フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2011年05月28日

237.ひま

ユリの下痢に続き、今度はモナが同じ症状に陥った。
おもわず「あなたも新しい歯が出てきたか?」と言いたくなったが、彼女も体が弱っているので嫌味を言うのは止めといた。

家族の中で下痢になっているのはモナ1人なので、おそらくユリの下の世話から同じ菌(バクテリア)に感染したのではないだろうか。
その可能性があるから、ユリのお尻の掃除をした後は、しっかりと手を洗いアルコール消毒までさせていたが、どうも完璧ではなかったらしい。

モナの腹痛・下痢は2日目。トイレに行っても薬を飲んでも、一向に治まる気配がない。
逆にユリは、腸内の悪玉菌を積極的に殺す薬と、善玉菌を含んだ整腸剤で復活しつつある。

やはり何か原因がある。怪しいのは水だろうか。朝からずっと考えているが、これといったものが思いつかない。
普段の食べ物が原因ならば、人一倍胃腸の弱い自分が、まっさきにやられるはずだ。
とりあえずモナにも、僕が日本から持ち込んでいる乳酸菌(ラクボン)と納豆菌を含んだ整腸剤を飲ませる。ついでに僕も飲んでおく。念のために胃腸を強化。

頻繁にトイレに行きたくなるのであれば、とてもお出かけなど無理だ。
本当はナガという大きな街に遊びにでも行ってみるかと思っていたが中止・・・・

暇だ。

2台あるはずのバイクも無い。
手足をもぎ取られた・・・カエル?羊?・・・あれ?
手足をもぎ取られた何とかのように・・という言葉、なかったけ???・・・出てこない。

とにかく何もすることが無く、何かをしようにも何もできないということを言いたい。
インターネットを少し徘徊してみるがすぐ飽きる。

こんな時は読書というのがお決まりのパターンだが、もう日本語の読み物は読破した。
残っているのは英語だけ。
シドニーシェルダンの読みかけはあるが、あれはいかん。
同時に複数の物語が進行し、各物語が終盤で繋がりを持つというお決まりのパターン。
物語が変わる度に、ようやく掴みかけて面白くなった物語が振り出しに戻る。
日本語であれば良いのだが、英文で読むと・・・・苦痛だ。
ただし、一冊買えばしばらくもつので、経済的だとも言えるが・・・。
それに小説は、聖書よりははるかに良い。英文の聖書は読みごたえがありそうだが、さっぱり意味がわからず放りだしたままだ。あれは日本語で読んでも、よくわからない。解説が必要だ。

・・・ということで、ブログ記事でも書くかということになったが、結局・・・、

暇だ

ということしか、言いたいことがない。
消化不良だが、そして暇だとインターネットで公言することに、何の意味があるのかと思いながらも、とりあえずやることがないので更新!

・・・・やっぱり暇だ。

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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:237.ひま

236.フィリピンの医療

フィリピンの医療については、最低・最悪と言う方が多い。
ブログなどでも数々のそのような報告がある。
反面、フィリピンナースのレベルは高く、アメリカではフィリピン人ナースが重宝されているという話もある。
僕は自分の目で見聞きした限り、フィリピンの医療体制にはやはり疑問を抱いている。

実は一昨日から、ユリの下痢が止まらなくなった。熱も吐き気も伴わないものだったので、たいしたことはないと思っていたが、それでも下痢が止まらない。
2時間置きに、「ブリブリ」っと、明らかに実も出ているだろうオナラをし、「あっ!」と思いオムツの中を見ようとすれば、まず先に香ばしい香りが漂ってくる。

オムツがみるみる減っていく。いや、この際一時的な出費は二の次で、まずは深刻な問題があるかどうかを見極める必要がある。
度重なる下痢にユリのお尻は赤く荒れていて、どちらかと言えばそれが可哀そうだ。
おそらく何かにあたったのだろう。
そう言えば下痢の始まる前日、ユリの口の周りが黒く汚れていたので、何をつけたのだと拭いてやった。その時に何か変な物を口に含んだのかもしれない。

しかしそれから24時間経過しても、吐き気や熱、うつろ症状などは全く見られず安心はしていたが、とりあえず医者に見せるだけ見せておこうと、モナがユリを病院へ連れて行った。

モナが戻ってきたところで、どうだったと訊いた。
ドクターには、吐いたり熱が無ければ大丈夫と言われたそうだ。そこまでは良い。
原因は、「また新しい歯が出てるからだって」
僕はうんざりして、「・・・・・、またそれか?」と言い返した。

歯の出始めは歯茎が痒いので、なんでも口に入れる。だからお腹も壊すという理屈のようだ。
それもあり得るだろう。しかし、なぜそのような推測に過ぎないことで、原因を断定してしまうのか。
それも含め可能性をいくつか探して、いずれも問題ないとか、その中でこの原因やこんな病気であれば、こんな症状が出るはずだから気を付ける必要があるなどのアドバイスが欲しいのである。

食事についての注意事項は何かあったかと訊けば、特に何もなかったと言っている。
だからユリの下痢が止まらなくても、家では普段と同じものを食べさせている。僕が固形物や油の多いもの、消化の悪いものは控え、できればミルクも1日くらい休ませたい、そうでなければミルクは薄めにした方が良いと話しても、ドクターは特に何も言わないからと訊き入れてもらえない。

ドクターの言う事が全てと、モナがそれを信じきってしまうことは本当に困る。
他のことでもそうだが、とにかくモナは権威に弱い。正確には、権威があると信じている人が言うことは絶対だと思っている節がある。
「歩き始めだから」とか「歯の出始め」だとか、しまいには「髪の抜け始めだから」などと言いかねないその医者は、そのような言い伝えみたいなことを言い続け、庶民から金を巻き上げている藪医者なのに、そのどこに権威があるというのか。

3日に渡る下痢の原因が「歯の出始め」だと決めつけることは、「今日は朝から血が騒ぐのですが大丈夫ですか?」という患者に「今は満月だから心配いりませんよ」とドクターが診断する、アホらしいやり取りと同等であることに、モナは気付くべきだ。

僕がこの件に執拗にこだわるのは、その類の誤診がフィリピンでは当たり前のようにあり、真の深刻な問題の発見が遅れて、手遅れになるケースが多数存在している事実があるからだ。

今年始めのローラが亡くなった時もそうだったではないか。
最初はくも膜下出血の疑いなど少しも出ず、病院を2つ移してようやくその事実が判明したが、結局手遅れだった。その時には最初と二つ目の病院に検査設備も無かったが、せめてドクターは症状でそれくらい気が付き、設備のある病院での検査を早期に勧めて欲しいものである。素人の僕でも、スカイプで症状を聞いてくも膜下出血の疑いをモナへ話していたくらいなのだから。

出産で母親が死んだという話は石を投げれば当たるほどあり、つい先日のパーティーで紹介してもらった親戚の男性も、3年前に奥さんが出産で亡くなったそうだ。
そのようなことからも、フィリピンの医療レベルの低さがうかがわれる。
これも日本では考えられないことだ。

せめてモナには、フィリピンでは命を預けるべき医者のレベルが低く、その話を信じ切ってはならないという認識を持って欲しい。そうでなければ、子供が病気にかかった時に心配でならないのである。
その想いを込めて話してみても、モナは、「どうせあなたはフィリピンのドクターの話しは信じないでしょう」という態度を貫いている。
「医者」という肩書きと、そこから発せられる言葉を信じ切るモナの姿勢をみて、僕はますます苛立ちを募らせる。

今回はユリもたいしたことはなさそうだから良いが、これが胸騒ぎを覚える症状であれば、僕は有無も言わさずもっと信用できそうなドクターへ自らユリを連れていき、納得できなければまたすぐに別の病院へ行く。
しかし自分がフィリピンを不在にしていれば、それをやるのは誰なのか、モナにはしっかりと自覚して欲しい。
子供を守りたければ、レベルの低い医者の言う事を鵜呑みにせず、是非そのことを肝に銘じて欲しい。

ちなみに、フィリピンの医療レベルが低いのは仕方がない。
金が無いから医者を育成する設備も仕組みも乏しいのだ。
アフリカの奥地へ行けば、病気は祈祷で直す。下を見れば下があり、上を見れば上がある。それが世の中当たり前である。
フィリピンは発展途上国なのだから、様々なもののレベルもそれなりなのは当たり前で、そのことに文句を言っているわけではない。貧しい社会は医療に限らず、生活上のリスクが大きくて当然だ。
そうであれば、せめて自分たちがしっかりしなければならないということを言いたいのだ。
フィリピンの医療に関しては、祈祷でないだけましだと思っている。

最後に誤解を招かぬよう書いておくが、これは田舎の話しである。
マニラにはまともな病院があると聞いている。ただしめちゃくちゃ高い。
以前空港で、お金持ち風の叔母さん二人が僕の隣で世間話をしていた。入院代が一泊何十万だと言っていた。政府高官、政治家、海外のお金持ちなどが主に利用するようだ。
田舎でもお金を払えばましな病院がある。ユリを出産した病院もその一つだ。
ローラのくも膜下出血の検査も、その病院で行った。
ユリ出産の際、病院に支払った費用は日本円で約40万(帝王切開の手術料込み)だったと記憶している。健康保険からの還付金はないから、全て自己負担。それでも命には代えられない。
ちなみに劣悪だと言われるパブリック(公共)病院の出産費用は2〜3万円ほど。
まさに三途の川も金次第という世界である。

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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:236.フィリピンの医療
2011年05月27日

235.フィリピンの助け合い

フィリピンのファミリーは団結している、心が通じ合っていると思っている日本人の方は多い。僕もフィリピンに住む前は、そう見えたし、そのように信じていた。

しかし、各々の本音を聞けば、これまでいくつかの記事で紹介した通り、必ずしもお互いに信頼し合っているわけではない。
それを傍で見て、不可解に感じることがあるのだ。

例えば我が家のママは、わざわざ米を始めとした大事な食材は自分の部屋のBOXにしまい込む。
自分が外へ出かける時には、必ず部屋に鍵をかける。
我が家でママの部屋の鍵を持っているのはモナだけである。

モナも同様、僕たちが外へ出る時には自分たちの部屋に鍵をかける。僕たちの部屋のキーを持っているのは、僕とモナ以外ではママだけだ。
家で留守番をするのが、ママの弟や妹だけの時でも、二人とも自分の部屋に鍵をかけることを忘れない。
以前ドアの隙間にカードを入れて、簡単にロックを解除できることがわかるや否や、すぐにそれができないよう改造をする徹底ぶりである。

なぜわざわざ部屋に鍵をかけるのかと訊けば、「何かが無くなったらいやでしょう」という答えが返ってくる。つまりそれは、親戚を信用していないということになるのだが、そう言えばそれを否定も肯定もせず、誰かが外からくるかもしれないなどと、上手な言い訳が返ってくる。

細かな話を聞けば、お金にまつわる不満はわんさと出てくる。
親・兄弟たちが共同生活をしているのだから、当然そのようないざかいがあっても変ではないが、それについて悪口が出る。
日本人のこちらは、みんな仲が良いと思っているから、辛辣な悪口が出ると意外に感じる。
日本の親・兄弟でも似たようなことがあるから、それは自体は日本と同じである。
ただ、普段見ている仲睦まじい姿とのギャップが大きすぎて、不思議な感じを抱くのだ。

それでも何かがあれば、親族一同が揃い、団結している姿を披露されるから、「なんで?」と素朴な疑問が湧いてくる。
僕はフィリピンに住むようになってから、それを不思議な世界だと思い考え続けていた。
そして一つ、最近になって何となくわかってきたことがある。

要は行動心理の問題だと思うのである。
フィリピン社会はまだまだ不安定で、明日の飯より今日の飯という世界がある。
マニラしか知らない方は、そんなことはないと言われるかもしれないが、フィリピンの田舎ではまだまだ貧しい世界がある。ということは、国の人口の6〜7割は、貧しい暮らしをしているということだ。
いや、マニラも最近は大きくなったが、そうなってからの歴史は浅いはずである。
フィリピン全体が、今尚、国家予算三兆円という小ささであるから、全体のお金の流れは決して潤沢ではないはずだ。(かなりの金額が一部の人間のポケットに入ると聞くので、それが本当なら世間に出まわる金はもっと少ない)

田舎に限定した話に戻せば、世間にまともな仕事が少ないのだから、この地域社会にどうやってお金が回り、どうやってみんな飯を食っているのだろうと不思議に思うことがある。
パジャック(サイドカー付き自転車タクシー)は溢れんばかりにあるが、そのドライバーが稼ぐためには客が必要だ。市場(マーケット)でも、膨大と感じるほどの食材が山積みで売られているが、それも買ってくれる客が必要である。
しかし客が支払う金を持っていて、初めてサービス業や商業が成り立つ。ではそこに流れる金は一体どこから生まれるのか・・・。
そんな観点から町を見渡してみると、金の出所が少なすぎるように思えるのだ。
とすれば、マニラや海外で働く家族からの送金が占める割合は、かなり大きいと推測される。それが何となく、みんなに行き渡っていくのだ。金の流れるルートは、親戚筋というのが一番だろう。

そのような不安定で小さな社会で暮らす時に、孤立無援の状態は恐怖である。
特に自立できていない人にすれば、自分を守ってくれる家族から見放されることは、死ねと言われることに等しい。
必然的にそこには、群れを成す必要性が生じてくるわけである。
つまりファミリーが団結することは、いざという時に各々の身を守る術ではないかということに思い至るのである。

フィリピンでは、それが社会通念として定着し、そこから一歩踏み出せない状況とも言える。国が大きくなり社会が安定すれば、助け合い精神は減少するはずだからだ。
今一つ踏み出せないのは、何とかなるという南国気質も大きく関与している気はするのだが、そしてそのお気楽さが勤勉な日本人は許せなかったりするのだが、結果的にフィリピンにおける家族の助け合いというものは、このような背景の中で常識になっている。
常識であるならば、それに必要以上に抗う人は、ここでは非常識人間ということになってしまう。
だから逆に、なぜ助けられないのかと訝しく思われ、議論や想いが平行線となることがある。
この部分は、根底にある常識や価値観、背景が違うのだから、そのギャップを埋めるのは相当難しい。
実際にフィリピンに住んでいる日本人の方々は、それを肌で感じているから、苛立つことも多いのではないかと推察される。


よく考えてみれば、日本でも似たような状況がある。
かつて貧しかった日本は次第に裕福になり、生活の不安定感や危機感が薄れた今、逆に核家族化が問題提起されたりしている。
自分の生活が安定してしまえば、なぜ他人の竈(かまど)の心配をする必要があるのかという話になる。あなたが食えないのは一生懸命働かないからだとなる。それは、働ける環境が整っていて、その気があれば働くことができるはずだということが前提となっている。

しかし先の震災のようなことがあれば、助け合いの精神が台頭し、寄付が集まりボランティアが集う。そして、今日本人は団結する必要があると叫ばれる。
おそらくもっと社会全体が不安定になれば、家族間でも助けてあげなければどうしようもないじゃないかという機運が増してきて、それが常識化する。
今の日本でも社会環境次第で、フィリピンと似たような状況が生まれるのである。

そのようなことを思えば、フィリピンのファミリーの団結というものは、信頼関係に裏打ちされた仲の良いグループというよりも、利害関係を含んだ自己防御システム的な性格が強いのではないかと思えてくる。

その中で助け合いというものが進行しているが、ではパラサイト(寄生虫)同然の行為には、助け合いとどのように線引きすれば良いのだろうか。

実はこのパラサイトも、日本で日常的に見受けられる。
例えば僕の知り合いに、精神的な病を負っている(ことになっている)方がいる。定期的に精神科に通い、医者のサインをもらうだけで生活保護を受けている。
しかしその方、知り合いの飲食店でアルバイトなどもしている。実は働けるが、働けないふりをしていた方が楽で良いと公言する確信犯だ。
そんな人が精神の病を負っているなど、誰が信じるだろうか。しかし医者は、その患者を精神病にしておいた方が儲かるから、簡単にサインをしてくれるそうだ。
「持ちつ持たれつだよ、ははは」などと自称精神患者が語れば、それ、僕らの税金だから返してくれと本気で言いたくなる。

助け合いというものは、過剰になればこのようなパラサイトが湧いてくる。それは日本だけではなく、福祉が充実しているヨーロッパでも多くの実例がある。
つまり、パラサイトはフィリピンの専売特許ではなく、世界中で湧いている、そこら中に見受けられるものである。

人間は、楽な方に染まりやすいから、それは当然である。
僕も含め、人はどこかでパラサイトに憧れる感情を持っている。だがパラサイトは簡単になれるわけではない。人間の尊厳のようなものを捨て去ることができなければ、パラサイトにはなれないのだ。だから人は、堂々と他人に寄生する人間に、やっかみのような感情を持ったりする。
そこには「うまいことやりやがって」という嫉妬と、それをやりたいけど俺にはできないという複雑な思いが含まれていたりする。

社会には、パラサイトを許さないという方向性が暗黙の了解として出来上がっている。
各個人の感情もあるだろうが、それとは別に、パラサイトを堂々と許していたら社会がおかしくなってしまうことがわかっているからである。
働く人間がいなくなり、金の成る木にぶら下がる人間ばかりになったら、社会が崩壊するのは自明の理だ。

つまり基本的にパラサイトを許してはいけないのである。
基本的にと言ったのは、個人の金を恵んでやることが好きな奇特な方に幸運にも巡り合えた方は、人としての尊厳を捨てて心ゆくまでパラサイトを楽しめば良い。
ただしみんながそうなれば、社会に膨大な預金でも無い限り崩壊するのだから、みんなでそれをすることは不可能である。

このように考えれば、「助けてやるから自分も努力しろ」というスタンスを崩してはいけないとあらためて思うのである。
それでもパラサイト根性が抜けない奴には、わずかな援助も与えない。これは徹底すべきだと考える。


フィリピンの助け合いの社会的背景にはこのようなものがあると考えられるが、では個別の実態はどうか。
これを考える上で、一つの実例がある。

以前ダディーの親戚筋にお金を貸してくれ(頂戴という意味)と言われ断ったことがある。
断った僕はしばらくそれを引きずっていたが、モナは、他にも助けてくれる人がいるから大丈夫と、何事もなかったような素振りである。なぜかとても簡単に処理された。

そうかと思えば、逆にモナが助けたいと言うケースもある。今我が家に住み込みでユリのベビーシッターをしている女性で、これはママの親戚筋だ。

そのようなこれまでのモナの言動をよくよく分析すれば、助ける・助けないの判断を、好き嫌いが左右している部分がある。
我が家は、ダディーの親戚筋とは普段やり取りがほとんどない。
モナがベルを産んだ際、モナは父親のいない子供を産んだふしだらな女とダディーの親戚筋に言いふらされ、それから交流が途絶え気味になったと聞いている。
だからママもモナも、ダディーの親戚は好きでないことが傍目でわかる。

援助を申し入れされた時に、嫌いな人には断るというのは当たり前で、それは問題ない。
だた、日本人はフィリピンの助け合いを、もっと高尚な精神を背景にしたものと誤解している節があるが、実は必ずしもそうではないということを言いたいのだ。

現地の人はそれをしっかりと理解しているから、我が家で働く人たちは、ママやモナには絶対に逆らわない。逆らったり悪さをすれば、ダディーの親戚同様、交流が途絶え援助を受けられなくなるからだ。
おそらくママやモナに発言権を持つダディーや僕にも、決して逆らうことはないと思われる。
僕はこれらのことを感じるようになってから、もし自分に彼らを雇う能力が無くなれば、途端に見向きもされなくなるという恐怖感を覚えるようになった。

このように、フィリピンにおける助け合いは、決して優しい気持ちだけで成り立っているとは限らない。
その中で振り回される日本人は、純粋培養されたおぼっちゃまと同じだ。利用しようと魂胆を持った悪人には最高の獲物で、それに慈愛を持って可哀そうだとか遠慮などをしていると、ケツの毛まで抜かれ、利用価値が無くなれば捨てられる。
日本人とはそのような悲しい遺伝子を持っている。世界の中における日本政府のあり方と同じだ。


フィリピンに関わることになった日本人は、多かれ少なかれ、家族や親戚の援助に直面し、喧嘩をしたり断絶したり、又は素直に受け入れたりと、様々な対応をしているようだ。
それはそれぞれ個人の状況や考え方があるのだから、どんな対応をしていようが否定するものではない。

僕もそれはブログで紹介する通りで、時折愚痴が出ることがある。
愚痴は出るが、援助拒否に関してどこまで実力行使(一切援助拒否や出入り禁止)をしても良いか迷いがある。(迷わせてくれるから、愚痴が出るのだが・・)
日本人の僕としては、僕が実力行使に出た場合、フィリピン人である妻とその両親が、困ったり悲しんだりすると思っているからだ。
しかし、これは勝手な思い込みの部分も相当あるなと感じることがある。
フィリピンの助け合いが、愛情よりももっと無機質でシスティマティックなものだとすれば、こちらも必要以上に余計なことをうじうじ考えることをせず、もっと割り切りが必要だと思うのだ。

日本人の場合、情に流されやすく遠慮が先に立つ。そして悪賢いことを嫌悪する。
だから日本は欧米や中国・韓国の戦略にやられっぱなしになる。
それでも僕は、そのような高潔な性質を持つ日本人は好きだが、そして与し易い日本人は海外の人にも人気の的でもあるが、日本人はそのことを自覚しなければ、自ら不幸を招くことになりかねない。

このフィリピンで良い顔ばかりしているときりがなく、自分の生活がいつの間にか危機にさらされる恐れがある。
特にフィリピンの医療費(特に薬、病院で使用する注射薬も含まれる)は高く、緊急時のお金を確保しておかなければ怖い。子供が大病を患っても、親族を一生懸命助けているから入院代や手術代が無いなどとなれば本末転倒である。
更には、過去に親戚に援助したお金を積み上げてみたら、子供の才能を伸ばすための留学費用くらい軽く捻出できていた、なんてことになっても同様である。

フィリピンの方々には、今良ければ良いではないかという考え方があり、長い目で人生設計をするという観点が不足している。社会が成熟していなのだから、それは仕方ないと諦めるが、それ故に、「生活に困っていないのに何で助けてくれないのか」などという不平・不満が普通に出る。
酷いケースは、逆恨みでそれが不幸な事件に発展したりするケースがある。
もしくはダメ元でお願いしてくるケースもある。一応お願いして、応じてくれたらラッキーというものだ。日本人のように思いつめた結果のお願いではなかったりする。
それだけ常識や考え方・モラルに相違がある。

我が家では、ママは緊急時に備えてお金を確保している。その緊急時とは、僕やモナや、ベルやユリも含まれている。だからママのことは信頼し、お金も渡せる。
モナも子供の教育費を積立している。緊急時のお金も寄せ、普段はそれを無いものとして生活している。
しかしダディーは違う。まっとうな南国気質で、その日が良ければそれで良い人だ。加えて自分の自由になるお金があれば、他人に良い顔を見せたがる。自分にお金が無くても、たまにこちらのお金をあてにしてそうなる。結局困ったモナが僕に相談をし、申し入れを断ることになる。
それがわかっているから、ママはダディーにまとまったお金を渡す必要はないと言うし、実際にそうしている。
では普段の生活上で我が家を拠り所にする叔母さんたちはどうか。もし我が家に困ったことが起きたとしても、「お金ない」で終わり・・、助けてくれることはあり得ないとわかり切っている。

ファミリーの中には、こちらが信用し信頼できる人間もいれば、そうではない人間もいるということだ。そしてそれは、自分だけではなく、ファミリーの中でも同じようにお互いを見合っている。
ある面では信頼できなくても、愛情はあるということもある。ママはダディーを心から愛している。しかし、お金の面では信じ切れない部分があるから、そこはきちんと押さえている。
夫婦の間柄でさえ愛情には流されず、このように割り切ってきちんと対処している。
日本人には信じ難い世界であるし、僕は今、それを見習う必要があると思っている。


さて、かなり長い話になってしまったので、最後に整理しておきたい。

フィリピンの助け合いは、フィリピンの社会的背景がそうさせているのだから、それ自体を否定しても仕方がない。ましてフィリピンの常識に無理に立ち向かおうとしても話は収まらない。
また、フィリピンのファミリーは、愛情や信頼で繋がっているというより、むしろ自己防衛システムで、割り切りできる性質のものだということを理解し、情に流されないようにすべきである。
必要以上に情に流されたら、自分や自分の家族(妻や子供)を守れない。
それを念頭に置いて、冷酷と思われるくらい冷静な判断と行動が必要である。

男にとって妻子を守ることが一番大切なことであり、そのことを否定するフィリピン人もいないのである。

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