フィリピーナと共に
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2012年08月16日

593.子供の教育について2

僕の子供の頃の思い出を、少し列挙してみる。
・いつも遊んでいた小山で火遊びをし、ふと振り返ったら、野原がぼうぼうに炎を上げて燃えていた。近所の人が水の入ったバケツを持って、懸命に消化をしようとしたが追い付かず、そのうち消防車が何台もきて大騒ぎになり、怖くなった僕は逃げた。
・ある時は路上に止めた車に落下傘降下を何度も繰り返し、持ち主が車に乗り込んだら頭がつかえるほど天井をボコボコにへこまして、やはり逃げた。
火事も車の件も、いずれも大人にしっかり、自分の犯行がばれたていた。
・一度は頭をもたげた冒険心で、もう一度は親に反抗して勝手な行動を取り、2度ほど本格的な迷子になり、警察や街中のタクシーが一日中かけずり回り自分を探している間、僕は一人不安な気持ちで、まる一日延々と、知らない土地を歩いた。
・近所に繋がれたサルがあまりに生意気で、石を投げつけたら流血したので、突然可哀そうになって優しくしたら、噛みつかれた。
・本来小学校低学年は自転車禁止だったが、それを無視して近所の仲間たちと路上で自転車レースをし、僕が二番手を走っていたが、先を行く友達が角を曲がった瞬間に物凄い衝撃音がし、そこに行くと友達が血だらけの瀕死状態で倒れていた。友だちのすぐ近くには、フロントガラスの割れた車が止まり、運転手が血相を変え車から飛び出してきた。僕が慌ててその友達の母親に事故の件を伝えにいったが、その時の、母親が真っ青になって驚いた顔が、今でも忘れられない。
・近所では名士と言われる家庭の友達宅で、我が家では考えられないおやつの時間になると、僕はその家を追い出されるか、もしくは友達が別室に移動し、彼だけプリンなどという、僕が口にしたこともなく、更にはどんな味がするのだろうと羨望の的だったおやつを食べていた。
・その友達宅には、我が家では映らないチャンネル(UHF)のテレビがあった。しかもカラーである。そのチャンネルでウルトラマンをやっていたので、どうしてもそれを見たい僕は道路の塀越しに、彼の家のテレビを覗き見していたが、それに気付いた彼の親が、さーっと襖(ふすま)を閉めた。
それ以外にも、昔は自分の住所割で子供会というものがあり、その会が催す行事の遠足でのスイカ割りの光景や、夏の暑い日に暇を持て余し、意味もなく一人歩きしている時に聞いた蝉の声や、近所の豪邸の庭に忍び込んで探検し、そこの住人と鉢合わせなった時の相手の驚いた顔や、友達と殴り合いの喧嘩をしながら雪の上を転げ回ったこと、誰かを仲間外れにしたり、逆に仲間外れにされたりした時の気分。
これからの出来事は僕の4歳から9歳のものだが、何十年経過してもそれらは、未だ自分の中で、鮮明な画像のように記憶に残っている。

人間は長生きするほど、それなりの体験を様々するわけだが、悪いことだけではなく良い事も含め、特に記憶に残っていることが、誰にでもあるはずである。
なぜ、全てを覚えているわけでなく、特に残る記憶があるのだろうか。
するとこれらの記憶は、嬉しい、驚き、恐怖、悲しみ、反省、希望、喜び、ひがみなどを含めた、何かしらの感情がセットで、記憶に残っていることに気付く。そしてこれらが、何らかの自分の気付きに繋がっており、今の時間を生きる自分の、基本的な考え方に通じているのである。

僕は人間とは、生物として母親の中に命が芽生えた時に、何色にも染まっていない、真っ白な状態ではないかと思っている。もちろん遺伝子を通して、親の体験や感情や能力のようなものが伝わる可能性は否定できないが、基本的には限りなく真っ白。それが何色に染まるのかは、子供の生活体験に基づくのではないかと考えている。
かつて、動物に育てられた子供の話しがあった。動物と一緒に育つと、人間も育てた動物と同じになってしまう。自分が人間であることを、認識できなくなってしまうのである。
それは、子供の中で育まれる言葉、感情、常識、能力は、育つ環境に大きく左右されるということだ。子供がどのように育つかは、その育つ環境で、如何に本人が刺激され、気付きが多いかが重要になるのである。
昔からよく言われる言葉に、かわいい子には旅をさせろ、子供には失敗をさせろというものがある。あまりにも馴染みのある言葉になり過ぎて、この言葉の持つ意味の重要性を深く考えないようになっているが、この言葉は、人間が成長する過程で、本人の経験や、そこからの気付きが大切なことを意味している。適度な苦難を与え、生きる力を蓄積させよという、親心のこもる言葉である。

しかし、今の子供に関する日本の思考はどうだろうか。子供にはできるだけ失敗をさせず、逆にできるだけ楽しみを与え、楽をさせる。できるだけ優劣を隠し、そのようなことで悲しい思いをさせない、惨めな思いをさせないようにする。その延長で叱ることをしない。親は忙しすぎて子供に無関心。子供は努力をしなくても、おねだりすれば欲しいものを買ってもらい、そのおねだりも、誰それも持っているから、などと言う。横並び意識が強くなった日本の親は、その言葉に弱い。先生に少しでも問題を発見すれば、親はその裏に何があるかを知ろうともせず、学校や教育委員会に殴り込み。子供は学校の先生を、師と仰ぐことがなくなり、怖くもなくなる。
一般論であるが、日本は子供の成長にとって、悪いことが増えている。実は、フィリピンでも同様の傾向があり、それに沿った法律までできている。(親や学校の先生の、子供に対する体罰を禁止する法律)
このような環境の中で、子供が何を気付くというのだろうか。期待できるのは、友達同士の付き合いの中で、対人関係に関することを学ぶことだが、今の日本はその友達が怖い。悪い仲間に入れば、子供は簡単に染まるし、仲間外れになりいじめに遭えば、自殺に追い込まれるまで徹底的にやられる。

よく、人間の固有の本質は、簡単には変わらないということを聞く。例えば、昔悪い事をした前科者が、その後真面目になっても、人間の本質は簡単には変わらないからねぇ〜と言いながら、中々その人を見る色眼鏡を外せないという、それである。
僕はこの手の話しを聞いて、いつも二つのことを考える。
一つは、その人の持つ本質とは、その人に悪い事をさせたものが本質なのか、それとも、悪い事をする前後がその人の持つ本質なのか、である。僕は、会ってすぐの人は、それは分からないと思う。分かるわけがない。つまり、過去の情報はさておき、目の前にいるその人から、その人の本質を見抜く必要があると思っている。
もう一点は、人の持つ人間性とは、見られる側が持っていることは勿論であるが、見る側によっても変わるというものである。例えば僕という人間を、Aさんはとても真面目な人だと言い、Bさんはとても腹黒い人間だと感じることがあるということである。
つまり相手の人間性や本質とは、見る側の感性によって、様々変わるということだ。

さて、この人間の本質とは、一体何であろうか。
もちろん人間は、生まれながらにして持っている、残虐性、テリトリー意識、食べるために外敵を排除するようなものを本能的にもっている。しかしそれらが今の時代を生きるために必要なければ、それらは躾の中で封じ込めていくことになる。その封じ込めが不十分な場合、それはその人間の本質の一部として、表に出てしまう。
それを前提に、人間の本質とは何かを考えると、それはその人間の、人間としての芯の有る無しだと思っている。表面的には暴力的で、短気で、簡単に人に手をあげるが、これ以上やったらまずいという限界を知っていたり、人の気持ちを考えて腹が立っても我慢をする心を持っていたり、表面的には冷たいようでも、どうしようもない人には思わず手を差し伸べたりするような気持ちや理性のことである。
これは一例にすぎず、モラルがあるか、常識を持っているか、集中力や向上心や、努力を怠らない気持ちがあるかなど、それには様々な種類があるが、表面的には見えずとも、その人が信念として持っている、気持ちのことだ。このような芯があるのか、ないのか、それが人間の固有の本質を表していると考える。
このような芯が、人をたくましく生きることに繋げたり、人間としての魅力を発散させたり、その人を向上させることに繋げる原動力になるのだろうと考えている。

では、この人間としての本質を作るものは何か。
僕はそれを、人が育つ環境だと思うのである。これは、本人の様々な気付きがないと、形成されにくいものである。だから環境は、大切だと考える。
なぜなら、これは教えるというより、本人が気付くことが大切だからである。その時々に直接的に気付かなくても、ぼんやりとした感情、心情として体の中に残っていれば、いずれ何か大切なものと結びついて、人間の芯として強固なものになっていく。
大人になると、思考が既成概念というものに支配され始めるため、様々な出来事を、自分が変わるきっかけにしにくいということはあるが、強烈な何かがあれば、大人でも変わることはできる。
子供に対して親は、その気付きを少しでも多くするよう、子供を導く努力をすればよい。

では、それをどうするのか。
それは、親としての自分の資質と子供の資質に合わせ、海外留学をさせたり、名門学校を目指したり、学校には通わせずジャングルの中で育てるなど、人によって色々な考え方があるだろう。その手法は様々でも、それは子供の事を一番良く知っているはずの親が、その子供に合わせながら選択することだから、他人には口出ししようがない。
少なくとも、僕はここまで書いてきたようなことを意識しながら、子供の教育について考えているということである。

これはあくまでも、僕が素直に感じることであり、全てがそうだと言うつもりは全くないが、フィリピンの貧しい家庭の子供は、教育が不足していると感じることが多い。
それは、学校で学ぶ知識のことではなく(これも実は、不足気味のような気がしているが)、挨拶や物を食べるときのマナーであり、一番気になるのは、生きる活力、努力する気持ち、向上心、他人を思いやる気持ちが、不足しているように見受けられることである。しかも、簡単に楽な方に流され易い。
楽な方に流され易いのは、自分の中に、目的意識や何かをやり遂げる気持ちが希薄で、何かにきちんと取り組めないことの表れである。このことについては、貧しい家庭でなくても見かける傾向である。
しかしよく考えてみると、日本も全体的に、そのような方向に向かっているのではないかという気がして仕方がない。たまに日本に帰り、日本の子供や学生を見ていると、死んだ魚の目をしている人が多くなったと感じる。また、僕が会社を辞める少し前、バブルが崩壊後は、有名大学の大卒、院卒が急激に増えたが、彼らを見ながら率直に感じたのは、皆おりこうさんであっても、指示されたこと以外について、ほとんど気が回らないということである。
日本は、ペーパーテストの点数だけは相変わらず気にするが、子供の資質を伸ばす土壌が、知らず知らず失われつつあるのではないだろうか。

かつて日本は、貧しい家庭から、立派な人がたくさん排出された。その中から、田中角栄のような突出したリーダーも生まれた。それ以外にも、貧しい家庭の出身者で、良識を持つ優秀な日本人が身の周りにたくさんいた。おそらくそれは、日本人がもともと持っていた、気質の産んだ賜物ではなかったか。
おそらく日本には、そのような何かしらの素地がまだ残っている気はするが、何かが変わってきている。何かが変わってきている点については、日本もフィリピンも、同じ傾向にあるが、日本は先進国らしく、そのことについてもフィリピンの先を進んでいると思われる。

このことについては、実は多くの日本人が気付いている。そして、具体的な解決策を求め、それに応える様々なことを考えている人も多い。
その中で、たまたまある一つの面白い理論に触れる機会があった。五次元理論というものである。(この五次元は、縦・横・高さ・時間の四次元に、もう一つの次元を付け加えるというものではなく、まったく新しい観点の五次元)
人間の複雑な認識のしくみを解き明かし、それを科学的に証明しようという理屈だ。よってそこには、人間の認識に関する数式も登場する。
基本的な考え方はわかったが、細部について現在理解を深めようとしている。
もし紹介する価値があるとすれば、その観点から、再度続編を書いてみたい。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:593.子供の教育について2
2012年08月08日

592.子供の教育について

いつの記事か忘れたが、子供の教育について触れたことがある。そこで、また機会があれば、そのことに関する考えを述べてみたいということも書いた。その時に、読者の方から、自分も子供の教育では悩むところがあるというコメントを頂いた記憶もある。
だからということではないが、最近考えていることを、少し述べてみたい。それは、自分の子供に対する教育のイメージを、少しだけ明確にしておきたいからである。

このフィリピンで暮らし、子供の教育のことを真剣に考えた時に、少々深刻になる。
子供にどのような教育を受けさせるべきなのか。それはこのフィリピンで良いのか。それとも日本で教育を受けさせるべきなのか。またはそれ以外の国が良いのか。そもそも教育とは何か。何を目指して教育を受けさせるのか。知識を付けるためか。教養を身につけるためか。何かの資格を目指すのか。親として、子供の教育に何を望むのか。
そのうち子供は巣立って行くものだから、何から何まで考えてやる必要はないが、せめて今のうちは、それとなく道筋を考えてあげたいものだと思っている。そして、子供が歩くべき道を見失った時に、親として子供の教育に何を望んでいるかを明確に伝えられるよう、そのイメージだけはしっかりと持っておきたいと考えている。

僕は正直に言えば、生徒間のいじめが氾濫する日本の学校で、日本人とフィリピン人のハーフである娘を学ばせることには、大きな抵抗がある。すぐに標的にされる可能性があるからだ。ベルのことを考えれば、その心配はますます大きなものとなる。それでも自分の仕事の関係で、どうしてもそうならざるを得なければ仕方がないが、おそらくこのフィリピンの学校に通わせるよりも、日本の学校に通わせる方が、はるかに神経を使うことになるだろう。

巷では、フィリピンの教育レベルは低いと言われている。確かにそれはぱっと見ただけで、お世辞にも良いとは言えない。ところが、それでは日本の小・中・高の教育レベルが高いかと言えば、実は似たり寄ったりのような気もするのである。
自分が日本の教育で、何を学んだのかを振り返ってみると、それの意外に底が浅いことに愕然とするからである。字の読み書きができるようになり、時計が読めるようになり、四則演算ができるようになった。極論を言えば、学校で勉強として教わったことで自分に本当に身に付いたものとは、そのくらいのような気がするのである。強いてあげれば、歴史や地理や理科を広く浅く学び、何かあった時に頭の中の引き出しをあけて、そこから調べ物をするきっかけになる程度の知識というものを学ばせてもらったが、せいぜいその程度だ。しかもそれらは、既にかなり忘れている。
もしそれでも、日本の教育を受けた人の学力レベルが他の国と比較して高いというなら、それは日本の学校だけの力だけではなく、日本の社会が作る雰囲気が、それを育んでいた部分が大きかったのではないかと思われる。

カリキュラム上の教育レベルなど極端に言えばどんぐりの背比べで、結局自分に身についているものは、娘のベルがフィリピンの公文塾で一生懸命やっているレベルに過ぎない。
そのような意味で、実は僕は子供の教育において、学校というものに過度に期待しているものはあまりない。それは日本でもフィリピンでも、同様にである。

学校は、人格を形成する場であるという信仰を持っていらっしゃる方が、日本には多そうだ。それに対して僕は、それを限りなく外れに近い考え方だと思っている。
学校教育法だったか、とにかくそのような法律には、学校教育の目的のようなものが書かれているはずである。それをきちんと参照せずに、うる覚えでここに書かせてもらえば、学校教育の目的とは、知識の習得、道徳心の向上、知識応用能力の向上といったようなことが書かれていたと思われる。たしかに小学校では、道徳という授業があり、その時間はテレビを見ながら、道徳についていろいろと考えさせられた記憶がある。公共性を身につけるという意味で、基本的な道徳心を養うカリキュラムが、確かに科目に入っていた。それに対して、僕は全く異論がない。良い教育だと思っている。あの科目は、是非フィリピンの小学校にも取り入れてもらいたい。
しかし、最近の学校に関する議論の一部に、学校に人間性を育むことを期待し、それが当たり前の前提として騒がれていた点に、僕は違和感を覚えたのである。
あくまでも学校の基本役割は教科を教えることであり、そこで人間性を育むというのは、無理がある。もしそれを世の中が望んでいるとしたら、世の中は人間というものを、軽く考え過ぎているとしか思えない。
もしそれが可能であれば、日頃素行の酷過ぎる悪ガキ集団が大勢中学や高校に入り、卒業する際に彼らが揃いも揃って猫をかぶったように大人しく、清廉潔白な素晴らしい横並び人間になることを意味するが、それがあり得ないことは、すぐに分かることである。学校のカリキュラムは最初から、決してそのようにはなっていない。
もちろん、たまたま素晴らしい教師に恵まれ、その教師の人間性に触発されて変わる生徒が出てくることはある。しかしそれは幸運な偶然のたまもので、しかもそれは、教師と生徒の双方が、上手に結びついた結果に過ぎない。いくら教師だけが良くても、生徒が触発されなければ、無理なものは無理である。もし学校に、本気で人格形成の場などを期待するなら、教員採用方法も見直す必要があるだろうが、それでもそのような目的が上手に達成されるほど、人間とは単純でない。
あくまでも一般的な学校は、知識を習得する場であり、教師と生徒、または生徒間の付き合いで人間的に切磋琢磨があるというおまけはあるだろうが、そのような偶発的な出会いは、最初から過度に期待できないものである。
僕はこのような意味合いにおいて、教科カリキュラムも大差なく、それ以外に学校に期待するものが小さいとなれば、敢えて子供を日本で学ばせようなどとは、思えなくなっている。
かつては、日本の学校に期待するのではなく、日本の雰囲気の中で子供を育てるのがよいかもしれないと思うことはあった。しかし、最近の日本は、その意味でも良い環境とは言えなくなっている。それでもそうするなら、せめて子供は日本の田舎で育てるのが、まだ無難ではないかと思える。

先日ある方から、息子さんをイギリスへ留学させている話しをうかがった。僕はその時に、何を考えてイギリス留学を決めたのか、なぜアメリカではないのかを訊ねたかったが、それを切りだすきっかけを失い、訊けずじまいだった。
僕がもし経済的にゆとりがあり、子供の留学先としてアメリカとイギリスのどちらかを選ぶ立場になったなら、僕ならば間違いなく、大学前はイギリスを選ぶ。
なぜかと言えば、アメリカとイギリスは同じアングロサクソン系でありながら、社会習慣が随分と違うからである。
イギリスに代表されるヨーロッパ社会というものは、実は学歴だけでは通用しない側面を持っている。例えばヨーロッパの上層社会に顔を出すと、そこでは幅広い教養が身についていないと、大変恥ずかしい思いをすることになる。仮に日本の東大出身である政治家や官僚がそのようなところに顔を出した時に、勉学ができても教養の浅い人は、周囲の尊敬を得ることができない。日本がそのような社会に溶け込めず、イニシアチブを取れない要因の一つが、実はそれではないかと僕は思っている。ここに、日本社会の教育限界が、見え隠れする。
ここでいう教養とは何か。それは素晴らしい音楽や絵画や美術品を理解したり、歴史を知り、そこから物事を学ぶ素養があったり、人間として大切なことが何かを分かっていたり、ものや現象の本質を見抜く力である。彼らはいつも、そのようなことでさりげない会話を交わしている。
そのようなことを重んじる社会では、教える側も当然ながら幅広い教養を身につけており、それが生徒に自然と伝わる。学校だけではなく、そのような社会に身を置くということは、それだけで子供の人間性や社交性を豊かにする可能性が広がるのである。これらは、カリキュラムで学ばせようと思っても、簡単ではない。そのような雰囲気の中に身を置き、そのような人に多く接する機会を得て、自分自身で学ばなければならないことである。
反面アメリカは、何でもお金に結び付けて考える癖がある。ある意味そこには、中国と似通った思想がある。世の中にはお金に換算できないものがあるという、人間そのものの豊かさに繋がる発想が、失われつつある社会になっている。極めて合理的で、別の意味では殺伐とした社会と言える。
漠然とイメージして頂いただけでも、アメリカとヨーロッパには、そのような違いがありそうだということを、理解して頂ける人が多いのではないだろうか。
僕は、そのような考えのもとで子息のイギリス留学を決めたのか、または、全く違う考えがあったのか、そのことを訊いてみたかったのである。
僕も可能であるなら、自分の子供に、迷わずそのような雰囲気を学ばせたいと願っている。

実は僕は、大学には行っていない。中学を卒業後、授業料の安い、しかも就職が有利な特殊な学校へ進学した。隠しているわけではないが少し変わり種で、過去の記事と併せて個人が特定されそうなので、詳しく述べないだけである。
仮に、これから大学に通わせてやるから、どこかの学校を選べと言われたら、僕ならブランドで選ばず、学びたい先生のいる学校を選ぶ。今は、三流大学と呼ばれている私立学校が、生き死にをかけて大変良い先生を金で引っ張り、教壇に立たせているケースが多い。意外な大学に、この先生の授業なら是非受けたいという方がいる。もちろん有名大学にもそのような先生はいる。できれば今さら大卒の資格などは要らないから、それらの先生の授業を渡り歩き、それらの先生に接することで、基本的な考え方やものの見方を、盗みとりたいと考えるのである。
そのようなことを、教育を受ける立場からしばらく遠ざり、人生残り僅かになって、ようやく本気で思えるようになってきた。

僕が子供の教育に関して持つ理想的なイメージというものは、良い社会に馴染む、良い師につく、そこから様々なことの本質を学んで欲しいという、そのようなものである。
このように考えてみると、教育の善し悪しを決めるものは学校ではなく、社会の雰囲気であり、教育を施してくれる人間そのものだろうという気がしてくる。
それも、まずは接することが第一歩で、そこから先は、自分の力で咀嚼することである。
現在、まだ小さなユリにとっての社会とは、家庭が全てである。先生は、僕とモナやベル、そして家族だ。
少し歳を取っているベルにとっては、まだ家庭の役割も大きいが、すでに彼女の持つ社会とは、家庭の外にも多くある。
このフィリピン社会には、子供にあまり馴染んで欲しくない社会習慣も多くある。
例えば、変に合理的・効率主義で(できるだけ楽をして金を稼ぐ、食えたらとりあえずよい)、音楽や美術を楽しむ感性が少なく(のりだけである、もっともそんなゆとりもない)、マナーに問題があり(家庭での食事の仕方、挨拶、パーティーでの振る舞い、路上ポイ捨て)、約束を守らず(バイアンテルはまだ我が家に来ない)、時間にルーズで(精神衛生上よい事もあるが)、上昇志向が欠如(貧困層が多いために、それより少し上になると安心するのか)する傾向などである。また、ちょっと他より贅沢できるようになったことで、上流社会の仲間入りをしたような気分になられることも、子供には注意をしたいところだ。そのようなことで他人を見下したりすることはもってのほかで、親の威厳(といっても大したことはないが、一応給料を払っている身として)をかさにきて人を顎で使ったりすることのないよう、気をつけなければならない。そのようなポイントを除けば、思う存分、フィリピンの良いところを吸収してもらってよいと思っている。
親としてそれほど立派ではないので、出発地点が低い分難航するが、それを家庭で如何に矯正し注意できるかが、ポイントになるだろう。経済的に素晴らしい環境を子供に与えることが不可能であれば、その分家庭で踏ん張るしかない。
このようなことを考えながら、僕は今、子供を無理に日本で学ばせる必要はなさそうだと考え出している。



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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:592.子供の教育について
2012年08月07日

591.水餃子

マニラで色々な方にお会いするのは楽しいが、田舎でのんびりするのもやはり良い。
先ほどコーヒーを淹れて、さあ飲もうかと思ったら、蟻が10匹くらい浮いていた。どうやらコーヒーカップの中を散歩していた蟻が、熱湯被害に遭って死んでしまったらしい。
いつもはコーヒーを淹れる前にカップの中を確認するが、今日は迂闊だった。尊い命を、またたくさん奪ってしまった。
以前であれば、そんなことになればカップの中のコーヒーを捨てて淹れ直したが、今は見える分だけを取り除いて、平気で飲んでしまう。仮に少しくらい蟻が混ざっていたとしても、それで死ぬわけではないし、腹も壊さない。むしろ新鮮な良質たんぱく源として、何か体の役に立っているかもしれない。なにせついさっきまで、生きていたのだから。
僕が自分を一番ピノイ化していると感じるのは、実はこのような時である。少しくらいのことには、動じなくなっている。
このようなことを書くと、今後我が家を訪れる客は、マイコーヒーカップにその他のマイ食器を持参して、口につくもの、口に入るものは、全て自分で管理しなければならないと思われるかもしれないが、客人に対しては日本式管理方法を貫いて気を使うので、そこは心配ご無用である。僕は、調理中にフライパンからこぼれたものを、誰も見ていないからと戻したりもしない。もったいないから、それは味見も兼ねて、しっかり自分の口に入れてしまう。

本日のランチは、久しぶりに餃子を作った。作ったといっても、僕は今、餃子作りにはノータッチ。全てモナが作る。
ただし今回は、マニラで水餃子の話題に触れる機会が多くあったため、焼き餃子ではなく水餃子にしようとなった。するとつけタレを作らなければならない。そこで、僕が日本の母親に電話をし、作り方を聞いて挑戦した。
間口の小さな鍋にオリーブオイル(サラダ油でも可)を入れ、それに酢を混ぜてぶくぶくになるまで十分熱する。この時、花火が爆発したように中味が飛び散るから要注意だが、この熱するのがポイントになるようだ。ここでよく熱しておけば、酢のきつい酸味を和らげることができる。そこに醤油、酒少々、みりん少々、唐辛子を入れて、更に熱する。これで完成。実に簡単だ。大人だけの場合は、七味唐辛子を多めに入れて辛くするとよい。
酢が入っているので、醤油のきついしょっぱさは感じなくなるし、酢の味がきつくても、オイルと一緒によく熱しているから、酢がきらいな僕でも平気で食べることができる。よって醤油も酢も、思い切って入れて平気だ。少し濃い目の味にしておき、もし味が濃いようなら、餃子を茹でたお湯を少し注ぎ、各自で好みの味に調節すればよい。
餃子を茹でるお湯は、浄水器からとった水を使った。トリハロメタンも除去できるもので、加熱する水にも安心である(トリハロメタンは熱すると増殖する)。蟻は食っても、トリハロメタンはなるべく体に入れたくない。

さて、昼食までは少々時間があったので、タレができた時点で餃子6個を茹でて、モナと味見をしてみた。僕はいけると思ったが、モナは美味しいというものの、やや首をかしげている。僕は味見の結果より、タレにみりんと醤油を少し足して2階へ上がった。
昼食前にキッチンに戻ると、モナが焼き餃子を作っているではないか。どうしたのかと訊いてみると、僕の作ったタレは酸っぱすぎて、おそらく家族は食べないだろうと言うのだ。
「はぁ〜?それじゃ、このタレは?」
「それは残りの餃子を水餃子にするから、あなたが食べて」
残りの餃子が何個あるのかちらりと見たら、そこには6個しかない。僕は家族全員に行きわたる分量のタレを作ったのに。
フィリピンに移住して、これほど傷ついたことはなかった。
僕がうなだれてリビングに戻り、うつろな眼差しでテレビを見ていると、そこではマニラの洪水被害が延々と報道されていた。思ったよりも酷い被害に、驚いた。家を失ったのが40万家族(つまり40万戸が水没?)と言っている。台風の多い地域のくせに、相変わらず雨に弱い国だ。40万もの家族が路頭に迷うなど、考えただけで憂鬱になる。水餃子の件でショックを受けていた自分が、途端に恥ずかしくなる。

昼食の段になり、餃子の茹で具合を確認しにキッチンへ行くと、なんと鍋の中には10個以上の餃子がゆらゆらと浮いていた。どうやら隠し玉があったらしい。少し元気を取り戻し、自家製タレを適当な数だけお椀に注ぎ、ようやく食べる準備が整った。さて、家族の反応はどうだろうか。
僕はいかにも平然な顔をしながら、自分が何かを作った時に、みんながおかわりをしているか、口に入れた瞬間に眉間に皺を寄せていないかなど、わずかな反応でも見逃さないように注意深く、家族の顔を観察している。しかし、ストレートにじろじろと見ると、それは家族の食欲減退にもつながるだろうから、できるだけ気付かれないよう、あくまでもさりげなく観察する。
一応焼き餃子用のタレは、モナが作って用意した。こちらは醤油と酢とごま油と唐辛子を混ぜたものである。すると、モナの事前の予想に反し、僕の餃子タレが好評である。モナの即席タレよりも美味しいと、みんなが焼き餃子にも僕のタレをつけて食べてくれている。それはそうだ。僕が食べることができない酸っぱいものを、いつもみんなが美味しいと言って食べているのだから、僕が美味しいと感じるタレがみんなにすっぱいわけがない。
自信を回復した僕は、これは是非ブログで作り方を紹介しようと、急遽この記事を書き始めたのである。

今回初めて水餃子を作り分かったのは、水餃子は茹でたお湯の中に入れてテーブルにサーブするので、いつまでも熱くて美味しいということだ。反対に焼き餃子は、時間と共に冷めてしまう。二つを並べて食べて、その違いが歴然と味の差として出ていた。

このような簡単なタレ作りなど、とうに御承知の方も多いかもしれない。しかし、以前紹介した僕の肉ジャガが、フィリピンの家族に好評だという嬉しい話しを頂いていることもあり、もし知らない方がいたなら、是非お試し頂きたいと思い書いてみた。
くどいようだが、食は人を良くすると書く。どこにお住まいの方でも、たまには家族に美味しいものを振る舞って、それを家族のコミュニケーションに役立て欲しいという願いを込めて、時々クッキング版を書いている。
お前のせいで、家族から散々コケにされたという方がいらっしゃれば、是非ご連絡頂きたい。僕は謙虚に反省し、研究を重ねた進化版をまた紹介したく思う。
しかし料理とは面白く、失敗してもそれはそれで家族の笑い話しが増えるだけなので、基本的には何も恐れることはないと思っている。



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