フィリピーナと共に
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2013年10月21日

705.フィリピンに見えたもの

 八月にフィリピンに帰り、既にお伝えしたように僕は三泊四日をマニラで過ごし、その後タバコシティーの自宅に帰った。
 レガスピ空港から自宅のあるタバコシティーまでは、地元でハイウェイと呼ばれる国道を通る。ハイウェイと言えば高速道路、しかも呼び名がそうならドイツのアウトバーンのような道を想像してしまうが、フィリピンのハイウェイは日本の田舎の国道よりお粗末で普通の道だ。フィリピンに住み付いた当初、何かの場所を尋ねた時にハイウェイ沿いとかハイウェイの近くとその呼び名が出てくると、そんな立派な道路がどこにあったのだろうと、いつも僕は尋ねた場所が煙に巻かれた。
 
 ハイウェイをレガスピからタバコシティーに向かって進むと、牛が水浴びをする川を渡り、マヨン火山から飛びだした溶岩石のごろごろ転がる原野を両側に見て、それがヤシの木のジャングル–これはヤシの木だからジャングルではないと言われるが、日本人の僕にはジャングルにしか見えない-の中を切り開いた道になり、次に田園風景で視界が開け、再び軽い山道となる。そんな鬱蒼とした中で車の窓を少し開けると、森林の匂いが染み込んだ冷えた空気が車の中に流れ込むことになる。それほどの田舎道でもいくつかの小さな町が点在し、道路脇に粗末なサリサリストアや民家が並び、学校らしきものいくつかある。その道路脇を歩く人たちは若い女性も含め、お世辞にも綺麗な恰好とは言えない服装とサンダル履きだ。その辺りの人は色黒の人が多く、そのせいもあってどの人も、体にたっぷり生活の垢を染み込ませているように見える。
 この道はこのように、ある意味フィリピンらしい風景が連なる。

 僕はこの道を通る度に、必ずと言ってよいほど、初めてタバコシティーを訪れた時のことを思い出す。
 レガスピ空港で出迎えてくれたモナの両親やベルに初めて対面し、チャーターしてくれたバンに一緒に乗り込み、その道を通ってタバコシティーへ向かった。レガスピに近いある大学の前を通った時にママが、ここはモナの通った大学だと僕に教えてくれた。ああ、ここがモナとベルの父親が出会った場所かと、その時の僕の頭に、不思議とそれが真っ先に浮かんだ。
 ヤシの木に囲まれる鬱蒼とした道を通っている時、自分たちが目指している町はどれほどの田舎だろうと想像していると、ママが僕の不安を見透かしたように、すごい田舎でしょうと声をかけてきた。自分の家がある町はジャングルだらけの田舎だと何度もモナに聞かされていたが、それがようやく自分の中で実感を伴った。
 タバコシティーの中心部に差し掛かると、様子が少し変わった。どれも古びてはいるが数階建ての鉄筋コンクリートビルディングがあり、ジョリビーなどのファーストフード店があり、スーパーマーケットまであった。自分の中に形成され掛かった、炭焼きの小屋の煙が立ち上る田舎町のイメージが、見事に崩れた瞬間だった。
「なんだよ、大きな町じゃないか、十分都会だよ」
 僕は自分が勝手に抱いたイメージと実際の大きなギャップのせいで、まるで都会でないその町を、そんな風に都会と表現した。するとモナが「そう?」と意外な目つきで僕を見た後、少し嬉しそうな表情を顔に浮かべた。当時のモナは、僕がその田舎町を気に入らなければ、二人の結婚や結婚後の生活に何か影響があるかもしれないと心配していたようだ。実際のタバコシティーは全く都会でないが、直前に通るジャングル生活の様子を見た後では、そこが十分生活環境の整った立派な町に映ったのは無理のない話で、それは決して僕のお世辞や慰めの言葉ではなかった。

 ペナンからクアラルンプール、そしてマニラを経由してレガスピ空港と長旅の疲れを蓄積した頭と体でこの道を通った時、僕はまたしても、このハイウェイの風景に癒されるのを実感した。長旅の終着地点目前でそこを通る時、僕はいつもそれを感じる。人も景色も何もかもが長閑で、そこには神経をすり減らすものが何一つ無いように思えてくる。実際には時々驚く刑事事件があり、町の中はそれなりのいざこざも日常的に発生しているだろうが、傍目には全くそれを感じさせない風景がずっと続くのである。お金の心配がなければ、そこで目に入る地元の生活にどっぷり浸かり、永遠にそこで平穏に暮らしたいと錯覚するほどだ。長らくそこにいれば、田舎ゆえの不便さや刺激の少なさに、退屈を伴うストレスが少なからずあることを分かっているにも係わらず、である。

 そのようなところだから、少し美味しいレストランや落ち着けるコーヒーショップが新しく開店する情報を得たり思わず発見した時は、それだけで大層な喜びを感じる生活になる。そこでの生活は、必要な物でも買えなければ我慢し、代用できる物があればいくら質が悪かろうがそれを買うしかない。代用品があれば幸運で、ブランド品はおろか少し名の通ったメーカー品が手に入らないことは多々ある。高い物は売れない=儲からないから、収入の少ない人が多く住む田舎町では、販売店も高級品-そこでは普通の物が高級品に思える-を扱えない。
 とにかく、細かく上げればきりがないほど我慢を強いられることがあり、日常生活はそれだけ単調になる。家で三食食べ、お出かけと言えばコーヒーショップ。インターネットは不安定で、パソコン上で映画やビデオ・テレビドラマを見るのも不便。ぼんやりしていると眠くなり、家族揃って昼寝タイムになることもしばしばだ。休日の楽しみは、壮大な自然を眺めそこから吹いてくる風を感じながら、ラジオで音楽を聴いてコーヒーを飲むこと。たまに教会に行く家族に付き合えば、そこに集まる多くの人の人間観察と、寄り道のピザ屋やコーヒーショップがお楽しみ。

 こんな日常に浸っていると、良い時は良いが、何かをきっかけに息が詰まることがある。日本の暮らしに慣れている自分は、気が狂いそうになる苦しみを何度も味わった。そんな時、そこで何十年も暮らしてきたダディやママが、とても立派な存在に見えてくる。二人は不便さに一切不平を言わず、強いられる我慢を自然に受け入れ、淡々と単調な日々をこなしている。それを見ながら僕は、いつも様々な欲求を刺激され続けている都会に慣れた家族より、こんな田舎で我慢強く暮らすことができる家族の方が、一緒に暮らすパートナーとしては有難いと思えてくる。それは結婚をする女性も同じだろう。常にハイレベルな欲求を突きつけてくる女性が相手では、こちらの気が休まらない。少しの贅沢で満面の笑みを顔に浮かべてくれる女性の方が、財布に優しく自分の胸の内にも優しいに決まっている。フィリピーナと結婚するなら田舎の女性の方が良いと言われるのは、そんな所以だろう。

 同時に僕のような日本人が田舎で寡黙に暮らす人を目の当りにすると、人間の幸せとは何かについての考えが、頭の中で少々混乱してくるのを感じる。
 日本のような高度な物質社会に暮らすと、より贅沢な物に囲まれた生活を実現することが、人間の幸せを形作るように思われてくる。実際にそんなことはないと多くの人が分かっていても、気が付けばブラックホールに引きずり込まれるようその穴に嵌るのが、物質経済の発達した社会に見られる現象だ。そこでお金に対する執着心が生まれ、必要以上にそれを追い求めて他人を蹴落とし、家族を振り返らず、そのうち自分が良ければ何事も平気という心理状態が生まれだす。世の中の風潮がそちらに傾けば、そうなる自分の罪悪感が薄れ、スパイラルに入り込んだように社会全体がそちらの方向に傾く。その結果、不幸になる人も多く発生する。富が幸せを産むどころか、富が不幸を作る場合もあることに気付く人が出現し始める。神経をいくらすり減らして頑張っても、方向性を少し間違えただけで自分の手元に幸せが残るとは限らないのが、発達した物質経済社会の特徴だ。なぜならそこには、弱い人の心を惑わすものが多く存在するからである。マニラの夜社会も、それと似たり寄ったりの共通項を十分含んでいる。

 フィリピンの田舎暮らしを通し、僕はそこに、それと対極の状態を見ているような気がしていた。そこで暮らす人も当然欲しい物はたくさんありそれを求める心をみんなが持っているが、そこにはそれより、家族が無事に衣食住を全うできることに喜びと有難味を感じ、それに心から感謝の念を抱いて暮らしている様がある。それが全うできたならそれ以外はおまけという考えだからこそ、必要以上の贅沢ができないことへの不満が少なく、幸せを感じて生きていけるのだ。大切な事は何かを常にフォーカスできている有様を見た時、人間が子孫を作り歴史を繋ぐことの意味をも、そこに感じることができる。僕は不便な田舎町でそのことを、真綿に水が浸みこむようにじっくりと見せてもらった。これは、フィリピン田舎暮らしの思わぬ副産物である。

 そのような田舎のそのような両親のもとで育ったモナも、同様の気持ちを持っている。彼女は若い世代で、マニラの生活も日本の生活も知っている。その分高度物質経済社会に毒された部分もあるだろうが、それでも彼女が常にフォーカスしているものは、平穏で幸せな家庭だ。普段の食事が普通にできて、子供に教育を受けさせられる家庭を築けたなら、他に多くのものを望まない。このことは、たまに本人がぽろりと口にする。その言葉を聞くと僕は、心が安らぐような安心感を覚えると同時に、逆にできるだけ家族に豊かな生活を与えてあげたいという気持ちになる。日本人の気持ちの中にも、おそらく同様のことが内在しているだろう。それでも高度な物質経済社会に翻弄されることで、それをしみじみと噛み締める暇が少ないのではないだろうか。これは社会全体が豊かさを失いかけた時、再びそのことを強く感じるようになるだろう。

 人間は数十年で、所詮死ぬのである。その僅かな期間、先進国と呼ばれる国に住む人たちは、可能な限り何もかもを得ようと努力を重ねる。それに夢中になっている時は、その裏で自分が何かを失っていること中々気付きにくく、何かを捨てながら何かを追い求めていることが少なくない。そんな社会の歯車として動くことに疲れた僕は、フィリピンの田舎に住む人から、人生における大切な物が何なのか、それをシンプルな形で見せてもらった。
 おそらくフィリピンを愛する多くの人たちにも、そこに僕と同じものが見えているのだろう。
 


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2013年10月19日

704.「問題ある」への対応

 つい先日の記事で、現在の我が家に問題はないと宣言したばかりなのに、昨日モナより「もんだいある」のメッセージが届いた。しかもそれは、モナが僕にそれを伝えていることをママに知られたくないので、電話ではなくチャットメッセージで話をしたいという不穏な前置き付きだった。僕が「今いいよ」と返信すると、モナのタイピングしている様子がこちらの携帯に表示されているが、中々本文が送られてこない。そのことから、モナが随分長い文章を打っていることが分かり、こちらは次第に心臓の鼓動が早まる思いでそれを待っていた。

 内容が届くとそれはさほど深刻なものではなく、マニラで暮らしていたエバおばさんが、突然ビコールに戻ってきたというものだった。しかも一家総出で、おじさんも一緒に帰省し本日我が家を訪れたというのだ。
 ここで問題になるのは、この一家はそのままテスおばさんの家に転がり込むのが分かっていて、以前と同様、今回もエバおばさん一家がテスおばさんに、食費や光熱費を一切支払わないことにある。つまりただでさえ生活の苦しいテスおばさんが、この一家を扶養しなければならなくなるということだ。おじさんは一週間ほどでマニラに戻るそうだが、その後エバおばさんと子供二人が期限未定で居候する。そして何も支払わらわず住み付きながら、家事を一切手伝わないことも分かっている。当然テスおばさんの負担・苦労は激増するので、テスおばさんがそのことをママやモナに愚痴としてこぼしたそうだ。
「それをこっちに言われても困る。直接エバおばさんに言えばいいじゃないの。それで何かうちにお願いがあったの?」
「問題は、誰もその話を真面目に考えようとしないし話そうとしないこと。問題だと言っても、それに対して何かをしようとしない。こちらがアドバイスしても、聞こうとしない。それで何かあれば、またうちにくる」
 少し分かり辛いが、詳しく聞くと要は、テスおばさんは問題だと言いながら本人にその問題を解決する意志がなく、エバおばさんに直接文句を言うこともできない。だからテスおばさんは、ママやモナから自分に生活費を入れるべきだとエバおばさんにお説教をして欲しいのである。しかしエバおばさんは、ママやモナの説明もアドバイスも聞こえないふりをするようだ。そして双方に話し合いの意思はなく、そのくせ何かが起こればこちらを頼るのが目に見えている。それも十分過ぎるほどの前例があるということである。
「話し合いもできないなら、これはますますこっちに責任がないでしょう。二人のおばさんに、それはあなたたちの問題だからこちらは関係ない、二人で話し合って決めなさい、テスおばさんには直接エバおばさんに文句を言いなさいと言えばよいだけじゃないの?」
 モナは一言だけ「そうねえ」と返し、その後話題を変えてしまった。

 僕の言ったことは正論だが、モナの尻切れトンボのような返答は、それでは何も解決しないことを意味している。そのことは、そのように言った僕自身にも実によく分かっていた。実効的な解決策を示さない限り、モナの憂鬱な気分は晴れないのである。
 よって僕は「こちらは関係ない」というメッセージを書きながらも、何か良い案がないか、具体的な対策方法を考えていた。この対策とは、結局同じことになるけれど、困ったおばさんたちを助けるものではなく、モナの憂鬱な気分を晴らすためのものである。
 そこで頭に浮かぶのは、必ずこちらが何かしらの金銭的負担をするものとなる。つまり、お金がないから困った状況が発生するわけで、お金があれば問題は綺麗になくなるのだ。これは当たり前のことで、この手の問題原因は簡単明瞭で、解決は非常に難しいのである。

 仮に我が家でエバおばさんと子供たちを引き取ると、ただで三食昼寝付き、しかも住環境も食事も悪くないとくれば、「このままずっと住み付いた方がお得」ということになる。気が付けば、おじさんも同居しているということになり兼ねない。もっともこのおじさんはこれまで散々ママの逆鱗に触れているので、間違っても我が家に居候することはないと思われるが。
 そして仮にエバおばさんが我が家で平々凡々と暮らすようになれば、安い給料で我が家のメイドをしているテスおばさんが、自分と待遇が違うのはなぜ? と不満を募らせることになる。当然それだけで確執が生じるが、そこでもしエバおばさんがテスおばさんを自分のメイドのように顎で使うことにでもなれば、身内戦争勃発は間違いない。
 ならば補助金を出すか。これも同じ理由で難しい。形がどうであれ甘い汁を吸わせると、状況がますます悪化することが目に見えている。働き口を見つけるまでの期限条件付きという手も、約束など反故される可能性が極めて大きい。せめて譲歩し、米や野菜、肉、魚の食料補助になるだろうか。それでも食と住の無料奉仕に変わりなく、それにエバおばさん一家が甘えだせば、こちらは永遠に援助を続けることになる。
 エバおばさんたちを家族とみなして腹をくくれば、我が家に引き入れることも可能だが、同居する家族となればエバおばさんの子供への責任も生じることになる。そこまで責任を負えるのか、それは全く自信を持つことができない。
 このように、この問題への解決策を考えると、自分の中で堂々巡りとなる。
 
 このようなことを書くと、「平気で人に寄生するような輩を助ける必要はない、出入り禁止にしてもう関わるな」という意見を頂けることが予想される。もしくは、見捨てるべきなのに、なぜそんな簡単なことが分からないのかとイラついて読む方も少なくないだろう。

 日本の場合は、生活保護や児童保護のような社会福祉を頼る道を模索できる。そしてアルバイトも何かを探せばありそうだ。その場合は、託児所もある。たとえ日本であっても、それらの現実がとても厳しいことは承知しているが、何かしらの手を考える気になるくらい、何かがありそうだ。しかしフィリピンでは、それらが最初から皆無である。社会福祉として頼れるものは何もないし、仕事も皆無に近い。若い人でさえ少々年齢が上がると就職が難しい社会で、何もしてこなかったおばさんが何かの職にありつける見込みはゼロに近いのだ。フィリピンでは、このような社会的問題に直面している人がとても多いはずである。
 もう一つの問題は当人にある。寄生することで何とかなれば、その人自身の自立への努力をまるで期待できず、逆に寄生し続けようと考えることが容易に想像できることだ。もし数年間甘い汁を吸った生活に染まれば、甘い汁が無くなった時に、その家族は死と向き合うことになる。実際には必死で次の蜜を探すのだろうが、そうなればその人は、一生惨めで不安な生活を続けることになる。それは本人や子供にとって、全く好ましくないだろう。

 さて、僕が最初にモナに言った言葉を、僕は正論だと言った。努力をするつもりのない人間は助けても意味がなく、「働かざる者食うべからず」も正しい意見である。
 それが分かり切っているから、この手の問題には最初から関わらなければ良いことになる。しかしこちらが関わりたくなくても、向こうは関わって欲しくてすり寄ってくる。そしていつの間にか、こちらは問題に引きずり込まれてしまう。引きずり込まれないためには、問題を持ち込む人を出入り禁止にして縁を絶つしかないが、それをすれば今度は鬼と呼ばれる。しかもそこに親族としてママやモナの情が絡んでくると、正論通りの事を非情に実行に移すことは、現実に難しい場合が多い。

 ここで、これまで同様の問題に対し自分たちがどう処理してきたかを振り返ってみると、結局は苦言を呈しながら助けてきた。現実を目の前にすると、これは助ける以外に手がないと思えるからである。継続的な援助は避けているが、できる範囲のその場しのぎ程度の助け舟を出してきた。その時に「どうして自分が・・」と腹が立つこともあるが、これまでそのようなことを繰り返し、過去の問題を乗り切ってきたのは事実である。
 もちろんこれは、恒久対策になり得ない。だから問題が再発する。しかし恒久対策が難しいなら、暫定対策を繰り返すしか手がないのである。
 今回冒頭で述べた問題に対し、僕は敢えて積極的に解決策を考えてみて、それが堂々巡りになることに気付いた。そして僕は、そこから一つの結論めいたものを導き出した。それは、このような問題への対処は、無視できるかできないかの状況判断をし、無視できないものは急場をしのぐ援助をすると割り切ってしまうというものである。もちろんその都度お説教を添えるが、その効果があるかどうかのややこしいことは考えず、これも割り切って援助とセットでそうするのだ。こちらがそのように割り切ってしまうと、不思議と少しは腹の虫が収まりそうである。割り切って仕方ないと思えば、それだけでストレスが軽減するのである。

 様々なブログを徘徊すると、このようなフィリピンやフィリピン人の問題を提起し、正論を振りかざして喝破しているものがある。しかし何らかの問題が発生し相談され頼られる場合、それは具体的な問題解決を求められているのである。正論が問題解決に繋がれば言う事なしだが、フィリピンの現状において、日本人の正論はまるで役に立たないことが多いことも事実である。
 すると様々な問題が発生した際、これまで自分がやってきた対応は、おそらく正解に近いのではないかと思えてくる。実際にはその時々で、その対応にストレスが付き纏っていたが、それでもそれが正解なのだろう。その時々に出来る範囲のことをして、出来ないことはやらないしやれないということである。

 フィリピーナに係わる方々は、おそらく同じようなシチュエーションに散々出会い、多くの方は日々発生する問題に不満を感じ文句を言いながら、僕と同じような対応をしてきたのではないだろうか。
 正論を振りかざし怒鳴り散らしパートナーを追い詰めるだけで終わるより、おそらくその対応は正解ではないかと、今回僕は思い始めている。



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posted at 03:13
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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:704.「問題ある」への対応
2013年10月17日

703.フィリピーナとの恋愛リスク

 今日は少々疲れ気味で、帰宅後にソファで居眠りをしてしまった。おかげで朝の四時に目覚め、こうして記事を書いている。
 ブログも休み癖がついている最近、本来なら更新お休みになるところだが、昨日頂いたコメントに関連して思うところを書いてみようという気になった。それは、次のDさんのコメントに関するものだ。

「マークさん、おはようございます。
マークさんの近況がわかりホッとしました。Nさん番外編でもありましたが、私もあの方のブログは凄い衝撃でした。あの記事のちょっと前に彼女と思っていたフィリピーナに旦那さん(日本人)子供が居ました。私はマークさんのようには考えられず、フィリピーナはやはりこうなのかと落ち込んでいます。(まだ立ち直れていません)本当はマークさんとモナさんも、もしかして?みたいな心配をしていたのですが、本当に安心しました。マークさんには勝手なお願いですが、皆が羨むファミリーでいて下さい。」

 僕がNさんの冒険AGAIN 番外編で取り上げたブログ記事は、多くの方に読まれる知名度の高いもので、具体的なブログ名を出さずとも、こうして何のことを書いたのかすぐに分かってしまう。それでもご本人の許可をもらっていないので具体的なブログ名の紹介は控えるが、その方のブログで公開されている部分に限ると、あらましは次のようになる。

 妻子持ちの日本人男性が日本であるフィリピーナと出会い、恋愛関係になる。男性は日本人妻と別れるつもりはないが、出会ったフィリピーナのことも真剣に考えていた。男性はそのフィリピーナと生涯に渡り付き合っていきたいと心を固めながら、彼女のフィリピンの地元に家を建て、彼女やその家族の生活を面倒みながら日本とフィリピンで離れてさえ、通算十年以上付き合っていた。しかし彼女の家が完成する前後あたりから彼女の様子に気になる点を見つけるが、相手を信じ切っている男性は、それを敢えて受け流そうとしていた。しかし彼女にはフィリピン現地に若い恋人がいることが分かり、更にその女性は、自分に求婚を迫るお金持ちのフィリピン人男性とも付き合い始める。女性の家族は、本国に妻子がいて将来期待のできない男性よりも、結婚してくれる地元のお金持ちを選ぶべきだと迫った。女性は仕方なく、その男性と結婚を前提に付き合い体の関係もできる。(そして現地恋人は捨てられた? 実は若い恋人は勘違い? その辺りは詳細不明)
 結局日本人男性はその女性と別れる決意をするが、そこに至るまでの女性と自分や現地恋人や求婚するお金持ち男性とのやり取りを含め、過去を振り返りながら女性の裏切りの様子を具体的に自身のブログで紹介している。

 この記事に、フィリピーナに対する夢や希望を持てなくなった人、自分のことが心配になった人は多かったのではないか。僕も少なからず、考えさせられるところがあった。
 しかし、ここで紹介されたことは大方事実だと思われるし、このようなことはおそらく巷にたくさんあると思われる。ただしこの記事でさえ、相手の女性の本当の気持ちまでは、表し切れていないのかもしれない。そこは読み手の想像に任される部分でもある。
 Dさんが彼女と思っていた女性も、表面的な事実はそうかもしれないが、相手の気持ちはどうだったのだろうか? そしてDさんは、彼女のことをいまだに信じている部分と信じられない部分と、両方持っているのではないだろうか。
 人の本当の気持ちとは本人にしか分からず、他人には想像するしかない。もしくは信じる、信じないという世界で、客観的には非常に灰色に成り得るものである。時には自分の気持ちさえ分からなくなることもあるのだから、その意味で人の気持ちとは、主観的にも灰色な部分を多く持つものだ。

 更に人の行動は、環境に大いに左右される。A(行動)=C(性格)× E(環境)という数式で表してもよいほどだ。ここに信念というパラメータを入れて考えても良いが、それも状況次第で変わることを考えれば、この数式は当たらずとも遠からずというところだろう。Cを性格と書いたが、ここには気持ち、思いというものを当てはめてもよい。Eは環境と書いたが、ここに境遇や諸条件と当てはめて考えてもよい。
 この数式で、行動は客観的事実として見えやすく分かりやすいが、人の気持ちの部分は先に述べたように、客観的に分かり辛く、時には主観的にもそうである。また、環境や境遇や条件も、時に抜け落ちやすい。
 つまり人とは、他人の気持ちの部分を重要視し、それを結果である行動で判断し相手の気持ちを推し量ろうとするが、行動の背景にあるものをよく考えなければ相手の気持ちというものを読み間違ってしまうものである。
 相手が裏切り行為をしたからその人は酷い人間だと考えることもあれば、相手が体を許したからその人は自分を好きだと考えることもあるが、それが当たりもあれば外れの場合もあるということだ。

 このようなことは日本人にもフィリピン人にも当てはまる。だから世界中で、犯罪という行為が発生するのだ。国によって犯罪の傾向が違うのは、社会環境が違うせいである。
 よって人の行動からその人の気持ちを考える場合、その背景にあるものをよく考えなければならない。裁判で行動の背景を加味し情状酌量というものがあるのも、全く同じ原理による。

 ご存知の通り、フィリピンという国は日本とまるで違う。文化的な違い、経済状況の違い、それに伴う育ちの違いがある。異文化交流には、それが新鮮に映る場合があり、また壁になる場合がある。そのことはここで多くを説明せずとも、大方の読者には感覚的にすぐピンとくるところだろう。
 しかしこれは実は、日本人同士の交流にも同じことが当てはまり、育った環境、地域で人には考え方や行動に差異が出るのが当たり前だ。それが我慢ならないなら、他人との交流を一切絶つしかないが、人は一人で生きていくのは辛いから、その壁を克服するよう日頃から努力するのが一般的である。向き合う相手に自分がその努力をするほどの価値を見いだしている場合、普通は尚更、壁を克服しようとする。稀にそのようなことを面倒に感じる人は、表面的な行動だけで他人を一か零と判断し自分の行動を決定するが、それはその人の生き方・考え方である。

 もちろんここでは、普遍的だと思われる人類共通の規範と照らし合わせ他人を判断することになるが、そこから大きく逸脱しないケースでは、人の心に迷いというものが生まれるのが普通だ。自分の持つ狭い世界の常識や規範と照らし判断すればアウト、しかしそれが本当に正しいのかどうか分からないという迷いである。このような迷いが何かをよく追求すれば、それはほとんど、相手の本当の気持ちがどこにあるのかを探っている場合が多い。人は他人の気持ちを推し量り、自分の気持ちを納得させることに役立て、自分の行動を決めるのである。

 フィリピーナ相手の恋愛は、大抵の場合相手が若いことが多い。夢も希望も捨てきれない若い女性が、どこかでそれらを無理に捨てて生きていれば、そのほころびが何かの拍子に出てしまいやすいこともあるだろう。その人の持つ背景に依存した行動結果に、後に自分自身でそれに嫌気がさしている人もいるかもしれない。本人やその家族の厳しい生活環境を考えれば、その行動が日本人の常識から逸脱することもある。

 その意味で、若いフィリピーナとの恋愛には、もともと大きなリスクが伴っていることをしっかりと自覚した方がよいと思われる。ぼんやりと分かっているのではなく、敢えてしっかり認識すべきである。言葉の壁や経済格差があれば尚更そのリスクは大きくなるのだから、日本人同士の恋愛よりも相手が若いフィリピーナであれば、当然そのリスクが大きくなるのは当たり前なのだ。
 そこで何かが起こり自信を喪失することは十分理解できるが、元々危険な綱渡りをしていると思えば、風が吹いて谷底に転落しても驚くことではないとも言える。ここで重要なのは命綱で、命さえあれば立て直しもきくし再チャレンジは可能だ。危険だと分かっていても、その綱渡りに挑戦したくなる何かがあるなら、危険を自覚しながら克服する努力をするだけであるし、嫌ならもう止める、ただそれだけである。
 命綱は物心両面が必要で、物としては経済破綻を起こさないこと、そしてメンタルではここで述べたことを一助にして頂けたら幸いである。



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