フィリピーナと共に
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2013年01月27日

660.飲み過ぎたみたい

 昨夜は珍しくお酒を飲みたい気分になった。何があったわけでなく、ましてや紛らわしたい寂しさや悲しみに浸っていたのではない。どちらかと言えば僕の気分は高揚していた。加えてFourplayというスムースジャズ/フュージョンがくつろいだ静かな夜にマッチしすぎていた。お酒が飲みたい気分は、そのせいかもしれなかった。
 Fourplayはボブ・ジェームスやネイザン・イースト、リー・リトナー、ハービー・メイソンらの大物ミュージシャンで結成されたグループで、後にギターはリー・リトナーからラリー・カールトンを経てチャック・ローブに落ち着いた。昔から僕はボブ・ジェームスとラリー・カールトンが大好きだったこともあり、昨夜はその音楽を軽く流して本を読んでいた。

 酒は日本から持ち込んだ「山崎」があった。お土産用ではなく、これは日本で自分用に買ってきたものだ。僕を知る人間は、僕が自分用のウィスキーをわざわざ買って飲むことを信じられないだろうが、それほど飲めなくても僕は美味しいウィスキーが好きだ。フィリピンの家では一切ないことなので、このことはモナでさえも知らないことだ。僕は特にシングルモルトウィスキーが好きで、「山崎」は僕に初めてウィスキーの美味しさを教えてくれた酒である。かつてお酒の飲めない僕にお酒の雰囲気や楽しみ方を教えてくれた酒豪女性が、僕に「山崎」を勧めてくれた。もう三十年近く前の話しである。それ以来僕は、気分に応じ寝酒にちびりちびりとそれを飲むようになった。かつて住んでいた日本の家の棚には、「山崎」や「シーバスリーガル」「グレンフィディック」「オールドパー」「ホワイトホース」「サントリーオールド」、そしてバーボンの「メーカーズマーク」なども並んでいた。一度買えばしばらく持つから、比較的値の張る--と言っても一本数万円という酒ではないが--美味しい酒が多かった。

 日本から持ち込んだ「山崎」を半月マレーシアの空気に馴染ませ、昨夜ようやくその封を切ったことになる。飲むとすればロックだが、冷凍庫の中にある氷を確認してみると干されて縮んでいた。氷も時間が経過すれば透明感が失われ、干し柿のように凝縮された縮こまり方をする。古そうでしかも水道水で作られたものかもしれないそれを僕は全て台所のシンクにバラバラと捨て、製氷機にミネラルウォーターを入れ直して冷凍庫に戻した。
 そして昨夜は「山崎」を、ストレートで飲むことにした。明りを落としたリビングで「山崎」を開けると、すぐに懐かしさを伴う薫香が、薄暗い空気を伝って柔らかく僕の鼻孔を包んだ。一人で飲むウィスキーは四年ぶりのはずだ。
 グラスに指一関節分の量を注ぎ、ベッドルームに持ち込んだ。ストレートのそれは、胸に熱さを残しながら僕の身体の中を通り過ぎていった。そしてすぐに胃も焦がれるように熱くなった。

 再び本を手に取り、読み始めた。読んでいる本は、日本で買った「ノルウェーの森」だった。持ち込んだ本はあらかた読み終え、最後にとっておいた本だった。読み進めるほどに、ため息が出るほど刺激的な小説だ。その一つ前に読んだ本は数年前に直木賞を受賞した小説だったが、それがかすんでしまうほど、まるで次元の違う読み物だと思った。僕は噛みしめるようにそれを読み、感嘆のあまりウィスキーを開けようと思ったのである。ワンショットも飲めばすぐに酔っぱらう僕だが、ますます目が冴えて眠れなくなってしまった。
 自然と二杯目のウィスキーをグラスに注いでいた。それを飲み終えた頃には顔が膨張しているのではと思えるほどジンジン酒が効いていたが、それでも頭は冴え渡っていた。この小説が仮に身近にいる人間が書いたものなら、僕は強烈な嫉妬を覚えたはずだ。その頭を開いて、思考や想像力を事細かに分析したい衝動にかられたはずだ。
 ストーリーにまるで奇抜さがないのに、それでも僕はこの小説に引き込まれた。今感じているこの衝撃や感動を、すぐに何かの形にしたいと思い、いてもたってもいられなくなった。そうすることで、今自分の中で形成されようとしている何かを自分の中にしっかり封じ込めてしまいたくなっていた。何かが自分の中で見え隠れしているが、それがぼんやりとしてじれったい。それがはっきりとした輪郭を現すまで、何度も読み返すしかないと決めた。

 僕は興奮に包まれながらいつの間にか眠りにつき、気付いたら朝になっていた。昨夜は少なくとも夜中の一時まで起きていたはずなのに、時計を見たら朝の五時だった。身体の真上で、凶器にも感じられる大きな金属製の羽のついたシーリングファンがぶんぶん回っている。これが事故で落ちてきたら、寝ている僕の首がスパッと飛んでしまうのではないかという恐怖を感じさせ、しばらくそれを使うのが躊躇われたやつだ。それでもファンの風は熟睡できるので、最近はエアコンよりもそちらを多用している。
 休日だから再び眠りたいと思ったが、尿意を催したのでベッドからで出た。そのままキッチンにコーヒーを淹れにいったついでにリビングの山崎の瓶を目の前にかざしてみると、上から三分の一は瓶の向こう側の景色がきれいに透けて見えた。意味もなくゆすってみると、残っている三分の二の琥珀色の液体が、瓶の中でゆっくりと波打った。僕にしては珍しく飲みすぎたようだ。そう言えば、起きた時の部屋とトイレで出した尿に、しっかりとしたアルコールの匂いが残っていた。
 寝不足のはずだしアルコールも身体に入れたのに、不思議なくらい気分が爽快だった。自分を縛るものが何もない休日の朝は、仕事を持ちこんだリゾートよりはるかに爽快だ。今日一日、僕は気の向くままに過ごそうと決めていたから、まずは小説の続きを読み始めた。

 七時半にモナから「おはよう」とメッセージが入った。普段は六時起床の彼女も、ベルの学校が休みの時にはそのくらいの時間に起き出す。そのメッセージに返事を返した後、その下に並ぶ昨夜最後に届いたモナのメッセージが目に入った。
 ハンドバッグの写真がある。さて、これは一体何だ? と思った。
 ハンドバッグの写真の次に、「どうですか? このバッグ」とあった。僕が返事を出す前に、ハンドバッグのメーカーが届く。更に僕が返事を出す前に「3000ペソ」と短いメッセージが届いて並んでいる。
 僕は更に続く自分の「いいんじゃないの」と「買っていいよ」という二つのメッセージに驚き、僕はようやく、そんなやり取りがあったことをうっすらと思いだし始めた。そしてその後に続く「ほんとに? まことに?」「Yippeee」というモナの言葉に笑った。話がついて満足したモナは、その後すぐに「おやすみ」というメッセージを届け、それが最後になっていた。
 僕はアルコールに麻痺した頭と本に没頭した上の空状態で、彼女とやり取りをしていたらしい。それでも自分に3000ペソだったらいいだろうという判断があったようだし、短いメッセージに、早く会話を切り上げて本に戻りたいという自分の意思も感じられた。
 彼女の「ほんとに?」は分かるが、「まことに?」は一体どこで覚えたのだろう。少し考えて、彼女の大好きな「ナルト」という日本のアニメを思いついた。少々時代がかりコメディータッチのアニメだから、きっとその中に出てくる言葉ではないだろうか。フィリピーナには「まことに?」という言葉の非日常性がまるで分かっていないのだ。モナは日本を離れた今でも、時々変な言葉を覚えて使うことがある。情報入手先はインターネットによる日本のドラマやアニメで、特にアニメから仕入れた言葉は女性が使うと奇妙だったり「まことに?」のようになんだそりゃ? と言いたくなる言葉が混ざっている。しかし本人はいたって真面目だから、こちらは笑ってしまうしかない。そんな時にはしばらく様子をみて、彼女の言葉として定着しそうなら修正してあげる。

 昨日はほぼ一日、一番奥のベッドルームの中で、ベッド上の人だった。夕方から夕食を兼ねて買い物に行き、部屋に戻るとリビングを素通りしてまたベッドルーム。今日もそうやって過ごそうと思っていたが、ベッド脇の全開した窓から海とその手前の道路を走る車を眺めていたら、自分がまるでどこかの病院に入院している病人のようだという気がしてきた。
 昼からは意味もなく街をぶらつくのも悪くない。とにかく今日は、何も僕を縛るものはない。今日の全ては、気ままに自由に振る舞える。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:660.飲み過ぎたみたい
2013年01月26日

659・パソコン、末期症状か?

 とうとう飛行機の中でもらったピーナッツがなくなった。全部一人でたいらげてしまった。最後の一つを食べようとした時に僕は、これであのスチュワーデスの底抜けに明るい笑顔と、いたずらっぽいおいでおいでという手招き仕草を思い出すこともなくなるだろうと考えた。そう考えたことに全く大げさな意味はなく、たった今ふとそのことを無理やり思い出し、それまで自然に綺麗さっぱり彼女のこと忘れていたことを、あ〜やっぱりというふうに思い出した。
 ピーナッツを完食したことで、我が部屋に常備している非常食が食べかけのポテトチップスだけとなった。休みに極力外へ出かけないようにしていると、カップラーメン、食パン、クラッカー、チーズ、ポテトチップス、ソーセージ、せんべいなどが急激に減ってしまう。そろそろ買い物に出ないといけなそうだ。

 食べかけのポテトチップスは、湿気ないよう冷凍庫に保存している。同じ理由でコーヒー豆もそこに安置されている。
 冷凍庫に湿気がないことを知らない人間は、意外に多い。うちの奥様もその一人だった。僕はその説明をするのに、水は零度を下回ると氷という個体になり、空気中の水分、つまり湿気というものも個体になってしまうから、零下の冷凍庫の中に湿気というものが存在できないのだと言った。もちろん冷蔵庫が壊れていなければ……と付け加えた。その時モナはまた一つ頭が良くなったと喜んでいたが、彼女はその知識を生活で積極的に応用しようとしないから、付け焼刃で教わったことを知恵というものに昇華させるのは、思ったより難しいことかもしれないと僕は感じた。
 そんなきっかけから、水は百℃を超えると蒸気という気体に変わろうとすることもモナに教えた。つまり温度によって水は個体から液体に、そして気体に変わるのだと。ついでに水の物性についても講義してやった。水は温度が上がるほど密度が下がり、粘土が下がり、音の伝達速度が増す。そこまで教えてしまったから、彼女は零下雰囲気中に水分が存在できないことを、それらと一緒に混乱の渦に巻き込んでしまったようだ。話を聞いている時の彼女は、余計なことを一切挟まずきりりと口を結んだ顔をこちらに向け、更に質問までしてくるから僕も調子づいて色々説明してしまうが、詰め込み過ぎるときっちり振り出しに戻るようだ。

 あくまでも我が家の奥さんから感じる狭い了見だが、フィリピン人にとっては、日本人が考える基礎知識が応用編の高等学問にあたることが多いような気がしている。それでも偉いのは、基礎を知らないことを知った時に、恥ずかしさを隠すために怒ったりすることなく笑いながら素直にそれを認めることで、向上は己を知るところから始まるという素養だけは生まれながらにして持っているようだ。すると素養はあるのだから、フィリピンの教育環境には何かしらの問題があるのだろうという疑義が僕の中に生じてくる。
 それでも基礎知識を多く蓄えているより、規範で一致する方がはるかにましであるから、これまで少しくらい知識の欠乏が露呈したとしてもそれが離婚に発展するような呆れ方に繋がったことはないし、今後もそれはないだろうという予感を持っている。

 モナはそのような自分を自覚しているか知らないが、相変わらず子供に対して教育熱心を貫いている。ユリは小さい頃からそのような方針のもとで育っているせいで、好きなこと(テレビを見る、インターネットで遊ぶ、ゲームをする、おもちゃで遊ぶ、お菓子を食べる)をする前に、公文塾の宿題を片付けてしまう癖がついているようだ。自発的にさっさとそれを終わらせ、もう終わったからテレビを見てもいいでしょう? とモナに確認してくる。するとお姉さんのベルもそれを見習わなければならなくなり、自発的に同じ態度を示すようになっているようだ。教育熱心なモナはそんな二人の子供の様子を見ながら、顔にご満悦な笑みをたたえて僕にその様子を報告してくれる。
 僕はそんな勉強をがんばらせるより、あなた自身の考え方や生き方が子供にじんわりと伝わるように接してくれるだけでよいと言っているが、それが僕のモナに対する最高の褒め言葉だということを彼女は気付くことなく、フィリピンでは学歴が将来を大きく左右することを僕にほのめかしてくる。

 今日も彼女は、二人の子供を連れ隣町のレガスピにある公文塾に行った。公文塾が終わるとマクドナルドでハンバーガーを食べ、その後子供の遊戯施設で二人を遊ばせる。これが毎週末の決まりごとで、ベルとユリはそれらをセットで楽しみにしている。
 そうやって育つ二人の学力がどこまで伸びるのか見ものだが、僕は本当は、子供たちが日本人の考える最低限のマナーを身につけ、男を見る目を養ってくれたらひとまず満足だ。どんなに知識を備え人に誇れる学歴をまとっても、寄りそう男一つでその人生ががらりと変わることもある。どう転んでも逞しく生きる力を身につけてくれるならそれすら心配しないが、生きる力というものを体系化した教育方法で身体に浸みこませるにはどうしたらよいのか、僕には正直分からない。逆に体系的な教育を学べば学ぶほど、人間というものはひ弱になる傾向があるのではないかとさえ僕は思っている。子供を確立した教育体系に放り込んで馴染ませるということは、人間を一般化することと同義ではないかと感じるからだ。石を投げたら当たるような人間が、どこかで強く所望され極めて重宝されるというのは難しいだろうと思ってしまうし、特別逞しい人間になるための何かは、そこには組み込まれていないだろうと考えている。
 しかし教育を否定したら悲惨なことになることも分かっている。子供に一般的な教育を放棄させたら個性的な人間になるかもしれないが、個性的すぎて社会から浮いてしまうのは問題だ。すると僕の考えはとても矛盾したことのように思えてくるが、実際に僕は、極端な何かを考えているわけではない。上手く表現できないので、この漠然とした親としての希望や願いを文面の陰から上手に読み取ってくれたら幸いである。

 今の僕に特にお伝えするような近況はなく、漫然と安らかな休日を過ごしていることに変わりはないが、一つだけ強いてあげるなら普段使っているパソコンの調子がおもわしくない。
 PCの画面の中でワードをクリックすると、ハードディスクの動作を示すLEDがチカチカと早い不規則な点灯を繰り返し、ワードが立ち上がろうとする。しかし数秒のうちにウィンドーズはエラー(ワードが動作を停止した)を表示し、原因調査とその結果報告をマイクロソフトにするけれど、これには数分を要することがあると言ってくる。
 そのまどろっこしい動作を強制的にキャンセルし何度かワードを立ち上げると、運が良ければ二度目に、最悪でも五回も同じことをすればワードが立ち上がる。しばらくは、このエラーリカバリー動作をしながら、このままワードが立ち上がらなくなれば、そしてパソコンが死亡してしまえば大量の原稿が失われてしまう恐怖と闘っていたが、その恐怖だけは原稿をクラウディングディスクに格納することで解消することができた。
 それ以外も愛用のPCは、とにかく動作の遅さと不具合が目立ってきた。実際にPCが遅くなったのか、それとも自分がせっかちになったのか分からないが、思った通りに動かないパソコンはとかくいらいらが募る。そろそろ買い替え時期だろうか。このPCも、三年半で十分その役割を全うしてくれた。僕にしたら長く使った方かもしれない。
 買い替えを意識し調べてみると、最近のウィンドーズは英語版でも日本語が使えることが分かった。これは標準装備だそうで、実はずっと前からそうだったのか、それとも最近そうしたのか知らないが、そのことは僕にとって目の前の霧が晴れるような朗報だった。それでも信じられず、ここ一年内にマレーシア人がマレーシアで買ったパソコンで試してみると現実に日本語が使え、目からうろこが落ちる思いで驚いた。
「会社で新しいパソコンを用意しようか」
 ふいに現地マネージャーが申し入れてくれた。そう言った後の彼の顔は、どうだと言わんばかりに唇の両端がつり上がり誇らしげに見えた。
「いや、いらない」
 現地マネージャーは虚をつかれたように目を見開いた。
「会社のお金で買うんだよ」
「だからいらないんだよ」
「なぜ? みんな新しいパソコンを買ってやると言ったら喜ぶのに」
「僕はプライベートでも結構パソコンを使うから、会社のパソコンは困るんだ」
「だったら自分用のパソコンをもう一台自分で買えば?」
「いつも使うパソコンが二台になると、それはそれで不便なんだよ」
 彼は不可解だと言わんばかりの顔を作り、少し時間を置いてから言った。
「オッケー、あなたに任せる」
 日本でこんなことを言ったら叱られる。仕事用の機密がいっぱい詰まったパソコンをプライベートで使用されたら困るんだ、それがいくらプライベートで買ったパソコンでもだ。
 少し気のきいたマネージャーなら、そう言うはずだ。
 それが現地のぼんやりしたマネージャーには分からない。会社のお金で買うのに、おかしなことを言う日本人だと思っているに違いない。

 僕のパソコンが不機嫌さを増している中、フィリピンでモナが使っているアップルノートが一足早く天界に召された。仕方がないので、次のサラリーが入ったらエアマックを買ってやると思わず口走ってしまったから、さて自分のパソコンをどうしようかと悩んでいる。一気に二つのパソコンを買うのはさすがに勇気が必要だ。
 言うまでもなくもちろんお金も必要で、どちらかと言えばそちらの方がはるかに重要だが、お金のせいにすると悩みの深さが増してしまうのでとりあえず勇気がないことにしている。経験上その方が、辛さを耐え忍ぶ時には容易である。
 こうやって欲求のコントロールができることも、生きる逞しさの一つであろうか。よく分からないが、今のユリに一番教えなくてはならないことは我慢するということだ。何でも欲求が通りやすい今の生活環境で、彼女には少し我儘な面が見受けられる。先日モナと話した、ユリの一番の問題点である。
 まずは母親が手本を見せなさいということで、次回は僕のパソコンを買うという手もあるなと今気がついた。



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2013年01月20日

658.ありきたりの幸せ

 朝目覚めてすぐに部屋のエアコンを切り、カーテンを開け窓を全開にした。カーテンを軽く揺らす程度の風が、間断なく部屋に流れ込んでくる。同時に鳥のさえずりも聞こえ出す。部屋の中の人工的な空気が、一気にマイナスイオンを含んだ健康的な空気に入れ換わる。
 実際空気にマイナスイオンがたっぷり含まれているかどうか、それは問題ではない。そんな気がする、ということが重要だ。それだけで気分が良くなる。
 空は真っ青というほどではないが、ほぼ全体に青空が広がっている。南国は深いブルーに綿菓子のようなまっ白い雲が浮かびその境界が明確であるイメージがあるけれど、今日のここの空は、薄らとした白いベールが大気に存在しているような淡い青で、雲との境界も曖昧だ。太陽光線が和らぎ、そこに潮風が強く吹いているからこの方が快適である。それでも昼近くになれば、ほんの十分外を歩いただけで汗がTシャツを湿らし不快指数が上がることになる。
 寒い日本でこんなことを読んでも感覚的にピンとこないかもしれないが、ここは紛れもなく赤道近辺の常夏の国である。

 昨日スーパーで買ってきたクロワッサンに、一緒に買ったソーセージを焼き常備しているドリップコーヒーを濃い目に淹れて添えたら、立派な朝食になった。ついでにブルーベリージャムがたっぷり塗られた菓子パンを食べたら、空腹感はすっかり克服された。それからは音楽を流して本を読みながら、休日を何も考えずに済む休日として過ごせることに、しみじみと幸せを感じている。
 最近の僕はこのような心の在り方に、体調が左右されやすい。何かに追われている時は、体調がすぐれないことが多い。どこがどう悪いという症状は、強いてあげれば舌に軽いしびれを覚える程度でそれ以外は特にないが、胃が重いような身体全体がけだるいような、気の晴れない状態になる。この症状は昨年の年始から始まり、それからほぼ一年を通して時折発症した。マレーシアと日本で診察してもらい健康診断も受けてみたが、これといった原因が特定されなかった。よってこれは、多分に精神的なものではないかと思われる。そのように意識してこの一年間の自分の体調を追いかけてみると、自分の精神状態と体の状態が見事に一致するので、ある種の精神病であることは間違いない。

 この病気の治療には、今のような気持ちよさを感じるシチュエーションが大切となる。よって、できるだけ気分が良いと感じる環境を積極的に作り、積極的に幸せだと感じるよう、心も含めて自分を仕向けている。
 バックミュージックはできるだけモーツアルトにし、クラッシック以外ではモンクの不滅の名作「モンクソロ」を聞いている。
 読者はこの辺で、まぶしい朝の光の中で、美しい音楽を聞きながらコーヒーをすすっているダンディな男性を想像してしまうかもしれないが、実際はベッドの上に寝転がり、時々ベッド横にあるテーブルに手を伸ばしコーヒーを取り、くわえ煙草をしながら腹の上に乗せたノートパソコンのキーを叩くおっさん、という感じだ。
 しかしベッドのすぐ左にある窓は全開で、そこからそよそよと涼しい風が入ってきている。見栄えはどうであれ、とにかく自分がくつろげて気持ち良いと感じられることが大切だ。

 口元が寂しくなれば、手元にはたくさんのピーナッツがある。マレーシア航空のスチュワーデスから貰ったやつである(前記事参照)。昨夜から本を読み、時々それをボリボリ食べている。カロリーの高いピーナッツを一袋食べると、それなりに満足感を得られる。食べるたびに読書を中断しそれをくれた彼女の顔を思い出そうとするが、時間が経つほどにその顔は白い霧の中に埋もれていくように、印象が淡く薄くぼんやりとしていく。このピーナッツを全て食べ終わる頃には、そのような受け渡しがあった事実まですっかり忘れてしまいそうだ。
 実は一度、そんな回想をしながらあの唐突な行動の意味を考えてみた。どうにも不可解で、もしかしたらあのピーナッツの中に、何か重要な物(例えば持ち込み困難な違法薬物や機密フィルム)が隠されていたのではないかと僕は考えた。もしそこに大切な何かを忍ばせたとしても、スチュワーデスなら僕のシートナンバーから僕の名前を知ることができ、その後の足取りを追うことも不可能ではない。一旦危険な物を僕に預け、後から取り返しに来ることはあり得ない話ではない。
 ピーナッツと胡散臭い何か……。
 妙な取り合わせだが、一旦怪しんでみるとそれなりに怪しい。僕は完全に読書を中断し、昨夜夜中にピーナッツの袋を子細に点検してみた。
 すると……

 どこをどう見回しても、それは単なるピーナッツの入った袋だった。
 もしかしたら僕は、その重要な物を気付かぬうちに食べてしまったのではないかと心配してみたが、それもすぐに、そんなことがあるわけがないと自分の勝手な想像を打ち消した。
 今のところ怪しい訪問者、電話、メールはない。いや、正確に申告するなら一つだけあった。タガログで、僕をポットという人物と勘違いし、メッセージを送り電話をかけてきた人間がいた。メッセージは無視したが、電話は出て対応してやった。こちらが電話に出ると相手は息を殺しこちらの様子を探るよう、無言を貫いた。電話に出た際の僕の「ハロー」という言葉と声に、瞬間的かつ本能的に危険を察知したからかもしれない。(何の危険だ〜? という突っ込みはなし)
 僕の名を名乗れ(実際にはWho’s speaking? と言った。しかしあくまでもこちらの気分は名を名乗れ)という言葉に、相手はぶつりと電話を切った。一瞬失礼な奴だとムカッとしたが、こちらの電話代をかけてまで抗議する気にもならなかったので、メッセージで、「僕はポットではない。日本人だ。二度とメッセーと電話をするな」と打ってやった。するとすぐに、「済みません、この番号がポットの使っていた番号だったもので。私たちは突然行方が分からなくなったポットという人間を探しています。ソーリーアゲイン」という、普通の人間が持つ礼節をわきまえたメッセージが返ってきたので、それで許してやった。

 そのメッセージにピーナッツの話題が出てきたら話は断然面白くなったはずだが、残念ながらこれでおしまい。
 謎のスチュワーデスとピーナッツはタガログを使う怪しい人間と結びつくことはなく、僕はまた読書に没頭しながら、ごくありきたりな幸せを、今日という休日に噛みしめている。



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