フィリピーナと共に
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2011年06月18日

264.フィリピン人とカレー

以前から不思議に思っていたことである。
熱い国といえば、インド、マレーシア、タイなどには、それぞれ独自性を発揮した美味しいカレーがあるのに、フィリピンには基本的にそれがない。
カレカレという似て否なるものはあるが、それを日本人が俗に言うカレーと思ってパク付けば、大体は顔をしかめることになる。

以前日本にいたフィリピーナに、カレーは汗の匂い?味?がするから嫌いだと教えてもらった。
そうかなと、それを意識して食べてみたが、僕には汗の匂いも味も感じない。(汗の味ってどんな味?ってのはあるのだが・・・)

さて、一昨日の夕方、仕事を終えてからモナのリクエストでカレーを作った。
日本から持ち込んだカレーのルーで作る、ごく一般的な家庭のカレーである。
僕は濃厚なカレーが好きだから、玉ねぎをペースト状になるまで良く炒め、それとは別にジャガイモやニンジン、肉を炒めて、ペースト玉ねぎと混ぜて水を足す。
こうしてできたカレーは、玉ねぎが溶けて、そのうまみが浸み出した濃厚なカレーになった。
僕はとても美味しくできたと思ったが、食卓にいる10人中、このカレーを食べたのは僕とモナを含め4人だけ。他の人は全く手をつけない。

よくよく聞けば、やはり匂いがだめだそうだ。(匂いに負けるという表現をしていた)
僕は自分で食べても美味しくできたと思ったし、モナも美味しいと言って喜んでパクパク食べていたが、実はそのモナも、日本で最初にカレーを食べた時には匂いがだめで、カレーは嫌いだったそうだ。
しかし何度か食べて慣れてしまったら、今度は美味しく感じるようになったそうだ。

なるほど、やはりフィリピンの人はカレーの匂いが苦手なのだ。だからフィリピンにはほとんどカレーがない。
正確に言えば、カレーが全くないわけではない。カレー粉でかるく味付けをしたカレーがあることはある。この薄いカレーは、フィリピン人に問題ないらしい。

そういえば、僕も日本で苦手なものがある。
大島だったか八丈島に行った時に、仲間内で居酒屋に行った。
しばらくして、店内にものすごい悪臭が漂い出した。田舎なので、店内にはほとんど客がいない。
もしかしてこの匂いのもとがこのテーブルにくるのかといやな予感がして、しばらくするとやはりそれが来た。
それが僕と「くさや」の初めての出会いだった。鼻をつまみながら、これ何?と周囲の人に訊き、そこで初めてそれが「くさや」だと教えてもらい、これが噂の・・・と唸ったものである。

匂いはすごいが食べたら美味しいから、騙されたと思って食べてみろと言われ、恐る恐る口に入れた瞬間、本当に騙されたと思った。
僕がこれまでの人生で一番騙されたと思った出来事は、フィリピーナでも他の女でもなく、この「くさや」である。
できるだけ息をしないように口をパクパク動かし、ほんの一切れの「くさや」を死ぬ思いで飲み込んだことを、20年経った今でも忘れられない。
なぜそれが美味いのかどうしても理解できないのだが、美味い人には美味いらしい。

僕の田舎にはしょっつる鍋という、発酵系スープの素でつくる料理がある。
これは僕には美味しいのだが、慣れない人には臭くてだめだと言う人がいる。
このケースでは逆に、僕には他人がそれを臭いというのがさっぱり理解できないのだ。
もっと身近なものでは、納豆も同じように好き嫌いがはっきり別れる食べ物である。

フィリピン人にとってカレーに匂いとは、おそらくそれと同じことなのだろう。
理屈ではなく「だめ」で、「だめ」で無い人にはなぜ「だめ」なのか、きっとさっぱり理解できないものなのだ。
だから、依然不思議さは残るが、このことを深く考えるのは止めにした。
もちろん、騙されたと思って食べてみろなどとも、僕は言わない。


昨日夕方、僕とモナはすこぶるお腹が空いていたので、2人だけで、モナが買ってきたチキンをおかずに早めの夕食を食べた。
そして夜、ごはんだと呼ばれた時に、2人はまだお腹がいっぱいで食欲が無かったが、カレーも温めなおしたと言われ、それであればと下に降りた。
一度冷蔵庫で冷やした翌日のカレーが、味がなじんでますます美味しいから、満腹でも何とか食べることができると思ったのだ。

我が家の食卓テーブルは円形で、中華料理店にあるようなセンターテーブルがくるくる回るやつである。
そのセンターテーブルに料理を置き、自分でテーブルを回して欲しいものを取るスタイルだが、2日連続のカレー登場に、明らかにその匂いで辟易としている人がいる。
前日もそうだったが、食卓に会話が無くなるからすぐにわかる。
僕は申し訳ないと思い、カレーをセンターテーブルから取りモナと自分の間に置いた。

ママが僕の気遣いに気付いたのか、大笑いしながら「それはあなたの好物だからねぇ、キープするのがいいね」と、明らかにその顔がホッとしている。

2日目のカレーは、予想通りますます味に深みを増して、とても美味しい。
僕は他のおかずには目もくれず、一心にカレーを食べた。
お腹がすぐいっぱいになってご飯は適当に止めたが、尚カレーが残っているのでレタスにカレールーを包んで食べた。
モナも美味しいと言ったが、もうお腹がいっぱいで入らないと言うので、まだ残っているカレーを片付けようと、そのままスプーンですくって僕が全て平らげた。
とても美味しかった・・・。

・・・が、30分後、お腹の調子が悪くなった。おそらく食い過ぎだ。
トイレに駆け込むと、まるで食べたカレーがそのまま出てきたような下痢だった。
色が少しおかしいので、気になって匂いを確かめてみたが、直通状態でもさすがにカレーの匂いはしなかった。
なぜあの強烈なカレーの匂いがきれいさっぱり無くなるのか、とても不思議だった。

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2011年06月17日

263.フラッグセレモニー

今朝モナの頭痛により、僕がベルを学校に送っていくことになった。
こちらでは、小学生は親やメイドが子供を学校へ送り迎えする。
学校は朝7時から開始と、とても早い。

急いで朝食を済ませ、バイクのエンジンを温めておいた。
学校へはバイクで5分の距離。歩けない距離でもないが、朝からの強い陽射しを浴びてその距離を歩けば、汗だくになってしまう。

学校では7時に、フラッグセレモニーと称する朝礼がある。
国旗掲揚、国歌斉唱、校訓か何かを声を揃えて斉唱した後に校歌斉唱、そして日本でいうラジオ体操のようなもので終わり。

フラッグセレモニーは学校の中庭のようなところで行われるが、僕のような外人がその傍らでぶらついていても、注意などされない。
そこでセレモニーを最初から終わりまで見学してみた。

中庭に集まった児童は、全部で500人くらいだろうか。40人強の教室が少なくとも10はあるので、全校生徒数はその程度だろうと推測できる。
そのくらいの子供が集まればがやがやとするのだが、国旗掲揚が始まると、みんなが静まり返って、フィリピンの国旗がポールを上がっていく様子を見つめだす。
国歌が流れ出すと、先生も生徒も揃って、全員が胸に手を当てて一緒に歌い出す。
そこには厳粛なムードさえ漂う。
毎日このようなセレモニーを体験していれば、国を敬う気持ちも自然と備わる。

時折フィリピンの映画館で、上映前に国歌が流れることがある。
すると館内のいる全ての人が立ち上がり、胸に手を当てて斉唱する。
僕だけ座っているわけにはいかないので一応立ち上がるが、胸に手を当てることはしない。しかし非国民と非難される心配をしてしまいそうな空気がそこにはある。
そのような時に、これは教育の賜物だと強く実感するのである。


日本では国旗掲揚や国歌斉唱を、刷り込みという言葉を使い避難する方々がいる。
刷り込みという言葉に、如何にもそれは悪だという雰囲気を持たせて言う。
しかし教育に刷り込みはつきものである。
九九の反復練習も、練習問題の繰り返しも、刷り込み効果を期待してのことである。
おかしな思想を刷り込むなら避難されても仕方かがないが、まっとうなことは、体に浸みこませるために刷り込みも必要である。

日本を代表するある大新聞社の中身は、それと同じ流れを汲む思想に満ち溢れていたりするので、僕はそれを感じるようになってから、頭がこれ以上腐ってはいけないと、一切その新聞を読まなくなった。
国旗や国歌を尊いものとして扱うのは、国家を敬う心を育てるためである。
それのどこに悪があるのか。
それは悪だと刷り込もうとしている方に、よほどおかしな刷り込みは止めなさいと言いたくなる。

日本と言う国家がなければ、僕はフィリピンに入国さえできない。
難民扱いされずに堂々とフィリピンに入国できるのは、日本という国家の後ろ盾があるからに他ならない。
世界中の人たちと交流しながらビジネスを展開し、お金を稼いだり物を買わせてもらったりできるのも、国家があってのことである。

このように、我々は国家という組織の恩恵を、様々なところで身近に享受している。
国家とは一つの家族のように、運命共同体なのである。
そのような現実があることから目を逸らさせ、国旗も国歌もいかんと騒いでいる連中は、「我々は日本という国を弱体化させるのに一役も二役もかっています」と、どこかの国の人に胸をはって言いながら、「よくやった」と頭を撫でて褒めてもらいたい人たちである。

現実主義が徹底している欧米や他の諸国に人たちは、そのようなことを十分理解しているから、国家を敬いなさいと教育しているし、それを積極的に奨励している。
日本の政治が2流・3流と言われる一つには、国家を一つの単位として捉え、それを発展させようという志を、政治家も国民も失ってしまったせいだと思われる。

日本人は頭が良い(栄養が良いと知能指数が上がる)から、偏った思想の持ち主が近づいてきても、聞き分けの良いふりをして、実は決定的に染まるケースはほとんどない。
身近にそんなものが迫ってくると、体の中で警報が鳴り出し必要以上に近寄らないが、少し遠巻きで見ることができる事象に関しては同調する。

しかしそんなことを繰り返しているうちに、それがボディーブローのように効いてきて、随分と日本が弱体化した。
北朝鮮の拉致問題、北方領土や尖閣に代表される領土問題など、国家の主権を揺るがす大問題で、実際に悪影響が出ている。
見えにくい部分では、日本が、アメリカを始めとした諸外国に大きく搾取されている実態があるが、その現実を知っている一般国民は少ない。

それらを一つのレポートに並びたてれば、大方の日本人は我々の税金を何だと思っているのかと怒りだすに違いない。
そして、政治家や官僚に、もっとしっかりしろと檄を飛ばし始めるはずである。

しかしここで振り返らねばならないのは、しっかりしろと檄を飛ばす前に、国民としてしっかりしなければならないという自覚を持つことである。
先頭に立って檄を飛ばすマスコミは、自分たちがしてきたことを良く振り返り、反省する必要がある。
国家を敬い、自分たちの手で幸せな社会を維持するために、国家を助け、良くしていこうとする気持ちを持つべきだ。

そんな方向性が、即、かつての軍国主義に結び付くなどと本気で考える馬鹿は、今の日本にはほとんどいない。それは近隣諸国も同様である。
中国や韓国がキャンキャンと騒ぐ戦略的言葉に、耳を貸す必要など全くない。

異国のフラッグセレモニーをみて感じたことを述べてみたが、異国で暮らす自分が遠くからキャンキャン騒いでも説得力がないので、唐突だけれど今日はこのへんで・・・。

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2011年06月16日

262.お地蔵さん

会社設立の関係で役所関係に行くことが多い。
フィリピンの行政機関は、非効率では世界ワーストだと言われているが、それをいつも実感させられる。

本来の約束は明後日だったが、今日の午前中に、本日の3時に来てくれと時間指定で突然メッセージが入った。
このように期日が早まるのはとても珍しい。大体は約束の日時に行っても、まだできていないからもう一度来てくれなどと言われる。

3時に間に合うようレガスピに向かっていると、その途中で3時半にしてくれとメッセージが入る。
次は4時にしてくれというメールが入るか、3時半に行っても待たされると予想しながらも、このようなメールが入るのはかなり丁寧な部類で、僕はどちらかと言えばこの細かいアナウンスに感心していた。

行ってみれば数種の書類にサインをして10分で終わり。明日、明後日の処理の内容を言われ、続けて連日事務所に行くことになった。
いずれも簡単な内容だから、なぜ一度にできないのかと思うのだが、そんなことは僕ももう言わない。
明日、明後日と連日立て続けに物事が進むのなら、大いに結構だと思わなければならない。

フィリピンの役所関係、例えばイミグレーションでもそうだが、どこの事務所に行ってもTVが置いてある。
そして仕事時間でも手の空いている人は、事務所の中に外来者が居てもおかまいなしに、テレビの前に座ってそれを観ている。時にはTVの前に数人で集まっている。
正確に言えば、TVで面白い番組をやっていれば、長蛇の列ができている窓口業務の人も、そのTVを観ながら仕事をしている。だから時々手が止まる。

TVが置いてあり、そのスイッチは常に入っているのだから、当然TVを観ていることを誰かが注意するわけがない。注意するくらいなら、最初からTVなど置かないか、業務時間中はスイッチを切っているはずであ。

事務所はどこでも冷房が効き過ぎるくらい入っているし、そこでTVを観ながらゆったりと仕事をしきちんと給料を貰えるのだから、役所の人間は本当に良い御身分だと羨ましくなる。

一事が万事でそんなことだから、当然効率が悪い。
しかし、一般の人たちはそんな様子をいつも見ているはずでも、それに対して税金泥棒などとクレームを発しない。
もっとも近隣の一般庶民はほとんど税金らしい税金を払っていないだろうから、泥棒などという感覚すらないのかもしれない。
せいぜい、自分もそんな御身分になりたいと羨ましく思うくらいだろうか。


役所の後は、レガスピのモールへ行った。
我が家の洗濯機が壊れた話を記事にしたのは、いつのことか忘れるくらい前である。
壊れた箇所の部品を購入したかったので、洗濯機メーカーのサービスに電話したが、なんど電話しても繋がらない。
次に同じ所にメールをしたが、3日待っても返事がこない。

そこで洗濯機を買ったモールに行き、売り場のメーカー担当に状況を説明すると、2日の内にメーカーから電話をさせると言ってくれた。
しかし電話はこない。約束してもらってからどのくらい経ったのだろうか。詳しい日数も忘れるくらいだから、2週間は経過していると思う。
今日はそのメーカー担当に、その件がどうなっているのかを確認しようした。

売り場で担当が見当たらないので、呼んでくれるようにお願いをした。
10分経っても来ない。15分くらいでもう一度呼んでくれとお願いをした。
それから更に15分してから、ようやくその担当が売り場に現れた。
おそらくどこかで油を売っていたのだろう。

するとその担当者が言うには、レガスピの隣町(住まいであるタバコと反対側)にサービスセンターがあるから、そこに行けば修理できるか、もしくは新しい部品が入手できると言い、サービスセンターの住所や電話番号を教えてくれた。
こちらは、いやぁ、御親切にどうも〜、などと言う訳がない。
なぜ最初からそれを言わないのだと、心の中では憤慨気味である。
あれからどれほどの時間を無駄にしたのか。

日本であれば、部品を販売店に持っていけば、販売店がそれをすぐにサービスセンターに送ってくれたりするのだが、ここではそこに相談してくれと、面倒な手続きや責任を回避し転嫁しようとする。
しかもそこに行きつくまでが異常に長い。そしてきっと、これからも長い。

このように、非効率なのは役所だけではない。
フィリピン全体が、このように非効率で、何事につけても気長に待つことを強いられる。
お客の側もそれに対して厳しく文句を言わない。それが当たり前の姿だと思っている。

僕が前回の記事で、フィリピンに資本主義の厳しさを徹底させるのは無理ではないかと書いたのは、このようなことからである。
逆に考えれば、日本の厳格なサービスをこのような国に持ち込めば、大変うけるのではないかと思われるのだが、日本の企業側も儲けの効率を重視するから、貧乏な国では商売にならないと中々重い腰を上げない。(それが将来、命取りになるような気もするのだが・・)

こんな日々を送りながら、日本人の僕はフィリピンナイズされていくのである。
少し前であれば、顔を赤らめて怒鳴り出すような場面でも、最近は沈黙を通している。
言うだけ無駄だと思う諦めの境地から、石の上にも3年という悟りの境地に変わりつつある。
あと何年かしたら、僕はお地蔵さんのような日本人だと、近隣で評判になるかもしれない。

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