フィリピーナと共に
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2014年01月11日

714.性について

 台風が近づいているとのことで、タバコシティは風が強くなっています。昨日朝食後にテラスでコーヒーを飲みながらタバコを吸っていたら、強風にタバコとライターが庭の方へ吹き飛ばされてしまいました。昨日は一日そんな天気で、まるでファン(扇風機)も必要ありませんでしたが、本日も同じ天候が予想される朝となっています。山の方を見ると数キロメートル先は靄(もや)がかかったように見え激しい雨になっていると思われますが、こちらは雨が降りそうで降らずなんとも過ごしやすい天候です。
 昨日ギョウちゃんより、電話がかかってきました。ギョウちゃんは年末からアラバン宅に行っていましたが、ようやくビコールに戻られたとのことです。
 早速、年明けからの僕のブログ記事について、感想を頂きました。その感想は内容についてではなく、記事の雰囲気についてです。
「マレーシアに行って、まるで悟りを開いたかのようですね」
 悟りの境地に達したわけではないのですが、そう言われたのは、この「ですます調」の文のせいだと思います。実はこの文体は、僕にとって大変書きやすいのです。気分がのると言いますか、とにかく書く気になるので不思議です。もっとも飽きてきたらまた元に戻しますが、しばらくはこの調子でやってみたいと思っております。

 今回我が家に帰ってみると、色々な変化がありました。その一つですが、モナの従姉が以前付き合っていたトンボイ(彼氏のような彼女)と別れたそうで、彼女はスポンサーを失って働き出していました。勤め先は台湾人が経営する雑貨屋です。その店をちらりと覗いてみましたが、従業員が二十人くらいはいそうな大きな店でした。
 なんだ、仕事も探せばあるじゃないか。
 やはりスポンサーがいる安心感は、働く気を疎外するのでしょう。働かなくても食えるのですから当然です。僕も有力なスポンサーが欲しいと思いますし、いたら色々な理由をつけて働かないかもしれません。人間は弱い生き物で、何とかなるという安心感は、そのうち自分の境遇も何とかなるという惰性の生活態度を導きます。

 スポンサーを持つというのは女性の専売特許のように感じますが、男性にもチャンスはあります。
 このフィリピン、貧乏なイメージが付きまとっていますがお金持ちはこちらが腰を抜かすほどのお金持ちです。当然お金持ちのおば様たちもたくさんいます。
 お金持ちのおば様は比較的見分けやすく、化粧の仕方とメガネに特徴があります。そこでおやっと思い履いている靴、時計、服などをつぶさに観察し、素材の良さそうなものや本物っぽいブランド品に包まれていたらほぼ確定です。十年前はおそらく自分のスポンサーになってくれるだろうおばさんが、周囲によく登場しました。
 かつて四十歳前後の頃ですが、実は僕は周囲から大変若くみられていました。嘘つけえと言われそうですが、二十代に見られることもしばしばです。一つ前のパスポート写真など、自分で言うのもなんですが、今の自分とはまるで別人です。(モナが保管していますので、リクエストのある方には証拠としてお見せします)よって当時、自分の周囲にギラギラした女性が登場しても、それほど変ではなかったかもしれません。
 残念だったのは、その手のおば様方たちに性的魅力を感じる方が皆無で、こちらがグラリと傾く人がいなかったことですが、高級レストランやホテルラウンジでよく声をかけられました。
 声のかけ方は絶妙で、突然自分の席に頼んでいないものが運ばれ、あのお方からのオーダーですと言われます。そこでボーイやウエイトレスの指す方を見ると、大きな体躯をした年配の派手な女性がこちらに不気味な笑みを投げてくるわけです。
 僕は二十代の本当に若い頃、日本でも一度だけ誘っているそぶりの年輩女性に出会ったことがあります。その方は着物を着こなした綺麗な人でした。微笑み方も上品すぎるほどで、正直に言えばクラっときました。しかしその頃の僕は、その女性がどこかの親分の奥様ではないかと思い怖じ気付いたのですが、今思えば貴重な体験を逃したと思います。
 階段を上り下りしただけで息が上がる歳になると、そのような時の機微に精通し落ち着いて対処できる自信を持てるのですが、今度は機会に恵まれることがなくなりますから、人生が思い通りにいかないとはまさにこのことです。

 このように、こちらの上流階級の方は意外と好色と言いますか、かなり積極的です。一度でも男を買うバーに行ってみればすぐにご理解頂けますが、脂ぎったおば様たちが目にハートマークを浮かべ若い色男を物色しています。その姿は、普段の社交場では決して見られないあからさまなもので、こちらの興味はその豹変ぶりに向くことになります。
 しかしながら、上流階級の方ではなくても根は同じです。人間の性に関しては、数々の文豪が私小説や他人の名を語り告白している通り、昔からどこの誰にも共通するものがあります。人間の本質を描きたいという欲求が文豪たちにそれらを書かせたのでしょうから、やはり性は人間の本質に根差したものです。それらをどう評価するかは人によって違うでしょうが、密かに共感する事柄が、意外に多いのではないでしょうか。

 何十年も前の医学会では、激しすぎるそれは体力を消耗し寿命を縮めるとされていたようですが、昨今はその考えを覆す実例が散見され、古臭いことを真面目に言う医者はほとんどいなくなったようです。
 その実例というのもやはり本の世界でのことですが、ご高齢にしてますます元気な方というのは精力もばっちりというもので、ベッドの上で元気になることが丈夫の源という話です。
 これは男性も女性も同じで、特に女性の場合、未使用期間が長いと涸れた井戸のように潤いが無くなり性交不可能になるらしいですが、しっかり使用していればその機能は七十歳でも変わらず、定期的な性交を重ねる女性はいつもはつらつとなるようです。逆に男は歳をとるごとに精力が減退し、不能になり生きる活力が減退、心身共に枯れ果てるという説が一般的でしたが、老人男性の快楽は射精のみにあらず、挿入で十分満足できるように変化するという非常に興味深い告白もあります。それらからは人間の活力と性の密接な関係が読み取れ、単に下世話な話題ということではなく、真剣に向き合うべき内容という気がします。
 僕はこれまでの記事で、自分がギラギラしなくなっていることに憂いを感じると書いてきたのはまさにこのことで、はつらつと元気に花から花へと駆けずり回る人を羨ましくも思います。別に多くの花を渡り歩く必要もないのですが、一つの花にときめきを感じるのがせいぜい三年から五年というのは、女性でも分かっている男性の心理だそうですから、その辺りが微妙なところです。
 賢い女性は男性の活力維持のため(つまり自分の生活のため)、花を渡り歩く連れ添いを容認することもあるようですが、そのような奥さんを持つことが男性にとって幸か不幸か、これも微妙なところです。

 少し話題が逸れてきましたが、人間の生きる活力と性の関係に男女の区別はないようです。つまり、女性が刺激的な恋や性交を求めて男性を渡り歩くことも十分ありということで、実際にそのようなことは日本でもフィリピンでも意外に多くあるということです。
 女性の場合、経済力のある人に、特にその傾向が強いと感じていました。世間一般に良く知られる女性たちの恋(いきずりの恋も含む)の遍歴を追えば、ここに書かれていることの理解が深まると思われます。しかし最近、普通の主婦にもゆきずりの恋を楽しむ傾向が増えているということですから、そのようなことが一般的になってきたのかもしれません。家庭という縛りのない独身女性であれば、その傾向はますます顕著だと予想されます。

 同時に性を語るには、貧困と性の関係なども興味深いネタの一つです。僕は、貧しいということは逃避の場所を求めることだと最近思うようになりましたが、この逃避の場所として性が手っ取り早く効果的だと思っています。
 ここで言う「貧しい」は、お金がないことだけではなく、心の貧しさ(寂しさ、物足りなさと置き換えてもよい)も含まれます。
 日本のような社会になると、気持ちを紛らわせてくれるものが多くあり、逆に仕事に気持ちが囚われの身になることもあり、そして充足しない気持ちを紛らわせることのできる経済力もある程度あります。よって、貧しくても逃避の場所はたくさんあるわけです。そうなると性を介在した面倒な逃避場所よりも、そうではない場所に逃避を求める動きが出てきておかしくはないような気がします。もしくは性を介在する場合も、面倒のないケースにのみ積極的になる向きがあっても不思議はありません。そう考えると、先進国に見られる少子化の傾向というのも、ある種の貧しさに繋がる結果に思えてきます。
 一方フィリピンでは、逃避の場所として身近でフリーの連れ合いとの性交を選ぶケースが多くなるような気がします。もしくは連れ合い相手ではなくても、そのような行動に結び付きやすい社会もしくは経済環境がここにはあるのでしょう。計画的に物事を運べないのも逃避の一つで、どうにかなると考えて気を休めるのも逃避です。
 フィリピンに限らず、貧しいエリアには子供がどんどん増え続けています。フィリピンの人口は今年一億を突破すると言われていますが、することがないからそうなるというのはある意味正解と言えます。

 結局気持ちを充足させ生きる活力を養うのに、性行動は手っ取り早く効果的ということで、現実逃避の場所としても最適だということです。それは人間の本能に繋がる行動だからであり、それがなくなれば人間の生きる楽しみは半減すると言ってもよいかもしれません。特にフィリピンのような国の人は、それがなければ半減どころか生きる意味さえ見失ってしまうかもしれません。
 人間の性とは奥深いもので、人はこのことを、臆することなくもっと議論してもよいと思います。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:714.性について
2014年01月09日

713.フィリピンでの日常

 今日も朝から曇り空が広がっています。ここに帰って天候の七割は曇りか雨ですから、さすがに冬と言われるだけあります。
 フィリピンに来た当初、僕はここにシーズンの呼び名は夏しかないと思っていました。一年中半袖半ズボンにサンダル履きで通せるのですから、日本人の自分にフィリピンは、疑いのない常夏の国でした。ですからフィリピンに「夏(サマー)」「雨季(レイニー)」「冬(ウインター)」があると聞いた時、雨季はなるほどと思いましたが、冬という言葉を聞いて思わず「ふゆ?」と訊き返してしまいました。
 この冬という呼び方は、フィリピン人にもばらつきがあるようで、人によってはここに冬という季節はないと言います。しかししばらくここで過ごしてみると、冬の季節は日本と同じように空を分厚い雲が覆っていることが多く、朝は扇風機をつけていると寒くて目が覚めるほど冷えるので、確かにこの時期は相対的に冬だと納得できるようになります。
 実際にこの時期の田舎の朝夕は、日本の秋たけなわという気候です。さすがに山の木々が色づくことはありませんが、茶色になった葉(ドライリーフ)が道路に落ちている割合が増しているように思います。マニラでさえもフィリピンに到着した早朝は長袖が欲しくなるほど肌寒かったので、フィリピンの今は一年の中で最も涼しい季節なのは間違いないでしょう。
 ユリをプールに連れていきたいのですが、おかげでなかなかそのタイミングを掴めません。一度だけプール代わりに近所の海に行き、ほんの三十分だけ海水浴を楽しんできました。

 海水浴のできる近所の海は、我が家からトライシケルで三十分ほど走った場所にあります。住んでいるタバコシティは小さい町ですから、三十分も走れば周囲は田舎の中の田舎という風景になり、道を歩く人も「地の方々」という雰囲気の人ばかりになります。道沿いの家は粗末で、どこの家も道路からばっちり見える場所に洗濯物をたくさん干しています。ドアが開けっ放しになっているので、どのような暮らしぶりかちらちらと家の中を覗いてみるのですが、どこも採光が悪く中は暗くてはっきり見えません。そんな場所を日本人がトライシケルの後ろに乗って走っていると、道行く人は珍しがって、みんなあからさまな視線を投げてきます。それは海水浴場の浜辺でも同じで、その辺の人たちはどうやら、外国人が珍しくて仕方がないように見えます。
 家の近くには別の海岸もありますが、そこは船が出入りする港になっているので、泳ぐ気になるほど綺麗ではありません。綺麗さで言えばトライシケルで三十分くらい走っても大差ないのですが、一応行った先には日本で言う海の家らしきものがあり海水浴場の体を成しているので、少々汚い水でも気が紛れます。
 もちろん子供は波立つ水と砂浜があれば大喜びで、僕はユリと一緒に海に入り、彼女の近くに寄って来るスイカの皮やビニールなどの目障りなゴミを見つけるたびに、拾っては遠くに投げるという作業を繰り返します。もっと綺麗な海に連れていきたいという気持ちが募りますが、モナの身体を考えれば遠出はできません。

 我が家から近い海は太平洋側に面していますが、水温が非常に高く、水の中にいるとこの時期でも全く寒くありません。水から上がり濡れた身体が風にさらされた途端、鳥肌が立つほど寒さを感じるので、水から上がるのが億劫になるほどです。
 この生暖かい水温に足を入れると、こちら側で獲れる魚がばさばさで美味しくないというのが頷けます。やはり魚は寒水に浮遊しながら脂肪を蓄えたものが美味しく、この辺では太平洋側より南シナ海側で獲れる魚の方が、断然味が良いようです。これはギョウちゃんから頂く南シナ海側で獲った魚を食べると一目瞭然で、太平洋側の魚は炭焼きでカラリと焼けばまあまあですが、刺身も煮物も厳しい感じがします。もしフィリピンで魚にこだわりたい方がいたなら、購入する魚はどちら側で獲れたものか、普段お店で扱う魚はどちら側で獲れた魚かを確認されると、少しは美味しい魚にありつける機会が増えると思われます。

 海水浴に出かけた時には日が照っていたのですが、帰りの途中でぽつぽつと雨が降り出しました。それが夜になると大降りに変わり、涼しさが一層際立ちます。もともとフィリピンは山のように天候が変わりやすいのは知っていますが、この時期は特に変化が激しいような気がします。
 同時にとても過ごしやすく、時折コーヒーを淹れてはモナとテラスに出て、高原にいるような気持ちよさを感じながら毎日たわいもない会話を楽しんでいます。
 例えば昨日は、Nさんの話になりました。モナが突然、「マニラに行きた〜い」と言います。
「そのお腹じゃ絶対飛行機に乗せてくれないね」
 僕は、突き出るように大きくなったモナのお腹をさして言いました。
「そうねえ。でも行きた〜い」
「どうせ焼き肉と刺身と寿司を食べたいだけでしょう?」
「そうよ、でも、あ〜、吉野家の牛丼も食べた〜い」
「それはマニラでも無理だ。あっ、そうだ。Nさんに電話して、すぐ持ってきてってお願いしようか」
「そうねえ、それもいいわねえ」
「あっ、でもだめだ、そんなこと言ったら彼は本気にして牛丼買ってここに来るよ、真面目だから」
「そうねえ、チケット取れませんなんて、泣きそうな声で電話してくるかもねえ」
「先に牛丼買っちゃったから、チケット取れないとやばいんです、なんて言って?」
「ははは、それ、悪いじゃん」
「当たり前だ。牛丼は諦めてもらうしかない。刺身も寿司も焼肉も子供を産んでからだな」
「あ〜ん、仕方ない。今日のディナーはステーキにしよ」
 先日久しぶりに牛肉を買いステーキにしてみましたが、いくら焼き過ぎに気を付けても、どうしても地元の牛肉は固くなってしまいます。
「牛はやめて。ぶたね、ぶた」
 こんな成り行きで昨日の夕食はバブイ(豚)ステーキになりましたが、手作り和風ソースをかけマヨネーズを付けて食べたら、食が進んで仕方ありませんでした。あれほどマニラで美味しいものをと熱望していたモナも、「おいし〜い、ヘブン(天国)だ」と言ってすっかり吉野家の牛丼のことを忘れてしまったようでした。もし牛丼を持ってNさんが現れたら、モナは「どうしたの?」などと言って、大層なギャグになっていたと思います。
 最近のテラスの会話は、こんな刺激の少ない内容が多くなっています。もう臨月なので、モナの血圧が上がるようなストレス性の話題を意識的に控えているせいもありますが、今の心地よい気候のせいもあるような気がします。大きな自然を身近に感じる生活は、小さなこだわりや不便はどうでもよい気になります。同じ生活環境でもここにやってきた当初はいらつくことも多かったことを考えると、今は気持ちにゆとりができたのだろうことにも気付きます。

 部屋の中では、気が付けばクイーンサイズのベッドの上にベルとユリがいて、一家四人が一つのベッドの上で過ごすことが多いのですが、僕はその度に「生活スペースはベッド一つで十分じゃないか。大きな家は要らなかった」と言いモナは笑います。リビングがありベルも自分の部屋がありながら、頻繁に一家が二畳もないスペースに固まっているのは全く合理的ではありませんが、モナはいつも、そのような生活にこそ幸せを感じているような顔をしています。
 マレーシアでもっと大きなキングサイズベッドに一人で寝ている僕は、正直に言うと少々窮屈に感じてしまいますが、子供とじゃれ合いそのうち寝てしまう子供の寝顔を見て過ごす生活は格別です。ユリは可愛いさかりですし、ベルは最近ムードが変わったとモナが話す通り、ハッピー気分のようです。
 モナによればベルのこのムードは、彼女にあるプレゼントをあげてから顕れたようです。プレゼントはベルがさりげなく僕にオネダリしてきたものでした。珍しいことでもあるし、僕はベルがユリのことでいつも我慢を強いられていることを感じていたので、さりげなく買ってあげることをベルに約束していたものでした。
 もちろんベルは欲しかったものを買ってもらった嬉しさもあるのでしょうが、彼女のハッピームードの原因は、自分が僕とモナの大切な娘であることを実感したからではないかと思います。特に、ユリがベルに与えたそれを自分の物のように使おうとした時に僕がユリをぴしりと叱ったのですが、そこにけじめをつけたことがベルの胸に響いたような気がしました。
 僕はこのことで、なるほどベルも多感な年齢になってきているし、気にしていることも多いのだろうと感じます。何でもシェア(共有)が多いフィリピンですが、ベルはもう十歳です。これからますます、彼女自身が自分だけの世界を持ちたくなる年頃になりますが、親としてそれを理解してあげることは大切なことだと思います。
 ユリは我儘言い放題、し放題の奔放さが許される位置にいて、ベルはそれが許されないことを分かる年齢ですから、どうしてもベルの自発的な我慢が多くなります。しかしユリも次の子供が生まれれば、自分自身で我慢をすることになりますから、これも巡りあわせの一つです。ベルとユリには、これからも我慢をしてもらうことがたくさんありますが、その辺を理解して勉強してもらえると助かります。

 本日は、こんな風に僕と家族はのんびり幸せに過ごしていますという日常を書いてみましたが、そんなことなど他人には面白くないかもしれません。
 日常ですから書けばきりがないのですが、くどいのも何なので、本日はこの辺で。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:713.フィリピンでの日常
2014年01月07日

712.フィリピンの在り方

 既に本格的な仕事始めとなった方が多いのではないでしょうか。大方は正月に緩んだ気持ちを引き締めるのに、少し時間がかかるだろうと予想されます。
 
 日本の正月と言えば、忘れられない一つのエピソードがあります。
 もう何年も前ですが、正月というのでお年寄りの入るある施設で、入居者に餅を振る舞ったそうです。その餅を喉に詰まらせ死亡した方がいたとテレビで報じられていました。ニュースの内容は、施設の管理に問題はなかったかという論旨で進められていましたが、報道の最後で次のようなコメントの紹介がありました。
「施設では前日餅を喉に詰まらせた方がいたため、その日は餅の大きさを小さ目にしたとのことでした」
 つまり亡くなったご老人は、前日にもっと大きな餅を食べて平気だったということか?
 結局その方が亡くなったのは運が悪かったのでしょう。仮に振る舞った餅が原因で亡くなったなら、そうとう無理な食べさせ方をしたためで、亡くなるのは一人では済みません。大方のご老人が大丈夫で、たまたま一人のご老人が亡くなったのを鬼の首でも取ったかのように管理責任と騒ぎだす報道に、当時僕は違和感を覚えました。
 報道機関は報道するネタを社会性という網にかけて取捨選択しているはずですが、そこには色眼鏡を通すということも行われていることを感じました。施設の管理責任を追及できないか、その施設を管理している国の管理責任を追及できるなら尚良いという色眼鏡を通すことで、時には報道そのものが偏向してしまいます。
 僕はこのような偏向報道を、日本の国益を大きく損なってきた弊害の一つと考えていますが、一方別の見方も自分の中に存在します。

 フィリピンのようなサードワールドと呼ばれる国に住んでみますと、偏向報道に躍起になる日本の報道機関でも、それが果たした役割が大きいことくらいは分かってきます。
 日本人の清く正しく生きることを美徳とする精神を養ってきたのは、マスコミに悪と定義された対象が徹底的に追及されてきた日本の報道の影響も大きかったと思います。マスコミの定義が正しいかどうかは別にしても、日本人は、悪は叩かれる、悪は滅びると刷り込まれてきたのですから、これが自分たちの精神構造に影響を与えないわけはありません。
 フィリピンにも日本並みに、政治家の汚職や一部の人を潤す法律を追求する報道体質があれば、この国はもう少しまともな国になっていたかもしれないと思ってしまいます。莫大なお金が援助として海外から流れてきても、それのどの程度が国民のために使われ、どの程度が極一部の人を潤したのか疑わしいフィリピンです。

 ここでは相変わらず、フィリピン人の一部実力者だけがしっかり保護され、貧しさに喘ぐ多くのフィリピン国民が置き去りにされています。海外資本に搾取され淘汰されることを徹底的に拒むこの国の法律が、フィリピンを陽の当たる場所にできないのだと思います。
 現フィリピン大統領は政治家や官僚の汚職追及に躍起になっているようですが、それでこの国が飛躍的に変わると思えません。それらの改善で国内のお金の流れに与える影響は、些細なものです。フィリピンのグローバル化を阻んでいる原因の根幹は、おそらく国の法律にあります。現フィリピン大統領の政治手法は、パフォーマンスなのか分かりませんが、どちらかと言えばステレオタイプ的で、この国が変わることに大きく寄与しないと思います。

 この国の人々を一部の日本人はバカだと言いますが、国民の多くは、現大統領のパフォーマンスを見破っている節があります。どちらかと言えば、日本人の自分が「とうとうそんな大統領が登場したか、これでこの国も変わるかもしれない」と騙された口で、生活がますます苦しくなる国民は決して騙されません。
 確かに最近、フィリピンの生活費が上がっているように感じます。
 我が家は毎月、モナがバジェット(予算)の明細を僕に提出し、その要求金額をフィリピンに送金しています。その経過をたどってみると、現在の月の生活費予算は数年前に比べ二万ペソほど高くなっています。これはフィリピンで少しお金を使ってみるとすぐに実感できるのですが、様々なものが値上がりしています。
 また先日、電気代の請求が来ました。先々月に比べ先月分は、電気代が倍になりました。よくよく中味を見ると、使った電気量が増えたのではなく、単価がほぼ倍になっていました。日本ではあり得ない話で、日本人の自分は暴動を起こすべきだと考えてしまうほどの急激な高騰です。これで、電気のない生活を強いられる家庭がまた増えるのでしょう。頻繁に停電すると文句を言う生活ができる人は、まだまだ幸せです。
 昨年だったか、マニラの国際空港使用料が以前の七百五十ペソから五百五十ペソに値下げされたように思いました。しかし以前の空港使用料は航空券購入時に支払うシステムに変更となり、空港で支払う五百五十ペソはサービスフィーとして追加の徴収であることが分かり、この国は油断も隙もないと思い知らされました。
 簡単に取れそうなところから徹底的に取ろうと言うのが、この国の基本的な考え方のようです。もっとも、一般国民から広く浅く税金を期待できないのですから、ある程度は仕方ないと諦めてもいますが。

 もともと消費志向の高い国民の国ですから、本来は国が上手にコントロールすることでお金の巡りはもっとよくなるはずですが、一部の人たちが潤う経済システムが確立してしまった今、その枠組みを大きく変えていこうという気が国自体にないのでしょう。
 大領領が政治汚職を騒いでいる間に、物価を始め様々な悪化が進行中です。
 なおさら、フォーカスすべき点を見定め国民の意識を変える賢いジャーナリズムの登場が、この国には必要だと思われます。硬直化していると言っても過言ではないフィリピンの現状を変えるのは、一部の人間だけでは難しいと思います。国民の総意という大きな流れ、空気を作らなければ、この国の変化のきっかけを掴むことは難しいのだと思います。
 そうした中で、清濁併せ込んで長い目で国の発展を考える政治家や官僚が育つのだと思います。おそらく清く正しい運営だけでは、上手くいかないでしょう。ビジネスでも同じですが、様々な人間が関わり合う事柄には、様々な人間の要望に合わせ臨機応変に立ち回る必要がどうしても生じます。効果が上がることであれば妥協はつきもので、妥協の程度さえ見誤らなければ、濁の部分にさえ寛容になる必要があるものです。

 こんなことを考えると、ついつい日本がかつて歩んできた道とフィリピンの在り方を比較してしまいますが、その比較も無意味なことかもしれません。この国には、この国に合ったやり方と道のりがあると思います。
 いずれフィリピン国内で、十分稼いで安心して暮らせる日が来ることを願ってやまない気持ちが、余計な考察を巡らせてしまいました。本日は全く別のことを書こうと臨んだのですが、まるで脱線したまま本日の記事を終わります。



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