フィリピーナと共に
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2011年01月16日

186.ローラの死

1月4日の便で、僕は早くも日本へ戻ってきた。なんとも短すぎるフィリピンだった。
もう少しゆっくりする予定だったが、仕事がそれを許してくれず、急遽4日の便をどうにか取ったというわけだ。

4日はマニラから成田への直行便は満席で、セブ経由で成田へ戻ることにした。朝5時マニラ発セブ行きに乗り、当日の朝8時セブ発成田行きに乗り継ぐかたちであった。
その便も残席がわずかだったが、もし4日を逃すと、PALの成田行きはしばらく取れない状況となっていた。
ノースウエストなどの便は残席があったが、成田からマニラへ戻る便が夜中のマニラ着になるため、それは最初からできるだけ避けようと思っていた。

昼過ぎに日本へ到着し、部屋に辿り着いて早速フィリピンへ連絡を取ると、ローラ(モナのおばあさん)が倒れたという話が出て驚いた。
その時は、風呂場でスリップし転倒した際、どこかに頭を打って気を失ったようなことをモナが話していた。
以前の記事に登場したエバ叔母さんがお産で入院していたため、エバ叔母さんの2歳になる長女をローラが面倒をみていたのだが、その子にシャワーをさせていた時の事故だったということらしい。

容態が思わしくなく、ローラは病院に運ばれてからずっと、目を覚まさない。運んだ病院はタバコシティーにある私立の小さな病院で、そこにはCTのような大型設備もないため、レガスピの大きな病院でCT検査をすることになった。
最初に運んだ小さな病院では、頭を打ったらしいので、検査をしないと目覚めない原因がわからないとのことだった。ローラが目覚めない明確な理由もわからず、一晩泊まっただけで6千ペソ(1万2千円)も取られた。
僕とモナは、エバ叔母さんのお産費用は援助する義理はないと突っぱねていたが、ローラの病院代はこちらで払うことにした。

レガスピへ移動したローラは、それから2日後に一旦目を覚ました。その時に倒れた時の状況を本人から聞けたらしいが、実は滑って転んで頭を打ったのではなく、突然頭が痛くなり、意識が遠のき動けなくなったというものだった。その際頭はどこも打っていないということもわかった。
ひとまずローラが目を覚ましたこと、そして頭を打ったわけではないという話しを聞いて、周囲の人間はみな一安心した。おそらくエバ叔母さんの2歳の子供の面倒で、疲れが出たのだろう、しばらく安静にすれば、快方に向かうだろうと、みんなは楽観視していた。

その時僕は、ローラが退院したら、ローラをジャマイカの家で引き取った方が良いという話をモナにした。
ローラの周囲の人間(一緒に暮らす息子や娘)がそれぞれ自分のことしか考えず、ローラの少ない年金をあてにしていつまでもローラに苦労をかけていることは、これまでの記事でも伝えた通りである。
みんなはあまりにもローラのことを考えず、自分勝手なことを口にしていた。
ローラはそんな不甲斐ない自分の子供たちのために、食べ物をもらうため度々炎天下をジャマイカの家まで歩いてきていた。本来ローラは薬を飲まなければならないのだが、周囲の人間はその心配もせずにローラに生活費を出させていたので、ローラは自分の飲むべき薬を買う事もできずにいた。
ママは、ローラの年金は薬を買うのに充てる必要があるから、そのお金を当てにするなと、自分の妹や弟をいつも叱咤していたが、みんなは聞く耳持たずだった。
そしてみんなで平気で苦労をかけるから、ローラはその疲れでとうとう倒れてしまったのだ。それであればローラには、退院してからジャマイカの家でゆっくりしてもらうのが良いというのが僕とモナの考えだった。

以前もローラをジャマイカに引き取った方が良いと、僕はモナに話していた。モナもその方が良いとママに進言したが、ママの妹や弟が、ローラがジャマイカに住むようになれば、残された自分たちの生活が成り立たないから困ると反対され、ローラをジャマイカに引き取る話しはうやむやになっていた。
しかしそのママもさすがに今回は即決し、兄弟たちに「あなたたちがローラの体を気遣うこともせず苦労をかけるから、こんなことになった。ローラが退院したら有無も言わさずローラを引き取るから、これからあなたたちは自分の力で生活をしなさい」と、激しく厳しい口調で言ったそうである。言われた方はみんなうつむいて、無言だったそうだ。

一旦目が覚めたローラだったが、再び眠りに入り、また目が覚めなくなってしまった。そこでCT検査の結果はどうだったのかと訊くと、実はその病院のCT検査装置が壊れていたので、まだそれをやっていなかったことがわかった。
モナがユリを産んだ病院にはCTがあるが、ずっと病院に詰めていたママはきっと、お金のことが心配でローラのCT検査のことを遠慮して言えなかったのではないだろうか。とにかくお金を出すから一度CT検査を受けさせなさいと言い、ローラにようやくCT検査を受けさせることができた。

結果はすぐに出た。そして医者はその結果を見て、助けるのは難しいと言ったそうだ。
脳溢血で、脳内の広範囲に出血の影響があることがわかったらしい。素人の僕でさえ、その話しを聞いた時にすぐ、これはかなり難しいだろうと思った。

ママはエバ叔母さんのお産の付き添いに引き続き、ローラの付き添いで疲労が蓄積していた。加えてお金の心配があるので、心身ともに疲労困憊となっていた。
フィリピンの病院代は高い。特に薬代が高く、寝たきりの人に打つ点滴や薬代だけで、毎日六千円の出費となっているそうだ。CT検査代も、それだけで軽く一万円を超えた。
ママが心配するのも無理はない。それまで病院にかかる費用を、その都度ママに渡していたが、僕はモナと相談し、一旦ママに病院や付き添いでかかる費用として、少しまとまったお金を渡し、せめてお金の心配はしなくてもいいようにした。
それでもこの状態が続けば、一か月で20万円の出費は覚悟しなければならない。これは大変なことになったと、初めてその深刻さに気付いたが、それでもなんとかするしかない。

お金の件では覚悟を決めてできる治療をするしかないが、モナには、ローラはいつ亡くなってもおかしくない状況だから、それも覚悟をしておくようにと言った。ローラに何かがあって、そのショックでモナまで倒れるようなことがあれば、それこそ困ったことになる。

ママは手術で何とかならないかとドクターにお願いしたが、ローラの体力が回復しなければ、手術は難しいという返答だった。
それでもママは、手術代の一部を国から補助してもらうための手続きを始めた。そういったことを受け付けるレガスピの事務所へ、何度も足を運んだそうだ。収入が無い人のために、そのような補助をもらえる制度があるらしい。

ローラはその日からICU(集中治療室)に移されたが、その日に熱が出始めた。意識は回復せず、その兆しもない。そのような状況が数日間続いたが、とうとう血圧がほとんどない状態になった。しかし心臓は動いていた。まるで植物人間になっていくようで、冷たいようだが、僕の中では金銭面での恐怖が現実味を帯びてきた。そしてもしかしたら、どこかのタイミングで苦渋の選択を迫られるかもしれないと思い始めた。

当面数カ月、毎月数十万の出費がある場合のことを、僕は具体的に考えるようになった。
同時に、健康保険のないフィリピンで、たった一人健康を損ねることが、家族に重大な危機をもたらすことを思い知らされた。
困惑しながらも、モナと、お金が続かなくなれば、その時にはローラの命を諦めるしかないことを、それとなく伝えた。できる限りのことはするという前置きを付けての話しだったが、現実的なことを考えれば、モナもそれは仕方のないことだと思っているようだった。

1月10日、この日は休日だったが、僕は相変わらず仕事をしていた。外注の設計者と一日中打ち合わせをし、部屋に帰ったのは夜11時を過ぎてからだった。
部屋に帰り、スカイプでフィリピンを繋ぎ、その日は珍しく夜の1時頃までモナと話しをしていた。いつもはとっくに会話を終了し、お互い寝ている時間である。

その時フィリピンの二人の部屋に置かれた電話が突然鳴り出した。モナが電話を取り、少し話しをしたかと思うと、無言で部屋の外へと出ていった。そしてすぐに戻ってきて、「ローラが死んだ」と力なく話したかと思うと、両目から涙をこぼしながら、パソコンの前の机につっぷしてしまった。ピクリとも動かないモナに僕は何度も声をかけたが、彼女は全く返事をせず、そして全く動かない。

少し前、夜中に病院から電話があった時も、ローラに何かあったのかと思い息ができなくなったと話していたから、僕はその時モナが、ショックで心停止に陥ったかと本気で青ざめた。

何度も声をかけたが、モナは全く無反応だった。本気で「死んだ・・?」と思った。
数分後、苦しそうに起き上がったモナに安心したのもつかの間、彼女は「目まいで体が動かない、ベッド」といい、倒れこむようにベッドへ体を投げ出した。そしてまた動かない。
僕の体の中では、鼓動が大きく早くなっていたが、黙って見守るしかなかった。日本とフィリピンの距離を、これほどじれったく、恨めしく思うことはなかった。
時間は2時になろうとしていたが、僕は眠ることもできずに、ただモナの様子を、PCを通してうかがっていた。不吉な予感が伴う、辛く長い時間だった。

ようやくモナが起き上がって、「少し楽になった」とPCの前に再び座った。
しかし、放心状態の彼女の口からは、最初の言葉以降、何ひとつも言葉が出てこない。照明を落とした部屋で、パソコンの前にあるスタンドだけの明りにぼんやりと浮かび上がる彼女の顔には、明らかに落胆の色が滲み出ていた。
何と声をかけて良いのか、僕も言葉に詰まっていた。心配なのは、彼女の体のことである。祖母を亡くしたショックで、彼女が倒れる可能性も十分あり得る。実際に目の前の彼女は、既に半分死にかけているようにさえ見えた。

「人は必ず死ぬよ」
しばしの沈黙の後、僕の口から出た言葉は、それだった。

「ローラの次はダディーが死んで、ママが死んで、僕が死んで、あなたも死ぬ。死ぬことは特別なことではなくて、当たり前のことだ。悲しいのは分かるけれど、死んでしまったことは仕方ない。ローラは自分の役目が終わっただけでしょ。でもあなたはまだ、たくさんやることがある。ベルもユリもまだまだ小さいのだから、あなたはもっとしっかりしないとだめだよ。親としての責任があるでしょ。しっかりしなさい」

僕はこんな話をして良いかどうか迷いながら話していた。更に彼女を追い込むことにならないか、それともこれが、彼女には励ましの言葉になるのか、今はただただ優しい言葉をかければ良いのか。
そして自分の口から出た言葉が、まるで自分自身を叱咤している言葉のようだと、錯覚めいた不思議な感覚を持っていた。
それでも彼女は憔悴しきった病人のようだった。

「あなたはローラにたくさん幸せと安心をあげたでしょ。ベルとユリを産んで、自分の家族を作って、大きな家も建てて、ローラをたくさん安心させたでしょ。それで十分だよ。ローラが死ぬ前にそれを見せてあげることができただけで、十分だ」

自分は、自分が言いたいことをきちんと話せているのだろうか、自分が今、本当に言いたいことが何かよくわからないままに、何かを語りかけなければならないという焦りから、思考と密着しない言葉が口から勝手に出ていた。だから語るほどに訳のわからないフラストレーションを感じていた。
彼女は一言「わかった」と言い、「少し休む。頑張って寝る」と言い、元気なくベッドへと移動した。

ローラはクリスマスも正月も、ジャマイカで元気に過ごしていた。確かに突然の死である。
人の生はあっけなく幕を閉じるものである。僕はこれまで、いくつかの人の死に直面した。両親の祖父母で四回、そして若い頃、友人を事故で二人亡くしている。仕事上の知り合い
は事故、自殺と事件で三人。身近な人間の死に9回遭遇している。いずれも突然の死だった。それらに遭遇する度に、人間の命のあっけなさに、唖然とした。しかしいずれはみんな死ぬのである。それが早いか遅いかの違いだけであることに、次第に気付くようになった。人の死には愕然とするが、自分にもいつ突然の死が訪れるのかわからないということを、次第に受け入れることができるようになった。
不慮の事故や不幸な病気にならずとも、おそらく僕は人生の折り返し地点を過ぎている。だまっていても、これまで生きた年月以上には生きられない。それだけでも、死というものは必ず誰にでも訪れるのだということを、自然のこととして受け入れられるようになっている。モナはまだ若すぎるから、きっとわからないのだろう。そう、僕が彼女に伝えたかったのは、きっとそのことなのである。
ローラの死は悲しいことではあるけれど、しかしお別れの時間がきただけのことなのだ。だからしっかりと受け止めなさいということである。哀しんでばかりいても、何も始まらない。

ローラが亡くなった翌日、モナは何とか元気を取り戻していた。無理やり自分をコントロールしていると話しているから、本当に僕が話した「元気を出して子供をしっかりみなさい」という事を、意識的にがんばって守っているようである。
モナがどれほどローラの死を悲しんでいるのか、僕は痛いほど知っていたから、それを乗り越えてがんばろうとするモナを、僕は心から愛しいと思った。

本日1月15日は、ローラの埋葬の日だった。フィリピンでは人の死に際し、数日間の葬式をしてから埋葬をするらしい。昨夜は最後のお別れの日であったから、大勢の人が一晩中寝ずに、ローラの傍に付き添っていたそうだ。
ママはこれまで気丈に葬儀を取り仕切っていたらしいが、埋葬に際して大きな声を出し、人目をはばからず泣き崩れたそうだ。
それはもう最後だからである。最後という意味は、ローラに会える最後であると同時に、死に際するセレモニーが終わり、これまでこらえていた悲しみが噴き出したという意味もある。
ママは葬儀を滞りなく進める責任があったから、泣きたいのを我慢して頑張っていたのだ。そしてセレモニーの締めくくりである埋葬に際して、がんばりの糸がぷつりと切れて、崩れるように大泣きをしたのだろう。
それは、僕がモナに話した、悲しみに負けず子供に対する責任をしっかりと果たしなさいと言ったことと同じだと言ったら、モナはママを見ていて、それが良くわかったと言った。ママは強かったとも言った。だからモナは、泣きはしたが取り乱すことなくがんばり、子供たちをしっかりとみていたと僕に教えてくれた。

僕はローラの葬儀に際してフィリピンに戻ることができなかったから、帰ってからローラの墓に挨拶に行くつもりである。その時に、心からローラの冥福を祈ろうと思っている。
ローラは最後まで苦労をしてきた人だから、これでゆっくりと休むことができるだろう。
一段落ついた今日、僕とモナはそんなことを話していた。

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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:186.ローラの死
2011年01月13日

185.ベルとのボンディングタイム

フィリピンの家族と2度目のクリスマス、そしてお正月を迎えた。
これまでの自分の経緯をブログ記事でお伝えしてきたが、フィリピンで家族と過ごす正月も2度目かと思うと、月日の経つのが早いとあらためて感じる。

12月24日は天候の理由で自宅へ帰れなくなってしまったが、翌25日には無事に家に辿り着き、その日に親戚を含めたファミリーが集まるクリスマスパーティーとなった。
更に翌日26日には、モナの小学校の同級生たち5人が我が家へ集まり、再びミニパーティー。彼らは既に顔なじみのメンバーで、僕もその輪に混ざって一緒に楽しいお酒で盛り上がった。
フィリピンでは、クリスマスから正月まで切れ目なく、なだれ込むような形で時間が経過する。みんなここぞとばかり、お祭り気分を持続させ、一年で最も高揚する時期となる。

我が家を訪れる人たちは、天井まで届きそうな大きなクリスマスツリーの前で、一様に記念写真を撮っていた。家庭の中の大きなクリスマスツリーは珍しいらしい。
実はこの大きなツリー、4000ペソ(8000円)と日本人の僕にとってはそれほど高価なものでない(いや、むしろ、そんなんで買えるの?と驚いた・・)のだが、フィリピンの普通の家庭では、それでも月給の約半分に相当し、しかも家の中に飾るスペースのある人は限られているために、珍しいということになるらしい。

そしてニューイヤーは、クリスマスと同じようにご馳走が作られ、夕方近くからそれらを食べながら、みんなで日付が変わるのを待つ。
大酒のみは陽の高いうちから早々とアルコールの「飲み」を始めるが、それ以外の人も日付が変わる2時間ほど前からシャンパンをあけ、花火もその頃から始まった。
その頃は既にあちらこちらから、爆竹や花火の音が聞こえ始めている。子供たちは待ってましたと言わんばかりに蝋燭に火をつけ、小さな手もち花火に点火しては、発光色の炎のシャワーをぐるぐると振り回しながら楽しんでいる。
大人は激しい音がでるものや、派手な炎を天に打ち上げる筒花火を中心に点火していく。

12時を回るころ、町の方角で打ち上げられる花火はピークを迎えた。
フィリピンでは年末年始に際して、一発数千ペソの花火が信じられないペースで売れるらしいが、そのくらい高価な花火にもなれば、ちょっとした業務用の打ちあ上げ花火と変わらない。大勢の人がこぞって高価な花火を買いあさり、日本の大みそかにあたる日は、それらが夜空一面に見事な花を咲かせることになる。一つ一つの花火の規模は小さくても、それらが一斉にあちらこちらで上がり始めると、不思議な感動が呼び起こされる。
世間の花火がピークを迎える頃、我が家は花火会場を自宅の屋上へと移し、360度全方向に次々と派手に打ち上がる周囲の花火に対抗するかのように、同じような打ち上げ系を中心とした花火に次々と点火した。

とにかく年越しの花火は凄まじい。
その結果、元日のTVニュースでは、花火で怪我をした老若男女の痛々しい映像が次々と放映される。新聞には、違法花火が多く出回り、それによる怪我が多発しているので、今後取り締まりを強化するといった記事が出ていた。しかしフィリピンでのその類の「違法」や「取り締まり強化」という言葉には、絵に描いた餅のように空々しさを覚えてしまうし、いくらそのようなコメントが出されたとしても、馬の耳に念仏ではないだろうかと思われる。

夜更かしをしながら突入した1月1日の元日は、朝から「今日は何もしないぞ」と決め込み、仕事関係のメールや電話は拒絶する決意を持っていたが、結局その手の連絡は一切こなかった。おかげで僕にとっては本当に久しぶりの、のんびりした穏やかな一日となった。



1月3日の早朝、心配された天候がやや回復し、セブパシフィックとフィリピンエアラインの飛行機が、30分の間隔をあけ順番にレガスピ空港へと着陸した。
ベルとモナと僕の3人でマニラに小旅行のへ出かける日である。3人は朝早いレガスピ空港でなんとなくぱっとしない空を眺めながら、本当にこれから乗るべき飛行機が着陸するかどうかを心配していた。
先日マニラからレガスピへ行く飛行機がレガスピ上空まで行ったにも関わらず、再びマニラへ引き返すという災難に遭遇したため、再び同じことが起こることが、かなり現実味を帯びた心配事として僕とモナの中にあったわけである。
実際に、前日の1月2日のマニラとレガスピ間エア便は、全てが欠航となっていた。

僕はこの小旅行の日程を決めた日から、フィリピンの天気予報、気圧情報、サテライトの雲の写真などをウェブサイトで調べ、それと併せてレガスピとマニラの飛行機の運航状況を確認し、どのような時に飛行機が飛ばないのかの傾向を観察しながら、一週間ほどの幅で天候の予測をしていた。
それによると、1月3日はちょうど悪天候の狭間にあたり、それよりも悪い天候条件で飛行機が離発着できている日があるのだから、3日はまず大丈夫だろうと思っていた。それでも実際に搭乗する飛行機がレガスピに到着するまでは、安心できないでいた。
それらの情報によれば、3日はマニラでの天候もまあまあで、その前と後は天候が崩れる。やはりマニラにおいても、3日は悪天候の狭間となる、この雨の多い時期では、絶好の旅行日和になる予定だった。

この予測は見事に的中した。レガスピとマニラでは、ほんの少しだけ小雨があったが、それはごく短い時間にとどまり、あとは部分的に青空も見える天候となった。
もし天候不順で飛行機が飛ばなかったら、旅行を楽しみにしていたベルがあまりにも可哀そうである。翌日から僕は、また日本に戻る予定になっていた。もしその日に旅行が中止になれば、そのお楽しみはしばらくお預けになってしまうからであった。
それだけにワンチャンスのその日の天候に関して、僕はそれなりのプレッシャーを感じながら心配していたというわけである。

マニラに到着後、時間は早かったが空港からホテルへと向かった。チェックインは無理でも、せめて荷物は預かってもらう必要があったからだが、だめもとでチェックインをお願いすると意図も簡単に応じてもらえた。
部屋に入って一旦シャワーをしたいというベルの要望に応じて、昼まで小休止。その後和食レストランで、ベルは手巻きすし、僕とモナはラーメンを食べる。モナはタンメンで僕はネギミソラーメンを頼んだが、海外で食べた過去のラーメン中、確実にベスト3に入る美味しさにちょっと感激。麺は今一つだが、スープが美味しい。以前マカテというビジネスエリア街で食べたチェーン店のラーメンもまあまあだった(あくまでも海外では・・というはなしだが)が、今回食べた店はそれを確実に凌駕する。これは良い店を見つけた。

食後はモールでショッピングをし、その最中にベルが映画を観たいと言い出した。やけに映画にこだわるのでよくよく話を聞いてみると、7歳のベルはこれまで、映画館で映画を観たことがないらしい。そのことはモナもすっかり忘れている。僕とモナはその事実に驚き、それはいかん、是非人生の初体験をさせてあげようと、ベルのお願いをかなえることにした。
映画を観ることは予定外で、3人は半そでの軽装で来ていた。フィリピンの映画館は、中がまるで冷蔵庫のように冷えている。そのことは覚悟を決めて入ったが、やはり中は異常に寒い。僕はたまたま半そでのTシャツの上に、もう一枚半そでのジャケットを着ていたので、そのジャケットをベルに与え、モナは映画を観ている間終始僕に抱きつくようにしながら寒さを凌いだ。
ベルが観たいと言った映画は、フィリピンオリジナルの3Dアニメ「RPG」だった。映画が3Dということもあり、本編上映前の映画の宣伝も全て3Dだったが、飛び出す画像にベルは大感激。(実は僕やモナも3Dの迫力に密かに驚いていたのだが・・)
ベルにとって人生初の映画鑑賞が3Dということに、僕とモナは時代が進んだねと、まるで老夫婦のような会話を交わしていた。
肝心の映画はフィリピン国内で作成されたものなので、言葉はタガログである。僕には内容がチンプンカンプンで、台詞がなくても何となく理解できるバトルシーン以外は退屈だった。加えて館内が異常に寒いので、前半はほとんど居眠り状態。人間はやや寒いと寒さで眠れないが、度を超すと眠くなるようにできている。少しでもエネルギー消費を抑え、寒さに対応するという防衛本能を備えているためだ。
覚醒した後半は、フィリピンアニメの出来栄えに注目していた。台詞と口の動きは一致しているようだ。顔の表情も独特で細かい描写がある。かなりのセルを使用した本格的アニメであることがわかる。しばらく観ていると、人間の表情のパターンが限られていることに気付き、またストーリーも単調そうだが、それでも一昔前の日本でも注目されそうな作りに見えるから、フィリピンのエンターテイメント(娯楽)も少し進んできたことを感じる。娯楽が進むということは、社会にゆとりができてきた証拠である。

昨年末、ソ○ーに勤めている旧知の人に会って、一緒に飲んだ。以前一緒に仕事をした方である。彼は現在、アメリカで映画館設備関係の仕事をしている。その彼が、日本、アメリカ、ヨーロッパでの設備関係の仕事は既に行き詰まりを感じる、ソ○ーもこれから伸びるアジア方面へ、積極的に進出する必要性をひしひしと感じると話していた。
当然フィリピンでの映画館状況の話題にもなった。フィリピンへ行ったことがない彼は、フィリピンの映画館は古臭いぼろぼろの掘立小屋と思っていたらしい。僕がフィリピンの映画館は日本と変わらない立派なものだと教えると、驚きを隠さずに、ますますアジアの国々を詳しく見てみたいと、後日くれたメールの中で語っていた。
事実、フィリピンの映画館は、素晴らしい音質サラウンドやデジタル配信、そして日本の大手映画館のようにピカピカで、いくつもの上映室があることなど、日本のそれと全く変わらない。
アメリカの映画館は、チケットを購入し一旦ゲートを通ると、その後に各映画の上映室があり、上映している数種類の映画を一日かけて全て見ることができるが、フィリピンは日本と同じように、映画毎にチケットを管理するシステムを採用している。アメリカナイズされたフィリピンだが、そこだけは細かく管理をする日本と同じスタイルとなっている。

映画を観終わった後ベルにどうだったと訊いたら、親指を立ててグッドだったと嬉しそうな表情を浮かべた。おまけで「ダディーは寝ていたけどね・・」という苦言までもらってしまった。

映画の後は、メインイベントのスターシティーという遊園地である。マニラ湾近くにある全天候型遊園地だ。園内には、35年前に万博に登場した、岡本太郎の太陽の塔を思わせるシンボルタワーがあり、それが目立つために存在自体は以前から知っていたが、入ったのは初めてだった。
全てフリーライドというチケット(フリーパス)は、一人350ペソ(700円)。日本に比べればやはり安い。思ったより人が多く、乗り物一つに10分〜30分は並ばなければならない。室内は全体に子供向けの小規模な乗り物ばかりだが、ベルには手ごろなようである。
とにかく手前から片っ端に、3人で乗りついでいった。室内の乗り物はほとんど乗りつくし、外へ行く前にバイキングに乗ろうという話になった。大型の船が、振り子のように行ったり来たりするやつである。
これで3人とも見事に具合が悪くなった。ベルが一番重症で、蒼白した顔のおでこに冷たい汗を滲ませている。ベルに冷たいものを飲ませ、3人が少し回復してから、小舟で水の流れにのって冒険をするというアトラクションを最後に試して、そこを後にした。時間も夜の8時を過ぎていたので、丁度良い頃でもあった。

夕食はスターシティー近くの焼き肉屋に入って見た。セブの支店には、以前モナとユリと一緒に入ったことがあるので、僕とモナはその名前を知っていた。
セブの支店は高級店で、店は綺麗で値段も高いが、マニラはやや古ぼけた店のせいか、価格はややリーズナブルだ。
ベルは焼き肉屋に入ったのも初めてだった。だから焼き肉屋に行こうかと言った時、ベルは焼き肉という言葉を理解できなかった。フィリピンで言うバーベキューのようなものだと教えてあげて、初めて焼き肉というものを理解したようだった。

初めての3人での旅行、それも父親と母親が揃った親子水入らずの旅行だ。そして手巻き寿司、映画館、焼き肉と、ベルにとっては初めてずくしのことである。おそらくベルは楽しんでくれただろうと思う。
ホテルの部屋に戻ると、疲れたベルは自分のベッドですぐに眠りこんだ。ツインの部屋だったので、ベルは一人で一つのベッドを占領し、僕とモナは一緒のベッドに寝た。

翌日早朝に再び日本へ帰る僕は、またしばらくモナとお別れとなる。
ベルは二人に背を向けるようにしてすぐに寝付いたのだが、僕にはベルが、僕とモナに気をきかせてすぐに寝たのではないかという気がしてならなかった。
その証拠に、ベルは本当に眠ると寝相が悪いが、その時は僕とモナのベッドに背を向け、しばらく全く動かなかった。最初は寝たふりをしていたのではないだろうか。
つまりベルは旅行のお礼に、僕とモナの二人に時間をくれたのだ。
少し大人になったベルを、僕は微笑ましく思っていた。

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2011年01月03日

184.フィリピン・パブリックホスピタル

ママの妹のエバ叔母さんが、12月30日に女の子を出産した。
エバ叔母さんは、旦那と二歳の子供と三人で、マニラに住んでいて、エバ叔母さんの旦那は、マニラでセキュリティーガードの仕事をしている。

最初の子供が一歳と数カ月の頃、二人目の妊娠が発覚した。そこ頃、本人に耳に届いていたかどうかはわからないが、普段生活が大変だと言っているのになぜ二人目の子供を作るのだと周囲が随分とこぼしていた。それは妊娠がわかった時点で、周囲の人間にまた迷惑がかかるとわかっていたから、頼られるだろうと思われる人たちからの嘆きである。
頼られるだろう候補の名誉ある筆頭はママとモナ・・・つまりは僕?
でもぼやいていたのがママとモナだけでなかったのはなぜ???

エバ叔母さんが一人目の子供を産んだ時、叔母さんは出産の数カ月前からママの実家でもあるローラ(おばあさん)の家に転がり込み、食費を入れるでもなくローラの少ない年金の恩恵を授かっていた。そして出産の時には、病院代をママに借りた。旦那はそのお金を返すと言いながら、未だに返ってこないそうだが、そうこうしているうちに二人目を身ごもったわけである。
そしてエバ叔母さんが一人娘と一緒にローラの家に転がり込み、金銭的にその一人娘を産んだ状況を再現しようとしている。

その叔母さんの出産の時期が近付く前から、僕はエバ叔母さんの出産費用について援助はしないと宣言していた。それはモナももちろんそうだと言っていた。
理由は、1.以前ママが貸したお金が一切戻ってこない。2.にも関わらず、かつ旦那に稼ぎもあるのに今回も最初からこちらをあてにしている節がある。3.そしてこの出産に関して自分たちは一切責任がないからである。

旦那はお調子者で、すぐに返すから貸してくれと言ってきそうだ。
その旦那は、エバ叔母さんがさんざん悪口を言う厄介な人である。それならなぜ結婚したのかと訊けば、結婚前にはわからなかったと、これまたどこにでもあるようなお話で、それを責めるわけにはいかない。
結婚わずか二年で既に離婚したいとまで話しているが、それじゃなぜ妊娠???
わけがわからないが、それはフィリピンだからと言われてしまえば、その後は二の句が出ないのがフィリピンだ。

エバ叔母さんの出産予定は12月と聞いていたが、叔母さんがクリスマスに我が家を訪れた時には、その気配もなくピンピンしていた。
モナに「12月じゃなかったっけ?」と確認すると、「間違えてるんじゃない」とあっさり言われ、「そう?」で話は終わっていた。

しかし間違いではなかった。29日に突然産気づいて、ダディーとママがバン(乗り合いタクシー)を貸し切りレガスピの病院へと運んだが、翌30日に無事女の子を出産した。
ダディーはママを病院に残しさっさと家に帰ってきたが、ママはエバ叔母さんに付き添い、翌日31日、ふらふらの状態で家へと帰りついた。

エバ叔母さんが入った病院は、病院代が安いパブリック病院、つまり公立病院である。モナがベルを産んだのも、同じ病院だったそうだ。
パブリック病院は付き添いの人がゆっくりできるスペースがなく、ママは一晩を外で寝たそうで、それで疲れ切って家に帰ってから体調を崩した。そしてそれから3日間寝たり起きたりという状態になってしまった。
そこで付き添いは、ママのもう一人の妹、テスおばさんに選手交代。

肝心の旦那である叔父さんは、1月5日のバスでマニラを出発し、1月6日にレガスピへ到着する予定だとか。
ママは、なぜ産まれる肝心な時にここに旦那がいないのかと、かなりお冠状態となっている。もともとママはその叔父さんのことが嫌いだから、このような時には遠慮が無い。
旦那が居なければ、周囲の人間が迷惑するのは必定。僕もモナがユリを出産したときに、ずっとモナに付き添っていたから、その大変さはよくわかる。

しかもエバ叔母さんは、予想通りお金を1000ペソ(2000円)しか持っていなかった。
フィリピンでは、子供が生まれた時にのませるミルク、紙おむつ、その他必要なものは、自分で購入し病院へ持っていかなければならない。バンの貸し切り代も含め、ママはそれらに既に5000ペソは使ったとこぼしていた。では入院代はどうなるのかが気になったが、それを大ぴらに話題にする勇気は僕には無い。
モナと裏でこそこそ話していたが、モナも嫌な予感を持っているようだった。

僕はモナに、マニラにいる叔父さんへ、早くこないと病院代がかさんで大変なことになるとママに言わせるべきではないかと言った。ついでに今回ママが出費した明細と請求書をつけて、先手を取った方が良いとも言った。
甘い顔をして助けると、また当たり前のように頼ってくるのが手に取るように見える。
一度世の中の厳しさを、身をもって知るように仕向けるべきである。
ただしもし我が家にしわ寄せがくるとしても、それはママが支払うのであって、決して僕らの家計からは支出しないと決めているから、今のところ僕らにはそのことで相談はない。

フィリピンの病院は、お金を支払わないと退院できない。もし体が退院できる状態になったとしても、お金が払えないと出られないから、ますます病院代がかさんでいくという蟻地獄のようなシステムとなっている。
だからエバ叔母さんは、本当は早く退院したいのだが、ママは寝込んでしまい、僕とモナは援助しないと言っているから、旦那の帰りを待つしかない。しかしモナと話していた中で、叔父さんが病院代を持ってくるかは怪しいらしいし、それは僕も考えていることである。
それでも下手に首を突っ込めば藪蛇というやつになるので、僕らはお金に絡むところには一切口出しをせず、傍観者を決め込んでいる。
ママも最後までつっぱれば、叔父さんは自分の親戚や知り合いに金策に出かけるだろう。
それで良いと思うのであるが、結局それはどうなることやら。

フィリピンにも保険のような制度があるようで、所定の書類を揃え、それに旦那のサインをもらえば、病院代が3割だけの支払いで済むそうだ。
しかし付き添ったテス叔母さんが手続きの方法がわからないということで、急遽僕とモナが、エバ叔母さんの入院する病院へと出向き、手続きの手伝いをすることになった。
ママはダディーにそれをお願いしていたようだが、ダディーは忘れていたと言い訳をしながらこの件では積極的に動こうとせず、できるだけ関わらないようにしているようだ。

そんな経緯で、モナがベルを産んでその時に死にそうな目に遭ったというパブリック病院へと、僕も足を運ぶことになった。
モナがベルを産んだ場所が、どのようなところかを見ておきたかったのが、僕も一緒に出かけた理由だった。
噂に聞く、設備が悪く人手の足りない劣悪な環境だというパブリック病院が一体どのような所なのか、僕は実際にこの目で見ておきたいと思ったのだが、実際に見て僕はただただ驚いた。

病室に入ると、そこは病室というものではなく、だだっ広いフロアーに、よく病院の待合室でみかける平たい椅子を所狭しと並べ、その狭い椅子をベッド代わりにたくさんの妊婦がその上で寝ころんでいた。妊婦と妊婦の境界がはっきりとせず、不揃いに椅子を並べて空いているところを適当に陣取った結果、そうなっているように見える。

まるで野戦病院のような、いや、映画で見る野戦病院はまだ一人一人ベッドがあるからましで、そこはそれよりも粗末な椅子ベッドにシーツを敷いただけの、野戦病院にも劣る環境である。
妊婦の傍らには産まれたばかりで皺だらけの小さな赤ん坊が横たわっていて、部屋中にフギャーフギャーと新生児の泣く声が響いている。一人一人がカーテンで仕切られているわけでもなく、プライバシーなど全くない。
そんな中で子供を産んだばかりの母親が、疲れ果てて寝ていたり、子供に母乳を与えたりしている。鼻を突く不思議な匂いが立ち込め、不衛生な感じさえする場所である。

モナがユリを産んだ時には、プライベート(私立)病院の個室に入ったが、そこはトイレやシャワー、テレビ、電話、冷蔵庫が完備で、しかも定期的に母親の健康チェックが入るところだった。産まれたばかりの新生児は、よく日本で見かける新生児室で大切に扱われる。思わずそれと比較し、雲泥の差どころではない違いを直ちに感じた。
もしモナに次の出産があるとすれば、いくら病院代が安くても、決してそのようなところへは入れたくないと思ったくらいである。

モナがベルを産んだ時には、僕が見たその状態よりももっと混んでいて、床の上に寝転がる妊婦も続出していたくらい酷い状況だったそうだ。
モナはベルを出産する際、仮死状態に陥った。通常は入れない分娩室にママの入室が認めれら、最後の看取りをするように言われたそうだ。
ママは泣きながらモナに、ギブアップしないで、頑張ってと懇願したことを、かすれる意識の下でモナも覚えているそうだ。
そんな状態にまでなったため、当時のモナの入院は相当長引いたそうである。
今さらながらに、当時のモナやママとダディーの苦労が手に取るように分かった。

エバ叔母さんが出産をした時に、同じような時間帯に子供を産んだ若い母親が、病室で息を引き取ったそうだ。プライバシーのかけらもないところだから、何が起こっているかは一目瞭然というわけである。
初産だったその女性は、元気な子供を産んで病室へと戻ったが、その時既に息づかいが変だったらしい。病院側は手動ポンプで呼吸の手助けをするだけで、酸素吸入や点滴、注射の類は、その若い夫婦に支払い能力がないため、一切やらなかったそうだ。
若い夫は必死にお金を書き集めようとしていたらしいが、それもかなわずに、母親は産まれたばかりの子供を残し亡くなったらしい。
おそらくかき集めたかったお金は、それほど大きな金額ではない。せいぜい一万円や二万円の話だ。
聞いただけで、なんとも悲痛で、他人事ながら悔しさを感じる出来事である。もし自分がその場に居ればお金を用立てて、その母親を助けることができたかもしれないと思うと、尚更そう思う。エバ叔母さんには援助できないとは言いながらも、目の前で命のやり取りをしていたら、それは全く次元の違う話である。


病院を出る際、パブリック病院とは酷いところだと思いながらも、フィリピンの普通の人は、このようなところへ入るのが普通なんだねと、何が言いたいのかわからないまま、僕は何かをモナに語ろうとしていた。
公立だからお金が無い。公立でも支払い能力が無い人には満足な治療をほどこせない。
フィリピンという国の大変さを、感じないわけにはいかなかった。

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