フィリピーナと共に
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2010年03月29日

90.フィリピーナの分析

昨日のブログで、当面更新が不定期になると書いておきながら、早速更新をすることにした。それは昨日、しばらくご無沙汰していたフィリピン関係のブログを徘徊したからである。なぜ徘徊したら更新となったかについては、是非読み進めていただきたい。


ユリの大泣きには、モナの家族はほとほと手を焼いているようだ。モナが抱いてあげないと泣きやまないらしい。ママは、ユリに泣かれるとどうしたら良いのかわからないと話している。スカイプの画像で見ていても、ユリの泣きっぷり、暴れっぷりは以前の状態にますます拍車がかかっている。
これは人ごとではない。僕はずっとユリと離れている。目が見えて、少しずつ思考回路も成長している過程に父親はずっと家にいないわけだから、ユリにしてみれば僕は知らないおじさんということになる。きっと僕が家に帰って彼女を抱いても、ユリの癇癪は収まらないだろうことが予想される。それは想像しただけでも、少し悲しい。子供の反応は正直だから尚更である。日本での長期滞在で、一番危機感を抱いていることだ。できる限り早く帰りたい、そしてできるだけ長く一緒に暮らしたいというのが、切実たる願いである。

モナもそんなユリには疲れているらしい。とにかくユリの相手をするのはいつでも自分でなければならないわけだから、気が休まらないのは理解できる。もともと体が丈夫ではない彼女なので、体力的にも相当こたえているようだ。

最近幼児虐待のニュースを見かける。泣きやまない子供への苛立ちが虐待につながり、挙句は子供を死に至らしめてしまったというものである。こんなニュースに接すると、一瞬ユリの子育てに疲れているモナと、ニュースに登場する被疑者とが重なってしまうのだが、その点でモナやモナの家族は心配がないとすぐに思い直す。モナもモナの家族も、子供に対しては決して手をあげない。時には厳しい躾が必要だと思うほどで、苛立ちが高じて子供にあたるという心配だけはする必要がない。

ユリに対する接し方を見ていると、フィリピン人の優しさがにじみ出ている。おそらくユリが大きくなったときに僕が彼女を厳しく叱ったりすると、文句を言われたりするだろうことが、今から予想されるほどである。優しさ、厳しさも程度問題であるが、とりあえず離れて暮らしているこの時点で、そんな余計な心配をする必要は全くないのである。

しかしフィリピン全体が底なし沼のように子供に甘いかというと、決してそうではないことがわかった。
前回フィリピンに帰った際、10歳前後の女の子が、家の前で父親に叱られている姿を目撃した。子供が何をしたのかはわからないが、泣き叫んで身を縮ませている女の子に、父親が鞭を振るっている。母親らしき人は、父親の傍らに立ってそれを傍観していた。
路上で子供が泣き叫び、父親はそれに輪をかけるようにどなり散らしている。そして子供の体に食い込む「パチーン、パチーン」という鞭の音が、周囲の人たちの目を奪っていた。叱っている親は、そんな周囲の目などおかまいなしである。その叱り方は、明らかに度を超していた。
家に帰ってから、その光景をモナに話して聞かせると、彼女に「それ、フィリピンはよくあるよ」と言われた。その意外な反応に僕はまた驚いた。

その光景が繰り広げられた家は、傍目には貧しい家庭であった。モナが言うには、生活にゆとりがない家庭では、そのようなことは珍しくないとのことだった。人には人の、家庭には家庭なりの躾方法があることは理解しているつもりだが、それでもあの度を越した叱り方は、子供の人格形成に影響を与えるのではないかと心配になってしまう。

もし貧しい家庭であのような光景がよくあるとしたら、僕の知り合いでも同じような体験をした人がいたかもしれないということが、頭の隅をよぎった。
以前、体のどこかに傷跡を持っているフィリピーナをよく見かけた。その傷跡はどうしたのと訊くと、子供のころに怪我をしたという答えが返ってくる。本当に普通の怪我なのかもしれないが、もしかしたらそれは、虐待の痕跡だったのかもしれないなどと、ふと思い出したのである。
それほど過酷な家庭環境で成長したとすれば、それは大人になった時に、その人格にどのような影響を与えるのだろうか。全般的に従順な性格も、実はこうして作られているのかもしれないと、ふと考えたりしたのである。

かなり昔の記事で、あるフィリピーナのことを書いた。僕が彼女の店に初めて行った時に、たまたまその彼女が僕の隣に座り、元気がないねという話から、ついさっき付き合っていた恋人と別れたばかりだという話を聞かせられたという内容である。その後彼女は、その別れた恋人が本物のやくざだったということを打ち明けてくれた。
二人の関係が続いている時には、彼の彼女に対する凄まじい暴力があったことを聞かされ、なぜそれですぐに別れないのか不思議に思ったことを今でも覚えている。
その暴力の内容は、殴る、蹴る、そして床にのたうちまわる彼女の顔を足で踏みつけるという壮絶なものだった。店の中で華麗に振る舞う彼女からは、足蹴にされている姿など全く想像できなかった。それでも彼女はその彼に、愛情を抱いていたとのことだ。暴力をふるわれた時には、もう耐えられないと思いながらも、別れる決心が中々つかなかったらしい。

僕はもう一人、夫の暴力や横暴に耐えながら生活をしていたフィリピーナを知っている。その夫との間に二人の子供をもうけたが、夫はまったく生活費を家に入れず、自分の給料は全てPP通いとギャンブルにつぎ込んでいた。
二人の子供を食べさせるために、そのフィリピーナは夜の仕事をするしかない。しかし夫は自分の遊ぶお金がなくなると、彼女が稼いだお金さえも暴力沙汰で奪い取っていく。
その彼女は僕が店で指名をしていたような関係ではなく、店とは全く関係無しに知り合った女性なので、同情を買うための作り話ではないことがわかっていた。
その時にも、なぜすぐにその夫と別れないのか不思議で仕方がなかった。日本人の妻であれば、とっくに逃げ出していてもおかしくない状況である。

当時フィリピーナとは、ずいぶん辛抱強いものだと思ったものである。
おそらく自分が全く想像できない何かを、連れ添いに感じたり求めたりしているのだろうと、その価値観の違いについても色々と考えた。

今振り返ってみると、彼女たちは子供の頃から同じような境遇を体験してきたのではないかと思えるのだが、それは飛躍しすぎた考えであろうか。
思えば昔の日本女性も辛抱強かった。それは貧しくそして厳格な躾のもとで大人になったからではないかと思えるのである。それらが日本女性の辛抱強さを作り上げたと僕は思っている。そしてそこに、フィリピーナの辛抱強さと共通するものがあるような気がする。

しかし先ほど述べたような度を越したせっかんは、何かしらの人格を歪ませる要因になりえることは想像に難くない。それが目立った負の特性として表に現れるのか、それともふとしたことで顕在化するのかはわからない。それはもともと個人が持っている、人としての特性の違いも関係しそうであるし、一概に述べられるものではないとも思う。

フィリピーナは人当たりがよく、ホスピタリティーに溢れていて、ついついこちらが気を許したり甘えてしまったりする。しかしそうかと思っていると、時折、突然普段と違う一面が飛び出して面食らうことがある。そしていつの間にか、あまえたりホスピタリティーを求める方が、先方とこちらで反対になっているのだ。しかも反対になった時にはそれを、かなり強力にこちらへ向けてくる。僕はそれが、人格形成期や成長期における生活環境の反動ではないかと思うことがある。
フィリピーナは自分の結婚相手の年齢を、あまり気にしない。このブログをお読みの方には周知のように、彼女たちは年齢差を気にしないのだ。それは生活における打算も含まれる場合があるだろうが、彼女たちは自分を優しく包んで守ってくれる人であれば、構わないのである。いや、構わないというより、そのような人を求めていると言った方が正しい。そのことにしても、それは育った環境からくる反動の一つではないかと思えるのである。そして実は、先ほど述べたようなせっかんも、そこに関係しているケースがあるのではないかと思えてきたのである。

モナにしても、体が弱く気持ちも優しいが、ふと厳しい一面をのぞかせることがある。それは僕に対する厳しさではなく、自分達の生活を守るためには何事にも立ち向かうという意思のことである。そして同時に、自分が守られていたいという欲求を彼女から感じることが多々ある。
もっともモナは、厳しい体罰をずっと経験して育ってきたわけではない。それでも子供の頃は、悪さをすると大豆の上に何時間も正座させられるなど、それなりの厳しい躾を受けてきたようだ。ダディーとママの最初の子供として、両親はモナに対して厳しかったということだ。それが3番目のジンになると、まるで正反対に相当甘やかして育てたらしい。だからモナは、ジンが現在のように不甲斐ないのは、その育て方が悪かったのだと今でも言う。
そしてモナの場合には、その反動というべき心理の理由がある程度はっきりしている。彼女には、自分の家族の生活を守るために、自分をずっと犠牲にしてきたという想いがある。それから解放されたいと、彼女が深層心理の中で願っていることはわかっていた。だからこそ今度は反対に、自分が守られたいのである。どのように守られたいかは人により様々だと思われるが、最終的には自己犠牲もいとわないような愛情が欲しいということになるだろう。


久しぶりにフィリピン関係のブログを読み、多くの方がフィリピーナの我儘な振る舞いに翻弄されている様子に、ふと再び、フィリピーナとは一体なんなんだと考えてしまった。
きっと、お相手の我儘姫君に対して、どう考えれば良いのかと日頃頭を悩ませている人が多いのではないかと思う。それが今回書いたこの記事のきっかけである。
勿論これが全てではない。人を分析するということは、その生い立ちや現在の生活環境まで、あらゆる条件を考慮しても尚、わからないものである。それは、自分がその人ではないからに他ならない。
しかし、こうやって様々な方向性から相手のことを分析するというのは、相手を理解する上では重要だとも考える。結論らしい結論がないのは、前述した通りわからないからであり、あくまでもこれは、考えるきっかけの一つだということでお許し願いたい。

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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:90.フィリピーナの分析
2010年03月28日

89.お久ぶりです。近況報告です。

お久ぶりでございます。更新が止まり、1か月以上経過してしまいました。その間様々な人から、メッセージやメールをいただき、ご心配をおかけしてしまいました。大変申し訳なく思っております。
また、長期お休みをいただいたにも関わらず、ブログへのアクセスがコンスタントにあることに対して、感謝の気持ちを抱いております。本当にありがとうございます。
まだコンスタントにブログを更新できる状態ではありませんが、ぼちぼちと書き始めていきたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。
今回は、少しずつ書きためたものを一挙に公開します。また仕事にはまると、こまめに更新できないような気がするので。
かなり長文なので、小説の感覚で、小分けに読んで下されば幸いです。
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現在僕はまだ日本で仕事をしている。僕を知っている方には「え?」と言われそうだが、中々フィリピンへ帰れずに、しかもまだ帰れる見通しがたっていない。
当初予定していた日本の仕事はうまく片付いているのだが、日本サイドでうまく回らない仕事の手助けをしているうちに、もう半年間、現在のような全体のフォロー役をやってくれないかという話になっている。社長はこの状況を憂いており、僕が何とか帰れるようにしたいと思っているようだが、職場の状況が許してくれない。現場を仕切っているマネージャーに強く懇願され、社長も僕も渋々首を縦に振っている。この調子で日本滞在期間をずるずる延ばしていると、家庭が崩壊すると訴えているのだが、2か月に1回くらいは帰れるようにするから・・といった話が出始める始末で閉口気味。
フィリピンの家族が元気で暮らしているのが救いではあるが、フィリピンへの帰国(この表現が正しいかどうかわからなくなっているが・・)が伸びるという話をした時に、モナがしくしくと泣き出した。強く文句をいうわけでもなく、静かに涙を流すという泣き方に、僕はただただ言葉を失ってしまった。
申し訳ないと思っている心のうちを話すと、同じ気持ちでいることがわかったから、少しは気分が晴れたと言われ、僕はますます言葉を失うことになった。


ブログは長期間休息をし、その期間中で十分充電できたと言えれば良いのだが、実は全くそんなことはない。逆に疲れている。なぜ疲れているかというと、日本での仕事のせいだ。妙に疲れ方が激しいので、その原因をよくよく振り返ってみると、仕事自体に疲れているわけではなく、人間関係に疲れていることがわかった。誤解を招かないように言うと、自分と他者の人間関係に苦労しているのではない。僕はそりが合わない人間がいても気にしない超マイペース人間なので、そんなことでは疲れない。お客との契約関係でもめていたので、その客とプロジェクトを担当している人間間、担当者と社長など、それらの調整役になっているためである。本来は営業兼プロジェクトリーダー役の人間の務めであるが、その彼が許容オーバーになってくるとこちらに相談を持ちかけてきて、いつの間にか下駄を預けられる格好になっている。おかげで自分が抱えている設計の仕事がまるで進まず、それらは休日回しとなってしまう。
普段はずっとホテル暮らしで、これも疲れる原因となっている。日本のビジネスホテルは狭い。圧迫感があって、長期滞在をしていると気がめいる。僕にとってこれは、精神衛生上もっとも良くないことの一つとなっている。
食事はラーメンや牛丼、コンビニ弁当などを夜遅く摂ることが多く、栄養の偏りも含め健康に支障をきたしそうである。ついでにホテルの暖房による乾燥が体に合わず、除湿機をフル回転させることで何とかしのいでいる。

通常僕は、1か月に平均3冊の本を読む。しかしこの1カ月間は、1冊も読めていない。1か月前に読み始めた本が半分にも達していないことに今朝気付いて、愕然とした。手元には、まだ手つかずの小説が4冊もある。それだけ気持ちにゆとりがないということだ。

しかし、まるでだめなことばかりではない。自分の手により出口の無いトンネルに入った仕事が上向いたり、新しい仕事を開拓したりすることに関して、充実感を持つこともある。日本のビジネスにおけるせわしないペースは煩わしいものの、その流れの中で否が応でも結果を出すために奔走することには、フィリピンでは味わえない何かがある。長年自分の体に染み付いてしまった会社人間体質というものを、感じざるを得ないというところだが、それでもあのフィリピンのゆったりとした時間の流れや空気を、心のどこかで求めている。スカイプを通してフィリピンの様子を動画で見るたびに、早く帰りたいと思っている。


さて、ブログを始めてからこれだけ長期間休んだのは初めてなので、どこからどう書いて良いのか、少し戸惑っている。勘所が薄らでいしまった。とりあえず起きた出来事を絡めながら、それとなく進めていくことにする。

前回日本からフィリピンに発ったのが2月7日。フィリピン国内で出張中に、なんとPCが壊れてしまいまった。ブログの更新はもとより、チェックもできず、そして仕事関係のメールやり取りができなかったので、とても不便だった。たいがいは電話でのやり取りになり、時にはお客さんのPCとメールアドレスを借りて日本とのやり取りをするなど、通常では考えられないことをするはめになっていた。

しかしPCが壊れてしまうと、ある意味気が楽でもある。
最初から仕事ができないと割り切り、休日は全く余計なことは考えずにのんびり過ごすことができた。メールを読めないために、何がどのような状況になっているのか不安はあるものの、一方では至福ともいえる解放感への喜びを感じていた。普段如何にPCや携帯に縛られているのかを再認識できたひと時でもある。

ちなみにPCは新しいものを購入した。最近立て続けにPCが壊れたため、今度は僕がその信頼性に絶対の信用をおいているパナソニックのレッツノートを買った。実は2台のPCが壊れる前は、当時まだまだマイナーだったレッツノートを使用していた。このPC、とても軽いくせにバッテリーでの動作時間がものすごく長い。(通常バッテリーでの駆動時間を長くしようとすると、バッテリーが大きくなり重量も重くなる)しかも3年間使用して、まったく不具合がなかった。耐衝撃、耐荷重にも強いとメーカーも話している。しかし僕は、その次のパソコンをF社に浮気してしまった。パナソニックはとても気に入っていたのだが、特徴あるデザインに飽きたので、ちょっと気分転換をしようと思ったわけである。またビジネス用途として割り切られて作られているので、遊び心が少ない。例えばスピーカーは1個しかなく、しかも使用されているパワーアンプは割り切って安いモジュールを使用しているのか音が悪い。それゆえにPCで音楽を楽しむなどという用途にはあまり向かない。だからもう少し楽しいPCをと浮気をしたのだが、それからがどうも調子がおかしい。
F社のPCはOSがビスタであったが、最初はワクワクして使っていたものの、開発ツールの動作がおかしいなど、泣きを見るケースが多発した。そして約2年の使用でハードディスクが読めなくなった。次はI社のPCを使ったが、これは2年経たずして死んだ。フィリピンに行って間もなく、日本へメールを送った直後に何の前触れもなくノートPCの液晶画面が暗くなり、そのまま使用不能状態に。このI社のPCは最近動作もおかしかったので、そろそろ買い替えようとは思っていたが、新しいPCを買う前にこの世を去ってしまった(泣)。
今回のPCは、Windows7搭載の最新レッツノートである。PCの重量は軽さにさらに磨きがかかり、バッテリーでの動作時間はメーカー発表で16時間もある。しかもOSは最初からXPダウングレード用のCDが付いている。ダウングレードがVISTAではなくXPというところがミソで、そこにみんなでVISTAは無かったことのしようという意図が見え隠れする。もっともあまりにVISTAの出来が悪かったために、今度の新しいOSには最初からXPもつけろという要望が多すぎて、マイクロソフトが泣く泣くXPをつけることを容認したという噂を聞いた。
Windows7は使ってみると、確かに動作は軽くなっているが、機能はVISTAそのものだ。新しく購入したPCはディスプレイがタッチパネルになっていないので、ますますそのように感じる。もっとすごい何かを期待していたのだが・・。そしてまるでVISTAのような作りに、不安を覚えながら使用し始めた。しかし様々なツールが安定して動く。さすがに同じ轍は踏めないというマイクロソフトの意気込みを感じる出来である。メモリは2GBにとどめているが、まるで不足を感じない。フィリピンとのコミュニケーションで使用していたCHIKKAは動かないが、それ以外は全く問題なく安定動作する。特にVISTAで問題であったUSBインターフェース系がXPと同等に動くのがいい。当面XPへのダウングレードをせずに、そのままWindows7で使用することにした。


前回フィリピンへ発った2月7日の前日は、千葉のホテルで仕事をしながら翌朝6時を迎えた。宿泊したのはホテルチェーンWホテルであるが、相変わらずこのホテルは部屋が狭い。新宿Wホテルの角部屋へ宿泊した時には、スーツケースが邪魔になり、入口のドアの開け閉めが困難なほど狭かった。それ以来できるだけWホテルには泊らないようにしていたが、今回は会社の人間が予約したので仕方がない。
結局一睡もせずにホテルをチェックアウトし、成田へ送迎してくれる会社の人間に、徹夜の成果を手渡した。といっても完成したわけではなく、ハードを作っただけで、ソフトはフィリピンにて作成し、メールで中身を送ることになっていた。しかしフィリピンでPCが壊れたためにそれができず、後々そのことが、日本へ帰国後の自分の足を引っ張ることになる。

今回の訪比は2週間強のスケジュールがびっしり詰まっていて、訪比前から仕事に対して食傷気味であった。フィリピンへ行く(帰る)のが億劫になることなど、これまでで初めての体験である。

徹夜明けで成田に行った時には、チェックイン後にどこかで眠りこけて飛行機の乗り遅れることが心配なので、うかつに居眠りしないよう気をつける。イミグレーションを通過した後に飛行機の乗り遅れるのはどう考えても悲しすぎる。もしこのような事態に陥った場合は、再びイミグレーションを通過し、日帰り帰国となるのだろうか。とにかく飛行機に乗るまでは気が張っているので、搭乗後はすぐに意識が飛ぶ。徹夜明けのフライトは、気がつくと飛行機はすでに離陸しており、時には機内食もすでに終了していたなどということがざらである。

断続的に眠りながらの飛行であったから、約4時間はあっという間であった。
この訪比の最初の日程は、フィリピン政府が絡んだ、フィリピンへの投資者を対象とした視察ツアーである。よってフィリピン空港へ降り立つと、フィリピン政府関係者の出迎えがあり、ずらりとイミグレーション前に並んだ入国審査待ちの人だかりを横目に、わきの通路を素通りという外交官並みの待遇を受けた。何度もフィリピンへ行った僕でも初めての体験である。勿論事前に預けたパスポートには入国スタンプが押されて戻ってきた。帰りは各自ご自由にというツアーであるから、入国スタンプが無いとまずいことになる。

荷物を受け取り空港の外へ出ると、モナが日差しを避けてユリを抱きながら待っていた。約一カ月ぶりの再会だった。僕はこの出張が終わると再度すぐ日本へ戻らなければならないので、モナは約2週間の出張全てに同行すると言い出していたが、彼女はそれを本当に実行に移したのである。
彼女はその日の午前の便でレガスピからマニラに移動し、日本から来る僕を待っていた。
勿論僕もそれを承諾してはいたが、妻子連れ、しかも連れの子供が生まれてまだ3カ月という出張も、その時が初めての体験である。喜ばしいことではあるが、細かいスケジュールがびっしりと詰まった出張に妻子がくっついてくることは、ある意味気疲れする厄介事でもある。車や飛行機での移動も多く予定していたので尚更であったが、当のモナは久しぶりの再会に喜びを発散させていた。

一カ月ぶりで見るユリは首回りもかなりしっかりし、人や車の動きを目で追うなど、ずいぶんと成長したように感じられた。そして何よりも体重が増えていて重い。ミルクを飲ませすぎではないかと思うほど、肉付きがよくなっていた。モナからは、話かけると返事をする、一旦ぐずり出すと機嫌を取るのが大変、泣くときには手足をばたつかせて暴れるなど、彼女の成長ぶりと疲れるその態度の話をいやというほど聞かされてはいたが、早速ホテルへ向かう車の中でユリが泣きだし、なだめるのに一苦労で先が思いやられた。
案の定ユリは、それから約2週間の出張期間中、ずっと僕を悩ませることになる。とにかくゆっくりと食事ができない。外にいるので食事はずっと外食になってしまうが、ユリが泣きだすと食事を中断し、抱いて歩き回らなければならなくなる。時にはわざと困らせているのかと思われるくらいにタイミング良く騒ぎ出す。しかし次第にわかってきたのは、冷房の効いた寒い場所では深い眠りにつくことができず、並べた椅子で作った臨時ベッドの上に寝かせてもすぐに起きてしまうということである。それがわかってからは、できるだけ外にテーブルがある店を選ぶようにした。温かい場所ではユリも熟睡できるようで、ゆっくりと食事ができることもあった。

さて視察ツアーであるが、日本から参加したのはほとんどがどこかの社長で、一部会社役員という顔ぶれであった。最初は気おくれしたものの、次第に打ち解けて楽しい時間を過ごすことができた。
このツアーでの収穫は、日本から参加した様々な方面の方々と面識ができたことであるが、それ以外にも、フィリピンで既に仕事をしている日本人の方々と知り合うことができたり、フィリピン政府の下部組織で、フィリピン国内での起業許認可に携わる方々と深く話し合えたりしたことである。
日本人、フィリピン人の方々と、総勢で100人近く名刺を交換したが、気軽に話をしていた人達は、フィリピン国内ではかなりの有力者であることが後日モナの話でわかった。それだけフィリピン国内で力のある人たちと知り合いになれたことは、今後の自分のビジネスに大いに役立つことと思われる。
僕が今回会社を設立するにあたってまず実現したいのは、税金における優遇措置を受けることである。フィリピン政府は、国内経済活性化のために、海外からの投資を誘導するための優遇措置をいくつか用意している。これらの優遇措置はフィリピンだけではなく、アジアのどの国々でもあるので、珍しいものではない。そして日本から現地に進出する場合は、どの会社もその優遇措置をできる限り利用するのが常である。
こちらが優遇措置を使わせてもらいたいということであるから、こちらが色々とお願いをする立場に思えるのだが、実際には先方が積極的にこちらへアプローチをしてくるという形であった。どうも企業誘致の実績をあげることが厳しく課せられているらしく、先方の費用持ちで食事会が開催されたり、個別のミーティングを懇願されたりする。日本へ帰国後も、会社設立にあたっては様々な手助けを用意している旨が書かれた手紙が、政府関係者からフィリピンの自宅へ届いたりした。右も左もわからない僕には、大変ありがたい話である。次回の訪比の際は、その中の何人かの人たちと会って、具体的な話をすることになる。

マニラとマニラ周辺の仕事を終えた後は、3人でセブへと飛んだ。マニラ午後3時発の便に乗り、セブのマクタン空港へ到着したのが午後4時である。久しぶりのセブであった。かつてフィリピンへの出張はセブが中心だったので、たまにマニラへ行くと怖いという緊張感があったが、今は逆になっていることに気付いた。セブはリンとの思いでの地である。そこへモナと二人の間にできた子供を連れてやってきたのだから、かつてマニラで抱いたものとは違う種類の緊張感を感じていた。実際にはあり得ない話ではあるが、セブの街で偶然リンに出会う可能性もあるわけである。
僕はもし一人でセブに来たとしても、リンに会うつもりは毛頭なかったし、電話連絡さえするつもりはなかった。しかしモナは、様々なことをひっくるめて、あえてセブに一緒に来たはずだ。セブでの僕の様子を見ながら、僕が心の中で、どの程度過去を清算しているのかを見届けたいという想いがあったはずである。食事にしても、僕がお気に入りの場所へモナを案内すれば、モナは敏感に、そこが僕とリンの思い出の場所の一つだということを意識しながら臨むかもしれない。考えすぎると身動きがしづらくなるだけなので、できるだけ自然体でいこうとは思っていたが、それでも何かぎこちなくなってしまう自分がいた。そしてもしモナが、リンへセブへの訪問を密かに連絡していたら・・・などと、そんな勘ぐりをしたりもしていた。

久しぶりに訪れたセブは、少し雰囲気が変わっていた。ところどころで、再開発されたように新しいビルが建設され稼働していた。特にアヤラショッピングモール(スペイン系のアヤラ財閥が経営するショッピングモール)はかつての裏側が表側になり、がらりと様変わりした一大レストラン街になっていた。セブでの一週間、ほとんどディナーはその場所でとることになった。ディナーの後は、同じレストラン街の一角にあるスターバックスでデザートのケーキと深入り気味のコーヒーを飲み会話をしながら、気持ちの良い夜風をしばし感じるのが日課となった。おしゃれな場所だけに、食事代は日本のそれとほとんど変わらず、一人1500円はかかる。焼き肉は相変わらず高級価格で、これも日本と大して変わらない。
初めてその地を訪れたモナ曰く、セブの女性はおしゃれで綺麗な人が多いこと、そしてマニラほどごみごみした都会感がないのに、おしゃれなレストランやショップがあり、住んでみたいということである。
ただしセブの人は、かたくなにビサイヤ(セブの言葉)を話す。フィリピンの公用語であるタガログをできるだけ使わない、いや、意地でもビサイヤで通そうとさえ思えるほど、ビサイヤにこだわる。そのせいかタガログの使い方が少し変わっているらしく、モナでも時折セブの人間が何を話しているのかわからないそうだ。あまりにも意思疎通に問題があると、モナは会話を英語に切り替えていた。もし住むことになったら、この言葉の問題が厄介だなどとモナが話していたが、それでも住みやすそうな街であることを十分認めていたし、今度はバカンスで再度ゆっくりと訪れたいなどと話していた。どうやらモナは、心からセブを気に入ったようである。
観光する暇がなかったので、食事のあとタクシーで、セブの街の中をぐるりと走り回りモナを案内した。さりげなくリンと初めて出会ったバーの前を通りかかった時に見てみると、そのバーは既につぶれてなくなっていて少し寂しい気分になった。勿論隣にいるモナには気づかれないよう、単にぼんやりと外を眺めているように装っていた。ただ時折モナが、リンはこの辺に住んでいたのと訊いてきたりするので、彼女も相変わらずリンに対するこだわりを持っていることがわかった。
オスメニアサークルの周辺は昔のままであったが、そこへ至るまでの道は、かつての賑わいが薄らいでいるような気がした。初めて見かける建物もいくつかあり、タクシーの運転手に訊ねてみないとそれが何なのかわからないものもある。気分はまるで、10年以上間をおいて来た懐かしの場所という感じである。朝や夕方の車の渋滞が激しくなっていることも、セブが少し変わったと感じた一つであった。

セブでの一週間は、可もなく不可もなく無難に終わり、セブからレガスピへは、直接セブパシフィックで帰ることにした。わずか45分のフライトで、マニラを経由せずにセブとレガスピを行き来できる。
セブの街からマクタン島という小さな島の上にある空港までは、必ずマンダウエという街を通過する。その時初めて僕からリンの話題を出した。僕が知っている最後のリンの消息は、このマンダウエのおばさんの家に住んでいたという話である。リンにはセブシティーから車で1時間ほどのバリリという小さな町に家はあるが、リンは以前から不思議とセブシティーから離れようとしなかった。バリリの家にはリンの母親と、兄、そしてその子供たちが暮らしており、かつて僕が生活費を送っていた時でさえ、リンはセブシティーにアパートを借りてそこに住んでいた。バリリの家には週に一回帰るだけである。モナが「この辺に住んでいたの?」と訊き返してきたが、僕はそのおばさんの家がどこにあるかは全くわからないので、ありのまま「わからない」と答えた。
本島とマクタンの行き来は、日本のODAで建設された大きな橋を渡る。その橋の上でセブシティーを眺めていた時にモナは、「リンに会いたかった?」と訊いてきた。僕は正直に、「今は会いたいとは思っていない。第一彼女がまだセブにいるかもわからない」と答えた。今は会っても話すこともないのだ。元気で暮らしているのかどうかは気になるが、ただそれだけである。
モナは一週間セブで僕と一緒に過ごし、僕がリンと再び接触しようなどと思っていないことに納得したようだった。モナは僕が、彼女と正式に結婚をし、二人の間に子供がいるということに自信を持っていると言った。だから僕がリンと再び会って話をしても、正直にそのことを話してくれたら問題はないと言う。それでも当の僕には全くその気がない。わざわざリンやモナの気持ちを逆なでするようなことをする必要はないと思っているからである。
僕は4月の中旬に、再度仕事でセブに行かなければならない。既にそのスケジュールは確定しているのだが、モナはその出張についていくとは言わない。やはり少し安心したようである。

セブからレガスピへ飛んで、3日間だけジャマイカの家で過ごしたあとに、僕は再び日本へ戻った。本当はもっと長くジャマイカにいたかったが、日本の仕事がそれを許さなかった。ダディーもママも、1カ月家を空けて、ようやく戻ったと思ったらすぐに日本へ旅立つ僕の仕事のスタイルを理解できないようだった。以前の記事でも書いた通り、このように家族をかえりみない仕事のスタイルは、世界の中でも非常識であり、それはフィリピンでも同様である。次はいつジャマイカに戻ると訊かれ、おそらく3週間後と答えたら、驚きの表情を浮かべ呆れていた。日本のビジネススタイルをフィリピン人に理解してもらうことは最初からあきらめているので、僕も驚くモナの両親へ、必要以上の説明はしなかったが、モナはそれが日本のスタイルだということを、両親に説明しているらしい。
その3週間という話も既に嘘と化しているので、二人はもっと呆れていることだろうと思う。しかしお金だけはきちんと家に入れているから、両親にしてみれば複雑なのかもしれない。僕が動きまわっているおかげで、食べ物を心配する必要もなく、平穏に暮らすことができる。僕がジャマイカで一緒に暮らすことで、モナの両親が気を使っていることも僕は良く知っている。
しかし二人は、僕がモナの傍にいられないことで、彼女が寂しい想いをしていることを良く知っている。その意味ではできるだけ僕に、モナや子供たちの傍にいて欲しいと願っているのである。特にママは、モナや孫たちが自分と一緒に暮らして欲しいと強く願っている。ダディーやママは、モナが僕と一緒にいることを優先することを良く知っているので、僕がジャマイカに定着するのが一番の理想なのである。仮に僕が日本でずっと仕事をすることになったりすれば、モナは間違いなく子供を連れて日本で暮らすと言いだす。ママにはそれが最悪のシナリオとなる。ママにとっては安心して住める家があるとか、月々の生活費を送ってもらえたらそれで良いという話ではない。ママと一緒に暮らして、僕はそれが良くわかった。だからモナの両親は、僕がいつフィリピンへ帰れるのかを気にしているらしい。

確かに日本人の僕でさえ、生まれたばかりの子供がいる自分を、会社の都合で日本へ縛り付けていることに対しては、会社の身勝手さを覚えることもある。これが大会社であれば、個人の事情が見えなくなる、もしくは目をつぶらざるを得ない環境があることを理解できる。しかし小所帯の会社であれば、自分の身に置き換えて考えてくれても良さそうな気がするのである。だから僕自身、モナや家族に対して上手に説明ができない。結局はこれが日本の常識だということで、無理やり納得してもらうしかなくなっている。

最近は、モナのVISAを申請した方が良いのではないかと思い始めている。日本への出入りが自由にできる環境を整えれば、少しは彼女の気が晴れるのではと思うのだ。今はここへ来たくても、イミグレーションという大きな壁がある。自分の意思とは関係のないところで行動が制限されているのだから、その分ストレスが大きい。日本を訪れたい時にはいつでもできるが、自分の考えで我慢しているのであれば、納得性が全く違うだろう。

二人の日本への入籍届は、マニラの日本大使館で済ませた。日本の僕の戸籍に反映されるまで2カ月ほどの期間を要する場合もあるらしいので、現在はまだ日本の法律下で僕とモナが結婚していることになっているのかどうかわからないが、この書類が整えば、モナの日本入国VISAが申請できる環境が整うことになる。

ユリの出生届けも、届け出期間ぎりぎりで日本へ書類を提出できた。この届け出もマニラの日本大使館で行った。書類がそろったのが期限ぎりぎりだったため、日本へ帰国してからの届け出では間に合わなくなってしまうからである。
実はこの届け出に添付する書類には誤解があった。モナは日本大使館に対する子供の出生届けには、NSO(フィリピン国家統計局・National Statistics Office)発行の出生証明書が必要だと話していた。NSO発行の書類というのは、どんな種類の書類でもフィリピン国内では正式な証明書として通用し、日本への様々な手続きの際も、NSOの発行書類でなければならない場合がある。それだけ権威のあるものらしく、フィリピン人は、証明書と言えばNSO発行のものでなければならないと思っている。
子供が生まれた場合、病院で記載した出生届けが病院のある市町村へ提出され、市町村自治体に子供の情報が登録されてから、次にNSOという政府機関へそれらが登録される。このNSOへの登録が実に遅い。登録後に正式証明書の発行まで、通常は生まれてから3カ月ほど要する。その証明書を待っていたために出生届が期限間際になってしまったというわけだ。しかし実際には、現地大使館に添付する証明書は、地方自治体が発行したもので良いそうである。NSO発行書類を待っていたのでは、届け出期限3カ月以内を守るのは難しくなるからである。事実ユリの届け出は、本当に期限ぎりぎりになってしまった。しかも
揃えた書類に不備があり、最初は窓口で届け出を一旦拒否された。しかしユリの日本国籍取得がかかっていたので、無理やりねじ込んだ。窓口の担当官では埒があかず、奥の事務所にいる日本人の事務官と直接交渉をしたのである。書類に不備がある以上こちらが不利なのは間違いなかったが、幸い事務官が話のわかる方だったために、こちらの言い分を理解してもらい受け付けてもらった。本来必要だった書類は、すぐに取り寄せて郵送し、電話にて届け出書類の受理を確認した。

日本では、戸籍抄本でも住民票でも、地方自治体が発行したものが正式書類であるから、同じ感覚でフィリピンの仕組みを聞いていると少し混乱する。最初はNSOとは一体何だというところが良くわからない。しかも書類は、シール(紙に凹凸が入るスタンプ)が入っていなければならないとか、サインが入っていなければならないなど、ややこしい。漠然とモナの話を聞いていると、どの書類が必要なのかがわからなくなってくる。
最初から自分できちんと確認をしておけば、結果的にはもっと簡潔に済んだ話だったように思えた。
仮に今回の届け出でユリが日本国籍を取得できなかった場合、ユリが20歳になるまでに彼女の住民票を日本へ移して日本国籍を取得することは可能である。日本の国籍法に、それらの内容が書かれている。


日本にいる間はずっとホテル暮らしだということを書いた。普段は会社の近くのホテル、そして週末は駅の近くのホテルを利用している。
駅が近いと、周辺には飲み屋も食事処も、なんでも揃っている。僕は土日、午前中は近所のドトールにPCを持ち込んで、コーヒーを飲みながら仕事をしたりするが、ここで粘っていると結構フィリピーナが男性と一緒にやってくる。きっとこの近くに、フィリピンのお店があるに違いない。知らない二人の会話や雰囲気を盗み見していると、二人の関係の度合いがわかって面白い。いや、そんなことを気にし、更にブログに書いたりすることは趣味が悪いと自分でも思うのだが、自然と会話は耳に入ってくる。
明らかに恋人関係もあれば、営業のお付き合いという感じの二人もいる。最近のフィリピーナは、午前中から客にお付き合いするのかと、感心したりもする。それだけお店の売上げが厳しくなっているのだろうか。
営業的お付き合いの場合、二人の間に会話が弾まないからすぐにわかる。フィリピーナは明らかに退屈そうな雰囲気を発散させて、無言でコーヒーを口に運ぶだけなのだ。お相手もそんな彼女に、どう接して良いのかわからないようだ。まあどんなものでも、始まりはこのようなものかもしれない。なにはともあれきっかけがあれば進展するかもしれないのだから、単純に馬鹿にはできない。
そんなことに気を取られていると、モナからスカイプでメッセージが入ったり、日本の友人とチャットが始まったりする。モナは僕が、どこで何をしているのかがわかれば安心するようで、僕が外にいる時には長話にはならない。そんな適当な息抜きをしながら、ながら勉強ならぬ、ながら仕事をするわけだ。土日までオフィスにこもって仕事をすると、身がもたない。すぐに嫌気がさして、結局仕事が続かない。よって、ドトールでのこのようなスタイルは、結局仕事の効率が良いということになる。
実はこの原稿も、ドトールでフィリピーナと日本人のぎこちないカップルを見ながら書いている。

ドトールの店内をよく見渡してみると、面白いことに気づく。外からは店内の様子がわかるように、壁はガラス張りになっている。しかし全て素通しのガラスではなく、40cmほどの幅で絶妙な位置に、白のストライブ模様が入っている。このストライブ模様は、店内の禁煙スペースと喫煙スペースの仕切りにも入っているが、座っている人のちょうど目線の高さになっている。ストライブなので向こうが見えるが、向こう側にいる人の顔まではっきりと認識はできない。また対面カウンターのセンター仕切りも、同じようなストライブ模様が入っている。完全な壁にすると圧迫感があるが、光を通しかつプライバシーを保てるように配慮されているようだ。細かいところに気配りされた設計となっている。設計当事者になれば、そんな細かいことにも気を配る(業界の常識かもしれないが・・)が、客として漫然と利用しているだけでは、普通はそこまで気付かない。しかしその効果というものは明確に認識されなくとも、利用客は漠然と感じとっているはずである。設計思想というものは、そのようなものなのだと、設計者の一人としてあらためて感心する。ジャンルは違えども参考になる。

隣の席では結婚を控えた男女の日本人カップルが、宝石商と話をしている。テーブルの上には5段ほどジュエリーボックスが積み重ねられ、指輪がずらりと並んだ一つのボックスが、二人の前に置かれている。なぜドトールで?という疑問が頭をよぎり、ついつい聞き耳をたててしまう。次の休みは衣装合わせがあるなどという雑談から、結婚披露宴を間近に控えていることがわかる。
二人の年齢は、女性が30歳、男性が35歳という、少し落ち着いた感じのカップルである。男性ははきはきと物を言うタイプだが、話し方やその内容が軽いので、見た目とのギャップを感じ、自信家であるが実は軽い人間?・・・に見えてしまう。反面女性は知的で落ち着いた感じの人なので、少し違和感があるカップルだ。またまた余計なお世話であるが、どうも俗世間の中で仕事などに身を投じていると、ついつい低俗なことで気分転換をしてしまう。心の中では、「お嬢さん、あなたは大きな過ちを犯そうとしていませんか?」などと、くだらないことを考えて喜んでいる。
カップルは宝石商人の口車に乗り、指輪デザインの奥の深さがわかって驚いたなどと話している。確かに指輪というものは、素人にはわからないデザイン上の難しさがある。むかしジュエリーデザイナーの知り合いがいたので、教わったことがある。
「この指輪だったら普段つけていても違和感がない」、「良い宝石商に巡り合えて良かった」など、自分で自らその納得性を高める話をひとしきりした後に、男性の「支払いは現金で・・・」の、「現金」を強調した物言いで商談成立、解散と相成った。一体いくらの指輪を選んだのかはわからない。そこまで細かくは話を聞いていなかった。

対面カウンターの席には、一見ホームレスのような、白い髪と髭がもじゃもじゃの初老のおじさんが座っている。手には単行本を持って、難しい顔をして読みふけっている。そういえばこのおじさん、先週も見かけた。見た目はみすぼらしいが、実はどこかの大学教授かもしれないと、前回見かけた時に思ったのでよく覚えている。ふらりとやってきて、ひたすら本を読み、おもむろに立ち去る。

ここで灰皿交換と、ブレンドMサイズを追加注文。最初に注文したコーヒーはとっくになくなっていたので、口が寂しくなってきた。
PCのバッテリーが長持ちなので、ついつい長居をしてしまう。客の回転率をあげて儲けるのがドトールの基本路線であるから、こんな客は店にとっては迷惑なのだろうなと思いながら、せめて追加注文で許してもらおうとの意図もある。
さてさて、そろそろ仕事に取り掛かることにしよう・・・。
それにしても人間観察は面白い(笑)。まあとりあえずこんな感じで、元気にやっております。

明日からまた少しの間仕事が佳境に入るので、コメントの返事が遅れるかもしれませんが、あらかじめご了承下さい。遅くなっても必ず返事を書きますので・・・。

※久しぶりにシーサーブログページをいじりました。これ、前より重くなっていませんか?前々から反応の悪さには苛立ちを感じていましたが、そろそろ本気でブログマスターを変更しようかなぁ・・・。
ページが重いといいながら、こんな長文を掲載してしまい、済みません。問題があった場合には、是非フィードバックして下さい。

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2010年02月05日

88.うなずきの法則

ある知人と、かなり前に詐欺まがいの商売をやっていた古い知り合いの話になった。

その彼は、1万円で仕入れた布団を20万円で売り、売り残ったものは利益度外視で特別にあなたに譲ると5万、3万、2万と値を下げながら売りさばくような、世渡り上手な奴だった。
布団がだめだという話になると浄水器、特殊掃除機、なべ、枕と次から次へと手を変え品を変え、とうとうBMWを新車で買った。

彼らはいつ告発されてもいいように、不動産を持つことを嫌うのである。不動産を持つと、身動きができなくなり、そしてそれが法の下で押さえられたら大損害だからだ。

だから彼らは身に付けることができてすぐに現金になるものを購入し、貸し金庫にはゴールドを隠し、そして余ったお金は湯水のごとく使ってしまう。
彼らが高級品を身に付けるのは、見栄えのこともあるが、実はそんな理由があってのことである。そんな人たちには同じ匂いが漂っていて、普通の人はその匂いを無意識にかぎ分ける能力を持っている。そのかぎ分けるための判断基準は、派手な服装とぎらぎらとした装飾品なのだ。

適当なものをできるだけ売りさばく彼らには、それなりのビジネスノウハウがある。
暴力や脅迫で売っているわけではない。
その手法の一つに、うなずきの法則というものがある。
普通であれば購入などするはずもない高価なものを、うっかり「うんうん」と買わせる方法である。

最初は万人がうなずく質問、例えば「幸せになりたいですよね、お金が欲しいですよね、楽しく暮らしたいですよね、いい想いをしたいですよね」と続け、その都度みんなを「うん、うん」とうなずかせる。それをすることにより集まった大衆に、うなずくことに抵抗感をなくさせてから、本題にじわじわと入り込んでいくのだ。気が付くと聴衆は、いつのまにかその話術にはまっている。

「皆さん睡眠時間はだいたい8時間くらいでしょ」
「うん、うん」
「1日24時間だから、8時間は3分の1ですよね」
「うん、うん」
「つまりあなた方は、人生の3分の1を布団の中で過ごすわけですよ」
「うん、うん」
「そう考えると、布団でとっても大切なものだと思いませんか?」
「うん、うん」

ころあいを見ながら、その布団が如何にすばらしいかを力説する。
そしていつの間にか、あ〜布団って大切なんだな、そこにお金をけちけちしている自分はなんて馬鹿だったんだ、私もそんな布団で人生を有意義なものしなければとなり、気が付いたら10万や20万の布団を購入してしまう。

みんながみんな引っかかるわけではないが、誰か一人がこんな素晴らしいものなら買わなければと勢いよく購入を決めると、あとは雪崩を打って次から次へと購入者が出現する。集団催眠と言うらしい。仮に購入者がたった一人だったとしても、仕入れ分は元が取れるのであと数人購入してくれれば十分儲けがでる。

詐欺同然で飯を食っていた彼にも、それなりの知識、ノウハウがあり、彼らは如何に人の心を誘導するかを常に勉強している。

この知人、儲けた金でがんがん飲みに行く。もともと口のうまい彼は、飲み屋で働く女を騙すのも得意だった。金回りがいいことも手伝って、いつも違う女をBMWの横に乗せ遊びまわっていたのである。そんな彼が話した。
「日本の女は簡単についてくるからもう飽きた。今度はフィリピンにする」

彼はそこでも楽勝だと考えたのだが、なぜかフィリピーナを騙せない。彼女らにはうなずきの法則が通じないと言うのだ。
「ねえ、お金は好き?」
「うん、うん。当たり前でしょ。それ作るために日本に来ただから」
「幸せになりたいでしょ?」
「当たり前ディバ!(でしょ)」
「それじゃあお金持ちの男は好き?」
「優しい人だったら、お金無くてもいいよ」
「?????」
「そう?でもお金は好きでしょ?」
「オッオー、お金いっぱい欲しいディバ」
「それじゃぁさぁ、今度デートしてくれたらお金いっぱいあげようかな」
「デートはもっとあなたのことを、良く知ってからじゃないと、駄目ディバ」
「?????」
「でもお金欲しいでしょ?」
「当たり前ディバ」

エンドレスのやり取りが続く。意地になってくどき続ける彼は、騙すつもりがいつの間にか騙されていた。
フィリピンパブにたんまり通って、やっと手を握ったとか、電話で話してくれるようになったとか、そんなことで喜ぶようになっていた。

「それ、なんか騙されてない?」
「いや、彼女は純粋だ。人を騙すような女じゃない」
「確かに純粋だけどさあ、それだけに仕事にも忠実なんだよね」
「それ、どーゆー意味さ?」
「仕事は一生懸命だってこと」
「それ、どーゆー意味さ?俺とのことも仕事だけって意味か?」
「話を聞く限りはね」
「お前や気持ちやいてるだろ。いいよ、俺は俺のやり方でいく」

強気の彼は、儲けたお金を湯水のごとくフィリピンパブに使ったが、彼は結局意中の彼女をくどき落とすことはできなかった。
そして最後には、ぜいを尽くした時計もアクセサリーも預金も失い、高級外車も売りに出した。

「あんな人達って、最後はみんな駄目になるよね。なんでかな?」
「そう、いい時に止めればいいのにね」
「あぶく銭は身に付かずだね」
「それにしてもフィリピーナはすごいな」
「彼女たちは結構人を見る目があるから。それに思考回路がリアルだもん。あんな騙しは通用しないよ」
「そうだよな。あそこは真面目な凡人の方がもてるよな」
「そうそう、下心があったらだめだめ」

うなずきの法則が通用せず、騙しのプロを騙すフィリピーナ。いや、彼女たちの名誉のために言うが、彼女たちは騙すという意識は薄い。だからこちらが騙される。恐るべしである。

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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:88.うなずきの法則

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