フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2010年08月11日

135.人間の研究1

僕が大きなプレッシャーを抱え仕事をしている時、モナは昼寝をしたり、買ってきた映画のDVDを見たりしている。このお気楽な生活が羨ましい。羨ましすぎる。僕もそんな生活がしたいと思うことも多々ある。
モナは、僕に気を遣いコーヒーやお茶を作ってくれるし、僕が疲れたら頭や顔、背中のマッサージなどをしてくれるので、彼女がお気楽にしていても、僕は彼女に対してそんなことで文句は言わない。そしてそんな生活は羨ましいが、しかし自分が毎日そうだとしたら、きっと僕は自分自身が嫌になることを知っている。

今日も2階のリビングから、重低音の効いた映画の音が聞こえてくるのでちょっと覗いてみたら、モナとベルとユリの3人が英語の映画を観ていた。タガログはさっぱりわからないので興味をひかないが、英語であれば話は違う。
「あれ?さっきはタガログだったのに、いつの間にか英語になっているじゃない・・どれどれ・・」
「これ、アバターだよ」
「え?本物の?」
「そうよ」
「へぇ〜、これ僕も観たいなぁ。途中からだとつまらないから、後で最初からお願い」
「いいよ、あとでね」
「ところでこれ、いくらだった?」
「65ペソ」(普通に言うモナ)
「65ペソ?(130円・・目を丸くして驚いている僕)オリジナル?」
「違う、パイレーツ(海賊版の意味)。でもオリジナルからのコピーだから綺麗でしょ!」
オリジナルからのコピーだから・・というところはちょっと意味不明(そうじゃない海賊版ってなに?)だったが、とにかく130円で話題の映画のDVDが手に入るという驚きには、正直に驚いてみせる。
「安いなぁ。信じられないなぁ。あとで絶対に見せてよ。僕が見る前に誰かに持っていかれないように、お願いね」

人が苦労をして作り上げたものを、簡単にコピーをして儲けるというのは許させる行為ではないが、消費者としては正直有り難い。それを有り難がる消費者がいるから、卑劣な行為が助長されるのだとお叱りを受けそうではあるが・・・。

映画を製作するのは大変なことである。時間も頭も使うし投資も必要だ。その映画が当たるかどうかで、元手が回収できるかどうかのリスクもある。そんな苦労の集大成を、簡単にコピーをすることで商売にし、しかもそれが苦労した人たちのビジネス機会損失に繋がるという行為がまかり通るのは許されないことであるし、それが堂々と許されるなら誰も苦労はしなくなるというのが、著作権保護の精神である。僕もこの考えは、大いに認めるところである。

しかし映画を製作した人は、実はその過程や結果で大きな満足感を得て、ある程度の報酬を得たら、あとはそのような細かいことは考えてはいないのではないだろうかとも思うのである。
つまり、そのようなクリエイディブな人たちは、お金儲けのためにそれに取り組むのではなく、もっと別の意義を感じてその仕事をしているような気がするのだ。
その周辺にはたくさんのビジネスの仕組みが存在するわけで、その意味では著作権保護は大いに意味があり、それを否定しているのではない。
ここでは、監督を中心とした製作に携わる人の心情が、そのようなものではないかと単に想像しているだけである。
そして良いものができて、世間の評価が高く興行収入が大きく伸びれば、その幸せ感もより大きなものになるのではないかと、想像するのである。


かつてアメリカに、マズローというユダヤ人心理学者がいた。現在生きていれば102歳で、人間性心理学という、最近注目されている心の健康に関する学問の生みの親である。かつてのアメリカでは、心理学の親玉的存在だ。

そのマズローが、人間には、段階的な基本的欲求があるということを提唱した。それが以下の示すマズローの5段階欲求である。

1. 生理的欲求(physiological need)
生命を維持するための、食欲、性欲、睡眠欲等の基本的欲求
2. 安全の欲求(safety need)
健康や経済的安全を求める欲求
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
健全な人間関係や他者に受け入れられている、どこかに所属しているという安心感を求める欲求
4. 承認の欲求(esteem)
家族、近所、会社、社会などの集団から、価値ある存在、必要な存在だと認められたい欲求
5. 自己実現の欲求(self actualization)
自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化したいという欲求

人間は基本的に1の欲求が満たされれば2の欲求を覚え、それが満たされれば3の欲求と、まるで階段を上るように段階的に、それなりのレベルの欲求を覚える。もし一度満たされた欲求が崩壊したら、次に覚える欲求のレベルも繰り下がる。
つまり食べることに困っている人が誰かの役に立ちたい、周囲に認められたいとは思わず、そのレベルに到達するには段階を踏むということである。
そして遂に全ての欲求を満たすことができれば、人間は精神的に安定しかつ充実し、幸せ感を持つことができるというものである。(この欲求段階説を発表した数年後に、マズローは自己実現の次には自己超越という段階があると発表した。またマズローはこの説と幸福感を同じ土俵で語っているわけではない。)
ちまたでは、上を見たら(欲をいったら)きりがないという話があるが、この説では実は天井があるのである。中々天井まで上り詰めることができないから、きりがないという話になる。
僕は、人間にとって幸せということは何なのだろうと考えていた時に、この説に出くわした。

この自己実現、もしくは自己超越の域に達した人は、著作権がどうとか、ビジネス機会が損なわれたなどはどうでもよくて、それ以前に自分の能力が最大限発揮され、目指すものが達成できたかどうか、そして自分の新しい能力を更に開発できたかどうかが最大の問題であり、関心事である。
そのような人はおそらく、常に自分と向き合っているのであり、他人の干渉にはあまり関心がない。

この説を自分の辿ってきた真理にあてはめて振り返ると、確かに見事に当てはまる。
モナに関しても同様で、生活の安定や自分の家族を得たら、最近はもっと勉強をしたいと言い出した。具体的な内容はないが、全体をよく聞いて要約すると、彼女は世間で役に立ちたい、認められたいという漠然とした欲求があるようだ。僕はそれを聞いて、彼女が次の欲求段階に入り出したと考えている。

それでは、人間として幸せになるためには、この欲求を一つずつ満たしていけば良いのだろうか。そして満たすことができたら、幸せになれるのだろうか。

マズローの説というのは、前述した内容だけをみると、まあそれらしい話だねと終わってしまいそうだが、彼は関連著書も数多く出しており、その中で深い考察がたくさん示されている。それらを重ね合わせると、彼の説というのはどんな人間にも当てはまる普遍的なものに思えてくるし、90%はそうだと僕は信じていた。
しかしこのフィリピンで、その考えがぐらついてきたのである。
(明日へ続く)

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2010年08月10日

134.フィリピンの男

8月6日はダディーとママの、結婚29周年の記念日だった。
誕生日と同様、結婚記念日はママにとって大切な日であり、ママにとってこの日は、夫婦お互いに、愛や感謝の気持ちをきちんと表現すべき日である。当然同じ女性であるモナもこれと同じ考えを持っている。

ママは、この記念日にダディーからプレゼントを貰いたいから、数日前からそれをほのめかす発言をダディーの前でしていた。僕の感じたところでは、ママは素晴らしいプレゼントを期待しているわけではない。あくまでも気持ちがこもっていれば何でも良いのである。しかしダディーは、お金がないからプレゼントは無理だと明言していた。そんなダディーの態度に、ママもモナも、冷たいと陰で非難を浴びせていた。
そしてこれをきっかけに、モナはダディーに対する日頃の不満を僕に漏らすようになっていた。

最近生活の心配が無くなったダディーは、トライシケルで稼いだお金を一切ママに渡さなくなった。普段の食べ物も全く買ってくることは無くなった。
モナによれば、ダディーのそんな態度が顕著になったのは、このジャマイカに引っ越してからだそうだ。

ママに対するプレゼントを買うお金が無いというのは、確かに苦しい言い訳である。
ダディーは毎日トライシケルで客を乗せている。普通に仕事をすれば、最低でも一日100ペソや200ペソは稼いでいるはずだとモナは言う。そしてガソリンがなくなれば、モナにガソリン代をくれと言うし、バイクで大きな故障があれば、その修理にかかるパーツ代もこちらに出してくれないかと言ってくる。先日はトライシケルライセンスの更新代もこちらで支払った。結局元手はほとんどかからず、毎日100から200ペソはダディーの財布に入っている計算になる。
それであれば、普段のタバコ代や付き合いのお金を差し引いても、結構な金額が手元に残るわけである。

僕はモナに言われる前から、このダディーの態度が少し気になっていた。生活にまるで責任を感じていない様子を感じていたし、ちょっとしたことでも、全てこちらに当たり前のように払わせる。家に届いたビル(請求書)は全てモナに持ってくるし(まあ、これはいいとして)、どこかへ出かけた際、食事代はもちろんのこと、バン(乗り合いタクシー)の安い支払いを集金人に求められても、支払いはあっちだとモナを指さして言っている。これが自分から一緒についていくと言った場合でもそうである。申し訳ないとか、感謝の気持ちが全く見えず、こちらが支払うのが当然という態度が僕は気になっているわけである。金額はいずれも少額である。

先日、お金のことでママとダディーが少々揉めた。
ダディーとママの部屋に置いてあるTVが故障したので、ダディーが自分の知り合いに修理をお願いした。そして数日前に、そのダディーの知り合いがTVを家に持ってきたのだが、結局TVは直らなかったらしい。
なんとなく騒々しいと思っていたらモナが呼ばれ、そして戻ってきた。それからモナは、修理に出したTVが直っていないが、修理代を請求されている・・・払うべきかどうかと僕に意見を求めてきたのだ。それは払わないでしょうと僕が言うと、モナもそうだよねぇと言い、ママも支払うのはおかしい、払いたくないと言っているらしい。しかしダディーが、支払ってくれとがんばっているらしいのだ。自分の知り合いに頼んだからなのか、ここで支払わないのは恥ずかしいではないかと言っているらしい。僕がモナに、それだったらダディーに払ってもらえばいいじゃないかと言うと、ママもダディーに、それだったらあなたが払いなさいと話したそうだ。ダディーはお金があったら払うが、ないから払えないじゃないかと言い、押し問答になったらしい。
結局そのお金は、ママが自分の財布から出したが、ママもモナも、そして僕も、ダディーは自分のお金じゃないから、そんなに簡単に考えるのではないかと意見が一致した。金額は350ペソ(700円)と小さいが、おそらく3人が気にしているのは金額の大小ではなく、ダディーの考え方や気持ちの問題である。

ママは日頃から、ダディーがお金のことは何でもモナに頼ることを、ダディーはなぜ恥ずかしいと思わないのかを常々こぼしている。家族に対しての責任を放棄したような態度も、ママはとても嫌っているのだ。

モナは今回の一件で、ママがコツコツとお金を貯めているのに、そんなことを全く無視した今回のダディーの態度は悪いと憤慨している。ダディーはわたしたちがお金持ちだと思っているのかなぁ、お金のありがたみを忘れていると嘆いていたが、僕も同感である。

ママがこつこつと貯めているお金というのは、僕らからあげている月3000ペソ(6000円)の小遣いと、前に住んでいた家を人に貸し得ている家賃だ。それも月3000ペソ程度である。ママは緊急時に備えて、それをできるだけ使わずに貯金している。僕はそれが、僕やモナを含めた家族のためと知っているから、普段ママが生活で出したお金はこちらできちんと返すように心掛けている。

僕からママに小遣いをあげようとした時に、ダディーはどうするかをモナと協議した。その時にモナは、ダディーにあげる必要はないときっぱり言ったので、ダディーに小遣いはあげていない。おそらくママも、これ以上ダディーに余計なお金を持たせても、ろくなことはないと思っている。

僕が2か月間日本で仕事をしている時に、ダディーはトライシケル仲間を数人連れてきて、家の前で賭けカードを度々やっていたそうだ。モナはギャンブルに使うお金があったら、少しくらいママのためを考えた使い方もあるだろうと話していた。
そして頻繁に裏の家に招待され、夜遅くまでお酒を飲んでいたそうである。僕がここへ戻った数日間は全くそんな様子はなかったが、今は食事が終わると無言で外へ出て、裏の家にこっそりと行っている。
闘鶏用の鶏を飼育している裏の家では、毎日上半身裸の男が5〜6人集まり、昼夜問わず酒宴を催している。

そのような堕落した生活をするようなら、ダディーからトライシケルを取り上げたいとママは真剣に考えているそうだ。もしバイクが壊れることでもあったら、次はお金を出すのは考えものだと僕も思っている。
僕も楽をして稼いでいるわけではないのだから、無制限に寛容になるつもりは全くない。ダディーの態度がエスカレートするようなことがあれば、きっちりと線を引くつもりである。

このように、ここにきて家族のダディーに対する評価がガタ落ちである。
そんな話をする時には、僕はモナに、やはりフィリピンの男はだめだねぇと遠慮なく話している。
女性がしっかりしている分、男性が堕落してしまうのだろうか。
これでもダディーは他と比べればかなりましな方に見えるから、フィリピンの国力が上がらないのは推して知るべしというところだ。

僕も気を緩めると同じように厳しく糾弾されるだろうから、それをしっかりと肝に銘じてがんばらなければならない・・・と、反面教師を見て思うのである。

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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:134.フィリピンの男
2010年08月09日

133.生きる力

蟻(あり)が多いという話を書いたが、最近は蠅(はえ)も多い。食事の時に邪魔くさい。それを言うと、モナが
「ちょっとまって!キャンドル!」
と言い、2階に上がった。5分ほどして、両手に数個のろうそくをもち、それに火をつけてテーブルの上に均等に配置した。
「キャンドルで蠅がいなくなるの?」
「オッ、オー」
「でも、まだここに蠅がいるよ」
僕がテーブルのある個所を指さして指摘する。モナがその近くにキャンドルを移動させると、当然蠅は逃げるのだが
「ほら、いなくなるでしょ!」と、モナはキャンドルの効果を主張する。
「それ、キャンドルじゃなくても、逃げるのはあたりまえじゃないの?ほら、今度はここにもいるよ」
またまたモナは、その蠅の近くにキャンドルを移動する。
「ほら、やっぱりいなくなるでしょ!」
だから、蠅の近くに手をやっただけで、蠅は逃げるのだと僕は言いたいが、モナはどうしても、キャンドルの効果はあると言いたいらしい。

しかし30分もすると、テーブルの周囲から本当に蠅が姿を消した。確かに効果はあるらしい。ここではこのような生活の知恵というものに頻繁に出くわす。そしてそれに、いつも感心させられる。

いや、昔の日本にも、きっと同様の生活の知恵というものが、身近なところにたくさんあったのではないか。生活空間から自然を遠ざけ、不快なものは公共や個人の力で封じ込め、先進諸国の生活は快適なものになった。それはそれで良いことだと思うのだが、それが当たり前の世代の人間は、生活に知恵を絞る必要性はなく、そして知る必要も実践する機会も少ない。
その結果、人間そのものの生きる力が弱くなっているのではないかと思ったりするのである。それが具体的に何に影響するというわけではないが、弱いよりはたくましい方がいいだろうとふと思うのである。


本日日曜、メイドのテスは休みなので朝から自分たちで部屋のバスルームと部屋の掃除。
「ねえ、僕が綺麗好きだって知っていた?」
「キレイズキってなに?」
「クリーンなステイト、シチュエーション、コンディションが好きだってこと」

そんなことを言っていると、「マハール、バスの掃除お願いできる?」ときた。
自称綺麗好きとしては、ここは快く引き受けるしかない。
モナが洗面台を掃除している前で、僕はバスタブに入り込んで、あてがわれたスポンジと洗剤を使い、せっせせっせ、ゴシゴシと気合を入れて掃除した。

掃除終了宣言をしてたばこを吸っていると、バスルームから、
「マハール!これで掃除がおわったの?」というモナの大きな声が飛んできた。
「え?なんで?」とバスルームをのぞいてみると、モナがバスタブの淵をタオルで拭きながら、「これまだベタベタじゃない」と言っている。確かにきちんと水を拭きとらないと水垢の原因になるとは思うが、「どうせすぐシャワーするんじゃないの?」と反論。それでもモナは「う〜ん、だめ!」と、駄目だし撤回ならず。
「そっか、僕は綺麗なのは好きだけど、綺麗にするのは苦手でした!」と、自称綺麗好きをやや訂正。フィリピン人は大雑把な性格だとなめていると、実はこちらの方がよほど大雑把だったりする。

フィリピン人の綺麗好きは、日本人よりもずっと上手(うわて)である。一日数回のシャワーは当たり前だし、ちょっと外へ出ただけで、着替えたばかりの服でもすぐ着替えなければならない。外は埃とバイ菌がいっぱいだからだそうだ。
当然掃除も念入りにする。

綺麗好きを語ったために、バスタブ掃除の次は部屋の床の掃き掃除担当を任命された。
やわらかく扇形に大きく広がったほうきをつかい、床のごみを集めていく。
僕が掃いて通り過ぎた場所をモナが拭き掃除をしているが、そのモナから「マハール、ちょっとこっち!」と言われ戻って見てみると、そこに髪の毛が一本残っていた。
「ホイホイ」と言いながら、その髪の毛をほうきで部屋の入り口まで運び出す。
とうとうモナが僕の後をついてきて、「ハイ、ここ・・・あっ、ここも」と、掃きとる場所を細かく指示し始めた。その指示が実に細かい。しかし僕は綺麗好きなので、「ハイハイ、ヘイヘイ」と、指示通りに動く。おかげで午前中から汗をかいてしまった。

実はこの家には、電気掃除機が2台もある。しかしそれを使っているのを見たことがない。いつもほうきが使われている。最初はなぜだろうと不思議に思っていた。しかし気になった時にこまめに掃除をするには、ほうきの方がはるかに便利だということに気付いた。
掃除機を納戸から取り出して、電源コードをコンセントにさし、ホースをつないで・・・。こんなことをしている間に、ほうきで掃除が終了してしまう。
なるほどこれも、生活の知恵の一つかもしれないと思ったりする。しかし、それならなんで2台も掃除機があるのか、それが理解できない。その理由を尋ねてはいないが、きっと尋ねたら「ママが欲しいだから」という答えが返ってくることはわかっている。

1槽式の全自動洗濯機の時もそうだったからだ。立派な洗濯機を買ったにも関わらず、それが全く使われていない。なんで使わない?と訊くと、「誰も使い方がわからないからよ」と言われた。それじゃあ何で買ったの?と訊くと、「ママが欲しいだから」となる。

このような話しをしていると、僕の頭の中にはクエスチョンマークがたくさん出現する。少し話を整理しないと、主たるテーマがぼけてきてまともな会話を続けられない状態になるが、時には面倒になり適当に話題を打ち切ったりする。
決して嫌悪感を持ってこのような会話をしているわけではない。何か滑稽さを感じ、心の中では笑っていたりすることも多い。
最後は文明の利器に頼らず立派に生活しているのは良いことだと、自分を納得させる。

事実その通りなのだろう。文明の利器に憧れて、あったら便利だろうと購入してみるが、結局これまでの生き方を貫いた方が、楽だったり安心できたりするということではないかと思われる。
日本の働く女性にとっては、洗濯機や自動食器洗い器や、生活を効率化させる様々なものはかけがえのない便利な機械かもしれないが、今この家では、ママもモナも専業主婦で時間はたっぷりあるし、メイドもいる。よくわからないものを使うのはかえって煩わしいだけなのだ。

文明の利器を使うのが当たり前で、しかも快適な生活空間に慣れている僕にとって、冒頭で述べたようなハッとするような生活の知恵が、ここフィリピンにはたくさんある。
そんなことを駆使しながら生活をするということは、生きている実感を身近に持てることに繋がるのではないだろうか。
世の中が便利になり価値観が多様化する文明人ほど、生きる力が減退し方向性を見失うのは、実はそんなところと関係しているような気もするのである。

豊かになり幸せだと言われる日本で暮らしながら、本当にそうなのか、幸せな状態とは一体何か、豊かな生き方とはどんな生き方か・・、そんなことを若い時からずっと考えてきた。そのようなテーマで講演を依頼されたこともある。
その度にそれなりのことをまとめ自分の考えを人前で話すのだが、しかし話をする自分が今一つ実感を持てずにいたし、話した内容に自信もなかった。

そんな世界から遠ざかり、全く無縁と思われる生活の中から、今そのヒントが見えるようで、それが僕を不思議な気分にさせるのである。

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