フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2012年05月28日

539.悪態をつく

最近自分のブログを加筆訂正(非公開)した中に、次のようなくだりがある。初めてフィリピンへプライベート旅行に出かけ、帰国後、僕の当時の心情を表した部分だ。

「僕が日本のサラリーマンの日常を定義するなら、残業や休日出勤を強いられ仕事に追われる殺伐とした日々、となる。当然僕も自分だけは例外、ということはない。帰国後僕は、まさにそのような日常に引き戻された。フィリピンで過ごした夢のような日々と、日本の日常とのギャップに溜息をつき、間逆の世界を行ったり来たりすることの後遺症が、予想以上にひどいものだと知った。そんな僕に、心にも機能回復のためのリハビリテーションが必要だと考える日が、しばらく続くことになった。
日本の社会とはなぜこうも建前が先行し、重箱の隅をつつくような仕事の仕方を好み、夢を持ち込む余地がまったくないのだろうと、自分の置かれている現実の厳しさを、コマネズミのように働くことが当たり前の日本社会のせいにしたくなることもしばしばだった。そのような社会の雰囲気が、フィリピンで見たような怠け男の大量発生を阻んでいることを、僕は頭の隅では捉えていた。しかし自分の身に降りかかってくると、話しは別だった。要求に応え、応えたことに承認を得る、それが上司と部下の関係でも、顧客とサプライヤーの関係においても、その形式こそが大切だと言われているような意味を感じない仕事に追われる時こそ、僕は自分の人生の貴重な時間を無駄に奪われているような気分になり、ますますやり切れないおもいを募らせた。これは僕がかねてから感じていたことで、なにもフィリピンに行ってから突然抱いた感情や考えではなかったが、フィリピンから帰って襲われた虚脱感のようなものと相まって、そのことが自分の中でますます明確な輪郭を帯びていくことを、僕はしっかり認識していた。」

最近仕事の関係で日本の方々と話をしていると、ここで言う、意味もないこだわりを持ち、敢えて仕事を増やして自己満足や安心をしているのではないかという姿勢に良く出会う。しかも何もかもが大至急。偉そうなことを言う割に視野が狭く、がたがたした挙句長いものには巻かれろ的なことになる人が大多数。みんながそれぞれ、常に自分の上ばかりを見ながら仕事をしているから、言い分ややることがころころと変わる。見るべき物は、自分の目の前にある製品のはずなのに、あなたは何を見ているの?
このような社会で、一体どうやって自分のポリシーや思いを貫くことができるのだろうか。日本を牽引するべき大企業にこそ、このような悪習がべったりこびりついている。そうであれば、この社会が行き詰るのは時間の問題だ。それが10年以上前からの、自分の考えである。

幸い日本には蓄えた財が多くあるから、何とかなっているように見える。しかしその財を、順調に増やすことができなくなった。何もこれは日本だけではないから、日本人だけの問題ではないが、そうなる背景には日本人の弱点が潜んでいるように思えてくる。
アメリカなどは、物事が停滞すると原因を分析し、方向転換するのが得意である。それが正しいかどうかは別として、きっちりと見える形で方向性を変える、もしくは明確にしながら現在の方向性を強化する。そこにはカリスマ性リーダーの独断的意思決定がある場合もあれば、喧々諤々とした議論がある。しかし日本人はそれが苦手だ。もともと意見を持ち寄り、議論を深め、みんなのコンセンサスを得ながら進んできた。しかし現在、カリスマ性リーダーを排除しながら議論も無くなった。残ったのは、急激な変化を恐れる臆病風だけになった。何かを恐れるように、いつもコマネズミのように動き回る。それに意味があるかどうかなどおかまいなしに。

日本で困っている人たちは、僕に簡単に日本に来てくれと言う。その規模の仕事だけでは費用が出ないと言えば、来たら他に仕事を作ると言う。確かに仕事はたくさんあるだろうが、仕事が人生で第一優先という人たちに、期間や費用を明確にせずにそう言われても、今の僕は簡単に応じることはできない。フィリピンでいいならいくらでもやってやる。しかしここで仕事を受けると、あくまでも相談ベースというスタイルで仕事をお願いされるケースがある。それも将来の食いぶちに繋がる大切な僕の仕事だから、嫌な顔をせずに引き受ける。しかしそれが、いい加減にしろと言いたくなってくるほどエスカレートする。相談してくるのは大企業の方々。なぜこんなことをお願いしてくるの?依頼内容があまりにもチープで疑問符がたくさんつく。依頼主が何を依頼したいのか、本当に分かっていない。まあ内容が簡単だから、それはそれで構わない。しかしあまりに図に乗って製作物をお願いされたら、こちらもお金を請求しなければならない。感情をむき出しにして言うわけにはいかないから、それを上手にもっていかなければならないが、これが面倒だ。なぜそんな常識を大企業戦士が持っていないのだろうか。そのようなことは、よほど小さな企業の方のほうが敏感だ。

先日日本でやった仕事が、現在環境試験にかけられている。その中の低温環境で問題が一つ発覚した。一応お客に電話をかけて、状況を聞きながら自分の推定原因をコメントした。こちらの設計に原因がある確率は五分五分。相手はこちらがその問題に対応するのは当たり前と思っているようだ。しかし、事前に設計は動作原理試作のみ、環境試験を考慮した量産設計の予算が取れなければ、それは保証外だとしつこいくらいに明確にし文書化もした。それを僕は、メールで相手に伝えた。相手は僕の言い分を理解するようなことをぼかした文章で言いながらも、そのメールの最後で、でも今回はただでいいですよね、と書いてきた。僕はここで、相手とまともに話す気が失せた。あんたは契約というものが何かを理解できないのか?それ以前に日本語を理解しているか?
結局この問題は、先方の購入品に問題があることが分かり、メーカーに解析依頼を出すことで決着したが、相手の考えだけはよく分かった。

僕は普段、フィリピン人にはけじめがないと嘆く。人のバイクを勝手に乗り回し、ガソリンが無くなれば知らんぷり。ちょっと注意するとしばらくはいいが、気が付けばまたもとのもくあみ。
しかし、最近不況のせいか、日本人にもけじめがない。自分たちが儲けるために、予算を徹底的に絞りながら、しかし自分たちは積極的に手足を動かそうとしない。できるだけ安く、うまくいったらタダで、人をこき使おうとする。そんな風潮だから派遣などが流行るようになる。その派遣会社も自分勝手な経営で、従業員に遠慮なくしわ寄せを与える。どこもかしこも、儲けようと思って取り組んでいるなら、ふんどしの紐を締め直して覚悟をもってやれと言いたくなる。

最近どうにも、日本の企業戦士との会話がしっくりこない。違和感だらけだ。
仕事の依頼主のくせに物事を決められない、決まった内容がころころ変わる、こちらに決めさせ文句を言う、何でも大至急で何がプライオリティーなのかわからない、問題には応急処置が大好き、問題は解決するものではなく隠すものだと勘違いしている、ゆとりがない、体を動かさない、ポリシーがない、常識がない、物事の本質をわかっていない、自分たちがそれほど馬鹿なことに気付いていない。
そんなことを並びたてる自分も馬鹿だが、どうせ馬鹿なら、せめて幸せに人間らしく暮らしたいと思っている。


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エントリー:539.悪態をつく
2012年05月26日

538.友人との会話

昨日の記事でも触れように、抜けがらになって、ふとある日本人の友人と話がしたくなって電話してみた。
電話が繋がり突然声が聞きたくなったと言ったら、定期的に電話をかけあう関係ではない彼もたまたま同じように考え、ブラステルでの国際通話方法を忘れてしまってどうしようか考えていたらしい。まるで相思相愛の恋人同士のようだ。しかも日本とフィリピンにいて、偶然同じタイミングで電話をしようと思っていたなど、正真正銘の愛がある恋人同士のようではないか。そんなことを口にするのは恥ずかしすぎるから、僕は口にはしなかったが・・。僕は男で彼も男だ。しかも彼は傍でただ立っているだけで、十分用心棒の役割を果たしてくれそうな、かなり見た目のやばい人だ。

彼は僕に、一時的にでもいいからすぐに日本に帰って来い、そこにいたら危険だと、僕が既に廃人になっていると決めつけているかのように言った。危険だと言うのは、僕がフィリピン人化しているように見えることを言っている。そんなことを言う彼も、実はどこかでのんびり暮らしたいという願望を持っていることは、会話の節々に見え隠れしている。
何をおっしゃる、僕はここに帰ってきたばかりで、まだ1カ月半しか経っていない、日本には4カ月もいた、あの4カ月がどれほど苦しかったか。
それには彼も同意した。ついでに自分も、今は家族と1日離れただけで苦痛だと言った。ならばもっと奥さんを大切にし、今年に入ってからたった一回しかないなどと、奥さんの友達にまで告げ口されないよう、少しは励むべきだ。そんな体たらくだから、どこでまき散らしてきてんの!なんてことを言われることになる。そのうち捨てられるよと脅かしておいた。
それにしても家族と一緒がいいなんてお互い歳を取った証拠で、もうどこに行ってももてないことを無意識に自覚している証拠だと言ったら、自分をあなたと一緒にしないでくれと彼から猛烈に反発された。むきになって言う彼の体験談は、自分が如何に職場でもてているかということを、たまたま職場にいるたった一人の奇特な女性を例にあげ、さもそのような女性がこの世に多いかごとく語り出した。その女性はあなたのことが「大好き」だと「職場」で周りに人がいようがおかまいなしで言うらしい。職場のおばちゃんにまで、食事くらい付き合ってあげなさいよと冷やかされていることを、自慢げに語り出した。
いやいや、あなたは女心が分かっていない、女性が心から相手を愛してしまったら、軽々しくあなたを好きだなんて口にしないものである。ましてや大好きだなんて、「大」がついた時点で「お友達として」という言葉が見事に省略されていることを、もてる男というものはすばやく察知するものだ。更に「職場」で堂々と言うところが、完全にそれを裏付けているではないか。もてない男というものは、とかく勘違いしやすいのだ。ちなみに僕も、勘違いしやすい性質ではあるけれど。
さすがの彼も、それには反論してこなかった。論客の彼にしては珍しい。借りてきた猫のようになってしまえば彼は彼ではない。少し言い過ぎてしまったかと反省した。
彼は今度、四川風マーボー豆腐の材料を持って、家族と一緒にここに遊びに来ると言った。なぜ四川風なのかはあったが、彼は凝りだすと止まらないから四川風なのだろうと、少し論理の組み立てに問題はあるが無理やり悟った。香辛料のたっぷり効いたマーボー豆腐は中国本土で何度も食べたが、あれは美味い。しかし肝心の美味しい豆腐がないから、それだけは忘れずに用意してほしいことを伝え忘れた。まあ彼のことだから、美味しい豆腐などその場で作ってしまおうと言い出すかもしれないが。とにかく彼は凝り性で、パスタなど、味付けは勿論、パスタのゆで加減が30秒狂っただけで、こんなこもんが食えるかい!と言ったあと、パスタとはな、硬さと塩加減が・・とか、ブルゴーニュ地方のワインを軽く入れるとな・・、などと、スターマインが乱舞のごとく夜空に舞うように、次々とパスタ理論が飛び出しそうである。
僕はそんな彼に、ここでは美味しいかつ丼をご馳走すると口を滑らせてしまった。言ってしまったあとに、そこそこ美味しいと言うべきだったか、それとも普通のと言うべきだったか、いっそのこと不味いかつ丼と言った方がベターだったなと反省するも、一度口に出したものは取り消せない。もし作った本人が、今日は失敗したと思っているその前で、そんな彼がこれは美味しいなどと顔を引きつらせぎみで言ったなら、僕がどれほど傷つくか、そんなことまで想像してしまった。
家族で泊まりにくるなら、子供は僕とモナの部屋で預かって、あなたたち夫婦にはベルの部屋を提供してあげようと進言したが、そんな恐ろしいことはやめてくれときっぱり拒否された。遊びに来てほしいと願う僕は、彼の怖がることはサッと引っ込め、とにかくここでは、奥さんが食べられるものをいくらでも用意できるから、早く遊びにきてくれと続けた。もしここへ来たら、ベランダに二人で並んで一緒に気を放出しようなどという企みは、それは危険だと言われそうなので、決して口にはしなかった。


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537.抜けがらの日記

肌を焼きつけるような強い陽射しの天候がしばらく続いていたが、最近ようやく夕立が発生するようになった。一旦振り出すと、少し前まで見事に晴れ渡っていた天候が嘘のように、滝のような大粒で勢いのある雨となる。たいては雷を伴い、空気を引き裂くような雷鳴が轟いたかと思うと、少ししてから家中の電気がなくなる。毎度おなじみの停電だ。そんな様子を見ていると、ようやく本格的な夏が去り、雨期に入ろうとしていることがわかる。雨はいつも、強い風をも伴っている。雨が降っている最中や雨が降ったあとの夜は、モナが寒いというほどの涼しさになる。これが気持ちいい。そんな夜にバイクを出すと、2時間でも3時間でもその中に身を任せていたいほど、いい気分になる。
今日の昼も雨が降っていた。部屋から見えている大きな木が、風で方向の定まらない揺すられ方をしていることから察するに、どうやらもうひと雨きそうな気配である。

そんな中、我が家は平和だ。アンとユリは二人でカラオケをやっている。ユリは何語かわからない言葉を使い、自分の曲が始まればしっかり最初から最後まで歌う。ユリは生意気にも、ソングブックをぱらぱらとめくりながら自分の歌う曲を選曲する。全てはお姉さんや大人の見よう見まねだ。どれがどんな歌かなど分かっていない。僕が、ユリは自分で歌詞とメロディーを創作し歌ってしまうから、何を選曲しても関係ないと言ったら、モナがなるほどそうかと、それに気付いた僕にしきりに感心して笑っていた。そんなマイクを通した子供の声が、家中に響き渡っている。それにママが参加し始めた。ママの歌う声はとても若い。初めて2階でその歌声を聞いた時に、どんな美人の来客かとわざわざ仕事の手を休めて下の階へ見に行ったほどだ。

モナとベルは、ベルの塾があるので隣町にお出かけした。帰りにレッドリボンのケーキを買ってきてくれとモナに頼んだ。今朝、僕は小遣いをもらったばかりなので、僕の小遣いから出そうかと言ったら、そのくらい、いいわよと言われた。今朝僕がもらった小遣いは3千ペソだった。あれ?なんでこんなに多いの?と言ったら、それは二人のデート代や子供たちと出かけた時の食事代も含むそうだ。そんなことで使っていたら、すぐに無くなる、いや、赤字だとクレームを出しておいたが、モナは笑って誤魔化した。さっそく今晩あたり、みんなでコーヒーショップにでも行こうという話しになりそうだ。

今日は我が家がある地区のお祭りでもある。僕はまだ見てないが、このビレッジの前にある通りは、飾り付けと人の出入りで賑わっているそうだ。我が家は誰かを呼んで大がかりなお祭り騒ぎをする予定はないが、ダディーのお客だけが我が家を訪問することになっていた。モナはダディーに予算は1千ペソでいい?と訊いて、ダディーは子供のような笑顔でタマナ(十分)とそれを受け取った。その予算でダディーが客に振る舞う料理の材料とお酒を買ってきた。ダディーは昼前から甲斐甲斐しく料理を含めた来客の準備をし、丁度昼時に来た客にそれを振る舞っていた。まだテラスで、仲間と一緒にのんびり飲み食いを楽しんでいる。

これほど平和だから、今日は昼から休日のような気がしてならない。それで僕は、仕事を放り出して考え事をしている。何か考えなければならないことがあるわけでなく、何を考えようかと考えている。
最近自分のブログ記事を小説風にまとめている。今日は午前中に仕事上のトラブルが発生し、その対処をどうするかという課題がある。見積もり案件が2つあり、そして進行中のプロジェクトが3件ある。更に読みかけの小説が2冊ある。
考えるべきことややることはたくさんあるのに、何を考えようかを考えて、考えがまとまらないのでこれを書き出した。だからこんなふやけた内容になっている。
平和だということは、ボケることかと分かったような気になって、だから平和ボケというのかと、今さらながらに気付く僕は、やっぱり平和ボケしているようだ。
そしてこんな記事をそのまま出して、日本でキュウキュウしている人がこれを読んだ時に、どう感じるかなど気にもしていない。悪いと思うが、平和ボケしているから仕方ない。

とにかく僕が自分の仕事机に座り、今我が家の様子を、自分がどう感じているかをそのまま書いてみようと思って書き始めたら、こうなった。
そんなことを日本の友人に電話で話してみた。最近フィリピン人化して危ないぞと言われた。しかしここでぼんやりしていれば、気が放出してしまうから仕方がないと答えた。今はやばいという自覚症状があるけれど、しばらくすればやばいことになっていることも気がつかなくなっているはずだと言っておいた。とにかくベランダに出て風に吹かれていたら、全身から気がどんどん放出されていく。何かの抜けがらになってしまうような言い方だが、今日は本当に抜けがらになった気分だった。床に座り壁に寄り掛かって口をあけていると、そこから気が煙となって、どんどん放出されていくような気分だ。想像をして、怖いと感じる方もいれば、大丈夫かと思われる方もいるかもしれない。
友人は、気の放出を止め、手遅れにならないうちに一度日本へ来いとしきりに言った。もちろんそれは、冬山で眠りそうになっている人間に、寝るな!寝たら死ぬぞ!というような、切羽詰まった言い方ではないから、誤解を招かぬように言い添えておきたい。
しかしなぜそんな気分になっているかと言えば、理由は分からないが、おそらく最近自分で感じる、心境の変化というものに過ぎないような気がするので、それほど心配はいらないと、勝手に自分で思っている。

昨夜、モナがYouTube上に作った我が家の写真集を見せてもらった。これはアクセス制限があり、今はモナしか見ることはできない。最初はベルとユリのビデオで始まり、それから我が家の思い出を記録した写真が、音楽をバックに次々と展開される。最初のビデオでは、僕がユリに最初に教えた芸当を彼女が披露している。それは「眉毛!」と日本語で言うと、ユリが眉毛を上下に数回動かすやつだ。眉毛で話ができなければ立派なフィリピーナにはなれないと思い、僕は彼女にそれを一番に教えた。おかげで彼女は、立派なフィリピーナに育ちつつある。
写真集の中には、僕が腹を出して酷い恰好で寝ているものもあれば、寝起きの爆発した頭でユリの相手をしているものもある。ベルが小さくダディーが随分若い顔の写真もあるし、モナがお店で働いていた頃の店の写真まで入っている。ベルと僕がプールでじゃれ合って遊んでいる写真などは、まるで本当の親子のようだ。通しで見ると15分もかかるそれを、僕は魅入って2回も見てしまった。それを見ている時は、まるで周りの時間が止まってしまったように感じた。何がどうというわけではないが、そこには我が家のありのままの姿が映っていた。まるで我が家の歴史を見ているような気になって、自分のこれまでの軌跡を振り返ってしまった。
なるほど僕は普段、こんなにだらしがなく、こんなに間抜け面で、こんなに嬉しそうにしているのかということがよく分かった。たまには自分を客観的に観察してみるのもいいものだと思った。
僕がモナに、これを公開しようかと言った。僕はその写真集に、自分がどれほど文章で説明しても敵わない妙な説得力を感じたからだった。
僕はプライベートな写真を不特定多数に公開するのはよくないと、フェイスブックでさえ写真を載せることに反対していたから、モナは意外な顔をした。どのように公開するかは考える必要がありそうだが、このありのままの姿を、自分のみっともない姿さえ入っているそれを、親しい知り合いに見てもらおうなどという気になっている。これも何か心境の変化というものだ。

今日は抜けがらの状態で日記を書いてみた。そしたら抜けがらが書いたようになった。しかし抜けがら状態で書いた日記には、ある意味自分の素が現れているような気がする。


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エントリー:537.抜けがらの日記

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