠陥があるのではないだろうかと僕は疑っている。
仕組みを考える人、教える人が論理的思考できなければ、それは延々と伝染し続けてしまうのだろうかなどと考えている。

フィリピンでお金がある人は大変教育熱心で、こちらでは3歳から学校に入れたりする。
私立学校などは小さなうちからハイレベルな勉強を詰め込むらしいが、それでも結果が出ているようには見えないので、僕はそれにも懐疑的。
モナは来年からユリを学校に入れたいなどとほざいているが、一つはそのような学校に僕が懐疑的なこと、そして小さなうちは家庭で躾をし、遊びの中で人間関係の基礎を学ばせたりや想像力を鍛えた方が有意義だと思っているから、僕はわざわざ高いお金をかける必要はないと一蹴している。
ちなみにベルの場合もモナは私立の学校へ入れたかったが、本人にしっかりと拒否され断念した。子供がいやだというなら、僕はそれで良いと思っている。
ユリの場合も、結局は本人次第ということになるのだろうかという気がしている。

教育に関しては、やはり国の役割が大きい。
日本の教育の方向性は、現在文部科学省(旧文部省)が学習指導要領で定めている。
これは誰もが知っている通り、国家が国の教育の方向性を決める仕組みである。(文部省は明治4年にできた)
その結果、日本の教育内容は、アメリカの思惑、中国や韓国の内政干渉をしっかりと受けてしまった。国の教育行政トップに言えば、その国の教育内容を簡単に変更できるため、他国には操作しやすい状況があったわけである。

これに対して同じ敗戦国のドイツは、文部省なるものの機関設立を最後まで拒否した。
これがドイツの賢かったところだが、ドイツは教育が国の将来を作ることを認識した上で、戦勝国の思惑を自国の教育にねじ込ませないようにするために、敢えてそうしたのである。
ドイツにその教育内容はおかしいと言っても、国は、それは地方自治体の管轄でそうしていることだから、知りませんと答える。地方自治体へ文句を言いに行けば、更に小さな組織が具体的な部分を作っているから、そちらへ行ってくれと言われる。
結果的に思惑をねじ込みたい側は、これは無理だと諦めることになった。
こうしてドイツは、他国からの教育への干渉を防いできたのである。
その結果、ドイツは世界でも有数の素晴らしい国民性をもつ国へと変わった。
国家が物事を考えるというのは、なるほどこのようなものだという、分かりやすい例である。
国が教育の重要性をどれほど認識し、それをどれほど真剣に考えるかで、国は大きく変わる。

フィリピンの教育現場を見れば、もっと低次元での改善を申し入れたくなるようなことだらけだ。
ドイツのような高度な視点での教育政策を期待するには、残念ながらまだまだ程遠い。


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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:344.フィリピンの教育現場
2011年09月08日

343.稼ぎなんて・・

昨日のGuapoさんのコメントの最後に、次のような下りがある。
「日本人の方が秀でていると思った事も一切ありません。ここの人たちには前述に勝る人懐っこさ、明るさ、大らかさがあり、ここに住んでいてこれらに何度も救われましたから」

確かに僕も、こちらの人のおおらかさにいつも救われている。
何か問題があれば時折爆発し、問題の点のみならず、それに余計なことを付け加えて言ってしまうのが僕の悪い癖。
一旦口から出てしまった言葉は取り返せないから、後で冷静になった時に余計な事を言ってしまったと後悔するが、周りの家族はそれを黙って飲み込んで、相変わらず自分を大切にしてくれている。
僕はこのことに、いつも心から大きな感謝を抱いているのだが、あまのじゃくな性格が邪魔をしてそれを素直に口には出せない。
そしてそのことが、一層自分を小さな人間に思わせてしまう。

家族がそれほど僕に寛容なのは、僕がこの家の稼ぎ頭だからではない。
答えは僕がモナの亭主だからだ。
モナの両親はモナの気持ちを大切にしているからそうなる。他のみんなは、それが分かっているからそれにならう。それだけのことだ。
それだけではない信頼関係も少しずつ育っていると信じてはいるが、やはりそれは、僕とモナの関係に根付いたもので、これからもそれはそうそう変わらないと思われる。

だからもしモナが僕を見限ったら、当然モナの家族は僕から離れる。
僕にいくら稼ぎがあっても、モナが僕を見限る理由が正当なものであれば、モナの家族はモナの気持ちを大切にする。
みんなは、現在心配なく暮らせていることを有り難いと思っているはずだが、だからと言ってモナの家族が、決してお金に執着しているわけではないのである。
このことは敢えて訊いたわけではないが、訊かなくても確信を持って、そうだと言える。
だから僕は、この家の稼ぎ頭だから大事にされているなどと勘違いし、思いあがってはならない。気持ちには気持ちで応えるという、極普通の感性を忘れてはならないと思っている。
ただしその気持ちと、むやみやたらなサービス精神で、周囲を金銭的に助けることとは違うということは、敢えてここでも申し上げておきたい。

加えてフィリピン人には、何とかなるという必殺技がある。
そうなると、稼ぎがあることなど、ますますたいしたことではないことになる。
今、少し大きな家に住み、フィリピンの一般家庭よりも少し贅沢な食事をしていることも、生きるために絶対に必要なことではない。
もともと質素な暮らしが十分できる人たちだから、いざとなればトライシケルの稼ぎで食える程度の暮らしに戻っても、文句を言う人はいない。
仕方ないという一言で、みんな前の暮らしにすぐ戻れる人たちだ。

その意味では、大変たくましい人たちなのである。
何があっても何とかなるさと、どんと構えている。
細かいことは気にしない、仕事が気に入らなければ次の事を考えずにすぐ辞める、金があるうちは働かない、楽しむ時にはとことん楽しむ、歌でも踊りでも何でもリクエストが来たら老若男女みんなが披露できる、稼ぎが少ない(または無い)一家の主には見えない陽気ぶり・・・。
なんて怠け者だと思ってみれば怠け者に見えるが、何て大きな人間だと思ってみれば、大きな人間に見える。
皮肉交じりで書いているが、たくましいと思うこと、人間が大きい気がするというのは本音だ。その中には深い優しさも含まれる。
たくましく優しいから、妙な安心感を人に与える。
ちまちました日本社会で疲れた日本人を、救済できる要素をふんだんに持っている。
いい加減なところもふんだんに持っているが、きちんとしすぎる日本で疲れた日本人には、自分が被害者にならなければ、このいい加減さも心地良い。
それらに騙される日本人もいるから、そこは相手を良く見る注意は必要だが、彼らの持っているおおらかさというのは、前向きにとらえればそのようなものである。

これで自分も一緒に、何とかなるよねと言いながら、仕事と好きなことを気の向くままに配分し、毎日昼寝などをしながら生きていけたら、それこそ極楽だと本心から思うのだが、そこは中々そうはならない。人間が小さい僕は、どうしてもいろいろと考えてしまう。

このように、ちまちまと考える日本人がおおらかなフィリピン家族の中へ入りこんだわけだが、当事者にしてみれば大変なことがあったとしても、客観的に見れば妙に上手い組み合わせで、世の中良く出来ているものだという話になる。
これこそ神の絶妙な采配だと、家族は毎週教会で感謝の祈りを捧げているかもしれない。本当にそうであれば、大変嬉しい限りだ。
当事者にしてもここでの生活はまんざらでもないから、まあこの際、細かいことはいいかなどと思いながら、それで少し人間が大きくなった気になったりするのである。


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