フィリピーナと共に
ブログ構成がわかる目次はここから入れます

フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2010年05月06日

102.ユリの成長

先日バイクの後ろにモナを乗せて、町に買い物に出かけた。町はバイクで5分足らずのところである。
ジャマイカのゲートを出て右折すると、10秒も走らないうちに大渋滞。トライシケルが蟻の大群のように道路を埋め尽くしていた。こちらがバイクであっても、間をすり抜けて進むことも難しいほどの大渋滞に、一体何が起こったのだと思った。
良く見ると、トライシケルのドライバーが全員同じTシャツを着ている。これは何かのパレードか。

道路は完全に秩序を失い、双方向入り乱れ状態。それに乗じて反対車線を有効に使いながらなんとか前に進んでみると、本体と思えるライトバンが登場し、それを見てこの大群の正体が判明した。これは選挙の宣伝パレードだったのである。
5月10日が全国一斉選挙とあって、各候補者が最後の選挙運動を繰り広げているらしい。そういえば家にいるときに、時折街宣カーの音が鳴り響いていた。それにしてもトライシケルで道路を埋め尽くすとは何事であろうか。大変な迷惑である。

「こんな迷惑な奴には絶対に投票しないぞ」と思わず口走ると、モナが
「あなたは投票できないでしょ」と言った。
おっ、そうだ、僕には投票権がない。
「そうだねぇ、それじゃあなたは絶対に投票しないように」と、失言を取り繕うように言っておいた。
渋滞を回避して、裏道を大きく遠回りして国道に出たが、そこでも大渋滞。別の街宣グループが道路を占拠している。
「おっ、また投票する人が減ってしまった」
このまま走り回っていると、投票する人がいなくなってしまいそうだ。

モナにあらためて投票に行くのか聞いてみたら答えはイエス。しかし「投票したくないなぁ」と本音を漏らしたのでなぜかと訊くと、誰に投票しても、まるでこの国が良くならないからという、予想通りの答えが返ってきた。

フィリピンでは大勢の人がそう思っている。ここ数年で改善されたところも多く見られるが、確かに至る所に病巣のある国である。
病巣の一番は、やはり経済問題であろうか。このフィリピンという国は、一部の人にお金が集まるようになっている。その一部というのは、一説にはフィリピン人口のほんの3%や5%の人だけとも言われているから、貧困層が這い上がるのはかなり難しい。


そんな国で生まれた我が娘ユリは、フィリピンの病巣などには関係なく、すくすくと育っている。
久しぶりに見るユリは、かなり人間らしくなった。

生まれて間もないころ・・おにぎりみたいという言葉にモナはおおうけ
Image061.jpg

これも生まれて間もないころ・・ユリは最初からサイドポジションがお気に入りImage063.jpg

首はしっかりとすわり、寝返りをしてうつ伏せ状態から上半身を自分の力で持ち上げることができる。
ベッドの上では寝返りと、まるで泳いでいるような動きを繰り返しながら、自分の行きたい場所へと一人で移動できる。
話かけると笑みを返し、自分の欲しいものがあれば、両手を出して「ちょうだい」と意思表示をする。歩行器に入れておくと、自分の行きたいところへ自ら進んでいく。
どこかにつかまっていれば、自分の力で立つこともできる。

Image090.jpg

哺乳瓶でミルクを飲むときには、自分でそれを保持している。
水が大好きで、お風呂の際に頭から水をざばーっと掛けても、全く泣かない。バスの中では足をばたつかせて喜んでいる。
以前のようにむやみに癇癪を起こし、暴れながら泣きわめくことも少なくなった。
産まれてしばらくは、女の子なのにまつ毛がほとんどないと心配していたが、それもずいぶん長くなった。その分顔が女の子らしくなってきた。
顔はアンパンマンのように膨れているが、現在やせ形の自分も子供の頃はまるまると太っていた。自ら歩き運動量が増えれば、少しはすっきりするのではないかと期待している。

僕がユリの隣でPCをいじっていると、ジィーっとPCを見ている。そのうち触りたくなり、彼女がじわじわと近づいてくる。手を出し始め、最初は触っているだけだが、そのうちかぷっと僕のPCにかぶりつく。今はとにかく何でも口に入れる。

子供の成長はすこぶる早いと驚くのだが、それにしてもユリの場合は標準よりも早いような気がする。体も大きいらしく、まだ6カ月に満たないユリは、8か月以上に見られる。
とにかく食欲旺盛で良く睡眠を取り、そして元気である。

P1020396.JPG

ユリは自分の興味を引くものを、身動き一つせずにジィーっと見る癖がある。身動きしないだけではなく、瞬きも一切しない。
僕がフィリピンに帰った当初、ユリは時折僕のことを、瞬きせずに見つめていた。そんな時に僕が「あんた誰?」とユリになり変って言うと、モナがげらげらと笑っている。
「何か考えあるのかなぁ」とモナは言うが、ユリが何を思い、考えているのか、それこそ神のみぞ知るである。

そんなユリに一つ心配事がある。モナのママに指摘されたのだが、足が短いということだ。お父さんに似たと馬鹿にされている。確かに胴の方がはるかに長いように見える。フィリピンで育てるのであれば、足の長いスレンダーが多いこの国である。胴長寸胴は、女性としてかなり大きなハンディになる。ベルと二人での美人姉妹計画が、早くも怪しい雲行きに、早く足が伸びるようにと、ユリの足におまじないをかけている。

Image100.jpg

こんな風に久しぶりにユリを見ていて、ふと気がついた。
先般からフィリピーナの気まぐれを論じていたが、そんな僕がいつの間にか、そのフィリピーナを育てる立場になっている。
僕はフィリピーナの父親なのだ。当たり前のことのようで、しかしあらためて考えると、何かすごいことのように思える。数年前まで、フィリピンとまるで関わりの無かった自分が、フィリピーナの父親・・・。
不思議な感触を中々払拭できない自分がいた。

↓宜しければどうかポチっと m(__)m
人気ブログランキングへblogram投票ボタン



posted at 10:22
Comment(4) | TrackBack(0)
カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:102.ユリの成長
2010年05月05日

101.文化摩擦克服論

ここジャマイカの住まいの裏の敷地で、闘鶏用の鶏(フィリピンでは鶏同士を闘わせ、どちらが勝利するかに賭けるギャンブルがある。鶏の足にはナイフが仕込まれ、どちらかが死んで勝負がつくまで闘う)が飼われている。本来ビジネス目的で動物を飼育することは、ここでは禁止事項であるが、袖の下でも握らせたのかお咎めなしで飼育を継続している。我が家は食べるための鶏を飼育していたが、管理者の目にとまり、すぐ止めるように勧告された。
もし裏で行われていることが養鶏であれば、匂いの被害があるのでこちらも黙ってはいないが、今のところ実害が無いので見て見ぬふりをしている。鶏の鳴き声は少々気になるが、それはフィリピンのどこに住んでも、大抵はどこからかそれが聞こえるから、害と呼べるほどではない。

闘鶏用のせいなのか、その鶏は夜でも鳴いている。ドアを閉めてしまえばほとんどその声は聞こえないが、それでも微かに聞こえてくる。
つまりここで僕は、始終鶏の鳴き声を聞きながら暮らしている。

鶏の鳴き声は、日本では「コッケコッコー」と表現する。アメリカでは「クックドゥドゥー」だ。フィリッピンではそれを「コッコラーオーク」と言うらしい。

しかし隣の敷地で飼われている鶏の声に合わせて、頭の中でコッコラーオークと何度言ってみてもしっくりこない。クックドゥドゥーの方がまだましだが、どのように聞いてみても、鶏の声はやはりコッケコッコーに聞こえてしまう。モナにそれを教えると、彼女も頭の中でコッケコッコーと鶏の鳴き声に合わせてみたようだが、そうは聞こえないらしい。やはりコッコラーオークだそうだ。

これがお互いの体に染み込んだ、日本文化とフィリピン文化の違いを象徴しているようで、面白いと思った。

なぜお互い違う聞こえ方になるのか、そしてなぜお互いの聞こえ方を確認し合ってから聞きなおしてみても、やはりお互い慣れ親しんだ聞こえ方しかしないのか、その理由はない。理屈付けしようとしてもできない。そう聞こえるからそうなのだ。
ここで、いやそんなはずはないなどと議論しても始まらない。そんなことで意地を張って喧嘩をするのはナンセンスというものである。最後は不承不承でどちらかが折れるか、折れずに空中分解するしかない不毛の喧嘩となるだけである。

僕はこれまでの記事の中で、日本人とフィリピン人との間には、文化の摩擦があると言ってきた。文化の摩擦はなにも日本人とフィリピン人の間だけとは限らない。違う国の人間であれば、同様にそれは存在する。もっと狭い範囲で言えば、同じ国同士の人間でも、所属するグループ(住むエリアや会社など)が違えば同様の摩擦が存在する。あらためて言うまでもないが、文化の摩擦は日本人とフィリピン人の間の話に限ったことではない。

僕がこれまでの記事の中で述べた文化とは、主に生活や考え方の習慣を意識していた。
文化の相違に遭遇すると、驚いたり感心したり戸惑ったりしたことを、自分なりの考察を入れて紹介してきたわけである。

これまで僕は、文化摩擦はお互いの理解をもって克服できると考えていた。
しかし鶏の鳴き声をきっかけに、僕のその考えは間違いではないかと思うようになった。
お互いの自分の体に染み込んだ文化は、実は簡単に抜けないのではないかということに気付いたわけである。これは理屈で克服できるものではない。体の芯まで染み込んだものは、簡単には変えられないのである。

それではどうやって折り合いをつけるのか。結局は諦めと我慢しかない。どちらかが押しつけて、もう一方が我慢をする、もしくは諦めるのである。
今一度自分を振り返ってみると、自分がフィリピンでやってきたことはそれである。理解し尊重するといった立派なものではない。時には自分が我慢をし、そして一方では相手に我慢を強いる。
我慢できるかどうかは、理解の深さで変わってくるが、度重なる我慢はフラストレーションを生むことになる。フラストレーションを解消するために、後から無理やり理由づけをし、自分をなんとか納得させることもある。
時々フィリピンで感じるイラつき感は、実はそれなのだと、今さらながらに思うのだ。
逆に周囲に我慢を強いてばかりだと、フィリピンで生活する自分は、この社会で孤立するのではないかという不安が首をもたげてくる。自分の防衛本能が、無意識にそれを察知している。

自分の中でそんなことを考えながら、なるほどと思っていた。ヒントは意外なところにあるものだと感心もした。
これまで、理解しなければならないと思っているから、イラつくのだ。そして、なぜ理解してくれないのだという想いも、同じイラつきに繋がっていた。
最初からお互い、本当の意味での理解は不可能だったのである。必ずしもそうではないとの意見がありそうだが、僕は、まずはそう思うことが重要ではないかと言いたいのだ。視点を少しだけ変えてみるという話である。
日本で、絶えず頭の中に疑問符を抱きながらフィリピーナに翻弄されている方がいらっしゃったら、「コッケコッコー」をキーワードに、この話を思い出して欲しい。理解できないものを理解しようとすると苦しいが、これは理解不能なのだと思えば、気も楽になるというものである(笑)

あらためて文化というものを考えてみた。それは長い年月をかけて作り上げられた概念や習慣の総体である。そうであれば、無理に相手の文化に合わせるよりも、慣れることを含めて新しい文化を作り上げれば良いということである。
適用範囲は様々で、恋人同士である二人や家族、そして地域社会や会社組織ということになる。

実はここまで考えてみて、フィリピンで暮らす日本人は、ほとんどの方が意識的もしくは無意識的にそうしているのではないかと思うのだ。つまり時間をかけて、自分たちの新しい文化を形成しているのではないかということである。いずれのケースでも結果的にはそうなっているのだと思われる。

これは日本人とフィリピーナという枠に限らず、日本人同士でも違う背景を持った者同士が結婚もしくは集うところでは、同じことである。会社が違えば文化が違うし、家庭が違えばやはりそうである。決して目新しいことではない。
しかしこうやってまとめてみるのも少しは意味があると思えるので、あえてブログに公表してみたということである。

↓宜しければどうかポチっと m(__)m
人気ブログランキングへblogram投票ボタン



posted at 10:27
Comment(6) | TrackBack(0)
カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:101.文化摩擦克服論
2010年05月04日

100.本当の愛とは?

先日ある方のブログにコメントを残した。残したのは良いが、その内容がまずかったかもしれないと、後々自分の中で尾を引いた。つくづく余計なことを言ったものだと、自己反省した。

そのブログはある方のフィリピーナに対する想いを綴ったもので、僕が久しぶりに覗きにいった時には、自分(ブログオーナー)がその女性のただのお客さんであることがはっきりとし、しかもお相手のフィリピーナにはどうやら他の意中の人がいるようだという展開だった。

僕のコメントは、通常フィリピーナは妻帯者を本気で相手にしないという内容である。
異国でいつまでできるかわからない水商売で生計を立てているのだから、恋愛相手として将来性を見通せない人は基本的に恋愛の対象外だということを書いた。本当は励ましのつもりで書き始めた内容であったが、読み返すと傷口に塩を塗っている文章にも思えた。
妻帯者を恋人としては考えないというのは、ある意味彼女たちの防衛システムのようなもので、それは決まりごとのようなものである。人間として否定されているわけではないから、落ち込まないで欲しいということを言いたかったのだが、果たしてそれが伝わったかどうか。そして脈がなければ、傷が広がらないうちに手を引くのも一つの手であることを示唆したかった。
しかしながら感情と理性は別物である。理屈がわかっていてもどうしようもないことがあるのが人間だ。それがわかっていながら、僕も野暮な口出しをしたものである。

感情とは本来厄介なものである。それを理性ではかろうとしても、本人以外には理解不能な領域を誰しも持っている。
その記事では、お相手があることに突然激しく怒ったことが書かれていた。おそらく何かの琴線に触れてしまったのだろうと推測する。もしくはたまたまイラついていることがあったのかもしれない。
僕の前回の記事で、モナの激情について書いた。それに対して僕が不満に思ったのは、僕の仕事をディスターブしないで欲しいということだけである。彼女が怒ったことに対して僕も怒ったわけではない。誰にでも時にはこのような、理解し難い感情の起伏がある。しかしよくよく訊いてみれば、なるほどと思える理由があったりする。
高まった感情と共に、言ってはならないことが口から飛び出してしまった場合には、取り返し付かぬしこりを残すこともある。怒っている方が感情の動物であれば、受ける方もやはり感情の動物なのだから仕方がない。起こってしまったことをどのように収めるかは、あとは様々なファクターを考慮して当人が決めるしかないことである。

さて、僕が残したそのコメントの続きのようで恐縮であるが、少し展開してみたい。
フィリピーナが恋人や夫として相手に求める価値基準は、日本人女性のそれとはかけ離れているように思われる。それは彼女たちのフィリピンでの生活環境が背景となっている。子供の頃から、決して裕福ではない生活を強いられ、常に不安定にさらされている。そして石を投げれば無責任な男に当たる。どうしようもないぐうたら亭主を掴んだために、一生苦労をする女性を日頃から当たり前のように見ている。自分が結婚する場合には、同じ轍を踏みたくないと思うのは当然だ。最初から結婚相手としてフィリピン男性を拒絶する女性もいる。特に日本を含めた海外で働いているフィリピーナは、きちんとした稼ぎのある相手を見つけることができる機会を意識している。そうした環境に身を置くチャンスをものにしたわけだから、それは当然の成り行きである。

フィリピーナは自分の相手に対して、優しさ、まじめさ、責任感、そして自分をどれだけ愛してくれるかを求めている。年が若いとか、ルックスが良いとか、年収がいくら以上だというようなことはあまり気にしない。
優しさは、暴言をはかず暴力を振るわない、そして話を聞いてくれる、我儘を許してくれるなどである。まじめさは自分一筋で浮気をしないということだ。そして責任感は、きちんと自分や自分の家族の面倒を見てくれるということである。勿論その上で自分だけを真剣に愛してくれる人でなければならない。嫉妬深いフィリピーナに、これは絶対条件である。わき見、寄り道は厳禁だ。これらの条件を満たしていれば、年齢差は気にならない。

さて、自分だけを真剣に愛してくれる人でなければならないわけだが、真剣な愛とは何であるか、実はこれが難しい。愛とは何か・・・である。
当然一言で言い表せるものではないが、それをあえて言うならば、どれだけサクリファイス(犠牲)を払えるかではないだろうか。フィリピーナはよく、サクリファイスを言うが、僕もこれまでずっと考えてきて、結局同じ結論に傾きつつある。

しかしこのサクリファイスは、人によって感じ方が違う。
あまり良い例ではないが、お店で働く女性に自分の愛をわかってもらおうとすれば、どれだけ普段の生活を犠牲にしてお店に通うかが、一つの判断基準になる場合がある。お金と時間の犠牲である。嘘のような話であるが、実際にそれを愛の基準として考えている人が、フィリピンパブで働く女性の中にはいる。
お店に通う方は青色吐息で、貧血を通り越して死亡寸前であったとしても、店の客にはもっと余力のある人もいるから、そんな人たちと比較され、店の女性はまだまだ愛を感じないという場合がある。必死に通ってみせたところで、そんなものはサクリファイスとは言えないと一蹴される。実際にそんなことを言われれば百年の恋もいっぺんに冷めるであろうが、客商売をしている彼女たちは決してそのようなことを口に出して言わない。心の中で呟いているだけである。余力のある客に張り合って確実に勝てる方法は、毎日開店から閉店まで通いつめるということになる。しかしそうしたところで、もともとお金が余っているのだろうと思われれば、それはサクリファイスとは呼べないということになる。
このようにサクリファイスは、与える方と与えられる方で、その感じ方が違う。
誰もが納得する究極のサクリファイスは、自分の命を犠牲にすることであろうが、通常自分の心のうちを含めて、サクリファイスを分かってもらうのは難しいことである。

余談になるが、フィリピーナが先にこちらへ恋をしてしまえば、サクリファイスが見えないなどというややこしい話はなくなる。逆にこちらが、それを見せろという立場になるからである。

もう一つ余談になるが、モナは明確に僕に対する愛を表現する。もし僕に何かがあれば、自分の体や命を犠牲にしてでも、僕を守ると言う。
モナに限らずフィリピーナの愛には、同様の深くて根強いものを感じる。そこへ身を置くということは、こちらもそれに釣り合った愛を要求され、また同じような愛を返すつもりでなければならないとも考える。
彼女たちは愛というものに対して明確な基準を持っているために、それほど希薄な気持ちでは済まされない場合が多いということだ。日本人のように、愛というものに対して曖昧な考え方ではないのである。それはおそらく、彼女たちが子供の頃から関わっているキリスト教が深く影響していると思われる。そしてそこへ入り込んでいくということは、本来それだけのものを受け止める覚悟が必要となる。しかし実際にはそうでない日本人が多いから、おかしくなってしまうカップルが多いのだろうが・・。


さて、自分の愛を分かってもらうのはとても難しいことを述べたが、それ以前に、そもそも自分は相手に対して、本物の愛を抱いているのだろうかという点が怪しい方も多い。
そうだと単に思い込んでしまっている方も実は多いのである。疑似恋愛を生業にしているお店では、いつの間にかこちらが勘違いしているケースが多々ある。
今一度、自分が守りたいと考えている対象に対して、自分の死を賭して愛を貫けるだろうかと自問自答してみたら如何だろうか。
その際、色々なケースを想定して考えることをお勧めする。例えば咄嗟に強盗犯が拳銃を発砲した場合、自分はどうするだろうか。咄嗟ではなく、十分考える時間があった場合、自分の命と引き換えにその対象を守ろうとするだろうか。
命は極端だとお考えの方がいたら、もう少し現実的に、社会的地位を失ってまでそうするかという想定でも良い。もしくは今の生活環境全てを失ってでもそうしたいかを問うてみれば良い。
そうして、もし自分の抱いている感情が本物の愛だと確信したら、あとは理性に従ってどうするかを判断すれば良い。愛は感情の一つであるが、僕は理性も含めて愛というものが存在すると考えている。

ただしこれは、ゲーム感覚でやってみることをお勧めする。あまり真剣に突き詰めると、訳がわからなくなってくるからである。すっきりとした答えが見出せるどころか、以前よりもわからなくなってくることが多い。しかしそれをきっかけに、おぼろげながらも、本当の愛とは何かが見えてくる。
それは実は、誰でも共有できるような普遍的な回答ではなく、自分自身が納得できる自分だけの答えである。
もしかしたら普遍的な回答があるのかもしれないが、僕には自信を持って言えることはない。それはやはり、僕が日本人だからなのか。
それでも僕は、今自分に向けられている愛の重さを感じているし、それを受け止めたいとも考えている。

身近にフィリピーナがいらっしゃる方がいたら、愛をテーマに同様の話をしてみては如何だろうか。もし面白い話が聞けたなら、是非ご教授願いたい。

↓宜しければどうかポチっと m(__)m
人気ブログランキングへblogram投票ボタン



posted at 07:00
Comment(8) | TrackBack(0)
カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:100.本当の愛とは?

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。