フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2012年05月17日

530.本日多忙

今日は日本からひっきりなしに電話がかかり、そうかと思えばメールが入り、体が3つは欲しいと思うくらいに忙しかった。こんな異国の片田舎で暮らしていると、足元をみられて来る仕事はほとんど「いますぐやって」というのばかり。それはすぐにやってすぐに終わる仕事だから、なんか目が回るように忙しいけれど、その割に金にならない。

「だって一つ片付けて5万円〜10万円でしょ、あいだを取って一つ7万5千円として、それを1日3つ片付けると・・・、22万5千円、すると10日で225万円???・・・うそだぁ〜、そんなに儲かってねぇ〜・・・まてよ、まてよ、一つ5万円は取るよなぁ、それで1日3個で15万円、すると10日で150万円???・・・うっそぉ〜、おかしい、やっぱりそんなに儲かってねぇよ」

電卓をたたいて一人で首をかしげている。そんなことをしている暇があるなら、少しでも仕事を進めろと自分で自分に言ってみるが、計算が合わないのは気にかかる。
しかし謎はすぐ解けた。難しくもなんともない。七不思議でもなんでもない。
だって毎日そんなにやってないんだから。昼寝している時も結構あったりする。
しかし細かい仕事もバカにならんなどと、あらためて認識する。これからはローテクの仕事をたくさん集めようかと本気で考える。ローテクで安くて短時間で確実に終わるやつ。あとはチリツモだ。ほんとはそれがいいが、だいたいそんな仕事は今日中、明日中と言われるから、そんなのたくさん集めちゃったら、毎日寝不足になってしまう。
やっぱりここにいたら昼寝もしたいし早寝早起きがいい。夕方はベランダで涼んでコーヒー飲みたい。

しかし昨夜日本のある会社の方とスカイプミーティングをした際、ちょっと首が回らなくなってきたから助けてくれないなどと言われ、ローテクの簡単な奴をばんばんお願いしますよ、などと言ってしまった。ローテクは魅力だ。すぐに取りかかる気になれる。
ハイテクは心の準備が大変で、実はそこで時間を取られる。されどハイテクだから、後が詰まると徹夜になるのが常だ。ハイテクだから徹夜になるのではなく、心の準備が大変だから徹夜が多くなる・・・、実は秘密にしているけれど、そのような構図になっている。そして徹夜をしている時には、やっぱり難しいよ、これ、などと言っている・・・・だけだ。
まあ、内情を暴露ばかりしても仕方がないので、話しを先に進めると、

今日などは、ちょっと一息入れようとコーヒーを淹れに廊下へでたら、おおきないびきが聞こえてきた。はて、どこから?と思ったら、ダディーがベルの部屋に敷いたマットレスの上で、枕付きでぐっすり昼寝をしていた。あ〜、いい御身分だなぁと思いながら部屋に戻ると、そこではモナが御就寝。はぁ、やっぱりいい御身分で羨ましい。
最初の頃はいい御身分様たちへやっかみも持っていたが、僕が昼寝しても誰も文句を言わないから、近頃は僕もだんだん何も感じなくなってきた。それでも今日は忙しい。なぜみんな寝てるんだ、俺だって昼寝したいんだ、ってな気持ちになってしまう。
こうして仕事のやる気を奪われると、ブログの記事を書き始める。そしてお客さんには、ちょっと丁寧に確認しているので、もうちょっと待ってねなどと言っている。時にはインターネットや電気や携帯会社が悪者になって、今日はぶちぶち切れちゃうんですよとか、停電があったとか、電波がこないなどと言う。それでもしっかり通用するのが、異国の片田舎のよいところだ。あ〜、住むならやっぱり田舎だなぁ、などと思ったりする時である。

夕方深い眠りから目覚めたモナが、鏡の前で自分の顔をチェックしていた。ユリはまだぐっすり寝ている。あ〜、いい御身分だなどと思っていたのに、僕の口からは
「コーヒーでも飲む?」
などと、サービス精神たっぷりの言葉が出てしまったりするのだ。
それにモナは口元をニッとさせて、こちらを向いて眉毛を2度ほどあげ下げする。やっぱり言わなきゃよかったなどと思っても後の祭りだ。
僕はまた廊下に出て、二つのコーヒーカップを用意して、コーヒーをせっせと淹れる。「ミルク、砂糖は?」などと、そんなことまで訊きながらである。

自分が撒いた種であることを忘れ、はぁ〜、僕は使用人かと思いながら、「コーヒーはどこに置けばいい?」などと言うと、モナはベランダを指差すので、そこへそろそろとコーヒーを運びながら、今度エプロンを用意してもらわなければならないな、と思ったりする。
ベランダに出てみれば、日が落ちかけて随分涼しく気持ちがいいので、やっぱり僕も、などと言って自分のコーヒーもそこへ運ぶ。そんな素晴らしい環境で、まともに仕事などできるわけがない、などとつくづく思ったりする。
そうこうしているうちに、日本時間は6時などになってくると、メールも電話も入らなくなる。すると、今日はこちらも店じまいしてしまおうなんて気分になって、シャワーを浴びてリラックスモードに入るのだ。
いやぁ、今日はほんとに忙しかった。


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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:530.本日多忙
2012年05月16日

529.ユリとの日常

ユリが昨日でちょうど、2歳6カ月となった。可愛いさかりで、一緒にいると飽きないし、愛しくて仕方がない。とにかく何をしても可愛げのある時期だ。このユリの大切な時期に無理をして日本から帰り、本当に良かったと強く感じる日々である。
本日は、少しユリの様子を書いてみたい。

ユリは普段、クリーブ(四方が壁で囲まれたベッド)で寝ている。そこを自分のバハイ(家)と呼んで、寝る時や何かに集中したい時には、必ず自分のバハイに入る。
夜は僕とモナのベッドにおいでと言っても、「アヤウ(いや)」と首を横に振って、自分のバハイで寝たがる。そこが自分の居場所であることを、彼女はしっかりと認識しているようだ。
バハイから出たくなれば、自分の首ほどの高さのある壁をよじ登って、一人で外に出てくる。壁を乗り越える時には、まず左足を頭の高さまであげて壁にかけ、そして力を入れながら自分の体を壁の上まで引き上げる。この時両足は、クリーブの外にも内にも届かないから、細い壁の上にバランスを取りながら腹ばいで寝ころがるような恰好になる。そして今度は外側に体をずらし、左足の着地点を足でさぐりながら壁を乗り越える。たまに右足に、クリーブの中のタオルケットがひっかかると、壁の上に腹を乗せたまま、しばらく右足をぴこぴこ振りながら引っかかったものを振り払おうとするが、取れないといつまでも変な恰好で、足をぴこぴこ動かしてがんばっている。そんな姿を後ろからこっそり見ていると滑稽で笑えるが、僕はユリに気付かれないように笑いをこらえて、じっと様子をみている。

そんな具合だから、もう階段の上り下りも一人でも心配なくなった。洗濯物を干すための2段になった細い鉄棒の上でも、上の鉄棒に捕まりながらではあるが、ユリの背丈よりやや上の高さにある下の細い鉄棒の上を端から端まで一人で歩き、そしてターンもできる。このようにバランス感覚は人並みにあるようで、階段で転げ落ちる心配がほとんどなくなった。
走る、飛ぶなどの運動能力は、歳相応だし、体に関しては大きめで、病気を滅多にしない丈夫なことがなによりだ。

知能面も今のところ問題ない。先日は、モナがユリより頭の悪いことが発覚し、これは大問題(モナが)だということになった。
iPadを自在に操るユリは、いつもそれでゲームをしている。ユリが遊ぶiPadを見ていると、今は良さげな子供向けソフトが実に豊富にあることに驚かされる。絵本は音声入りだし、足し算、引き算も遊びながら覚えることができる。足し算は、ユリは指で数えることはするけれど、2+3=5など、できるようになっていることを知って驚いた。パズルゲームも種類が豊富だ。教育熱心なモナが、そういったソフトを見つけてはiPadに入れているから、とにかくたくさん入っている。

先日ユリが、神経衰弱のようなゲームをやっていた。トランプを裏返しに並べ、それを2枚表に返して数字がペアになればそのカードをゲットできてさらに次のめくる権利が続行する。裏返した全てのカードがなくなった時に、手元に一番多くのカードを持っている人が勝ち、というやつである。
それのiPad版で、トランプの数字ではなく、同じ絵札を揃えたらカードを貰えるというものだった。見ていると、ユリはペアをどんどん揃えるので、まぐれか記憶によるものかを確認をするために、しばらくユリの遊びを観察していた。すると、ユリは一度見たカードはきちんと覚えていて、一度でも見たカードが出ればそれを確実に揃えられることが分かった。
僕がモナを近くに呼び、すごいぞと教えてあげると、モナはきょとんとしていた。彼女はそれまでもユリがそのゲームをするのを見ていたらしいが、ただ二つのカードを揃えればよいくらいにしか思っておらず、ペアを揃えることができる意味に気付いていなかった。つまり、一度ひっくり返したカードの絵と場所を記憶しているからペアを揃えられるという点に、モナは全く気付いていなかったのである。
「お前はバカか、ユリの方がすごい」という話しをし、モナは頭をかいていた。その二人の前で、ユリは次のゲームを始めた。
僕はそれもじっと観察してみた。今度は絵柄ではなく、同じ音を揃えるというものだった。カードに触ると、音が出る。出る音はドアの開くきしみ音や、ガラスが割れる音や、楽器の音、動物や虫の鳴き声など、とにかくバリエーションが豊富だ。同じ音をペアで揃えれば良いのだが、ユリはその正解率も高い。これもすごいぞとモナに話したら、彼女はやはりユリが何をしているのか分かっていないようで、再び「お前はバカか、どこにどんな音があったかを覚えていて、同じ音を揃えているんだろう」と僕がモナに教えてやると、ようやく彼女は「あ〜」と納得して、彼女はそこで、自分がユリに負けたことを気付いた。モナはあまりの自分の馬鹿さ加減が可笑しくてゲラゲラ笑いながら、ユリに「すごいねぇ〜」などと言っていた。
これが日本人であれば、「お前は既に負けている・・あたたたた」などと冗談(いや、本気で呆れたのだが)を言いたいところだが、モナがそれを分かるわけがないのでやめておいた。僕は、あなたが幼児用ソフトで頭を鍛える必要があると言った。
それにしても、神経衰弱は日本的感覚の遊びなのだろうか。ユリが自力で遊び方に気付き、僕だって瞬間的に分かったが、モナはそれを見てもさっぱり分からなかったことが不思議だった。

ユリには生まれながらに、日本的だと言われることがいくつかある。
ひとつは夕食のスープや味噌汁を、スプーンで飲まず、カップやお椀に口をつけて飲むことだ。普通こちらの子供はそれをやらないと、モナを含めた家族が言いながら笑っている。
そこで注意して観察してみると、確かにこちらの大人・子供は、スープの類はスプーンですくって飲んでいる。さすがに皿のスープはユリでも口を直接皿につけないが、カップに入っていれば、それは僕もユリも、コーヒーと同じような飲み方をする。しかしこちらは、カップに入っていても、スプーンですくう。
麺類を食べる時は、ユリは麺をちゅるちゅるとすすって食べる。それもこちらの子供はできないそうだ。(これは大人でも出来ない人を、よくみかけるが・・・)
モナや家族がそのことを、父親が日本人というだけで日本的になるのは不思議だと笑っている。遺伝子のせいかとなどと言っているが、きっとユリは僕のやり方をどこかで見ていて、覚えるのではないだろうか。それでも我が家を留守にすることが多い僕の真似を、一体いつから覚えていたのかという疑問は残る。

ユリの自我が目覚めたのは結構早かった。つまり、自分の好き嫌いがはっきりしていて、したいこと、欲しいものがあればまっしぐらで我儘になる。
僕はあまりに酷いユリの我儘を見ると、彼女の手の甲をピシッとひっぱたいて、ダメ!と大きな声を出して叱る。最初のころ、ユリは驚いて目に涙を浮かべていたが、最近は僕がユリを叱るのを察知すると、手の甲をひっぱたく前にユリは自分で人さし指を立てて、それを左右に振りながら真剣な表情で「ダメダメ」と言ってくる。僕は笑いたくなるが、ここで笑い顔を見せてはいけないとこらえ、ユリの後ろにいるモナは声を殺して笑っている。ユリが後ろにいるモナにも振り返って「ダメダメ」というと、今度はモナが笑い顔を殺して、僕が声を殺して笑う。叱っている時には、叱っていることを徹底してユリに伝えなければならない。
僕がユリから少し離れた場所から、「ユリ!それはダメ」などと言い、それにユリが耳をかさなかったりすると、僕は怖い顔をして「コォラァ〜」と言いながらユリに近づいていくが、ユリは突然ビビって、やはり立てた人差し指を左右に振りながら、「ノーノーノーノー」などと言う。そんな仕草を見ると、やはりユリは外人だと思いながら、その仕草にも、こちらは笑いをこらえて対処しなければならない。
しかし、叱られることをしているのは分かっているようで、自分が悪いことをしている時にユリは、いつも周囲を見回している。一階で遊ぶユリを、僕は吹き抜けになっている二階から見ていることがあるが、ユリが何か悪さをしようとし周囲を見回し、二階から見ている僕に気付くと、僕が何も言わなくても彼女は、「ダメダメ」と独り言のように言いながら、その動作を引っ込めるように止める。

このような具合だから、ユリはある程度は勝手に遊べるようになっているので、いつでも彼女の後ろを追いかける必要が減り、かなり楽になった。
僕がフィリピンに帰って1カ月だが、その間にも、随分とユリは日本語を覚えた。やはり僕が近くにいて日本語で話しかけてあげることは、効果があるようだ。
僕は逆に、ユリから現地語を教わることが多い。今では僕の言葉も日本語、英語、現地語のミックスで、何か言われると「なに?」ではなく、「アノ?」と自然に訊き返すことが多くなっている。
他にも「アノサビモ?(なに言っている?)」「アノグストモ?(なにがほしいの?)」「マサインカ?(どこいく?)」「デリデリ!(早く早く!)」「サラマ(ありがとう)」「ヒンディ(ノー・違う)」「アヤウ(いやだ)」「オボ?(だっこする?)」「ババ(下)」「デンデ(ここ)」「オォボス(おしまい、おわりなさい)」など、自然に出てくる言葉が多くなってきた。問題はそれが、タガログなのかビサイヤ(>>コメントで指摘あり、ビコール語の間違い、失礼!)なのか、幼児用語かそうでないかを僕が分かっていないことである。(ちなみに二人称、三人称もわかっていない)
先日ユリの口の周りが汚れていたので、僕が「きれいきれい」と言って口を拭いてあげようとしたら、ユリがさっと腕をあげて僕に自分の脇の下を見せた。僕が「アノ?」と言うと、近くにいたモナが笑いながら、「キリィキリィ」が脇の下の意味だからと教えてくれた。
こんなことが生活の中の至るところにあると、僕でも自然と言葉を覚えてしまう。
※上記言葉は、記憶や僕の聞こえ方によるもので、正しいとは限らない。

とにかく子供の仕草、表情というものは、なぜこれほどまでに愛らしくて飽きないのだろうか。子供はピュアだからだろう。しかしずっとピュアでも困ってしまうというのが、人間たるところの難しいところだと、ユリを見てつくづく考えてしまう。


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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:529.ユリとの日常
2012年05月15日

528.価値観の多様化

今日ダディーとママが、ユリを連れて銀行に行った。ユリはその時、いつも大切に持ち歩いている赤ん坊の人形を持っていたらしい。
その人形はベルのお下がりで、かなり古ぼけているが、今でもスイッチを押せばおしゃべりするし、目や口が動く完動品だ。かつてモナが、ベルへのお土産として日本で購入したものだ。つまりその人形は、購入してから8〜9年経過している。おかげでまともな服を着ておらず、白い下着のようなものは身につけているが、それも汚れてくすんだ白になっている。

銀行の前にトライシケルを止めていざ銀行へ入ろうとしたら、ユリがその人形を持っていこうとした。しかしママは、そんな汚い人形を持って入るのは恥ずかしいから、それはトライシケルに置いていきなさいとユリに言ったらしい。結局人形は、トライシケルの中に置き去りにされた。

僕がその話しを聞いて感じたのは、しっかり者のママでも、やはりそのような感覚を持っているのかということだった。
もし僕であれば、ユリが汚くて古い人形を持っていようが、恥ずかしいなどとは思わない。ベルのお下がりを大切に使っていることの方が、よほど美徳というものだ。そもそも子供のおもちゃなど、使用できる期限が限られているのだから、お下がりで十分である。
よって古いものを使っていることは、決して恥ずべきことではないと考える。

しかし僕は、ママの言葉を別の意味では理解できる。
日本が復興を遂げようとしていたあたりには、日本でも同じようなことがあった。丁度みんなが貧乏から這い上がり、一段落したような頃である。
世間では、小さいよりは大きい方が良かったし、古いものより新しいものが良かった。世の中の価値観が画一的でシンプルなのである。もう自分は貧乏ではないと誇示できるものは、何でも欲しかった。貧乏に見えそうなものを身につけ持ち歩くのは、恥ずかしいという感覚があった。
それは、みんなが貧乏から這い上がっている時に、自分だけがそこから出遅れたと思われるのが嫌だからであった。実際はそうでなくても、周囲からそう見られることを嫌った。

しかし今の日本は随分変わった。古い人形を持っていたとして、それを恥ずかしいなどとは思わない。ある程度普通の恰好をしていれば、その人にある程度の収入があることが分かるから、仮に子供が古い人形を使っていたとしても、それは新しい人形が買えないからおんぼろを使っているわけではなく、古い人形で十分だと考えて使用している、もしくはその人形がお気に入りで愛用していると周囲が理解してくれることを、その人は知っているからである。古い人形を使用している事実が、仕方ないことではなく、選択の結果であることを、周囲が認めてくれるということだ。

社会がそうなれば、見栄えのよい大きな高級車より、小回りのきく小型車が好きであれば、それを買って堂々と乗るし、同じ車でもフル装備が必要ないと思えばどんどん装備を削り、堂々と値段を安くして買ってしまう。つまり価値観の多様化である。
選択でそうしたということと、経済状況に仕方なく左右されることは、本人の意識に、雲泥の差が出てくるものだ。そして事実とは別に、周囲がその行動をどう見るかも、大きく影響を及ぼす。
これが僕の言う、成熟した社会の中で、成熟した文化生活が身についた人の、物質欲からの離脱という一つの姿である。周囲に左右されることなく、自分の価値判断に従って堂々と生きていけるというのは、幸せなことなのだ。

そんなことは、そんなに難しく言わなくても分かると言われれば、はいそうですねということになってしまうが、その領域にまだまだ達していないフィリピンの方々にそれを理解してもらうのは、おそらく大変なことである。
もしママが、古い人形は恥ずかしいからそれを捨てて新しいのを買いなさいと言い、僕が大反対しながら、何が恥ずかしいのか、お下がりのどこが悪いのか、どうせすぐに使わなくなってお蔵入りするものなのだろうと声を大にして唱えると、ママは渋々従ってくれるかもしれない。しかし頭では、決してその言葉を理解できない。なぜならば、恥ずかしいという感情は、どこまでいっても恥ずかしいからである。そしてすぐに、買えるお金があるのになぜということになる。
日本人とフィリピン人のこの感覚のずれについては、要注意である。感情はどうしても残りやすいから、それが残る限りこの溝は埋まらない。ならば、どちらかが譲歩する必要がある。実は同じようなことに根差した感覚のずれというものは、まだまだある。

実際には、今の我が家でその人形が汚いから捨てろという話しには決してならない。我が家は、異常なくらい、物を大切にしようとするからだ。しかし、もう少しお金を使う事に慣れ出したら、捨てなさいということになる。そして更にお金を持つことに慣れ出したら、今の日本と同じように価値観の多様化が起こり、それぞれの価値判断で行動をするということになるのだろう。
しかし僕は、フィリピンがそうなるまで、まだ10年以上ははかかるのではないかと思っている。


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