フィリピーナと共に
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2013年05月11日

678.ベルの誕生日

 火曜日の朝会社のオフィスに到着し鞄の中からパソコンを取り出すと、もれなく付いてくるおまけのように、一つの布切れがパソコンにくっついてきた。「なんだ、これは?」と目の前で広げるとそれは自分のパンツで、まだ鞄の中に残っていたシンガポール旅行の残骸だった。僕は慌ててそれを丸め鞄の中へ戻してから、思わず辺りを見回して誰もこちらを見ていないことに安心し、鞄の中のそれが着用前であることが分かると、それにも不思議なくらい安堵した。
 そんなどっきりで今週の仕事がスタートしたが、僕は旅の疲れを引きずり、最初からその日の仕事は大いに手抜きをしてさっさと切り上げようと思っていた。しかしそんな日に限ってそうならないのがまたしても不思議だった。

 そもそもシンガポールに旅立つ前日からミソがついていた。前日僕は、どうしても完了できなかった急ぎの仕事を旅先に持っていこうと決めて帰宅した。完了しなかったのには理由があって、突然パソコン付属のポインターデバイスに不具合が発生したのである。普段からマウスを使用しない僕は、パソコン付属のポインターデバイスがいかれるとどうしようもない。しかし僕は帰宅後それを直し、できればシンガポール出発前に仕事を片付けようと、夕食後すぐにパソコンに対して悪あがきをした。すると必要なアプリケーションが全て消滅するという被害の上塗りをしてしまい、僕の最新鋭パソコンはメールもできない鉄くずになり下がった。メーラーやワード等のオフィスディスクは会社の机の中に置いてあったので、そこで万事休す。パソコン音痴の僕は、やはり一人で込み入ったことをしてはならなかったようだ。(Windows8は勝手が変わり慣れるまで大変)そして僕はめでたく、シンガポール家族旅行の最中、仕事という野暮な行為をしなくてよくなった。

 そんな成り行きで僕の今週の仕事は、まずパソコンを復活させることから始まった。仕事をマイナス位置からスタートするような気分で、僕は今週、怒涛のように忙しい日々を何とか週末まで持ちこたえ今日に至っている。と言っても月曜は仕事を休んだので、今週は四日しか働いていない。休みのつけが回り、昨日金曜日は珍しく残業になってしまった。
 僕の普段は、いくら仕事が忙しくても帰宅時間は定時である。残業をするのはのっぴきならない問題発生時で、昨日はそののっぴきならないことが起こってしまったからだ。普段家では、プールに行きたい子供たちが、首を長くして僕の帰りを待っている。それが分かっているから、帰宅は極力早くするようにしている。
 ベルもあの事故のことなど微塵も感じさせないほど、連日プールに入って元気に泳いでいる。今週はベルの歯科治療で無保険のため500リンギット(15000円)も徴収されたが、それでもまだその程度で済んでよかったと思えば高いとも感じない。ただしそれを安いと思い込んでいるだけの話で、その金額は財布に痛いことに変わりない。特にシンガポール旅行で散財した後であるから、普段よりも骨身に浸みる出費である。

 二泊三日で行ったシンガポールは、あまりに物価が高くて驚いた。ホテルは予約時から高いと思っていたが、高いのはそれだけではなかった。シンガポールのチャンギ空港到着後に軽く腹ごしらえをしようとハンバーガー×1、ドリンク×1、ポテトフライ×1をフランチャイズバーガー店で頼んだら、13シンガポールドル取られた。13という数字に何か安い感じがしたが、iPhoneで円に換算してみたら1000円もすることに驚いた。(円安だから円換算はなおさら高く感じる)
 ホテルに到着後、モナの強い要望で隣接するモールの吉野家に行き三人分の食事を頼んだら今度は25シンガポールドル(2000円)もして、ここでようやく僕は、家族揃ってデンジャラスゾーンに入り込んでしまったことを本格的に感づいた。食後にホテルのコーヒーショップでケーキを買ったら一切れ650円。二切れ買って部屋で食べてみたら、モナとベルが「美味しい〜、天国だぁ〜」などと大げさなこと言って喜ぶので、ついついサービスで、僕は一人でエレベーターに乗り、追加でもう二切れの買い出しに出かけた。夕方にはホテル近くの観覧車に乗ることになっていたが、一人の乗車賃が35ドル(2800円)と聞いて我が耳を疑った。「ただの観覧車だ、3.5ドルの間違いだろう」と思ったが、乗車券窓口で確認すると本当に35ドルだった。ちんけな観覧車に家族四人で乗っていくらになるんだと思ったら、両親+子供一人のファミリーパックだと75ドル(6000円)で、それにもう一人のお子さん分を買い足すとお得と言われ、開いた口が塞がらなくなった。そのエリアでの食事も一万円(この食事が軽食程度)と、三歩歩くと一万円が飛ぶような錯覚に陥るほど、シンガポールはお金のかかる都市になっていた。
 僕はかつてシンガポールを何度も訪れているが、これほど物価が高かったのかまるで記憶がない。かつては一人だったから、単に気にならなかっただけだろうか。翌日のユニバーサルスタジオ一日券は事前に家族分購入済みだったが、これも四人で2万円近く支払っている。
 つまりシンガポールでは、食事を軽くとって家族四人で8000円〜10000円/一回、ホテルは一泊25000円+子供の朝食代だが、ケーキなどホテル内の利用料金の類は全てニコニコ現金払いしたにも関わらず、チェックアウト時のトータル支払額は二泊65000円で予定より10000円高かった。(税金、他が加算)これ以外にも飛行機代、タクシー代、お土産代、ちょっとした飲食代等々、とにかく家族揃って外国人観光客並みの行動をしていたら、お金がかかって仕方がなかった。

 元々一番の目的であった肝心のユニバーサルスタジオは、モナやベルやユリが大いに満足していた。ユリは身長制限で過激な乗り物に乗れないが、元々ベルも絶叫マシーンは敬遠する口である。それよりもショーを見たりキャラクターのかぶりものと戯れたり、3D画像の映画を観たりする方が楽しいようだ。乗り物は二人ともまさしく子供だましのものを十分楽しめるようで遊び応えはあったようだが、子供だましのアトラクションでも結構並ぶ必要がある。帰り間際にユリは疲れて僕に抱かれていたが、抱かれながら「疲れた〜」と言ってモナやベルの顰蹙をかっていた。モナとベルは「抱かれていながら何が疲れるのか、私たちの方がずっと疲れている」と言ったが、一番疲れているのは二十キロ近くあるユリをずっと抱いて歩いている僕のはずである。終始ご機嫌だったユリは帰りの電車の中で、僕に抱かれたまま熟睡した。当然ベルも疲れていたが、普段歩きなれていないフィリピーナのモナにも一日歩き回ったことは相当こたえたようだ。それでも二人ともまたすぐに行きたいほど楽しかったと話していたから、十分家族の思い出になったようだ。

 実はこのシンガポール旅行、ベルの誕生日祝いを兼ねていた。本日五月十一日は、ベルの十回目の誕生日である。そのため昨日夕食後、僕はベルとユリのリクエストで誕生日用のスパゲッティーソースを作った。今朝は朝からミニパーティー用の買い物に行き、昼食のサンドイッチを作り(僕が)、ベルに誕生祝の手紙を書いてようやく一息ついたところでこれを書きだした。
 シンガポール旅行で大枚を使ったのだからここでの誕生祝はほどほどにしようということで、本日はケーキ、スパゲッティー、モナのコロッケという簡単なメニューの予定となっている。軽く食べた後はコンドミニアムのプールで遊び、外へ出掛ける予定もなくのんびりした誕生日にしようということだ。
 プレゼントは家族各々が、ベルにお祝いの手紙を書くことにした。ユリは家族の絵を描いて封筒に入れていた。僕はベルに言いたいことがたくさんあって悩んだが、結局どうしても言いたい一つのことに集約されるので、それを書いた。それは「あなたをかけがいのない自分の娘だと思っているから、そのことを良く理解して欲しい」ということである。もちろんストレートにそのように書いてはいないが、それがくみ取れるような文章にしたつもりで、英文なので三十分ほど悩んで書いた。

 昼の手作りサンドイッチが意外に腹持ちよく、現地時間の三時を過ぎてもまだお腹が空かない。ユリは先ほど買ったアングリーバードのケーキを食べたくて我慢できないとせがんでいたが、ケーキを料理と並べて記念撮影したいモナが「あとで」となだめていた。
 今朝は早くにフィリピンのママから電話があり、「ベルがここにいなくてもフィリピンの家でスパゲッティーを作りベルの誕生日をお祝いする」と言っていた。
 このような出来事の中で、二週間前の事故で一歩間違えば、ベルは十年の命さえ全うすることがなかったのかとしみじみ考えさせられた。それがシンガポールという国を見ることができ、そしてマレーシアでの生活を引き続き体験している。家族は日常の幸せを感じながら、平和に暮らせている。家族がマレーシアに来てから、僕はこのような日常にこそ、人の幸せがあるのかもしれないと度々感じている。

 家族の帰国は六月に入ってからすぐになる。ユリはパパを一人で残して帰るのは可哀そうだから一緒に連れて帰ろうと可愛いことを言ってくれているが、再びこの広い部屋が静かになれば、僕は一体どんな心境になるのだろうか。家族が合流する前は散々マイペースでのんびりしていたのに、今は一人になった時のことをまるで想像できない。寂しくなった頃、Nさんが遊びに来てくれるようなことを言っていた。
 そう言えばNさんの冒険も、不思議なトンネルに入り込んでいる。フィリピンのNさんのお相手から僕に直接連絡が入り、その後Nさんから、連絡がいきませんでした? と連絡が入った。その後どうなったのか詳しく話を訊いていないが、少し気になっている。

 ここ二週間で、他にも少々事件と呼べる出来事が起こっている。
 一つはマヨン火山の噴火で、タバコの自宅にフィリピン日本大使館から安否確認の電話が入ったようだ。その前に邦人被害者なしと発表されていたような気がしたので、そのタイムラグにややいい加減さを感じたが、とにかくモナや子供たちはマレーシアにいるし、タバコの家族も全く他人事のように噴火の話をするくらい平常状態のようだ。前回の噴火時もタバコは被害がなく、これまでの歴史からタバコはマヨン火山の被害エリアではないということになっているらしい。
 もう一つの事件は、タバコで子供誘拐事件の被害者が二名出てしまったことだ。この誘拐事件は、フィリピン全土の子供を持つ親を震え上がらせている。なぜなら、誘拐された子供が確実に殺されるからだ。姿を消した子供はいずれも、内臓を取り出された無残な状況で数日後に発見されている。つまりこれは臓器売買シンジケートの仕業で、この事件は昨年からフィリピン全土で発生している。目を付けられた子供は犯人から執拗にマークされ、連れ去るタイミングを見計らって犯行が実行されるようだから、一度目をつけられたら大変だ。臓器を売る際、それが健康な子供から取り出したものである必要があるようで、狙われるのは中流以上の家庭の子供という噂まである。それが身近で起こったというのは寒気を催すほど嫌なもので、フィリピンの警察にはいち早く犯人グループを摘発して欲しいと願っているし、モナにも帰ったら十分気を付けるように話している。フェイスブックに迂闊に子供の写真や個人が特定できる情報を載せることも要注意だ。

 改めてフィリピンという国の恐ろしい一面を思い知らされている気がしているが、アジア優等生のマレーシアでも面白いことが起こっている。それらはまた追々、紹介していきたい。
 とにかく本日久しぶりの投稿で、家族が平和で元気にやっているということをお伝えしたかった。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:678.ベルの誕生日
2013年04月21日

677.生と死

 今日は僕やモナにとって、あまりに衝撃的で悲痛だった経験を書こうと思っている。普通の記事を書こうにもそれを書く気分にもなれず、またここまで実生活の様子を書いてきた自分として、今回の大きな事件を外して今後を書き続けることができないからだ。そしてこの事件は、自分がモナと築いた家庭に何か変化をもたらしそうな内容であり、やはりこの件は書き留めておこうと思った。モナも今回の事件に関しては、自分たちの中で何か変化が起こりそうだと話していた。最初はモナの意味するところが僕にはよくわからなかったが、今は理解できている。それは自分たち四人家族が、誰一人欠けても成り立たない本当の家族になっていることを、まざまざと実感させられる事件だったからだ。

 マレーシアに家族が来てから二週間が経過した。職場から家に帰れば家族がいて、ユリはすでに水着を着用して僕の帰りを待っていてくれる。そんな時はさっさと食事を済ませ、僕は子供たちをプールに連れていく。プールに入って子供の相手をしていると、気持ちがリフレッシュされたように心地よい疲れが体に残り、夜は熟睡できるしその分翌朝の目覚めも快適だ。僕はそのような、十分に幸せを感じる二週間を送っていた。

 4月18日の木曜日、仕事中に珍しくモナから電話が入った。今は会議中で話ができないことだけを伝え電話を切ると、そのあとすぐに、今日は夕食を外で食べたいというメッセージが入った。ベルがピザを食べたいと話しているらしく、僕はすぐそれに「いいよ」と返した。その時僕の頭の中では、どのレストランに行くか決まっていた。自分たちの住まいから大きな道路を一本挟んだ向こう側に、新しいレストランがたくさんオープンしていたエリアがある。その一角にあるピザ屋さんが美味しいことを僕は知っていたのだ。僕はモナに、この二週間で普段の買い物ができる場所、マックやケンタッキーや美味しいドリンクの場所、大きなモールの場所などの主だった場所を教えていたが、道路の向こう側についてはまだ案内していなかった。家からの距離はとても近い(歩いて五分)が、そこに行くまでに大通りを渡らなければならない。しかしその大きな道路に横断歩道がなく、もちろん信号などもない。マレーシアは道路を人が歩くということを考えていないようなところがあり、車中心の道路作りがされている。よって歩道がない場所も珍しくないくらいで、歩行者が渡るための横断歩道や歩行者用信号は極端に少ない。
 その大きな道路を渡るのはたいして難しくはなかったが、僕にはモナが一人で二人の子供を連れていくのに不安があったため、僕はその場所の案内を躊躇して先延ばしにしていたのだ。しかしモナもこちらの生活に慣れてきたことだし、僕はベルのピザが食べたいというそれを、一度そのエリアに家族を連れていく良い機会だと思った。

 夕方家に帰り、早速家族四人でレストランのあるエリアに向かった。問題の大通りは片側四車線、合計八車線で、道路の中央に大人が二人並んで歩ける程の分離帯がある。帰宅ラッシュ時で車通りは多かったが、渡ろうとする場所はそこから両側300m先に交差点があり車用の信号機が稼働しているので、じっくり待てば片側ずつ完全に車が途切れるタイミングがあるのだ。よって手前側の車が途切れた時に中央分離帯に渡り、次に反対側の車線の車が途切れたのを見計らい向こう側に渡れば怖い思いをせずに道路を渡ることができる。僕はこれまで、そうして何度も道路を渡っている。この要領をモナに教えながら僕たち四人は道路を渡り、目的のレストランにたどり着いた。
 お目当てのピザ屋は家族にも好評で、パスタもピザもスープも美味しいと言いながらみんなが綺麗に料理をたいらげた。モナは美味しいピザに幸せだと口にするくらい、楽しい団欒となった。
 
 食事がちょうど終わった頃、日本から仕事の電話がかかってきた。既に夜八時を回った時間だったので僕は一度それを無視したが、一度諦めて切れたコールが再び鳴ったため仕方なくその電話に出た。案の定それは仕事の電話で、長話になりそうだと思った。そのうちモナが会計を済ませて家に帰ろうと言うので、僕は電話で話を続けながら四人で帰路についた。
 問題の大通りに差し掛かった時に、電話の話は相変わらず続いていた。レストランに向かった時と同じ要領で僕たちはまず中央分離帯へと進み、残り半分の道路を渡るために車が途切れるのをそこで待っていた。僕の左側にモナがいて、その左にモナと手をつないだユリ、そしてユリの向こう側にユリと手をつなぐベルという配置だった。もう夜の八時を回っており、車はずいぶん少なくなっていた。

 通りを一瞬車が途切れたような気がした。僕が一人であれば十分渡れる様子だったが、一台の車が遠くからこちらに向かっていたので、僕はそれをやり過ごしてから渡ろうと思った。モナも同じ判断だったようでその場でユリの手を取って立っていた。電話の話は相変わらず続いていたが、僕は相槌を打つだけで車の動向に気を付けているつもりだった。
 ふとベルがユリとつないでいた手を離し、単独で道路に飛び出した。モナがベルを言葉で制したが、その声はベルの耳には届いていないようで、ベルはあっという間に四車線の半分まで小走りで歩を進めた。僕もあっと思ったが、その左側を見ると先ほど遠くに見えていた車が単独でベルの近くまで迫っていた。
 そこで間近に迫った車に気付いたベルに迷いが生じ、ベルは道路の真ん中で中途半端に立ち止まってしまった。車はベルが道路を渡りきるだろうと思ったのか、それとも車をやり過ごすと思ったのか、速度を緩めずに進んできたように見受けられた。
 モナの「ベル〜!」と叫ぶ声と車の急ブレーキの音がほぼ同時だった。車はベルとの衝突にようやく気付いたかのように急ブレーキを踏み、タイヤとアスファルトが擦れる甲高い音を立て滑りながらベルの体の左側に突っ込んだ。ベルの体は車のバンパーですくい上げられ、体のへそを軸としてクルリと回転しながら宙を舞ったかと思うと、車のボンネット上に打ち付けられバウンドするように、今度は反対の回転運動をしながら車進行方向側の道路側に突き飛ばされた。それはまるで命の宿らない人形のような軽々しく簡単な動きで、しかも瞬間的な出来事だった。モナの「キャー」という叫び声が僕をハッとさせ、三人が道路に倒れたベルに駆け寄った。モナが道路にひざまずいてうつぶせのベルの半身を抱き起すとこちら側を向いたベルの顔は血だらけで、しかも口から大量の血を吹いていた。ベルの目は開いていたが、焦点がうつろで意識が朦朧としてるように見えた。気付いたら僕は右手にまだ電話を持っていた。「娘が車に引かれた、一度切ります」僕は慌ててそう言い電話を切ったのだと思う。
 車の運転席から出てきた四十くらいのおばさんは、明らかに気が動転していた。おばさんは震える声で「なんで道路を渡っていたの?」を数回繰り返し、「どうすればいいの?」と目に涙をためて僕に言ってきた。
 僕がそのドライバーに「アンビュランス(救急車)!アンビュランス、プリーズ!」と怒鳴るように言ったが、ドライバーの目の前で言ったにも関わらずその声が全くドライバーに届いていないようで、彼女はただうろたえていた。モナが「ベル!ベル!」と腕の中で意識の薄くなっているベルに叫んでいた。ベルは意識が混濁した様子を見せ、体を動かすこともなく手はだらりと道路に下がり、何かしらの表情を表すこともなく遠くを見ているような目から一筋の涙だけが流れた。それがまるで、思いがけず尽きかかった自分の生命に悲しみを感じ、静かに泣いているように見えた。そんなベルは僕から一刻を争う状態に見えたし、すでに虫の息にも見えた。僕は早く救急車を呼んでくれと言いながらユリが自分の腕の中にいることを確認し、止まった車や道路に倒れたベルを抱え込むモナに、さらに別の車が突っ込んでこないかを注意していた。同時に自分の足が地を踏んでいる感覚が薄れ、かすかな震えを感じる体は気を抜くと自分も道路にへたりこんでしまうように力が入らなかった。

 ふと僕は、近くに大きな病院があることに気付いた。引っ越した直後に一度近所を探索し、家族に何かあれば役立ちそうだと確認していたのだ。車なら五分かからない距離である。誰がどうドライバーに進言しそう決めたのか実はまるで記憶に残っていないが、事故を起こした車でベルをその病院に運ぶことにした。その方が救急車を待つより早そうだ。その病院に救急対応があるか心配だったが、よく知らない土地で救急車を呼びすぐ駆けつけてくれるかどうかも分からず、黙っていても何も物事が進展しなそうな雰囲気だった。モナがベルを抱きかかえ、車の後部座席に乗り込んだ。その横に僕がユリを抱いて乗った。車の助手席にベルと同じ年頃のドライバーの娘が乗っており、後部座席にその弟と思われる男児がいた。
 車が発進してから、僕は思わず「なぜ一人でベルを行かせたんだ」とモナを責めるように怒鳴ってしまったが、その後すぐにそんなことを話している場合ではないこと、そしてモナも同じようにショックを受けていることに気付いた僕は、「ごめん、今はそんなことを言っている場合じゃないな、電話をしていた自分にも責任がある」と謝った。
 モナに抱えられたベルは相変わらず虫の息で、モナがベルに、「寝ないで、目を開けなさい」と必死に呼びかけていた。僕もベルの手を握り、「心配するな、大丈夫だから」とベルに呼びかけた。助手席のドライバーの娘が病院の場所を知っているらしく、母親に道案内をしながら車が進んだ。あらためて車の進行方向を見ると、運転席側のフロントガラスが内側にめり込む形でひび割れ状態となっていた。車が信号に引っ掛かり、随分長い時間待たされている間、ドライバーが「早く、早く」と祈るように震える声で何度もつぶやいた。モナが「急いで、急いで」とドライバーをせかしたが、動揺しきっているドライバーに再び事故を起こされるともうベルは間に合わないと思った僕は、ドライバーに落ち着いて行っくれと声をかけた。
 車が信号待ちをしているときに、僕は街灯に照らされたベルの状態を冷静に観察してみた。冷静になろうと思わないと冷静になれない状態だったし、それでも相変わらず自分の体が自分のものでないような、胸の辺りを中心に襲ってくるざわざわした感覚を払拭することはできなかったが、そこでベルの前歯が欠けていることに気付いた。僕はその時、口から噴き出している血は内臓から出たものではなく、口内の出血の可能性もある、是非そうであって欲しいと願い、それに望みを託すような気持ちになっていた。しかし何も根拠のない状態で、動揺するモナに無責任に大丈夫だと声をかけることが僕にはできなかった。
 助手席に座るドライバーの娘が、冷静に母親を病院に導いていた。病院の入り口に到着するとドライバーは、パーキングチケットを渡す男性に「早くして、緊急なの、早く!」とせかしていた。その後も娘が病院内の看板を的確に読み、母親を救急患者搬送口に導いた。当然僕もベルを少しでも早く医者の前に連れていきたいと思っていたが、焦るそぶりをできるだけドライバーに見せないよう我慢していた。

 救急患者入り口に到着すると、ドライバーが車から飛び出し病院内に駆け込んだ。そしてすぐに男性が来て、後部座席のモナからベルを受け取り駆け足で処置室に戻っていった。僕とモナがそのあとを追うように処置室に入った時、数人の看護婦がばたばたとバイタル確認装置をベルの体に取り付けていた。ベルは相変わらずベッドの上でぐったりと横たわるだけで、意識レベルがどの程度なのか傍目には判別できない状況だった。すぐに病院関係者より、家族は外で待っていてくれと言われ僕たちはそこを追い出された。
 モナが外のソファーに座り込み、両手で顔を覆った。僕はユリを抱きながら、そのモナの肩に無言で手をかけてやることしかできなかった。
 処置室のドアにガラスの小窓がついており、そこからベルの様子を見ることができた。ベルは五人の看護婦に囲まれ、バイタルチェックと顔や手足の治療を受けていた。看護婦がベルに話しかける様子が見え、それにベルがかすかにうなずいたり口を開いて答えているのが見えた。
 実はそれまで僕とモナは口には出さなかったが、二人は半分、ベルの生還を諦めているようなところがあった。祈るような気持ちがあっても、それを事実として受け止めなければならないことに、無意識に心の準備をしてしている部分があった。だから胸の辺りからこみ上げる気持ちの悪い吐き気に似た感じを、どうしても払拭できずにいた。なぜベルを追いかけてつかまえられなかったか、助けてやれなかったか、自分が身代わりになれなかったのか、そんな後悔が後から後から湧き出るように自分を苦しくさせた。

 ベルが看護婦の質問に答える様子に、僕はモナに「心配するな、ベルは思ったより意識がしっかりしている、それほど心配ないかもしれない」と、自分を落ち着かせ慰める意味も含め声をかけた。モナも立ち上がり小窓からベルの様子を観察した。
 初期の処置が終わり、僕たちはようやくベルの傍に通された。僕たちの姿を確認したベルの目から、再び無言の涙が流れた。医者からCT検査をすることを伝えられた。それ以外の所見は何も聞けなかったし、医者もはっきりしたことがわからない限り迂闊なことを話せないのだと分かった。すぐに僕は、病院側の事務からパスポートの提示を求められた。同時に治療費の件で支払の確約を求められた。予想金額を訪ねるととりあえず二万リンギット(六十万円)という返事が返ってきた。その金額に仰天しながらも、今は金額の件でがたがたしている時ではない。ベルの命と引き換えなら、六十万円は安かった。それが百万円でも安いと思っただろう。とにかくベルを救えるならばお金は惜しくなかった。海外旅行保険などをしっかりかけていないと大変だという冷静な思いに至ったのは、すっかり落ち着いた後のことである。病院の治療代が払えなければ助かる命も助からないことがありえるのだ。ここがアジアで、いくらマレーシアがアジアの優等生だろうと、医療関係についてはフィリピンと同じく支払いを約束しなければ死にそうな人間でも門前払いということだ。
 僕はまだ予断を許さないベルの傍らを離れるのは嫌だったが、治療が進まなければどうにもならない。僕は不安な気持ちを抱えたまま、家族のパスポートを取りに急ぎ足で自宅に戻った。

 病院に戻ると、ドライバーの甥というややいかつい感じの男性が二人、病院に駆けつけていた。気が動転しどうしてよいかわからないドライバーが、甥に助けを求めたらしい。後で知った話だが、その女性はまだ幼い子供を二人抱えた状態で、旦那と死に別れたばかりであった。僕は持参したパスポートを提示し、病院側に正式にベルと自分の名前を登録した。すぐに治療代の支払をどうするかを問われ、まずはデポジットとして2千リンギット(六万円)を要求された。そこにドライバーの要望で、加害者側がそのデポジットを支払うことになった。事故を起こしたドライバーはとにかくベルの無事を祈っていて、それ以外のことには頭が回っていないようだ。このような車と人の交通事故の場合、加害者側が医療費を負担するのは当然だと思っていた自分も、デポジットを含め医療費の件はすべて加害者側がかたをつけてくれるものだと思っていた。
 少ししてから甥の男性の一人が、僕に何か保険に入っているかと訊いてきた。最初は彼が何を言わんとしているのか分からなかったが、デポジットは保証金で戻ってくるお金だから立て替えたが、治療費はこちらで持ってくれないかと言いたげな物言いだった。僕は重体のベルを目の前にしてそのような金銭交渉をする気にもなれず、信頼できる地元の友人に電話をし、状況を説明した上でマレーシアの慣例に従って全てを決めてくれる代理人になって欲しいとお願いをした。主な交渉内容は、警察への届け出と治療費である。最悪はこちらで治療費を負担してもよい、今それで揉めてベルの治療を遅らせる訳にはいかない、それを考慮してすべてを委任する、僕はベルの様態を見ていたいのでお願いしたい、あなたを信用してお願いする以上、結果について僕は何一つ文句を言わないと伝えた。
 とりあえずデポジットが支払われたことにより、ベルのCT検査が始まった。僕が部屋にパスポートを取りに戻っている間、ベルがモナに、これでシンガポール旅行はキャンセルになってしまうとがっかりして話したことをモナから聞かされた。
「シンガポール旅行のことを心配するくらいしっかりしているなら、きっとベルは大丈夫だ」と僕はモナに言った。

 検査の結果がなかなか出てこなかった。ベルの容態は本当はどうなのか、僕はモナと気を揉んでいた。その間加害者の代理人と自分の代理人との間で、治療費の支払い、警察への届け出について話がまとまった。
「加害者は支払ったデポジットを返金してもらわなくてもよい、その代わり今後の治療費はこちらが負担する、警察への届け出はしない」
 僕は約束通りその結果に従い、病院への支払誓約書にサインをした。警察への届け出について、マレーシアでは警察に届けると登録の費用を取られ、またそれから長い裁判にもなるとの話で、被害者側に決して有利に働かない事実も多いことを考慮し代理人がそう決めたようだ。支払は相手に支払い能力がないということで、とりあえずそのように決めた。確かに加害者代理人の甥は、デポジットの二千リンギット(六万円)を、かき集めてくるという言葉を使っていた。
 アジアの国に旅行すれば、どこでどのような事故に遭遇しても支払い能力がないの一言でそのような結果になることは分かっていた。公共移動手段を利用しての事故でさえ、そのような結果もあり得るのだ。保険加入に考えが及ばなかったこと、そして親として娘を悲惨に事故に遭わせてしまったことが悔やまれる自分には、それも自己責任として素直に受け止めることができた。

 ベルの検査結果についてドクターから説明を受けた。CTの結果、骨、脳に異常は見られないとのことだった。僕はCT画像を食い入るように慎重に見ながらその説明を聞いた。脳内には確かに出血の痕跡は一つも見当たらなかった。頭蓋骨や擦り傷のあった鼻骨、頬骨、顎骨にもひびの一つも見えなかった。唯一気になる点は歯の折れ方だった。折れた歯の付け根の骨がいびつになっており、救急ドクターもこれは歯科医の診断が必要だと言った。運ばれた病院は歯科もあり、そのドクターに翌日歯科医の診断ができるように手配しておくと言われた。歯科医の治療、判断が出るまで固形物の摂取は厳禁、口から入れるものは水を軽くとる程度にとどめること、それ以外は異常が見られないため一晩観察室にて様子を観るがおそらく心配ないだろうとの言葉に、僕とモナはひとまず大きく胸を撫で下ろした。
 
 僕はすぐにベルのベッドに戻り、ドクターから言われたことをそのままベルに説明した。
「問題は歯だけだ。頭や体の骨はどこも壊れていない。顔の擦り傷はすぐに治る。その程度なら跡も残らないから心配は要らない。歯は治療で綺麗に治せるからそれも心配ない。それとシンガポール旅行のスケジュールは変更しないから、もう安心して眠りなさい」
 ベルはコクリと頷いて、その顔に少しだけ安堵の表情を浮かべた。ベルの顔には、おでこ、両頬、顎の痛々しい擦り傷の上に絆創膏が貼られ、両肘と両膝にも大きな包帯布があてられている。見た目は本当に重篤だが意識はしっかりし、気持ちも少し落ち着いてきたようだ。
 僕は再び自宅に戻り、みんなの着替えと当面の入院に必要な生活用品を取って病院に戻った。ベルが救急処置室から一般病棟まで、ベッドごと運ばれた。それでも僕とモナは、それで一安心というわけにはいかなかった。目の前でベルが車に跳ね飛ばされ、その衝撃の凄まじさをまじまじと見ている僕たちには、医者が科学検査の結果を用いて大丈夫だと説明したとしても、いつベルの容態に変化が顕れるか心配で仕方なかった。特に内臓系の損傷は時間が経過してから突然症状が出始めることもある。モナがフィリピンの知り合いの専門家に確認をしたところ、内臓損傷があればCTの脳内画像に顕れるという話も聞いたが、いくら専門家が束になって大丈夫だと言っても、それらは何一つ自分たちの心配を払拭するに至らなかった。
 事故が発生したのが夜の八時二十分、それから少なくとも五時間、できれば七〜八時間は自分の目で一つの兆候も見逃すことなく経過を観たいと思っていた。それはモナも同じようだった。ユリをベルのベッドの隙間に寝せ、僕とモナは用意された椅子に座ってじっと時の経過を見守った。ベルが静かな時には彼女の息をしていることをじっと確認し、ベルが寝返りをうつと苦しんでいるのではないかと身を乗り出して二人で確認した。僕は一時間置きにベルの脈拍数を確認した。時折モナと二人で眠れないねと話をした。モナはまだ胸の動悸が収まらないと言い、僕も同じだと言った。もしベルが戻らぬ人になっていたら、自分は気が狂っていたとモナが言った。そして決して自分を許せないだろうとも言った。僕も同じような後悔の念に、強く心が締め付けられていた。なぜあの時電話をしながら道路を渡ろうとしてしまったのか。もし電話をしていなければ、僕がベルの後を追いかけ彼女をつかまえたか引き戻せたに違いない。ベルの痛々しい顔をみると、それが悔やまれて仕方なかった。

 そのまま朝までベルを容態に変化がないことを見届け、ようやく少しだけ安心することができた。僕は相変わらず着替えや生活用品、そして食事などを往復四十分かけ、自宅から病院までせっせと運び込んだ。何度も病院と自宅を往復しながら、まるで自分が働き蟻のようだなどという呑気な空想など微塵もなく、病室に戻った時にベルの容態が急変したということがないことを祈りながら、病院を離れた時にはとにかく気がせかされてならなかった。
 昼前に歯科医の診察を受けた。歯のレントゲンから分かったのは、折れた歯の根元にある骨に損傷があり、歯茎の中で砕けた骨が隣の歯の根の領域に食い込んでいるというものだった。ドクターにビジターか定住者と訊かれ、ビジターだと答えると治療をどうするか尋ねられた。ドクターは今のうちに骨を戻したほうが良いと言うので、その場でその治療をお願いすることにした。事前の説明通り局部に麻酔をかけ、骨が飛び出し大きく腫れ上がっている歯茎の部分に指で力を加えながら、ゆっくりと骨を戻していく治療だった。戻しさえすれば、その骨は元の場所とくっついて治ってしまうそうだ。その後裂けたように広がっている歯の取れた部分を縫い合わせ、十日後に抜糸となる見通しだ。歯茎が安定したのを見計らい義歯を入れ、見た目も綺麗に治るとのことで、インプラントのような半恒久処置は年齢が成人に近づいてからやるように勧められた。その病院の医師は、どの人も状態や治療方針をきちんと説明してくれる人ばかりで、安心できる病院であるように感じられた。
 その翌日、つまり昨日の土曜日、歯科医に歯の治療跡を確認してもらい、別のドクターに傷痕を確認してもらってから昼過ぎにベルは無事退院となった。

 当初本当にベルの死を感じ取った僕とモナは、思ったよりも軽く済んだベルの怪我に安堵しながらも、人間が死と隣り合わせでいることを実感せずにはいられなかった。それが僕とモナの気持ちの中にしこりとして残り、ベルを自宅に連れ帰った後も二人の胸の中にはまだもやもやとしたものが残っていた。
 フィリピンのダディやママには、事故直後の連絡を控えていた。様子が分からないままフィリピンに連絡を入れても、かけつけることもできない二人がただ心配するだけとなるからだった。フィリピンへの連絡はベルの様子が明確になってからにしようとモナに話していたが、事故翌日にママから電話があり、モナが事故の件をママに告げることになった。
 ママは大変怒ったそうで、マレーシアを引き上げて早くフィリピンに帰ってこいと言ったらしいが、事故はどこにいても起こり得る話で、ダディのトライシケルでいつも出歩くことも危険と隣り合わせであることに変わりない。モナはいつもそれを簡単に大丈夫だと言い、レガスピにもダディのトライシケルに子供たちを乗せ平気で出掛けるが、自分が気を付けていようが相手のある交通事故の場合、車外に投げ出される確率の高いトライシケルで何かあれば、車より危険な乗り物と言える。今回のベルの事故により、モナにも身近で大切な人間の命のはかなさを実感として分かったようで、少しはトライシケルで中・長距離のお出かけをすることを真剣に考えるようになったようだ。

 久しぶりに四人で自宅に帰ってから、僕はフィリピンにいるダディとママに、謝りのメッセージを送った。もしベルの事故がもっと深刻な結果に繋がっていたら、僕はどうしてよいか分からなかった。子供が不安にならないようできるだけ冷静に努めようとしていたが、僕の手足や心はベルを失う恐怖で震えていた。自分の注意不足が引き起こした重大事故に対し謝罪し、これからはもっと気を付ける、最後に心配をかけて申し訳なかったと結んだ、自分の気持ちをそのままに書いたメッセージであった。

 ベルの痛々しい顔はまだそのままだが、擦り傷はそれほどかからず治ると思われる。ベルは自宅で食事も普通にとり、普通に歩き回っている。心のケアも必要だと思われるが、今のところ心身共に深刻な後遺症はない。
 人の死とは、本当に身近にあるものだ。しかも人の生が奪われるのは、一瞬の気の緩みで十分な場合もある。これは当たり前のことだが、その当たり前のことを人はすぐに忘れてしまう。人間の生と死は対極のものではなく、人は常に死と隣り合わせで生きているものなのだ。死は人の生の延長線上にしっかりと存在するものなのである。この事故は僕にそれを重々承知させながら、家族に対して、特に子供に対して今後真剣に気を付けなければならないことを肝に命じさせる出来事となった。
 一歩間違えばベルは死んでいた。車とぶつかる角度やぶつける体の場所、道路に打ち付ける箇所、それら一つ一つの小さな違いで、結果はまるで違っていた。フロントガラスに打ち付けたのはベルのひじで、彼女の歯を折ったのは道路のアスファルトだった。そのことと目の前で起きたの事故を頭の中でリピートさせ、ベルがどの箇所をどこにどのように打ち付けたのか、ある程度解明できた。それで頭が無事だったことも頷けた。
 軽い怪我で済んだベルの幸運と生命力に、僕は深く感謝している。生きていてくれてありがとうと、心から思っている。これからもベルは、かけがいのない自分の娘である。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:677.生と死
2013年04月14日

676.長い長い一日

 先週日曜日の朝、家族がマレーシアに向けてフィリピンの家を出発してから、僕はみんなが無事にペナンに到着することを祈りながらカレーを作った。どこに豚肉が売っていてどうやってそれを買うかが懸案事項だったが、豚肉は近所の市場の隠し部屋のようなところで売っていることが分かった。それを市場の人に教えてもらい、僕は前日の朝、そこで2.5Kgの豚肉を買っていた(とんかつ用のブロックを1Kg、カレー・シチュー用角切りを1Kg、ミートソース用ひき肉を0.5Kg)。豚肉は2.5Kgで約1800円(約60リンギットを現在のレート30円として)。これが安いか高いかよく分からないが、100g当たり約140円だから日本と同じくらいだろうか。最近日本の肉の値段などさっぱり分からなくなっているが、何となく日本と似た値段のような気がする。鶏肉はもっと安いようだ。野菜は驚くほど安い。玉ねぎ、ニンジン、ジャガイモ、ニンニクを適当な量を買い120円くらい。お金が底をついたら野菜炒めでごはんを食べればよいことが分かり、少し嬉しくなった。
 家族がここに到着するのが夜になってしまうので、僕はモナに、その日のうちに買い物や外食場所を案内することができない。そして僕は月曜の朝から仕事なので、せめて月曜や火曜の子供たちの飲食分を用意しておこうと、僕は食べ物をせっせと用意していた。前日はミートソースも作っておいたので、パスタを茹でさえすればそれもすぐに食べられる。おやつはホットケーキミックスを買っているし、ポテトサラダでも作っておけばとりあえず一日二日は何とかなるだろうと考え、僕は料理に励んだ。
 モナに飲み物としてジュースを用意してと言われたが、僕はそれを買わず麦茶をたっぷり作っていた。糖分がなくカフェインもない冷やした麦茶なら、子供にいくらでも飲ませてよい。冷蔵庫にジュースを常備しておくと頻繁にそれを飲むことになるので、最初からない方がよい。子供のうちから糖分を取り過ぎるのは、身体にあまり良くないからだ。ホットドリンクが飲みたくなった時のために、ミロ(フィリピンではマイロと言う)は用意しておいた。

 そんなことをしながら僕は、再びフィリピンに上陸したNさんに時々「まだ生きてる?」と連絡を取っていた。そのうちNさんの冒険で詳細をお伝えしようと思っているが、彼は相変わらず行きあたりばったり旅行でフィリピンに来るものだから、こちらはついつい心配になってサポートしながら、乗りかかった船で時々一番重要な生存確認をしていた。
 Nさんは例によって、ホテルを取らずにフィリピン(マニラ)へ上陸した。前回宿泊させてもらった彼女とある事情で渡比直前に連絡がつかなくなったが、初心者のNさんが不意に空港やマニラの街でうろつく羽目になれば危険なので、知り合いドライバーのレイさんに頼みNさんを空港で保護してもらうことにした。フィリピンに到着してもNさんが彼女と連絡が取れない場合の宿泊所も確保した。そこはタレント養成所の寮になっているレイさん所有のボーディングハウスで、その頃丁度、韓国へ旅立つ予定の若い女の子がたくさんいるとのことだった。僕がレイさんに日本人男性を泊められるかと伺ったところ、彼は「今はタレントが一杯いるけど、そんな賑やかなところに大丈夫か?」と言ったが、僕は「その方がきっとNさんも喜ぶでしょう」と答えてレイさんに部屋の確保をしてもらった。
 Nさんが日本を飛び立つ前に、「最悪の場合の宿を確保しました。そこにはトレーニング中のタレントがたくさんいるらしいです」とメッセージを送ると、すぐにNさんから折り返しインターネット電話がかかってきて、「そこに泊まります、今決めました」との力強い言葉が返ってきた。僕は「もしホテルに泊まるなら、レイさんが手配してくれることになっているのでそれでもいいですよ」と言ってみたが、Nさんは「いや、そこがいい」と言って、Nさんがレイさんのボーディングハウスに泊まることが決定した。
 レイさんがNさんを空港で保護してくれた時、レイさんの車には日本語を話せるタレントの卵が乗っていたようだ。レイさんは日本からのお客さんが三組も重なり寝る暇もないほど忙しい時期で時間の調整が難しく、Nさんのガイド役としてその女性を用意してくれたらしい。レイさんはマラテのロビンソンで二人を降ろし、そこでのNさんの用事が済んだ後はボーディングハウスまで二人でタクシーで帰ってもらうようにしたようだ。レイさんはタクシー代を前もって女の子に渡していたようで、相変わらず彼はフィリピン人らしからぬきめ細かい気遣いをしてくれる人であった。Nさんがなぜマラテのロビンソンに行ったのかは訳があったが、その辺りの詳しいことはNさんの冒険で改めて書きたいと思っている。

 思わず女の子とロビンソンでデートをすることになったNさんは、自分の用事が済んだあと二人で映画を観たりしたようで、その後僕と電話で話した時にすこぶる上機嫌だったが、ボーディングハウスに到着後のNさんのテンションは更にヒートアップすることになった。行き当たりばったり旅行で宿泊所が本当にハーレム状態になっていたのだから、Nさんが舞い上がらないはずがなかった。更に夜には、心ならずもNさんの局所血圧が上昇する事件も起きてしまい、「これは決して誰にも言えない」と言いながら、酔ったNさんはそれをしっかり僕に教えてくれた。話し出すまでもったいぶっていたNさんは、どうやらその事を誰かに話したくてうずうずしていたようだ。

 Nさんがマニラの空港でモナと会ってくれたのは、Nさんがフィリピンに到着した翌日のことだった。クアラルンプールへの乗り継ぎ時間を利用し、Nさんが僕や子供たちへのお土産を渡してくれたのだった。
 モナがマニラ空港に到着したのは昼前くらいで、クアラルンプール便は二時台だと聞いていた僕は、モナが少しはNさんと昼食などを一緒に取ってゆっくりできるだろうと思っていたが、トラベル税の支払いや荷物の預け入れなどに思っていたより時間を取られ、モナが僕に電話をよこしたのが一時十分だった。Nさんに会えたかとモナに訊くと、彼女は「今一緒にビザハットにいる。これから一緒にご飯を食べてそれから搭乗ゲートに行く」と言った。モナの話によるとその時Nさんは、スレンダーで髪の長いモデルのようなタレント卵と一緒だったようだ。
「ボーディングタイムは何時?」
「一時四十分だって」
「ふ〜ん、そうか…、って、え? 一時四十分? これからイミグレーションだよね?」
「そうよ、あまり時間ないけど、十五分だけ食べ物が来るのを待つ。お腹空いたから」
「ばっ、ばかぁ!あと三十分しかないじゃないの。食べてる時間なんかないって!」
「え? それじゃ飲み物だけ」
「いいけどさあ、本当に時間がないよ。やばいよ。子供連れなんだからさ。何やってんのよ」
 Nさんの「イミグレーションは一時間くらいかかるでしょ?」という声が裏から聞こえてきた。いやいや一時間はかからないと思うが、国際便のボーディングまで三十分を切っているのにそれからご飯を食べるなんて、無知というか度胸があるというか、僕は自分の頭を抱え込むくらいの不安に襲われた。
「分かった、これからすぐ行く」
「おお、当たり前だ!飯はあとで食え!早くしろ、アホ〜、ほんとに急げ!」

 モナの動向を確認してから僕も昼飯と買い物で外に出ようと思っていたが、このどたばた劇で僕はモナがゲートに到着したという連絡をもらうまで、部屋から一歩も動けなくなってしまった。
 それから二十分経過しても連絡がないので僕からモナに電話を入れると、「今イミグレーションにいる」という返事が返ってきた。モナとベルはすぐに終わったが、ユリの出国審査に時間がかかっていると言われた。ユリは初めての出国ということもあるが、日本とフィリピンの二つのパスポートを持っている関係でしっかり調べることがあるらしい。(実は若い担当官がよく知らなかっただけだった)僕はモナに、搭乗ゲートに着いたら連絡をくれるようにお願いし一旦電話を切った。しかしボーディングタイムの一時四十分を過ぎてもモナから連絡がこない。僕はやきもきしながら彼女の電話を待った。一時四十五分、ようやく彼女から電話がかかってきた。
「やっとイミグレーションが終わった。もうゲート前よ。疲れたぁ、子供たちも疲れてるよ。ユリもずっと走ってたから」
「そうか、間に合って良かった。ご飯を食べてたら間に合わなかったよ」
「そうねえ。でもまだボーディングになってないよ」
「ばかぁ、それはたまたまでしょう。遅れることもあるけど、基本は時間通りに行くんだよ」
 モナの、飛行機の出発時間までがフィリピンタイムだと勘違いしているような言い方に、僕は少し呆れてしまった。学校のPTAの集まりとそれが違うということを、モナは分かっているのだろうか。飛行機はファイナルコールのあと、しっかり飛び立ってしまうのだ。
 とにかく無事、家族はクアラルンプール行きの飛行機に乗った。あとはマレーシアイミグレーションを無事に通過するだけとなる。それが僕の一番の気がかりだ。
 安心したら腹が減ってきた。ランチを外で食べるつもりだったが冷蔵庫の中に食パンが数枚入っていたのを見つけた僕は、作ったカレーの味見を兼ねそれとパンを一緒に食べてみた。これが何とも美味しくて、あっという間に完食、食後にカレーの入った鍋を冷やし、それを冷蔵庫に入れた。

 さて家族は機上の人となったので、僕は彼女たちがクアラルンプールに到着する前に、ポテトサラダを作り、二つの部屋のベッドメイクをして、家中を汗だくになって隅々まで掃除した。彼女たちのクアラルンプール到着予定時刻は五時半頃であった。僕が家の中ですべきことを全て済ませたのは夕方で、本当はバスタオルを買い足すために外に出たかったのがそろそろモナがクアラルンプール到着なのでそれを我慢し、じっとモナの連絡を待った。しかし六時を過ぎてもモナから連絡がなかった。六時半になりしびれを切らした僕がモナの携帯に電話をしてみると、ローミングになっているはずの彼女の電話が繋がらない。それでローミングの切り替えに問題があったことが分かったので、このまま僕の携帯に連絡が入らなければ彼女はきっとクアラルンプールから予定通りペナン行きの便に乗るだろうと踏んだ僕は、そこから買い物に出ることにした。とにかく何かをしていないと落ち着かない。モナがペナン空港に到着する時刻は夜九時で、買い物を済ませ夕食を取ったとしても、僕にはたっぷり時間があった。
 僕は外での用事も全て済ませ、食事のあと夜の九時少し前に呼んだタクシーで空港まで出かけた。連絡が取れないままの出迎えに不安はあったが、僕はきっと無事に来るだろうと信じ込みながら、タクシーの運転手に少し心配だと説明しながら帰りもそのまま乗せてくれとドライバーにお願いした。

 僕がペナン空港に到着したのは丁度九時だった。空港建物に入りすぐ案内モニターを確認すると、モナが乗ったと思われる便は「着陸した」という表示になっていた。どうも着陸したばかりのようで、もう少し時間がかかりそうだ。到着した人が出てくる場所に移動すると、十分ほどしてから出口から出てくる人の勢いが増したので、おそらくクアラルンプール便の人が出てき始めたのだと分かった。金髪の外人や地元の若い女性や年配夫婦などが、多くの荷物を抱えてぞろぞろと歩いてきては僕の横を通り過ぎた。それらの人たちに「クアラルンプールからですか?」と尋ねたくなる衝動を抑えながら、僕の期待と不安は最高潮に達した。
 すると十メートル先の出口にふとカートが現れ、カートに積まれたたくさんの荷物の上にまるで女王様のように座るユリの姿が見えた。モナがそのカートを押し、ベルがその横を歩いてこちらに向かってくる。僕が手を振ると、モナとベルがそれに答えて手を振った。ユリはカートの上で、微動だせずにじっとこちらを見るだけだった。
 傍らに来た三人の顔には、明らかに疲労の色が読みとれた。レガスピからマニラ、マニラからクアラルンプール、クアラルンプールからペナンと、三つの便を乗り継いで来たのだから無理もない。飛行機が大好きなユリでさえ、クアラルンプールからまた飛行機に乗ることを知りもう嫌だとだだをこねたようだ。モナがこの長旅を子連れでこなすのは大変だっただろう。僕は「もう心配ない、任せておけ」という気持ちで彼女たちを出迎え、外で待ってもらっているタクシードライバーに電話をし、自ら彼女たちの荷物を運びみんなをタクシーに乗せた。

 到着したモナは、お腹が空いたと意外なことを言いだした。クアラルンプールで食事をする時間が取れずまともに食べていないということで、早速僕が作っておいたミートソースが役立つことになった。もちろんパスタを茹でてスパゲッティを用意するのは僕の役目だ。
 茹であがった麺を手作りソースに絡めて炒めたスパゲッティは、三人の口に合うらしく、みんなが美味しいと言って食べてくれた。僕も味見を兼ねて一緒に食べたが、僕が空港に行く前に取った夕食が同じようなスパゲッティだったということは内緒にしておいた。
 食事、片付け、着替え、家の中の説明などをバタバタとして、気がつけば夜中の十二時。みんなにとって長い長い一日が、こうして無事に終わった。
 ベルとユリは、子供用として用意した部屋のベッドに二人で仲良くもぐりこみ、あっという間に深い眠りに入った。それを見届けた僕とモナは隣の寝室でしばらく会話やボディラングエッジの後、子供たちと同じようにいつの間にか眠りについていた。
 こうしていよいよマレーシアで、エキサイティングな家族四人生活が始まった。



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