フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2010年01月07日

66.引越し

昨日の記事で、若干訂正をしなければならないことがあります。
まず洗礼をバプタイズと書きましたが、正確にはbaptism(バプティズム)。人によってバプタイズとかバプティスなどと聞こえるので、気になって調べて見ました。
そして第二の親をニーナ、ニーノと書きましたが、正確にはニナン、ニノンのようです。これは僕の単純な恥ずかしい勘違いです。
そして最後に最大の勘違いは、ユリに4組のニナン、ニノンができたようなことを書きましたが、詳しく話を聞いてみると、男性2人、女性2人の間違いでした。夫婦でもニナン・ニノンになるのは夫か妻のどちらか一方だけだそうです。つまり4組ではなく、4人の第2親ということになります。
カトリックのしきたりは、やはり僕にはわかりづらいですね。たくさん間違えて、済みませんでした。
さて、以下は本日の記事です。
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1月2日の朝、昨夜早い時間に酔いつぶれた僕は、朝早く目覚めた。
裏戸の前の狭い土間に腰を下ろし、扉を開放して牛を見ながらコーヒーとたばこで目を覚ますのが日課である。
狭くて粗末で、下を見れば蟻がたくさん歩いている一畳半ほどの小さなスペースであるが、狭いだけに人一人しか居座ることができず、そこへすっぽりとはまり込んで風を感じていると、不思議と落ち着くのである。

ふとママがやや前傾姿勢で、土間のすぐ脇の壁にぶら下げているカレンダーを指でなぞりながら、何やらぶつぶつ言っていた。


朝食が済んでソファーに寄りかかりながら本を読んでいると、モナが隣へ座って
「マハール、明日のトランスファー(引越し)はだいじょうぶ?」
と言ってきた。
「明日?それは大丈夫だけど・・。なんでそんなに突然?みんなで引越し?」
「ママはここに残るって。ダディーは引越しするって言ってるけど、たぶんママと一緒にここに住むかなぁ?」


ママは朝からカレンダーで、月が満月なのか、またはそれに近い日なのか、そして吉日などのような良い日なのかを確認していたというわけだ。
引っ越しが突然決まると、膳は急げとばかりに朝から家の中がばたばたし始めた。
ベルの行動が一番早かった。彼女は自分の服を大きな旅行鞄へ詰め込んで、昼頃には引越しの準備を終えていた。
モナはさすがに服や荷物が多いので時間がかかるらしく、小部屋に入り込んでまったく出てこない。

僕はもともとトランクケースに入る程度の荷物しかないのだから、こうなると手持ち無沙汰である。子供が泣けばあやしたりおむつを交換し、買う物があればお使いにいき、それ以外は何か用を言いつけられるのを待っているかのように、何も手に付かない時間を浪費していた。

ダディーが荷物運搬用のトライスケル(バイクの横にリヤカーがついたもの)を借りてきたかと思うと、洗濯機と冷蔵庫の運び出しに取り掛かった。若い衆が何人もいるので、力仕事があっても僕の出番はない。周囲でおろおろとしながら、運び出しを見ているだけであるから、ここでも役立たずである。
かといって読書やパソコンいじりができるかというと、狭い家から荷物を運び出しているわけであるから、とてもそんなことができる状態ではない。やはり何かを手伝っているような、そんな風に見えるように立ち回りながらも、実際にはあまりやることがないという時間を夕刻まで費やした。

ある程度荷物がまとまり出すと、何度もジャマイカの新居と古い家の間を往復しながら、細切れに衣類や食器などを運び込んだ。
まるでその日が引越しのようであるが、あくまでもそれは荷物を運び入れるだけで、引越しは翌日の3日である。その証拠に、その日の晩餐も就寝も古い家となる。

翌日の引越しは明け方の3時だと言われていた。「本当か?口だけじゃないの?」と思っていた。本当に朝早いのだったら、2日はみんな早い就寝になるかと思っていたが、ママとベルは12時過ぎまで起きていたからである。

僕は急ぎの仕事があったので、昼できなかった分を取り戻そうと深夜までそれをやっていた。途中からは面倒なので引越しまで起きていようという気になり、3時少し前までがんばっていたが、結局その少し前で、どうせフィリピンタイムだろうと迂闊にも眠りこんでしまったら、きっちり3時を10分ほど過ぎたあたりで起された。結果的には30分しか睡眠がとれず、一番辛いパターンで引越しを迎えることになったわけである。

本当に3時から引越しをするのかと半ば呆れながらも、眠い眼をこすって朝食を取る。どんな時にでもきちんと食事を取るのがフィリピンスタイルである。

僕が食事を取っている間にも、ダディーはせっせとトライスケルへ残りの荷物を運び込んでいる。外は雨が降っていた。スコールではなかったが、日本では本降りと呼ぶような強い雨足である。トライスケルには、荷物とママ、モナ、ベル、ユリが乗り込み、僕はカッパを着こんでバイクにまたがる。エンジンをかけたところで横にいたダディーが、ジャマイカに先に着いても、決して家の中には入らず、家のゲートの前で待っているように言われた。なぜかよくわからなかったが、面倒なのでダディーのトライスケルにスロースピードでついて行く。まだ夜明け前の閑散とした道を、荷物を満載したトライスケルと、その後をのろのろとついていくバイクは、まるで夜逃げのようであった。

ジャマイカの家の前に到着すると、ベルが堰を切ったように家の前のゲートをくぐろうとしたその瞬間、ダディーがベルの首根っこをぐいっと掴んで、引き戻した。初めて見るダディーの険しい仕草であった。それでも家の中に入ろうとするベルを押さえ込んで、雨の中をみんなで家の前で揃い、家の番人をしているジュンさんが出迎えてくれるのを待っていた。
ジュンさんが傘を持って出迎えると、僕とモナが二人並んで家に同時に入るように促された。既に引越しの儀式が始まっているのである。僕とモナに続いて、できるだけ固まってダディーとママ、ベルが後に続く。揃って家に入るのが慣わしらしい。
家の中へ入ると、家中の全ての電気が点灯されていた。ママが前日の夜から、引越しの儀式の準備のためにそうしたらしい。
リビングのテーブルには、セントニーニョの人形が、ロウソクの揺れる炎に照らされ、その前には塩、砂糖、オイル、フルーツ盛り合わせが置かれている。良く見ると、玄関の上にはひとふさの葡萄がぶら下がっており、葡萄の実は13個ついていた。これもママの縁かつぎで、13という数字が僕のイメージとは逆に縁起が良いとのことだった。

家の中に入っても、電気は消してはならないと言われた。他にも色々と注意事項がありそうな気がして、何か間違いを仕出かしそうで落ち着かない。
引越しごの朝食にはホットケーキを用意するそうである。慣わしというと古風なものをイメージしてしまうが、ホットケーキとは如何にもフィリピンである。

「さっき朝ごはん食べたんだけど・・・」と言うと、「あれは早い時間でしょ。もうお腹空いたよ」とモナに言われ、ついでに「イカウはホットケーキ作るの得意でしょ」と、その目が僕に作って欲しいと訴えている。
僕も何か落ち着かないので、それじゃあ作るかとその気になった瞬間、二人は明日の朝まで料理をしてはならないと言われた。やはりまだしきたりというものが、色々とあるらしい。危うく作ったりしたら、ママの縁かつぎやムードをぶち壊してしまう。
結局何もしないで、だまって座っているのが良いという結論に至った。

番人のジュンさんがコーヒーをいれてくれた。それを持ってダディーとテラスに出て、たばこをふかす。
「ここではみんながリラックスできる」と、ダディーは遠くの景色を見つめる目を細めながら、嬉しそうに言った。
「でもダディーとママはまだ引越ししないと聞いているけれど・・・」
「いや、今日からここに寝るよ」と満面の笑みを浮かべ、頷きながらダディーが返事をする。
「でもママはまだ引っ越さないとがんばっているらしいけど・・」
「いや、大丈夫」
何か秘策でもあるのか、その笑顔が自信に満ちている。

モナに確認をすると、ママとダディーが越してくることは知らないと言った。逆に、それはダディーのただの希望でしょうと一笑に付されるかたちとなった。

午前中には、前日購入したリビングセットのソファーと、ベルの2段ベッドが到着した。
家具が入ると、めっきりと住まいらしくなる。ソファーは2階のリビングに入れた。
これまでは、ママの弟のノエルがいつもそこに寝転がってゲームをやっていた場所である。

ノエルはいつの間にかジャマイカの家に住み着いて、以前バイクを使いたい時に、横柄な態度で手を差し出して「キー」と僕に一言言った。はやくキーを出せと言わんばかりのその態度に驚いて、僕がモナに彼の話をしたら、それがあの人のいつもの態度で、自分の物と他人の物の区別が付けられない人間だ、そして怠け者だからあまり関わりたくないという話が飛び出した。

そのノエルも、相変わらずそこに居付いていた。約束では彼がそこに住めるのは、みんなが引っ越しをするまでだったので、僕は黙って様子を伺うことにした。

番人のジュンさんは、家の中の男仕事をずっとやってもらうことになっているので、最初からサラリーを払ってジャマイカの家に一緒に住むことになっている。これから家族のような形の同居人となるわけであるから、リビングでもソファーに座ってくつろいでくれと話しをしたが、彼は遠慮をして、いくら勧めても新しいソファーに座ろうとしない。その隙にノエルがやってきて、我が物顔で長いソファーにでんと横になり携帯ゲームを始めた。自分の物のように使っているそのゲームも、実は我が家のものである。
さすがにモナも、嫌な顔をチラッと見せ、僕も少々カチンときていた。何もせずにただ飯を食い、人のものは何でも自分のように自由に使い、遠慮もけじめも知らない。さて、彼はいつ出て行くのだろうかと僕は思っていた。

しかし意外にも、この話をずはり切り出したのは、本人もいる食卓の席のモナであった。
僕はビコールの言葉がわからないので、モナの一言にみんなが凍り付いている間、「これ美味しいなぁ、マセラムン(美味しい)マセラムン」などと能天気で食事を楽しんでいたのである。

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2010年01月06日

65.洗礼

今年は元日早々から、ユリの洗礼という行事があり朝からばたばたしていた。
前の晩は年が変わる瞬間を祝う大フィーバーの興奮を引きずり、夜遅くまで騒いでいたから、早起きが結構きつい。それでも7時には起床し、朝食後すぐにシャワーをし、そして自分が着る白いシャツをアイロンがけしと、10時からスタートする儀式のためにあたふたとしている。勿論モナやママも、シャワーの後は様々な準備で忙しく、化粧や着飾りにも余念がない。

さてこの洗礼は、日本人はなじみが薄い。ここではバプタイズという。
当初バプタイズと言われ、何のことやらわからなかった。元日早々から、一体何の儀式をやらかそうと言うのかと思っていたが、これのためにセミナーが必要だとか・・。
「マハール、29日セミナーあるけどいい?」
「何のセミナー?」
「バプタイズ」
「それって二人揃って行かなきゃだめなの?」
「オッオー、今年から厳しくなったみたい」

こんな会話を交わしただけで、その時僕は、市役所にでも行くんだろうかと思っていた。

そしてセミナー当日、教会に近くの建物に1時5分前に入った。僕はまだ、これが教会の行事だということに気付いていない。
午後1時からのセミナーだというのに、1時半になっても講師の人が現れず。そしてその時間にも、参加者がチリポリとやって来る。セミナー参加者は、すでに50人ほど集まっている。
「はぁ、市役所の人間からしてこのルーズさだからなぁ、ほんとに参るよ」と1人でつぶやきながら、早く終わらせて帰りたいという想いを募らせていた。日本は仕事納めの日で、出掛けにいくつか仕事関連のメールが入っていたためだった。

1時40分になり、ようやく1人のおばさん、いや、おばあさんと言った方が似合いそうな、眼鏡をかけて上の前歯が見事にない方が、我々の前に立って、何やら騒ぎ出した。
バプタイズのために支払った200ペソの領収書を、一旦回収すると言っているらしい。

この人は講師ではなく、単なる係りのおばさんかと思った瞬間、そのおばんさんと目があった。そして何かを僕に地元の言葉で語りかけて来る。モナがわきで、
「今何時かだって訊いているよ」と教えてくれたので、僕はわざと「1時を40分過ぎました」と大声で言った。会場内に集まった人たちの視線が、一斉に僕に集まった。
そのおばさん、そう言われてから自分の腕時計を確認して、また何やら僕に話し始めた。
「なんだよ、自分で時計を持ってるなら、わざわざ人に訊くなよ」と、僕はモナに言いながらおばさんを無視していると、おばさんはモナに質問をし始めた。

そのおばさん、僕が日本人であることに気付いたようで、僕がビコールの言葉はわかるのかと訊いたようだ。モナがタガログとビコールはわからないが、英語は大丈夫だと答えている。するとそのおばさん、「I don’t know how to speak english」と英語でいい、会場の笑いを誘った後に、「あなたの宗教は何ですか?」と今度は英語で訊いてきた。
僕が「死んだ時にはブッタです。お正月は日本の神様です」と答えると、「あなたはクリスチャンではないのに、あなたの娘をクリスチャンにして問題ありませんか?」と言われた。
少々面倒くさくなっていたが、「ワランプロブレーマ(問題ありません)」とタガログで言うと、「それでは奥さんが後でセミナーの内容を夫に通訳して教えてあげて下さい」と言い、その後また地元の言葉で、会場の参加者に向かって何やら話し出した。

僕はここでようやく、バプタイズが洗礼であることに気が付き、そのおばさんが今日の講師で、今自分のいる場所が市役所の建物ではなく、教会の建物であることを知った。

1時間半のビコール語による講義は、退屈で眠気をこらえるのに必死な時間となった。
セミナー終了後にモナに内容を確認したが、ほとんどが教会の宣伝のような話だったそうである。そしてそこで初めて知ったのだが、1月1日のバプタイズは130人だそうであり、12月24日は300人を越えていたそうだ。タバコシティー周辺だけの話であるから、やはり子供が多い。ここフィリピンでは、少子化などは無縁の国であるかのように思われる。

それにしても子供をクリスチャンにするかどうか、一言僕に相談があっても良いのではないかという気もしていた。もっとも相談されたら承諾するのであるが、僕がクリスチャンではないのに、さも当然のように進める話なのであろうか。後々考えると、講師の方が最初に指摘した「あなたはクリスチャンではないが、子供をクリスチャンにして大丈夫か?」という話は、的を得ていたような気もするのである。

さて当日、10時には教会に到着していた。
タバコシティーのような小さな町でも、教会は巨大で作りが荘厳である。
相変わらず教会は人でごった返していた。当日の洗礼を受ける子供は、特別な服を纏っているのですぐにわかる。
我が子もこの日のために、ピンクのフリルがついた白のドレスを買って着せた。まだ数ヶ月の子供ばかりで歩けるわけではないが、足元にはきちんとシューズも履かせている。
そんな子供を抱いた親が大勢、教会の周りでバプタイズが始まるのを待っている。
この洗礼の時に、子供にニーナ、ニーノも決める。これはセカンドファザー、マザーで、その名の通り、第2の親である。子供の本当の親に何かがあった場合は、親に代わってその子の面倒をみることになる。だからできるだけ経済基盤のしっかりとした人が望ましい。
ユリの場合には、ジャマイカに住む3軒の家の方と、モナの友人でビジネスをしている人にお願いをした。4組のニーナ・ニーノである。
ジャマイカでお願いをした方々は、それなりにビジネスで成功を収めた人ばかりで、儀式の際にニーノの代表としてユリを抱いてくれた人は、マニラ〜タバコ間のバス運行会社社長令嬢であった。それだけの顔ぶれが揃うと、もともと頼るつもりなどなくても、親としては自分たちに何かがあった場合心強く思えるから、良い仕組みであると思える。

儀式では洗礼を受ける子供を母親が抱いて、2列にずらりと並ぶ。そして母親に抱かれた子供の頭を神父さんが順々に触っていく。続いて聖水も同様に、まるで流れ作業のように、聖水を持った神父さんが、それを順々に子供の額へとつけていく。
一通り終わると、今度は子供の父親が抱きなさいと言われる。この際、父親がいない場合には代理の人が抱くということはしなくて良いから、母親がそのまま子供を抱いていなさいと言われるので、父親のいない子供が結構多いということが、この時に分かってしまう。最後はニーナが抱きなさいと言われる。そして子供を母親に返して、儀式は終了となる。
時間にして30分足らずであったが、これでユリは、全く実感はないがクリスチャンになったわけである。

儀式が終わった後は、親戚、御近所、ニーノ・ニーナを軽食に招待する、いわゆるレセプションを開催した。僕は御当地のしきたりなど全くわからないから、全てモナとママに言われるがままにしている。
場所はGRACELAND(グレイスランド)というファーストフード店に予約を入れて、店内の一角を貸切にして行った。

当日来て頂いた方々へお礼をしながら、特にスピーチなどかしこまったことはなく、談笑をしながら食事をするだけである。
時間が過ぎても、予定していた人の半分ほどしか来場しないことに、ママが外で気を揉んでいた。
しかしそれはフィリピンタイムである。しかも元旦早々の話であるから、みんな昼間で寝ているに違いなかった。案の定、結局最後にはほとんど揃ったが、1時間遅れなど遅れのうちに入らないという感じである。
しかし今回わかったのは、社会的に成功を収めている人は、フィリピン人でも時間に几帳面ということだった。そのような人は、教会にもレセプションにも、きちんと最初から顔を出し、すぐにこちらを探し出してまずは挨拶に来たから、こちらも来て頂いたことをすぐに認識できたわけである。その他の人たちとは、少し違った印象である。

僕が座ったすぐ向かいに、僕より若干若そうな男性が座った。自己紹介をされたので、親戚の1人かと思いながら握手を交わし挨拶を返した。
どこかで見たことがあるような気がしていたが、どうしても思い出せない。
そこへモナがやってきたので、彼女に日本語で尋ねてみた。
「僕の前に座っている人、どこかで会っているような気がするんだけど、誰だっけ?」
「彼は家の設計者よ」

それだけですぐにピンと来た。彼は建築デザイナーであり、ジャマイカの家をお願いした人であった。僕は直接会ったことはなかったが、あるきっかけで、以前彼の顔写真を見ていた。
この写真を見た経緯が、実は・・・という話なのである。

ジャマイカの家の設計が完成し、建築に取り掛かった頃、この設計者は工事の段取りや進捗を確認するために、度々ジャマイカを訪れていた。そしてこともあろうに彼は、モナに自分の愛人にならないかと持ちかけたのである。時には海外の仕事も引き受けたりしている人物で、よほど自分に自信があるらしく、最初から妻子がいるので愛人になって欲しいと言ってきたそうだ。
当時僕は、愛人というのは失礼な話だねとモナに話していた。結果的に愛人になるにしても、最初のアプローチの仕方ってものがあるじゃないかと思ったからである。僕が、彼が言い寄ってきたことは全く気にせず、彼のアプローチの仕方を問題したことを、当時のモナは少々憤慨していたことを覚えている。

モナは、愛人などとんでもないし、自分には日本人の恋人がいることを伝えたそうだが、それでも中々引き下がらずに、彼女の手を焼かせた人物であった。
ジャマイカの家が完成していなかったので、無下に扱うわけにもいかず、さりとて要求を受け入れるつもりは毛頭ないので、とても困ったそうである。
だから打ち合わせの時には、必ず家族を同伴させていたらしい。
その手の話のメールが頻繁に来るために、モナは一時、スカイプやヤフーメッセンジャーにログインしている時にでも、他人にはログイン状態が見えないようにしていたくらいである。

彼はモナのフレンドスターから、一度僕のフレンドスターのページを確認しに来たことがあった。僕がモナの恋人と知った上でのことである。その時に、僕は彼の顔写真をパソコン上で見ていた。

そのような経緯のある人物がその席にいるということ自体驚いたのだが、寄りによって自分の目の前に座り、しかも先方から自己紹介をして握手を求めながら、色々と僕に話しかけてきたのだった。彼は自分がモナにしたことを、僕が知らないと思っているらしい。
僕は特に気を悪くしているわけではなかったが、単純にこれが国際社会の厚かましさというものだろうと思った。
モナに、彼がなぜそこにいたかを訊いてみたところ、ダディーが勝手に招待したということだった。ダディーやママは、彼がモナにそのような話を持ちかけていたことなど、全く知らないようである。もし知ったら、きっと激怒するだろうとモナが話していた。


会場にお酒は出していないが、みんなそれぞれが談笑しながら尻上がりに盛り上がっていた。そしてこの盛り上がりが、結局家に持ち越されることになった。
会場を解散した後、数人の親戚がそのまま旧家になだれ込み、そこでお決まりのパーティーが始まった。
男性陣の飲み物は、やはりジンである。当然僕は主役の父親なので、逃げることは許されない。
2日続けてのジンは、まだ肝臓が休まっていない体には重かったが、グラスを口に運ぶ動作が鈍かったのは最初だけで、再び調子に乗り付き合ってしまった結果、あえなく2日連続の撃沈と相成った。
実は僕は、酒には滅法弱いのである。

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エントリー:65.洗礼
2010年01月03日

64.ニューイヤー

明けましておめでとうございます。
年明け早々、2日も更新を休んでしまいまして済みません。
結構忙しい日々が続いています。ふぅ。

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日本で言う大晦日の日、フィリピンではスーパーマーケットが食料品を買う人でごった返し、道路も車や人であふれかえっていた。
家の前にテーブルを出して、仲間と集い昼から酒を飲み交わしている姿もちらほらと見える。
現在住んでいる旧家には、夕方からぞくぞくと人が集まり出した。狭い家に15人ほどの大人や子供がひしめき合う状態になりかけたが、さすがに慣れたもので、大人の男は家の前に仮設宴会場を作り、そこで酒盛りが始まるのを待機している。
家の中では女性陣を中心に、昼からセットアップをしていたカラオケがすぐに活躍し始めた。せまい部屋に、ソファーに座ったり床に座り込んだりと、重なり合うようにモニターと向き合っている。
集まった面々の中には、やはり初めて会う方もいる。それほど人が来るのであれば、ジャマイカの新居で年を越した方が絶対に良いと僕やモナは思うのであるが、ママはどうしても、この古い家で年を越したかったようだ。

外の宴会場は、家の前にある小さな土間にテーブルを置き、あり合わせの椅子を並べた粗末なものである。テーブルの上にはジンが置かれ、簡単なつまみが並べられる。このジンは、80%という超ストロングなお酒。味は日本で売ってるジンと似ているが、松脂のような味がやや足りない。
このジンは飲み方がある。小さなグラスを一つだけ用意し、お酒をついでぐびっと飲み干すと順繰りに次の人にグラスを回す。次の人は同じように、回ってきたグラスにお酒をついで、一口で飲み干す。テーブルには水が入ったコップも用意され、ストレートでジンを飲んだあとに、この水を飲む。つまりグラスを共用し、回しのみのような格好で飲み進めるのだ。
僕も男性陣の端くれとして、外の宴会場に呼ばれた。日本人の僕には専用のグラスが一個用意されている。
すぐ隣に座った叔父さんは初めて見る顔だったが、マニラの洪水時に田舎に帰ってきた叔母さんの旦那だということがわかった。実は僕は、あのおばさんが旦那と別れて田舎の家に転がり込んだのではないかと密かに疑っていたから、最初は少々驚いた。
テーブルのセンターには、豚のから揚げのようなものと、僕のお気に入りのチキン丸焼きやピーナツが置かれ、静かに宴会がスタートした。

そこにいる人たちは、みんなそこそこ英語が話せたので、会話で置いてきぼりにされることはなかった。みんなが気を使ってくれているのか、英語の会話が半分を占める。

マニラから戻ってきた叔父さんが勤める会社の経営者は中国人だそうで、お土産にもらったという中国のお札を数枚財布から取り出し、僕に見せた。中国のお金は元であるが、見せてもらったお金は、ほとんど流通していない角というとても安いお金で、これは高いのかと訊かれ、僕は正直に、これはとてもつもなく安い金で、フィリピンの金額に換算しても、トータルで1ペソにもならないと教えると、そこでみんなが大笑いとなった。
たまたま僕も中国の元をもっていたので、そのお札の1000倍の価値があると言いながら、場にいる人たちに一枚ずつ配ると、みんな有りがたがってそれを自分の財布の中にしまいこんでいた。

フィリピン人は人にお酒を無理やり強制することはないが、僕はなごやかな場の雰囲気についつい調子にのって飲みすぎてしまった。ジンをストレートでグラス5杯ほど飲んだところで、遭えなくダウン。そこで戦線離脱と相成った。2時間ほど眠り、目が覚めたところで吐き気をもよおしトイレへ駆け込んだが、出たのは下の方だけで再び眠りについた。これほど苦しい想いをしたのは、本当に久しぶりである。

夜の11時半に、モナに起された。先ほどの苦しみは消し飛び、気分はすっきりしている。気が付くと部屋の中には誰もいない。客はみんな、それぞれの家に帰った後だった。
年越しは自分の家にいなければならないということである。

僕が起された時には、モナの家族もみんな外に出ているということで、モナに手を引かれるかたちで家の外へ出た。
そこで見たのは、パノラマの花火のオンパレードであった。前後左右で爆竹の音が鳴り響き、そして日本のように規制の無い強力な打ち上げ花火が、あちらこちらで夜空に舞い上がっている。その辺の露天で買ってきたはずの花火であるが、日本でプロが上げる打ち上げ花火のようなものまである。
ダディーも昼に買った花火を、周囲に負けじと必死に打ち上げている。ベルは手持ち花火に火が着くと、それを持って独自のステップを踏みながらぶんぶんと花火を振り回す。無数のロケット花火が放物線を描き、夜空で爆音と光を放っている。サッカーの応援で使うような音の出るラッパをみんなで鳴らし、それが音楽や花火の音と入り混じり、一つの音のかたまりを形成している。暗いはずの一帯が、花火の明かりだけで相当な明るさを保っていた。

まさにそのエリアが一体となった狂乱状態であり、僕はその迫力に目を奪われ、そして圧巻されしばし言葉がでなかった。
はっと我に返って、急いで家の中にカメラを取りに行ったほどである。

クリスマスは静的なお祭りで、ハッピーニューイヤーは動的なお祭りという感じだろうか。いや、実はクリスマスから始まった祭りがニューイヤーまで継続していて、このハッピーニューイヤーで気分の高揚がピークに達すると言った方が適切かもしれない。振り返ってみると、クリスマスからハッピーニューイヤーまで、切れ目がないような気がするからである。
花火をやりつくしたダディーは、次にトライスケルのエンジンをかけスロットルを回しながらエンジン音を撒き散らしている。しかしうるさいはずのエンジン音は、周囲の音にかき消されている。
全ての人の奇妙なハイテンションの中で、僕は鳥肌のたつような、感動に近い驚きをしばらく継続させていた。

1月1日に日付が変わってから30分後、路上はまだ、興奮の坩堝であったが、我が家のメンバーは家の中に引き返した。
それから家族だけのパーティーである。シャンパンを開け、みんな乾杯をした。そして焼きソバを食べる。ダディーが焼きソバを満面の笑みを浮かべて食べながら、これはロングライフの意味があると教えてくれている。そういえば先ほどまで、ダディーと一緒にジンを飲んでいたことを思い出した。自分は途中で戦線離脱してしまったが、ダディーはあの強力な酒をずっと飲んでいたのである。ダディーのテンションがかなり高いと思っていたが、かなり酔っているようであった。もともと色が黒いダディーは、酔っても外見ではわかりづらい。
チキンやケーキを食べ、最後にコーヒーを飲む頃になると、ダディーはフロアーの上で大の字になり、大いびきをかいていた。
近所ではこれからが本番とばかりに、カラオケの音が鳴り響いている。

ほんの数時間で、僕はフィリピンのハッピーニューイヤーの本質を見たような気がした。
フィリピンのニューイヤーは底抜けに明るいお祭りである。
日本は正月というと、過ぎた一年を振り返ってみたり、新しい年の抱負を考えてみたり、また面倒を見ていただいた方に感謝の気持ちを持ったりと、どこか厳(おごそ)かな雰囲気を残したりしているものだが、ここではそのようなものは微塵もない。日本の厳かさは時として煩わしい場合もあるから、ある意味ここのニューイヤーは、気軽に楽しめるとも言える。

ちなみにはす向かいの家は、12月31日の昼からカラオケを始め、終了したのは1月2日の昼過ぎであった。その間絶え間なく、スーパーウーハーから出るお腹に響く重低音を近所に撒き散らしていた。ここまでくると、騒音に苦情を漏らすよりも、それだけ遊びに熱中できる体力に感心してしまう。

現在大学生のモナの従妹が、一緒にビールを飲んでいる時に僕にさりげなく語った。
「フィリピン人はお金がなくても、楽しみ方を知っている。それにお金がなくてもこんな風に家族と一緒にいれば幸せだよ。それがフィリピン人だよ」

21歳でありながらまだあどけない顔をしたこの青年は、傍で見ると子供のように見えるのだが、その話し振りが少し大人びて見えるのことに、僕は不思議な違和感を抱いていた。
そしてこの違和感が、随分昔に日本で働く若いフィリピーナに初めて会った際感じたものと、同種の印象であることにまもなく気付いた。

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