フィリピーナと共に
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2013年06月15日

684.東南アジアのサービス

 少し前の記事で僕は、二度目の帝王切開出産は一度目に切った場所を切れないので、お腹に十字架を背負うと書いた。モナに「フィリピンは絶対に違う」と反論されたことも書いたが、その記事を読んでくれた友人の産婦人科医よりメールをいただき、基本は同じ傷をなぞるように切るので十字架を背負う必要はないと教わった。嘘をまき散らしたことをお詫びし、ここに訂正したい。
 実は僕は、フィリピンの医者を含めた医療をあまり信用していない。それを言えばマレーシアのそれも怪しいと思うところはある。自分に医療の専門的知識がない分、懐疑的になればどこまでも懐疑的になってしまうが、自分の専門分野に限って言えば、フィリピンやマレーシアのレベルは驚くほど低いことがはっきり分かっている。簡単に言ってしまえばレベルが低いという言葉になるが、その実情は単純ではない。なぜかと言えば、僕は頭の良し悪しに関して、両国の人のレベルが低いと思っていないからだ。
 例えばフィリピンのダディについて言えば、実生活の中で見せる臨機応変な知恵に、僕はいつもかなわないと感じる。ダディは人の観察眼も鋭く、僕はそれに共感を抱きながら、自分がどう見抜かれているかを怖いと思うこともある。フィリピンやマレーシアにこのように感じられる人が大勢いることから、頭のできという点で両国の人は日本人と変わらず、当たり前であるが上から下まで似たような分布で揃っていると思われる。

 しかし技術の世界で見る限り、フィリピン人やマレーシア人は明らかにレベルが低いと断言できる。どのように低いかと言えば、第一線で活躍する設計者の専門知識レベルが、日本の工学系学生と同じか、もしくはそれより低いくらいだ。その世界に興味を持つ日本の中学生ならば、マレーシアエンジニアのレベルを上回るだろう。もっと具体的に言うと、回路設計者は電流のプラスとマイナスの考え方が分からない、オームの法則を知っているがそれを使って電流測定できない、電圧と電流の違いを理解していないなど。これを読んだ文系一般の方は俺も知らないぞと言うかもしれないが、電気工学系の方が読めば事態の深刻さにすぐお気づきになるほど、これは基本中の基本である。
 これをこちらの工学セミナーで講師をする日本人の方に話したら、その通りで、授業でもあまりに当たり前のことに対する質問が飛んでくるので、教えるのがとても難しいとおっしゃっていた。しかも生徒は学生ではなく、現場で設計を実践する社会人だと言うから、現場でどんな設計をしているのか疑わしいと付け加えていた。

 基本中の基本は、確かに教えるのが難しい。仮に「電灯をつけたら、なぜ部屋が明るくなるんですか?」なんて訊かれても、ちょっと返答に詰まってしまう。
 それはな、エネルギーの変換というもので、電流を光というエネルギーに変換するわけだが、その時に出てくる波長というものがあってだな、それが物に反射して人の目に飛び込んで、それが再び電気信号に変換されて脳に送られ…などと説明をしていたら、それだけで日が暮れる。
 もし、「う@こはなんで臭いのですか?」などと訊かれたら、皆さんはどう答えを考えるだろうか。人という物は危険なものに嫌悪感を抱くようにできていて、食ってはいけないものの臭いを嫌なものとして反応してしまうんだ、などと説明をしなければならなくなるだろうが、そこに「う@こは危険なものなんですか?」とか「食ってはいけないのですか?」などと追加質問がきたら、話を続けるのが億劫になってくるだろう。「なぜ?」の繰り返し攻撃は教える側にとって辛いもので、そこに物事を掘り下げて考える大切な基本があることは確かだが授業の予定が大きく狂うのも確かだし、実は自分もよく分かっていないのか? などと自己嫌悪に追い込まれる危険もある。

 職場でう@この話は出ないが、回路の話で同じ類の基本的な質問をされることはよくあり、こちらもその度に、素朴に「え?」と驚いてしまう。
 電気回路は一見複雑そうに見えて、実は物まねで随分色々なものが作れてしまう。特に今は便利なIC(半導体集積回路)があり、ICの説明書き通りに回路を作り並べてやれば、大概のものができてしまう。ところが何か問題が発生しそれを克服しようとした時に、基本ができていないと苦労することになる。それがこちらの人は適当にどこかをいじって直ってしまえばそれで終わりで、なぜ問題が起こりなぜ直ったのかを考えない体質があるために、技術の進歩がない。ついでにその直し方が正しいかどうかは怪しいということになる。

 これは前述したように、頭のできの問題ではない。まずは教育の問題で、教える側も本質を理解していないため、教科書に書かれた内容をそのまま学生に伝える形式となっているようだ。教科書の内容に少し手を加え、形、見る角度を変化させて教えることで、学生の理解を深め応用力を養うという発想があまりないように見える。現実に学生のテストは、教科書の一部の数値を変えたものが多いと聞いている。このような教育の仕方や、問題に対する場当たり的対応の背景には育ち方の問題があり、その更なる背景には南国特有の気質がありそうだ。
 企業の実践の場で問題が発生した際、日本人は原因追究がスタートラインでその把握が大変大切と考えるが、その考え方は現地の人間になかなか理解してもらえない。直ればよいではないか、なぜわざわざ仕事をややこしくするのか、結果を示せば自分の責任は果たしたことになると、こちらでは結果オーライの考え方が普通である。問題を掘り下げることが製品の安全性を高め、同時に自分の技術力を高めることに繋がるという考えは、中々受け入れてもらえない。

 これは考え方の問題で民族気質とも関連しているはずだから、そうなれば医療現場でも共通する問題が存在していないのだろうかと僕は疑いを持っている。それが、僕がフィリピンやマレーシアの医療に懐疑的である大きな理由だ。
 しかもそれに輪をかけて困るのは、病院に通う側は医師の言葉を絶対だと信じて疑わないことだ。今回モナは、クリニックから数種類の栄養剤や薬のようなものを渡されたようだが、その一つ一つが大丈夫なものかを僕は疑っている。つまり、摂取不要なものを売りつけられていないか、または安全が確認されているものかについて心配している。それをモナに言うと、彼女は「ドクターが勧めるものだから心配ない」と言うが、医療も商売だ。ビジネスである限り、人道的見地に立ち患者の身になって治療に臨むというのは日本の話で、東南アジアのそれはこれまでお伝えした通り、大変ドライな対応となる。また中国系医師はビジネス感覚が強そうで、メーカーのリベートを念頭に、患者にそれらを売りつけていないかが心配になる。実際にそれを強く感じたのは、ドクターの癌予防注射の強いお勧めで、一回の接種が異常に高かった。それは子宮癌予防の薬と言われたが、日本でそんな話を聞いたこともなかったので、僕は当時、それを怪しいと思った。

 医療についての今回の記述は、多分に自分の懐疑心が生んだ憶測が多く、本当の実態は違うのかもしれない。そこは自分でも確信を持ち述べていることではない。しかし医療についてはお金だけの問題ではなく、場合によっては体に取り返しのつかない後遺症が残るケースも考えられる。よってせめて自分でできることとして、僕はフィリピンやマレーシアで処方された薬はインターネットで詳細を調べるし、医師の指示に疑問点があっても同様だ。これはやって損はないし、自分や家族の身を守るために必要なことだと思っている。日本でもさえも患者側にそれを奨励しているくらいだから、東南アジアでは尚更必要ではないだろうか。

 そもそも人間とは原始の時代から生き延びてきたわけで、身体的に頭脳や耐性を強化しながら進化を遂げてきた。その中で経済が発達し、ビジネスとして本来人間には必要のなかった物が、サービスという形で出回った。元々人は、今世の中にある便利なサービスが無くても生きてこれたのだから、今でも無ければ無いでどうにかなることがたくさんある。命に係ることでさえ、寿命や運命として受け入れてきた時代があったのだから、その手のサービスも絶対に必要ということではない。しかしあって便利なもの、人を幸せに導くものとして、様々なサービスが出回りサービスそのものが進化してきた。
 日本はとりわけ、そうやって生まれた仕事に心を込めるという文化が根付いたから、より人のためになることをサービスに取り入れ、携わる人をもその観点で教育されてきて今がある。
 しかし一歩海外に出るとそれはとても希薄で、とりわけアジアの国々について乱暴な言い方をすれば、原始時代の生活をしている人々のところに、先進国サービスの真似事を持ち込んだようなものである。見える形の部分は持ち込んだが、精神的なものは置き去りにされた。よってレストラン、スーパー、公共施設など、あらゆるところでそれを感じることになっている。
 例えばここでバスに乗る。日本であれば、運転手は乗車した人が席についたことをバックミラーで確認をして発進するが、ここではお年寄りが通路を歩いている最中に平気で急発進をするし、停留所のアナウンスはないし、急ブレーキ、急ハンドルも普通だ。日本で育った自分はそんなことが目につき、日本のサービスとマレーシアもしくはフィリピンのそれにおいて、大きな質の違いを感じることが日常茶飯事である。そんな粗悪サービスに触れるにつけ、仕事に魂を入れることの大切さを痛感しながら、アジアの優等生と言われるこの国でさえ随分サービスが表面的であることを感じている。
 ビジネスはお金とサービスを交換する対等の関係で、当然割り切ってよいという風潮があるのかもしれない。お互いに必要なものを交換するのが大事であって、そこに必要以上に気持ちを込める必要性を感じないということだろうか。だから雇う側は大切なことをマニュアル化し、それもサービスの一環、あなたの賃金のうちと分からせてあげないと、おそらくこちらの人たちはドライな仕事の仕方に終始するような気がしている。

 この割り切りはケースによって許容されるだろうが、健康や命に係る安全面に同じように適用されると、利用するこちらには慎重になる必要性が出てくる。これらをよく理解し、粗悪サービスに腹を立てず、自分の責任で必要なことをカバーするという態度が必要なのだろう。
 フィリピンにいるモナに僕は、妊娠に際し、体に障るから考えすぎるな、心配するなと言いながら、実は僕の方が心配でいろいろこのようなことを考えてしまう。食欲が減退していると言うモナに、食べたいものを食え、お金がかかってもよいと言いながら、僕は休日用の食パンを買ってきた。
 最近床を掃除しながら、また抜け毛が増えていると感じている。このまま考えすぎていると、次回フィリピンに帰った時に、カバナのSさんにますます親近感を抱いてもらえるかもしれないと少し嬉しく思いながら、抜け毛予防のことを考えている土曜に昼下がりだ。
 個別に関わる東南アジアの人たちは優しく気遣いもできるのに、なぜ仕事になると一変するのか、理屈をこねて分かっているような僕でも実は分からない。マーガリンとジャムを挟んだ食パンを食いながら、ずっと首を捻っている。



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2013年06月14日

683.現地採用者の愚痴から

 週始めのドタバタ劇は既にお知らせした通りだが、その日の夕方、現地採用日本人の方が僕のところへやってきた。彼はまだ三十四歳。役職ではなく、毎年契約更新確認面接をどう乗り越えるかで鍛えられている方だ。ご本人は、自分が今の会社で虐げられていると思っている。
「マークさん、今度の日曜日にソフトボール大会があるんですよ。もし興味があれば出ませんか?」
 あまりに午前中の出来事とギャップがあり、僕にはそれが、たいそうほのぼのした話に聞こえた。
「面白そうですね、ただねぇ〜、僕は今日、首を宣告されたんですよ」
 人の驚く様子を見るのは面白い。その人は目を丸くして「えっ!」と言ってから、数秒間言葉を失った。あえてその方に正確な情報を伝えず、僕は続けて言った。
「そんな人間がそんなところに出かけていいんですか?」
 気を取り直した彼は、「マークさんが良ければ構いませんよ、いや、是非来て下さいよ」と言ってから、「でも首って、この首?」と、自分の首をかくしぐさをした。
「この場合、それ以外の首ってあまり思いつきませんけど」

 彼は僕に何か言葉をかけなければならないと思ったのだろうか、冗談でその場を取り繕うか、正面から励ましの言葉をかけるべきか、そんなことで戸惑っているのが表情からうかがえた。そんな困惑の仕方で、その人の気持ちや性格が見えてくる。そのあと僕は、彼の現地採用の悲哀を一時間近く聞くはめになった。
 最近マニラの在比邦人の方が出すブログを楽しく読ませていただきながら、僕は現地採用の厳しさに溜息をつくことがある。海外も厳しく日本も厳しい。特にこれからという若い人にとって、受難の時代になったと感じる今日この頃だ。三十四歳の彼の話はまさにそれで、このまま漂流していたら自分に何も残らず、使い捨てされた時に自分が身動き取れなくなると焦っている。キャリアを積まねば次につながらないが、今はキャリアを積めない無駄時間をむさっぼっていようで辛いと言っているのだ。僕はそんな彼に助言できるものを何も持ちあわせていないが、そもそも僕も他人に助言している場合ではない。そこで僕が無理に偉そうに何か言えば、せっかくの彼の励ましに水を差すことになる。お互い大変ですなぁということで、僕は彼の聞き役に徹して話を終えた。そして次の日曜、ランチ弁当目当てという名目で、僕はソフトボール大会に参加することになった。

 僕はこのマレーシアで、短い期間に数名の日本人と仕事を共にした。僕と同じような、ある種のサポートを依頼され入り込んだ方々である。何か肩書きを持った人がばかりだったが、その方々は短期で次々と仕事場から姿を消した。
 その方々には、見事なほどの共通点があった。それは、大方の人が肩書きや過去の栄光で仕事をしようとするのである。自分は過去、こんなすごいことをした有名大企業の上級役職者で、何人もいた部下を自在に操り多くの実績をあげたと直接または間接で誇示し、そのことで人の関心を引こうとしたり、自分の考えの正当性を相手に植え付けようとした。しかし大切なのは今何をどうするかであって、現地設計者やスタッフは助っ人の過去の栄光などまるで興味がない。彼らは自分が助かるかどうかが全てで、ただそれだけを見ている。いくら大物ぶっても、ここでは自分自身が動かなければ何も生まれず、机上論をいくつ並べても事態は改善されないが、そこはなんでも部下にやらせてきた人ほど勘違いが激しく、理屈を並べて仕事が終わりと思っている。だからみんな、立派なレポート作りに異常なほど神経を使っていた。会社の看板で仕事をしてきた人は看板の実力を自分の実力や人望と勘違いしている人も多く、その傾向が顕著だった。それを僕にも強要しようとした人には、「僕の仕事はレポート作りではないですから」と嫌味を言ったケースもある。

 ここは、従順で優秀なスタッフが揃う日本ではない。現地の人は元々動きが鈍く、自分が動くことで周囲を動かす誘い水が必要だ。それがないと何も回り始めない。そして一〜二か月もしたらぼろが出て姿を消す。その方々には立派なキャリアはあったのだろうが、役に立たないキャリアをキャリアと呼べるのか、僕は三十四歳で悩めるその方の話を、姿を消した方々の言動と重ね合わせて聞いていた。確かに肩書きや過去の栄光は転職やサラリーアップのきっかけになる。しかし実力が伴わないと、仕事の継続が難しい。それだけ世の中がシビアで厳しくなっている。海外は、とかく簡単な数字や法則・経験則で人を判断する傾向も強く、なおさらそうなりやすい。

 では、ここで言う実力とは何だろうか。姿を消した方々には、素晴らしい知識に裏付けされた技術力を備えた方もいた。しかしそのような人も、どこかで躓いているのだ。原因は一見、言葉の壁によるコミュニケーション問題のように見えたケースもあれば、書類の体裁を整える仕事に終始して、何やってるの? となったケースもあった。しかしもう少し掘り下げてみると、失敗の原因はもっと単純で原始的なところにあるように思えた。
 一つは我が強すぎて、自分のやり方を無理矢理押し通そうとする失敗。国の文化や会社文化を理解せず、いつも上層部に、得意げなダメ出しと理想論を唱えだす。その口頭報告だけで心象を悪くする場合もあるが、よく聞いていればダメと言ってばかりで、だから? それで? と言われたらどうするのだろうと心配になるケースもある。そしてもう一つは、何事にも他人事で臨んでしまう失敗である。要は一生懸命さ、真剣さが足りないということだ。真剣みというものは言葉の壁があっても伝わるもので、それが伝われば現場の人たちは話を聞くし協力してくれる。逆に一旦他人事で関わっているのがばれると、周囲の反応は途端に冷え込む。それで現地の人たちが動かなければ結果が出ないのは当たり前で、結果どころか変化の兆しさえ見えてこないことになる。当然継続は無駄だと判断される。

 なんだ、そんな簡単なことかと思った方は要注意だ。真剣にやる、一生懸命にやると言うのは意外に難しい。所詮それが他人事であるのは事実だし、自分が可愛ければ渦中に飛び込むのもためらわれる。ついでにどう動いたら良いかに迷いが出ると、ますます動けなくなる。そんな時には、何か手伝うことがある? 何でも言いつけてくれと御用聞きをするのが簡単だ。仮に技術面で追いつかないことでも、何とか手助けをして窮地を脱しようという態度は、言葉以上のコミュニケーション効果を生むという点で重要だと思われる。

 もうじき三十五歳になるその方は、そんなところが分かっているだろうか。彼はキャリアを積むということを、特殊な技術の習得だけと考えているようにも見えたが、集団で仕事を効率よく進めるという観点で考えれば、色々な勉強がどこにでもあるものだ。要はそれに気付くか気付かないかである。よってキャリアを積める人とは、おそらくどんな環境でも積めるものだ。会社がそれを認めなくてもそれが個人の中に蓄積されたらそれで良く、キャリアとは本来そういうものであることは、誰でも知っているはずである。
 これは大切なことでありながら、しかし口で伝えてもくだらない説教になってしまうだろう。「一生懸命やることが大事なんですよ」なんて真顔でアドバイスをしたら、「はあ?」と思われるだろうし、補足で余計なことを付け足すほど「この人大丈夫か?」となりかねない。
 ソフトボールに誘ってくれ、しかも日曜は昼食代まで浮く予定だから、義理堅い僕は是非そのお礼をしたいと思っているが、それは説教ではなく別のことで返そうと思っている。
 本日はついつい、その方に言えなかったことをここで偉そうに語ってしまった。言うのは易く行うのは難しで、言っている本人もかなり怪しい。単なる意識づけとして読んでいただけたら幸いである。



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2013年06月12日

682.身軽に生きたい

 マレーシアの和食レストランが不味いことを以前からお伝えしていたが、その理由が分かった。理由の一つは豚肉を使わないからで、それは前から感づいていたが、もう一つの理由は不味くても客が入るからである。
 なぜ客が入るのか。それはマレーシア人がお金持ちで、高めの和食レストランで気軽に食事をできるからだ。つまりマレーシア和食レストランのターゲットは日本人ではなく、主にマレーシア人なのだ。それを裏付けるように、本当の和食の味を知る日本人が不味くて高いから行かない店でもマレーシア人で大繁盛。特に休日は和食レストランの前に、現地の方々の行列ができている。そこに日本人は、いても一人か二人。客のほとんどは中国系マレーシア人だ。
 ちなみにここで言う不味いとは、何千円も払ってこれかよ!という話であって、もっと安ければ十分美味しく食べることができるレベル。フィリピン田舎の「なんちゃって」和食レストランとは、「なんちゃって」のレベルが違う。

 これがマニラの和食レストランならどうだろう。最近はローカル客が増えたようにも見えるが、それでも日本人にそっぽを向かれたら店は大打撃で、その分味付けに真剣に向き合わざるを得ない。そんなマニラの和食レストランを、日本人は不味い、美味いと比較評価するが、僕に言わせれば日本人をターゲットにしたそれらはどれも上等で十分美味しい。フィリピンで生ものを食べるのは賭けだと言うが、それだってマレーシアの刺身はとても高くて不味く、マニラで食べる刺身が恋しくなるほどだ。(安全と美味しい不味いは、また別物だけれど)

 世の中いつでもどこでも何にでも、上には上があり、下には下がある。欲を言えばきりがないし、今ある環境をできるだけ満足して生きた方が、人生得だなと思ったりする。
 そんなことを考えていたら、レストランの味を云々すること自体が、どうしようもないほど贅沢なことに思えてきた。お腹を一杯にできることがどれほど幸福なことかを、僕は忘れかけている。初心を取り戻そう…、そんなことを言う歳でもないが、そんなことを考えさせられる出来事もあった。
 
 昨日朝、今働く会社の経営層の方から突然呼び出しを受けた。呼ばれたのは契約で働く僕ともう一人の日本人。雰囲気から普通の話でないことが察せられたが、二人の前に座るその方の口から開口一番、「今の業務を今日で停止させて欲しい」という、自分たちへの首宣言が飛び出した。ショッキングな結論を最初に伝え、そのあとで色々な言い訳をおっしゃっていたが、僕は言い訳の部分を右から左に流しつつ、さっきの「今日」というのは聞き間違えか? を考えていた。そんな重大なことを今日の今日で言うのか? しかも海外へ呼び寄せておいて…。おそらく聞き間違いだろうなぁ。
 ショックを和らげる自己防衛なのか、僕は本当にぼんやりとそんなことを考えていた。でも今日と言うのは聞き間違いではなかった。
 首の言い訳を聞き流していたのは、その会社の資金繰りが苦しいことを僕は知っていたからでもあった。資金繰りが苦しくなれば経費節減を考えるのが普通で、経費節減となれば非正社員を切るのが手っ取り早く効果が上がる。先は長くないかもしれないと感じていた。
 先日フィリピンに住むSさんと電話で話した時に、たまたま「自分はいつ首を切られてもおかしくない身の上不安定な人間だ」という話をして、「またまたご謙遜を」みたいなことを言われたが、僕は謙遜や冗談でなく、あり得ることとして真面目話していた。それがこれほど早く現実のものになるとは思っていなかったが、近いうちにはあるかもしれない可能性を感じていたのである。

 会社の資金繰りが苦しいのは、顧客で問題が続出し、製品をいくら売っても儲からないからだと、僕は経営者の話を聞くまでもなく分かっていた。だからこそ自分たちがいるのだが、どうやら耐えられなくなったのだろう。つい先日、その経営者の方を交え今の仕事をしばらく続けてもらいたいと決まったばかりだから、会社オーナーの気まぐれか何かで急転直下の判断が下ったのかもしれない。
 さて次にどうするか、僕はそう思いながらも、しばらくフィリピンに帰れるかもしれないと、ちょうど家族が恋しい病にかかっていたのでそんなことも考えていた。もう一方の日本人は、話が終わったあと憤慨気味に「今日はないだろう」と話したが、それには僕も「アイ、アグリー(同意)」と、気の抜けたコーラみたいな平たい調子で答えた。僕はがっかりしていたのでも憤慨していたのでもなく、次のことを考えなきゃならんなぁと思っていたのだ。なにせ来年早々に、また子供が生まれる。今することは次のことを考えるのみだと、そこに神経を集中させていたこともあり、僕はなにやらぼんやりとその人の話に受け答えをしていた。

 机に戻り少しすると、会社の日本人部長から会議室に呼び出しを受けた。早速再度の説明か? それとも引き継ぎの話か? と思ったが、呼ばれたのは僕一人のようだった。会議室には部長さんより一つ偉い人が既に座っていて、部長さんが話を切り出した。
「契約のことで話がありましてね、最近契約以外の仕事もしてもらっているので、内容を見直す相談をしたいんですよ」
 はあ? 何寝ぼけてんの? 僕は続けて話そうとするその人の言葉を遮った。
「僕はついさっき首を宣告されたばかりですけど、それ、知ってます?」
 少し偉い人がその話で固まった。彼は目を点にして、横に座る部長さんの顔を無言で見た。部長さんはまるで動揺していない。この人は何かを知っている。
「何か間違って伝わってますね。はっきり言えば、@@さんにはお引き取り願おうという話で、二人一緒の話ではないですよ。実は土曜日いきなりそのメールが入りましてね」
 部長さんが事の経緯を説明し始めた。元々今やってもらっている仕事は三月に終了する予定のもので、会社のオーナーからそれが五月も継続になっているのはおかしいという話が出たらしい。しかしつい先日、今の業務をもっと強力に推進しましょうと、会社の経営層も含めて確認が取れたばかりであることを僕は言った。その確認会議に同席した少し偉い人は大きく頷き、部長さんを見つめることで彼の話の続きを促した。
 部長さんはその確認会議に欠席したので、逆にその話に驚いた。つまり話の方向性が時期や人で出鱈目と言ってよいほど不規則、無秩序で、何が本当で何を信じて良いのか分からない状況なのだ。
「とにかく新機種の開発はこのまま継続、マークさんには残ってもらいたいんですが、それ以外のお願いしたいことが発生した場合に備え、契約内容の限定を緩めたいんです。これは今朝、上から指示されたばかりです」
 指示した「上」とは、さきほど僕たちに首を宣告した人だ。間違って二人を呼んだから、言い方をぼかしたのだろうか。それにしても、説明に何かごまかしがあるような気がした。結局トータルコストを削りたくて仕方がないのだ。こちらは、コストでは妥協できることとできないことがある。

 一旦首を覚悟し次にどうしようかを考えた僕は、少し強気になっていた。これをよい機会かもしれないとも考えた。
「継続と言われても、新規開発の件は金額もまだ合意できていないじゃないですか。それがはっきりせずにこれだけ進んでしまって、一体どうするんですか? そこをはっきりさせてもらわないと、こちらは継続するかどうかの判断をできませんよ」
 なぜか立場が逆転したかのような話しになっていた。
 これまでグレーな部分を残して仕事を継続できたのは、開発業務とは別にコンサルティングフィーの支払があったからだ。しかし話の筋を整理すると、コンサルティング業務は打ち切りたいということだ。それを打ち切るのであれば、開発業務の合意金額を明確にしなければならない。一応こちらも予算というものを考えている。開発業務はこちらの提示金額と先方の予算がまるで合わず、取り決め金額が宙に浮いた状態で設計だけ進行している。僕は正直に、開発業務金額が折り合わなくても、コンサルティング業務で調整できると思っていたからそちらの判断を待っていたと言った。もし開発業務の金額を大きくたたかれるようなら、開発の継続を断念せざるを得ないとも言った。
 最後に提示したこちらの見積もりは見直しを重ねたぎりぎりの金額で、これ以上はびた一文まけられないこともとっくの前に伝えている。当てはなかったが、金額が折り合わなければ設計資料を引き継ぎし、僕はもっと割のいい仕事に移動することも匂わした。これは完全なハッタリだった。
 しかしこの金額交渉ではこちらの言い分がいくらでもあり、以前その部長も納得したのである。交渉の争点は簡単で、先方の予算はローカルエンジニアを雇った金額で考えており、こちらは日本人価格で考えているのだ。見積もり工数が一致しているので、ちょうど人件費分の違いが浮き彫りになっている。よって僕は以前、その金額でやりたかったらローカル設計会社に依頼すべきだと言った。ならば話は早い、日本人にお願いしたいのに支払金はローカルと同じなんていうのは虫が良すぎだろうということだ。そんな簡単な争点だから、日本人部長さんは反論できないのである。

 打ち合わせは契約内容見直しの話を棚上げし、「設計業務金額を決めるよう社内調整する」「会社が自分に求める業務を明確化する」「見積もりを下げたいならば下げるための提案を考えてもらう」を今週いっぱいでお願した。そして来週初めにもう一度再協議である。
 これで先方は、真剣に費用と効果を天秤にかけて考えることになる。自分の首を絞める結果になったのかもしれないが、飼い殺し(要求がエスカレートし支払をけちる)は困る。仕事というものはキリの良し悪しがあり、不満があっても仕事を止められないことがあるのだ。

 このような話で始まった今週、仕事に対するモチベーションが急激に下がった。一度なりともフィリピンに帰れることを考えたせいで、それがヌカ喜びに終わったからだ。同時に、あらためて自分の不安定な身の上を考えさせられた。もっとも最近は、それを前提に自分の人生を考えているようなところがあり、なんとかしようと思えばなんとなるだろうと考える自分がいる。
 
 こんな話が出る前、僕はたまたまあることを考えていた。
 最近マレーシアの住まいにはインターネットが開通し、IPTVも見られるようになった。こうして生活が便利になり、マレーシアに降ろしたアンカーが強固になっていることを実感しているが、そうなるほどここを引き上げる際、これら生活インフラにどう始末をつけるかが憂鬱になる。
 僕は一度、今後はできるだけ欲を捨て、なるべく身軽な生活スタイルを目指そうと決めた。それは断固とした決意ではないが、できるだけそんな風に生きようと思ったのだ。だから僕は、あまり自分の贅沢品を買わないようにしている。それにやや逆行するような現在の生活は、また贅沢に自分が埋没してしまいそうで不安を感じることがあるのだ。一度身につけた贅沢は、その後の自分の心や行動を縛ることがあるからである。
 特に不安定な身の上である限り、僕は贅沢を控え、できるだけ精神的に身軽でいたいと思っている。贅沢ができなくなった時に自分を不幸と感じたら、それは最悪だ。贅沢などしなくても世の中に幸せはたくさん転がっているし、そう思える人の人生はきっと楽で楽しいものになる。
 そして結論は、そんな人生を実践できる国として、フィリピンとは都合の良い国だと思っているということだ。それは、そんなことを生身で分かっている人々が、周りにたくさんいるからである。
 もちろん…、全部の人ではないけれど(笑)



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