フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2010年08月14日

138.平穏な時間

日本はお盆休みの最中で、今東京は人口が激減し、閑古鳥が鳴いているのだろうか。
この時期マニラに行ったら、日本からの観光客がたくさんいると思われ、あくまでの覗き感覚で、様子を見てみたい衝動にかられたりする。

もしベルの学校が休みだったら2泊程の予定で、モナとベル3人でマニラに遊びに行っても良いのだが、生憎フィリピンは、日本の盆休みは全く関係がなく平日である。
夏休みは?と訊かれそうだが、フィリピンは常夏なので、夏休みを設けるとしたら年中休みになってしまう。

フィリピンの学生の休みは、別にきちんとある。それもかなり長い。夏休みはないと言ったが、もしかしらたサマーバケーションはあるのかもしれない。日本の3月〜6月にかけて、ベルの学校がしばらく休みだったが、それがそうなのか・・・。ここではその時期がサマー(夏)だからだ。実は学校の休みについて、僕は詳しく知らないのである。

いずれにしてもここタバコシティーは、日本の盆休みとは全く関係なく、普段と変わらない平和な時間が流れている。
本日は朝から雨が降っており、とても涼しい。風は少ないが、窓辺へ寄ってみるとかなり冷ややかな空気が、心地よく肌に触れてくる。日本の高原の、初夏の朝の雰囲気だと言えば分かりやすいかもしれない。雨は嫌いだが、ここ数日の雨は涼しさと相まって情緒があり、とても気持ちが良い。現在雨はやんでいるが、ベランダも外の木々もしっとりと濡れた感じで、気持ちの良い涼しさが続いている。

僕の仕事机は窓際にあるが、その机を前にして、窓を開け椅子に座ってコーヒーを飲んでいると、安らぎを覚え、いつの間にか仕事をほったらかしにしている。俗世間から遠ざかり、まるでどこかのリゾート地にバケーションで来ているような気分になる。おかげでたばこもついつい進み、モナに吸いすぎだと怒られる。
仕事はやりたくないが、現在の心境を特に意気込みもせず、つらつらとこのように書きためるのは、今の自分にとって無性に落ち着く状態で、精神衛生上は大変良い。

そう言えば前々回の記事で、マズローの5段階欲求の話を書いたが、細かく言えば人間には様々な欲求があり、その一つに、人間にはもともと表現欲というものがあるらしい。小説家を目指す人、もしくはなった人の原点は、この表現欲ということだ。これは作家・森村誠一氏の言葉である。
今僕は、この表現欲が満たされているから、心が落ち着くのだろうか。なるほどそう言われると、僕がブログを始めたきっけかは少々違うが、続けているのはそういったものがあるからかもしれないという気がしてくる。とにかく書いていると落ち着くのである。

職業作家の精神状態は、そんな甘いものではないと聞いたことがあるから、これは趣味で自由に書ける特権なのだろう。ロシアの巨匠ドストエフスキー氏は、自分の放蕩で作った借金を返すために書かねばならなかったし、日本の代表作家松本清張氏の処女作は生活のために書かれたものらしい。そして清張氏はデビューが遅かった分、無駄に費やした時間を取り戻すかのように寝ずに書いていたそうである。
職業にすれば、なんでも苦しみが付きまとうということは、想像に難くない。

一転、世間ではたくさんの書きものがブログとして出回っているが、それらのほとんどは、趣味の世界(責任のない状態)で書かれたものである。
世間で出回っているブログの内容は様々ある。それらは普段の生活から趣味、そして秘め事まで、様々なテーマのオンパレードだ。自分のことは棚に上げて冷ややかに考えてみると、なぜわざわざそのようなことを公表する必要があるのかと思えるのだが、それをしている本人は楽しいし、またそれらを楽しみに読んでくれる読者も多数いるのが現実である。

読者の楽しみがどこにあるのかは、容易に想像ができる。
世間の様々な情報に触れることで、知識を得る、自分の考え方を整理する、問題の共有意識ができて心が楽になるなどのご利益があり、無意識に勉強(様々な意味で・・)をしているのだろうと思われる。実体験をしなくてもまるで経験をしたような、つまり疑似体験から様々なことを学びとるわけである。
これは一般的な読書にも共通することであるが、時間とお金をかけず、そして自分の心も傷めずに、バーチャルな世界で広く浅く、まるでそれを自分が体験をしたかのような感覚に浸れることは、とてもリーズナブルに人生経験を豊かにすることと同意義である。

かつて会社の管理者研修・フリートーキングの席上、ある方が、管理者として様々な体験が必要だと思うし、したいのだが、どうすれば良いのかわからないという意味のことを発言した。それに対して参加者が順々に意見を述べるのだが、ほとんどの人は、それはそうだけれど、やっぱり色々と積極的に挑戦してみるしかないのでは・・と、自信なさそうに、中には首をかしげながら意見を述べていた。
僕にも意見を求められたので、まずは読書で疑似体験をたくさんしてみれば良い、最初からテーマを絞らなくても、たくさん本を読んでいるうちに、興味のあるテーマが見つかる、その中で特に興味の湧いたものを深く掘り下げて調べたり、自分の目で確かめたり、または行動を起こしてみると、効率良く体験を重ねていくことができると言ったら、僕は何も特別なことを言ったつもりはなかったが、皆がハッとしたような表情になった。

声には出して言わなかったが、本来それができる人はとっくにやっているし、お金も時間もつぎ込んでいるのである。もともとそのような発想の無い人がその場でハッとしても、実際にはそのようなことをやらない人が多い。しかももっときついことを言えば、経験は管理職なる前に積んでおくべきで、今さら何を言っているのかであるが、穏健派の僕は、決して恨まれるようなことは口に出して言わない(笑)。

そして色々な体験をしたいと言った人は、仕事に関連する何かを指して話していたのだが、僕は仕事に関連する・しないは関係なく色々、というつもりで話している。
管理者として見識・判断力・実行力を伴う人望を得るためには、経験を積む(勉強する)ジャンルは問わない。PPだろうが、何だろうが、得ることのできるものはどこにでもごろごろと転がっている。どうせほとんど全ては、人間と人間のやり取りに終始するからである。
現在は、インターネットの世界で、手軽に幅広く疑似体験ができる。その意味では世の中が格段に便利になったといえる。(ただしバーチャルの世界から抜け出せない問題児も多く見受けられるようになったが・・)

一方書き手の楽しみはどこにあるかというと、僕自身がブログで多くの記事を公開していながら、これだということが言えないのである。素直に言えば、前述したように心が落ち着くというところか。
それでも敢えて考えてみれば、書いたものに対する読者の反応であろうか。ブログから始まるコミュニケーションは、これを始めた当初は全く期待していなかった副産物であった。
いくらがんばって記事を公開したところで、誰からも相手にされていないようだと、モチベーションが下がってくる。事実このブログを始めた当初はそんな気持ちになったこともあったが、会ったことのない方からの便りは嬉しく励みになった。

しかし今は、ご存知の通りマイペースでこのブログを進めている。書きたいことがあれば書き、書くという心境でなければ休む。自分のブログがランキング上でどこにあり、サイトへの来場者の増減がどうかという点については、ほとんど気にしない。最近は確認もしていないので、一体自分のブログがどの位置にランキングされているのか僕は知らない。

今尚なぜ書き続けるのかと言えば、最近これが、自分の遺産になるのではないかと思ったりするのである。自分の日々の生活や心境、考えを書きとめておく行為が、自分の家族や子供の残す財産になれば良いという感覚である。
少なくともこれらの記事は、自分が生きた軌跡の一つを証明するものである。それを身近な人が読める状態で残すことに、何らかの意味を持たせたいと思ったりするのだ。最近はそれを少々意識して書いていることがある。そうした観点からは、ランキングやサイト来場者数の増減は大きな意味をなさない。
ただし、自分の作り上げたブログにどれだけの人が共感を覚えてくれるかという挑戦じみた面もあることは確かである。それがあるからこそ、構成や内容を真剣に考え、中身を変化させていく。
僕は記事を書くために、様々な事柄について頭を整理することができる。その結果である内容に興味を持って読んで下さる方がいれば、それは純粋に嬉しいということである。


こうして記事を書いている間に、少し風が出てきたようだ。日本でいう打ち水効果で、風がいっそうの涼しさを運んでくる。あまりの気持ちよさに、仕事をやめ体の力も抜いて、だらだらと思いつくまま書いてみた。
僕にとってこんな時間の過ごし方は、至福のひと時である。

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2010年08月13日

137.インド式教育

日本にいた時に、インド式教育が日本で密かなブームになっているという番組が放映されていた。
特に数学が得意だというインド人の教育システムを取り入れた、私立の学校が紹介されていたが、日本人が勉強をする九九に対して、インド式では99×99までを空で覚えるようにする。
子供の脳みそはそのような難問を柔軟に吸収し、大人が電卓を使用するような計算をコンマ何秒で答える。進み方も日本の学校よりはるかに早い。できるだけ小さなうちに、子供に難しい計算を叩きこむと、子供の脳みそはそれを見事に吸収するというのである。
もともとは在日インド人のための学校であったが、その教育システムの効果に目を付けた親に人気となり、いまやインド人よりも日本人の生徒の方がはるかに多い。

この学校、実は日本の学校教育法では学校として認められない無認可学校のため、インド式学校で高校課程を卒業しても、日本の大学を受験する資格はもらえないそうである。また、インド式小学校に子供を通わせている場合、義務教育をうたっている日本の法律下では、就学義務違反に問われる可能性もあるそうだ。
それがわかっていても、これらの学校の人気は衰えず、インド式教育で高校課程まで経た子供は、海外の大学を受験させれば良いという発想だそうである。


数学というものは、国によってまるで違う考え方を持っていたりするので、比較すると面白い。
例えば有名なのは、アメリカ人は引き算が苦手なので、買い物でおつりを計算する際に足し算でその額を確かめる。
もし700円の買い物をして1000円を渡したら、700円に100円、200円、300円と100円玉を足していって、それが1000円になったら、おつりの300円は間違いないねという考え方である。フィリピンもそれと同じ考え方のようだ。

フィリピン式の計算は結果を出すのが遅いということに、モナは僕と一緒に生活するようになってから気付いたようだ。特に掛け算は、まともに計算しようとするのでかなり遅い。自分よりも僕の方がはるかに計算が早いので、いつも僕に訊いてくる。

例えばバン(乗り合いタクシー)に乗った時、一人35ペソで6人だといくら?とくる。
一応僕に訊きながら自分でも計算しているようだが、モナの頭の中で答えがまとまる前に、僕が210ペソでしょ!と即座に答える。
このバンは全部で18人の客を乗せることができるので、一人35ペソだと片道でいくら稼げるの?と訊かれれば、630ペソじゃないのと即答する。

先日は29ペソの物を15個買ったらいくら?・・・なんていうケースもあった。それでも僕は暗算で435ペソでしょ!と答える。このくらい複雑になると、モナは僕の答えを疑って、わざわざ自分の携帯に入っている電卓を使って計算結果を確認する。電卓の答えを見てから僕の顔を見上げて、なんで〜?(答えがわかるの?)と声を発する。
僕は、電卓で計算をするなら、最初から自分で計算しなさいと言いたくなるが、モナはどうして僕がそんな計算を暗算で素早くできるのかが不思議で仕方がない。

僕は種明かしを教えた。
最初のバンの例では、30×6=180と、残りの5×6=30を足して210である。
18人の客が一人35ペソを払うという話は、一人35ペソが20人だったら700ペソだとすぐにわかるので、実際は18人だから、そこから35×2の70ペソを引けば、630ペソの答えが容易に導ける。

次の例では、29にまともに15をかけたら確かに難しいが、30に15をかけたら比較的簡単である。それも難しいなら、30を1.5倍すると考えたら分かりやすい。もしくは30を10倍した300と、30を5倍した150を足せばすぐにわかる。いずれにしても30×15=450だと簡単に答えが出る。しかし計算したいのは30ではなくそれから1少ない29であるから、450から15を引き算すれば、29×15の答えが435ペソとすぐに出るのである。

もし23×18のようなケースであれば、20×18=360で、それに3×18=54を足せば414と答えが出る。
要は計算を、できるだけ簡単な掛け算、割り算、足し算、引き算に分解してしまえばよい。
何度かこのような要領で、モナに計算のコツを教えていたら、彼女もこのコツを飲み込んで、暗算で得た結果と考え方を僕に自慢げに話すようになっていた。

しかしそんなことで自慢をしているようでは、インドには勝てないのだと、僕はインド式教育についてモナに教えたのである。
小学生の低学年でも、296×354などの3桁の掛け算を容易に暗算でやってのけるような子供を量産するインド式教育は、脅威であり驚嘆に値するという話だ。

するとモナは目を輝かせて、ユリはチャイニーズの私立に入れようと思っていたが、インド式学校に入れると言い出した。どうやらこの話は、教育熱心なモナの心に火をつけてしまったようである。

チャイニーズの私立は我が家のすぐ近くにあり、その内容は公立よりもはるかに進んでいるらしい。もしチャイニーズ学校に入れるのなら、まだ現実味がある。しかしインド式となると、その学校は一体どこにあるのだと僕がモナに尋ねるたら、知らないという答えが返ってきた。それじゃあ入れようがないじゃないかと言うと、日本にはあなたが話をした学校があるでしょうと言う。モナの頭は、僕よりもはるかに国際感覚に富んでいる。

確かにユリに日本語をどのように教え込むか、それは考える必要があると思っている。日本の学校へ入れてしまえば、その悩みは一気に解消する。しかも日本のインド式学校は、インターナショナルを銘打つだけあり、生徒に外人が多い。授業の言語は英語だったか日本語だったか忘れたが、少なくとも国際的な校内で自然と英語も覚えてしまうようだ。

しかしまだ1歳にもならないユリのことで、今から真剣に、日本へ移住してユリをインド式学校へ入れようというのは、あまりにも飛躍した話ではないか。
しかもモナはきっと、もしタイ式の学校(あるかどうかわからないが・・)が良いと聞けば、ユリはそれにしようと言い出すのはわかっている。モナは深く考えて話をしているわけではないので、あまり真剣に話をしても、あとでがっかりしてしまうのがおちである。


ユリには、彼女が自然にタガログ、ビコール、英語、日本語を覚えてくれることを期待している。今のところ彼女が意識して使える言葉は「ママ」だけである。それ以外は誰にもわからない本人語だ。

この環境で育つ彼女の言語体系は、一体どうなるだろうか。全てを使いこなせるようになるだろうか。
そろそろ言葉を覚える時期になっているので、僕には今、それが一番気がかりである。

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エントリー:137.インド式教育
2010年08月12日

136.人間の研究2

(昨日の続き)
僕がフィリピンでモナの家族と暮らし始めて最初に思ったことは、ママの生活についてである。(これは以前の記事で紹介したような気がする)

ママは。朝は早起きをして朝食を作り、それが終わればすぐに昼食の買い物へでかけ、帰ったら一生懸命みんなの昼食を作っている。午後はスナック(4時〜5時にかけて食べる軽食)を用意し、それが終われば夕食の準備だ。その合間に休んだりシャワーをしたりはするが、基本的には単調なその繰り返しである。
贅沢な家に住んでいるわけではなく、時々身の回りの贅沢品を買うわけでもない。
おそらく何年もそのような暮らしぶりだったのだろうと思われる。モナに言わせれば、これでも昔よりは随分と暮らしぶりが良くなったということだ。

そんなママを見ていて、僕は彼女が、人生にどんな意味を見出しているのだろうと考えたりしていたが、ママは決して不幸ではないのである。
特にユリが生まれ、ジャマイカに越してきてからというもの、食事の時にママはユリの滑稽な態度や表情を見て、いつも心の底から幸せそうに笑っている。
ママは今幸せなのだと、見る者を確信させるような表情だ。
とすれば、何もマズローの欲求段階説にあてはめなくても、ママは幸せなのである。

もう一点は、フィリピンの男性のことである。フィリピンの男性は、食欲・性欲・睡眠欲、そしてある程度の物欲が満たされれば、その上に安住してしまうように見える。次の欲求段階に移行しているようには、とても見えないのである。
特に承認の欲求などは、まるで縁が無いように見受けられる。仕事上で一部見かけるのは、自己顕示欲に従って自分を実力以上に見せたがる人間がいるくらいで、真の実力を付けて認められようと努力をする人間は、自分の知っている限りここフィリピンでは稀である。

もしこれが人それぞれの資質による、もしくは価値観によるということであれば、マズローの説というものは、決して普遍的な論理ではないということである。

または単に、観察する時間が短すぎるだけなのかもしれない。社会が発展し全体のレベルが変われば、やはりここでも同様の欲求段階を経て、個々のレベルが変わってくるのかもしれない。
ただし日本においても、ある程度の欲求が満たされた段階から、先に進もうとしない、自らを成長させる努力を怠る若者が増えてきたという問題が取り沙汰されている。

以前ある先生に、人間の行動Pは、性格Cと環境Eで決まると教えられた。
つまりP=C×Eだそうだ。
真面目な公務員が満員電車の中で猥褻行為により捕まるのは、その典型的な例だそうだ。満員という環境が無かったら、その公務員が一生を棒にふることは無かった・・かもしれないということだ。

環境が行動を変えるというこの話を、僕は信じている。だから以前の会社でマネージメントをしている時には、常にこのことを念頭に置いていた。環境を整えるのが自分の大きな仕事の一つだと、いつも自分に言い聞かせていたのである。

実はこの話は、もしかしたら満員電車の中だけではなく、社会という大きな枠を環境として捉えた時にも当てはまる定義ではないかと思われ、今は別の意味で興味深い。
フィリピン男性の行動も、また先に述べた日本の若者の現象も、基本原理は変わらないが、環境に影響されているという側面から、かなり説明がつくかもしれないからだ。

僕は、マズローの説とフィリピン人の思考、行動を比較したときに違和感を覚えるのは、そこに人間の諦めという心理が作用しているからではないかと思ったりもする。どんなに頑張ってもたかが知れているという諦めである。それは制度を含む社会の仕組みと深く関係する。だから人間の行動が環境と性格をかけあわせたものであるという話が、今蘇る。
かつてアメリカンドリームという言葉を糧にして、アメリカが超大国にのし上がった。ドリームの期待できない社会には諦めムードもできる。
この諦めムードがあるということは、社会が平等ではない証拠である。しかし平等ではない社会というのは、実は平等な社会よりも楽だったりするのである。まるで制度であるかのようにある階級にはめ込まれてしまった状態は、ある意味において精神を平穏に保てるからである。どうせあがいても無駄であるならば、楽しく笑って暮らそうや・・ということである。


マズローの説には異論を唱える学者もいる。
研究対象が限られている、または科学的根拠が不足しているというものである。彼が唱えているのは、単なる人生哲学ではないかというものである。
だからこそ彼が、この地フィリピンでフィリピン人を対象に研究をしたら、彼の説はどのように変化したのかが興味深いのである。

このような真理学の世界は、理屈をこねまわすと正しそうな気もするし、間違っているようでもあるという曖昧な部分が多々存在し、深く考えるとわからなくなる。
それだけ人間の研究とは奥が深く、簡単に割り切れるものではないということだ。

僕はかつて、人間の思考をプログラミングしたら、一体どうなるだろうと考えたことがある。考えて学習し、そして感情を持つロボットに繋がるものである。
人間の思考や感情を徹底的に分解し、それを一つ一つケース分けをし、そして性格を決めるパラメータを何にするかを考える。
しかしこれは、限界があることに気付く。僕が作ったこのプログラムは、僕の経験と思考に基づき作成されるわけで、その域から出た一般的な脳を作ることはかなり難しい。プログラムを作るためのプログラム(コンピューター処理)も必要となる。

そんなことをしてみると、一体人間とは、どんな仕組みになっているのかと不思議に思えてくる。それだけ人間というものは、複雑怪奇な仕組みを持っている。
それだけに学問としては面白く、また普遍的な法則を見つけることも、偉大な成果となるわけであるが、それにしても奥が深すぎるテーマであることは間違いない。

余談であるが、普遍的な思考の法則が見つかれば、その分コンピューターを駆使して人間の頭脳を作り出すことが容易になる。
難しいことに取り組みたい場合は、金を出して人を雇うより、人口頭脳を買って仕事をさせた方が、会社にとってははるかに効率的な投資になる可能性が出てくる。会議の相手も8割は人口頭脳だったりする。頭が良い人口頭脳は値段が高く、レベルが落ちる毎に販売価格は下がる。そのうち頭が良いとは何かが議論されるようになり、人口頭脳のレベルを表す指標も明確になってくるなどという世界が、近い未来に訪れるかもしれない。


今日のタバコシティーは、陽射しが強く、そして涼しい風も強く吹いている。
ベランダに出てその風を全身で感じ、家の周囲の木々が風に揺られる様や大きく視界を占める荘厳なマヨン火山を眺めていると、難しい話も面白いが、とりあえず細かいことを考えるのは明日にしよう・・などという気持ちになる。
そして、もしかしてこれが、フィリピン人の行動や思考の一番を占める原点ではないかとハッとする。
ここまで読んでそれはないだろうという話になりかねないが、しかし人間の研究という意味では面白いネタではあるので、あえてこの長文を掲載するところである。

フィリピンの経済が伸びて社会が充実した時に、フィリピン人の思考や行動は変わっていくのだろうか。
その時には、ここの人々はマズローの説の通りに変化していくのだろうか。
これは今のところ、かなり深い謎である。

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カテゴリー:フィリピン生活
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