フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2012年04月22日

506.やっと帰った・・1

「寝れば寝るほど眠くなる」
僕が昔からよく使う格言の一つ(勝手に自分で作った格言ではあるけれど・・)だが、僕はフィリピンで、まさにその格言の示す現象にはまっていた。
フィリピンに帰ってから、とにかく眠い。歳をとってから寝られなくなったことを実感する昨今だったが、今回はいくら寝ても寝足りないのである。
寝るほど体の中にある鉛のおもりが重量を増すようにけだるさが増加し、まさに「寝れば寝るほど眠くなる」状態になってしまった。普通の生活からはかけ離れ、誰からか電話がきても、「今珍しく、ちょうど起きていたんだ」と言わねばならないほどだった。
日本での疲れが自分の中に相当蓄積していたことを実感せずにはいられなかったが、昨日昼頃、ようやくそれが解消し始め、ブログ記事の更新に至った。

フィリピンに帰る直前の数日間を振り返ると、次のようになる。
日本における最後の土曜日(4/14)、朝から仕事をし、夜は東京のK田でshunsukeさん、サラマさん御夫婦と一緒に焼肉を食べ、更にお酒を飲んでサラマさん宅へ泊めてもらうことになった。
日曜の朝(4/15)、サラマさん宅から日曜の朝に外注さんのオフィスに出向き仕事へ復帰してからフィリピンに帰るまで、ほとんど寝ずの追い込み作業となった。サラマさん宅を出る時に、サラマさんより新しい服まで頂きそれを着用したが、それをまるまる36時間着っぱなし状態になる。
つまり、日曜は予定通り徹夜となり、一睡もせず徹夜明けの月曜(4/16)は丸一日作業を続行し、一旦終電で自宅へ帰ってから睡眠4時間を経て、火曜(4/17)は早朝から出張。しかし岐阜へ行くその出張予定を急遽変更し中央道高速インター直前で僕だけ車を降り、タクシーと電車で相模原、横浜のお客さんや外注さんを回り、仕事がようやく終わったのが夜の10時過ぎだった。

翌早朝の水曜日(4/18)はフィリピンへの便に乗る予定だったが、その時点で部屋に溢れかえっていたフィリピンへのお土産をしまい込むためのスーツケースをまだ買えていなかった。
せめてもの救いは前週の仕事帰り、無理をして仕事を早目に切り上げ、ママに約束していたお土産のバッグを買っておいたことだった。雨の中、南M田市のモールへと行き、閉店30分前にショップへ駆け込み、すぐさま若い女性店員を捕まえ探しているバッグのイメージを伝え、代金を支払うまで買い物のサポートをしてもらった。
ビコールSさんの奥さんにも日頃お世話になっている感謝の気持ちを形にしたくて、ここでママとSさんの奥さんのバッグを2個購入した。モナへのバッグは既に購入済みであった。
お土産はそれで大半が終了し、あとは成田空港でいつものようにモナにおにぎりを買うだけとなったから、お土産に関しては一安心だったが、それをどうやってフィリピンに持って帰るかの問題が残っていた。
お土産は一気に買うと金額がはって大変なので、気の向いた時に少しずつ買いだめしておいたが、それ方式で積み上がったお土産が大変な量になってしまった。
時々買ったお土産をつまみ食いをして量を減らす努力をしていたが、そこで「これは美味い」となれば、数日後にはつまみ食いした量の5倍や10倍の量を購入してしまうので、お土産の量は増える一方で帰国前日を迎えた。
こうして購入した品々は部屋の棚の上に山々と積み上がり、僕が日本へ持ってきたスーツケース一つに収まりきらないのは明白だった。
そこで出張帰りのスーツ姿のままで、追加のスーツケースを買うためにM田市のドンキホーテへ行き、場違いな恰好であることを少しだけ気にしながら、新しいスーツケースを一つ購入した。

最後の懸案事項であったスーツケースを買った途端、安心感に包まれ自分のお腹が空いていることに気付き、深夜までやっているアパート近くの食堂へ立ち寄った。
そこは30半ばの中国人御夫婦がやっている食堂で、以前iPhoneでスカイプを繋げたままその食堂に入り食事をしたことがあるため、この御夫婦は僕の家がフィリピンにあること、奥さんがフィリピーナであることを知っている。その時にその御夫婦は、モナと短い会話を交わした。
そう言えば前回日本滞在中によくお世話になった食堂は、奥さんが台湾人で仲良くなった。
どうも僕は、外人さんのお店に縁があるようだ。

スーツ姿でスーツケースを持って店に入ったら、どこへ行って来たんだと言われたから、ようやく翌朝フィリピンに帰ること、そのためにスーツケースを買ってきたことを伝えた。しばらく来店できなくなってしまうことは残念だけれど、長い間お世話になりましたと挨拶をしたら、中国人夫婦は僕のようやくの帰省を、まるで自分たちのことのように喜んでくれ、素敵な奥さんに宜しくと中国なまりの日本語で言ってくれた。スカイプの画面越しにモナと会った旦那さんは、その後僕が食事に行くたびに、素敵な奥さんは元気か、早く帰りたいでしょう、宜しく言ってくれと声をかけてくれていた。
自分の奥さんに聞こえないように言ってくるところは怪しいが、働きもので真面目で気さくな旦那さんである。勿論奥さんも、いつも笑顔のたえない明るく素敵な人だ。

部屋に帰りついたのが夜中の12時頃だった。後は荷物をまとめ、部屋を片付けるだけである。ようやくフィリピンに帰れるという実感が湧かなかったわけではなかったが、まだ心配事はあった。
成田行きのバスは予約済みだったが、そこへ行くためのタクシー予約がどうしても取れない。その日もタクシー会社数社に電話をしてみたがだめだった。
電車の始発では間に合わない時間なので、どうしてもタクシーを利用するしかないのである。
タクシーはなんとか路上で捕まえるしかないと予約を諦め、荷造りを初めてまたまた途方に暮れた。フィリピンに持って帰る荷物が、なかなかバッグに収まらない。
前日までは適当なボストンバッグでも買えば何とかなるかもしれないと思っていたが、結局は念のためにと普通のスーツケースを購入した。それでも入り切らないのだから、ボストンバッグなどにしたら全く詰め込めず、深夜にタクシーでドンキホーテを往復するはめになっていただろう。考えただけでも気が滅入る。

何度も荷物を出し入れし詰め直し、汗だくで作業をした。シャンプーやリンスなどは中味がたくさん残っているが、それらは捨てるものに分類した。捨てるものを入れたゴミ袋がどんどん大きく膨らんでいく。本当にもったいないと思い、身を切る思いで多くの生活用品をゴミ袋へと詰め込んだ。しかし今回日本で買った30冊の本は、何があろうと一冊も捨てることなくフィリピンに持って帰ろうと決めていた。30冊のうち20冊は既に読み終えていた。しかし日本語の本が恋しくなるフィリピンでは、内容を忘れた頃に再読できる。読み終えた本でも、僕にとっては大変貴重な物なのだ。
バッグが壊れるのではないかと思えるほど無理やり詰め込み、ようやく荷物が形になったのは午前2時だった。

アラームを4時にセットし、一旦仮眠を取ることにした。疲れていたせいか、布団に入ってから眠りに入るまで全く記憶がない。すぐに熟睡したようだが、アラームが鳴る4時5分前に、寝過ごしたと勘違いして飛び起きた。相当緊張していたようだ。
家を出る前にやることが一つあった。それは布団を捨てなければならないことだった。
マンスリーマンションは布団のレンタルもあったが、ひと月1万円ほどレンタル料を取る。いまどきホームセンターに行けば、1万円で寝具一式揃ってしまうから、レンタルはやめて購入品を部屋に持ち込んでいた。
おそらく本来、布団はゴミとして出してはいけないのではないかと思われる。しかも水曜のゴミは、プラスティックの日だった。
すぐに布団を購入した時の大きな袋にしまい込み、まだ暗いうちに人目を忍んでゴミ捨て場に持って行った。その他のゴミも捨てるため、3階の部屋とゴミ捨て場を3往復した。
誰かに見つかったらきっと文句を言われ、下手をすればただでさえタクシーを捕まえなければならない貴重な時間がひと悶着で無くなってしまう。よってこのゴミ捨てには、誰かに見られていないことをしっかりと確認しながら、慎重を期して進めた。
全てのゴミの処分が済んだ時には、本当の汗と冷や汗が混じった汗で体がびっしょり濡れていた。シャワーをしたいところだったけれど、成田行きのリムジンバスに乗るために、次はタクシーを捕まえる仕事が残っている。

バスは5時5分発。僕がアパートを出たのは4時半を少し回るころだった。
スーツケース二つを引っ張り、更に肩にも膨らんで重くなった鞄をぶら下げ、更に紙袋を一つ持っていた。歩きにくいことこの上ない。
やはり駅前には1台もタクシーがいなかった。駅前の大通りで張り込んでみたが、タクシーどころか車もまるで通らない。10分後にはタクシーが通ったが、既に乗客ありだった。
徐々に時間が迫り、これはまずいぞと予約した5時5分のバスをほとんど諦めかけていた。次発のバスが6時頃にあれば、飛行機はぎりぎり間に合うはずだから、それを調べようとリムジンバスの予約センターに電話をしてみたが、予想通りその時間帯は誰も電話に出なかった。
始発電車が動き出してから、最短で成田に行く方法をシミュレーションしだしたところへ、1台のタクシーがやってきて、少し手前でウィンカーを右折にし、僕から逃げるように道路を曲がろうとした。
ここでこのタクシーを逃してしまえば、予定のバスに乗るチャンスはもうないと、僕は荷物を置き去りにし、大きく手を振ってタクシーの方へ駆け寄った。
そんな僕に気付いてくれたドライバーは、右折のウィンカーを取りやめ、こちらにタクシーの進路を向けてくれた。
タクシードライバーに、リムジンバスの出発まであと10分強しかないことを伝え、何とか間に合わせて欲しいとお願いした。
たまたまドライバーが大変親切な人で、5時を過ぎると途端に交通量が増えてくるが、その前にできるだけ進んでしまえば何とかなるかもしれないと、何度か信号無視をしながら急いでくれた。
そしてリムジンバス発車1分前、ぎりぎりでバス乗り場に到着した。タクシー料金は2千円で少しおつりがくる程度だった。僕の財布には、細かいお金が千円札2枚しかなかったので、それと小銭入れにあった銀色のお金を全て取り出し、少ないけれど間に合わせてくれたお礼にタバコでも缶コーヒーでも買って下さいと差し出すと、「ホントに〜?ありがとう」と、ドライバーがそれをにこやかな顔で受け取ってくれた。
無事リムジンバスに乗り込み、モナに予定通りだとメッセージを送った後、ホッと一息ついて眠りについた。

成田空港の第2ターミナルはガラガラに空いていた。それでも一番端にあるフィリピンエアラインのチェックインカウンターに行くと、結構な列ができていた。
ビジネスチケットの列にも、珍しく4つのグループが並んでいた。係員がその4組に順に、ビジネスチケットですかと丁度確認していたところだった。僕の前にいたフィリピン人のおばさん2人も、尋ねられてしっかりそうだと肯定していたが、気付いたらチェックイン直前でどこかに姿を消した。実際に搭乗してみるとビジネスシートにこのおばさん2人組みはいなかった。どうやら勘違いをしていたらしい。

重いバッグ2個は追徴金を取られることなく、無事にチェックインが済んだ。機内持ち込みバッグは重量オーバーだったが、ばれずに済んだ。
フィリピンへ帰る際のチケットをビジネスにするのは、荷物の重量をできるだけ気にしなくて済むようにしたいということが念頭にある。特に今回は片道チケットを購入したが、片道の場合、ディスカウントチケットはほとんどない。更にエコノミーとビジネスの差額が2万円しかなかったため、迷わずビジネスチケットにした。
出国手続きも何事もなく終了し、もう買うべきお土産もないから、ビジネスチケット客用のラウンジへ直行した。
静まり返ったラウンジでコーヒーとサンドイッチを取り、大きな窓を通して滑走路が見えるソファーにゆったりと座り、本当の意味でようやく一息ついた。後は飛行機に乗ってフィリピンを目指すだけである。
直前にフィリピン帰国を延長できないかとの申し入れを断り、ばたばたと最低限の仕事を終わらせ、荷物をまとめ、タクシーが来ないことにやきもきして何とか時間前に成田へ到着した。
今回のフィリピン帰国には、いつもよりも多くのハードルが存在しているように思え、これで本当に家族の元へと帰れるのだろうかと心配になっていた。
それ故に、ラウンジでゆったりとソファーに身をゆだねコーヒーを飲んだ時に訪れた至福感は、言葉で言い表し難いほど大きいものだった。(続く)


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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:506.やっと帰った・・1
2012年04月14日

505.愛しなさい

既に一週間前の話しである。
日曜の朝っぱら6時から、おかしな物音に起された。
激しくドアを叩く音に男性の女性の名を呼ぶ声。
「トモミ!起きてんだろ、分かってるんだぞ、開けないと怒るぞ」(名前は仮称)
まるで銀行か何かの公共施設を占拠した犯人への呼びかけのような名前の連呼とスチール製ドアを叩く振動音が30分以上続いた。言葉には九州人特有のアクセントがある。

隣の部屋に、若い女性が住んでいることは僕も知っていた。これまで自分の仕事帰りにl彼女と部屋の前ですれ違ったことがある。僕が帰宅する頃に、彼女はこれから出勤という出で立ちで出かけ、その後の御帰宅は早くて深夜2時過ぎだから、彼女の仕事が何であるかは既に察しがついていた。土曜日の朝は花金の仕事を終え、朝の4時頃の御帰宅だった。

それにしても隣の部屋は我が部屋と同様に、マンスリーマンションである。入る時も出る時も面倒が無い分、一か月の家賃は高い。僕は布団一つ敷いたら残りのスペースが余りないという小さな部屋に、ひと月11万円ほど払っている。この界隈は吉野家、パチンコ屋、弁当屋、食堂数件というだけの片田舎だから、通常の賃貸ならこれより広い部屋で家賃は半額程度になる。
短中期出張・単身赴任でもなくマンスリーに住むというのは何か事情があるのか、もしかしたら働いているお店が、仮住まい用の寮として契約しているかもしれない。

とにかく近所迷惑な呼びかけの声や言葉の調子には、やや物騒な雰囲気が漂っていた。声を聞いているだけで、叫んでいる男性が普通のサラリーマンや学生ではないことが分かった。そもそもそのような行動自体が、かなり乱暴である。
ドアスコープを覗いてみるが、隣のことなので当然見えない。それでも諦めた男が帰る際にこの部屋の前を通り過ぎれば、男の風体が確認できるかもしれないと1〜2分覗いていたが、彼が呼びかけを止める気配がないので、こちらが根負けして覗きを止めた。
さりとてこちらがドアを開けて彼の顔を確認する勇気もなければ、「うるせぇー」と一喝するなどもっての他で、小心者の僕は文句の一つも言わず、しばらく様子をうかがうことにした。

もはや寝なおす気も失せたので、コーヒーを淹れて読みかけの本を手に取った。
しばらくして、カチャリという解錠の音の後にドアの開く気配があり、怒声が止んだ。
もしかしたらその直後、ガラスの割れる音、何かが壁にぶつかる音、ののしり合いの声、そして大きな物音や悲鳴の後に突然静まりかえったりしたら、僕は警察に通報すべきだろうかなどとそこまで考えていたのに、意外に2人はすぐに連れだってどこかへ出かけてしまった。
どんな奴だとドアスコープで確認したかったが、気付いた時に2人はとうに階段を降りていった。
お騒がせした割に、こうして朝っぱらのひと騒動はたいした展開もなく、あっけなく幕を閉じた。
2人の間にどのような背景があるかは分からないが、これも一つの愛の形かもしれない。

そうなって手持ぶさたになった僕は、朝風呂にでも入るかと、バスタブにお湯をはった。そしていつものように風呂に本を持ち込んで、読書をしながらゆっくりとお湯に浸かった。
日曜なので時間はたっぷりあったから、お湯の温度は低めにした。ぬるめのお湯に時間をかけて浸かり、じわりと汗が出てくるのを待つ入り方である。
顔や上半身に汗がにじんできた頃、読んでいる本を閉じ、開けっぱなしのバスルームのドアから部屋の床に、本を滑らすように投げて戻す。そして今度は、腕も含めて肩までお湯に浸かる。
ゆったりとしたその時間が僕は好きだ。これで風呂場に外の景色でも見える窓があったらどれほど救われることか。しかしここにあるのは、ビジネスホテルでも見かけるような安っぽいユニットバスで、風呂場は無機質なクリーム色の樹脂の壁に包囲されている。

本を投げ出して腕をお湯の中に入れると、腕の温度がお湯に馴染むまで、僕の体には鳥肌が立つ。これもいつものことだ。
腕をお湯に入れた瞬間に、体で感じるお湯の温度と腕の感じるお湯の温度がまるで違う不快感がそうさせるようだ。僕はこの温度差が昔から生理的に苦手なのである。
それと同じ理由かどうかわからないが、サウナが好きな僕は、サウナの後の水風呂には絶対に入らない。
僕はその体感温度差に身ぶるいしながら、その温度差というキーワードをきっかけに、最近自分がモナとの間に温度差を全く感じなくなったことに思いが至る。

モナと初めて会った時のことは、今でもしっかりと覚えている。その頃はベルが1歳前後だったから、既に7〜8年前のことになる。
まだ若くて子供のようなところが見え隠れする彼女が、いきなり自分の子供だと言いながらベルの写真を見せてくれた時には、正直驚いた。
お店では嘘を言ってまで客の心を掴まなければならない女性が、いきなり初対面で子供がいることを告げることも珍しいが、むしろ僕が驚いたのは、子供のような彼女に子供がいることであった。そのような所帯じみた雰囲気が、彼女には一切無かったから、そのギャップに驚いたのである。
そのような彼女を僕は、性格を含めて可愛い女性だと思った。そしてとても几帳面で真面目な女性であることも、会話を進めるうちにすぐに分かった。

それにも関わらず、とにかく何事も温度差に敏感な僕は、時折感じる彼女との温度差に、個人的なお付き合いをしたいとか、いつかは結婚したいなどという気持ちにはならなかった。そのような気持ちは、その後もしばらく続くことになる。
それは彼女があまりに若すぎたことも理由の一つに含まれていたように思われる。よってむしろ彼女と付き合うのであれば、ただの友達のようにできるだけ距離を置きながらにしたいと僕は本気で願っていた。
その意に反して僕はどんどん深みにはまっていき、自分の意とは反する展開に戸惑いさえ覚えることもあった。

その温度差は具体的に何かと言われると説明は難しい。
バンドに例えればベースのチューニングが自分のギターと微妙にずれているとか、ドラムのノリが自分のタメとコンマ何秒合わないところからくる気持ちの悪さのような、他人には気付くのが難しいほどの些細なことである。
一言で言えばフィーリングがマッチしないとなるのだろうか。理由は分からないが、やり取りの内容やテンポやテンションに微妙なずれを感じたことが何度かあり、いいところまで盛り上がった気持ちが一気にトップまで上がらず、時には逆にこちらの気持ちが急降下してしまうという感覚だった。
あくまでも感性の領域の話しで、僕の左脳はモナを十分良い子だと言っているが、右脳がブレーキをかけているのである。よってそのように思う理由を箇条書きで述べよと言われると、途端に困ってしまった。
唯一言えるとすれば、B型の自分は何事も、左脳(理屈)が駄目だと言っても右脳(感覚)がゴー信号を出せば突っ走る方だが、その逆にはしり込みをしてしまうということだ。
僕はこれまでそれで何度も失敗をしているが、それでも懲りず、いまだに感覚による勘を信じる性質である。

当時のモナは採点リストを作って点数を付けたら、むしろ高得点を取る方ではなかったか。お店で働いている時には客のうけがとても良かったようだし、客から色々な誘いもあったようだ。彼女が店の中で人気を獲得した理由は、僕の目から見ても明らかだった。
僕はそれだけ、当時から彼女の魅力を認めていた。にも関わらず、不思議と僕の気持ちはどこかで冷めていた。

冷めた僕の気持ちに反し、彼女はそのような自分に一生懸命だった。自分は心からあなたを愛しているということを、臆面なく言葉や態度で表明していた。そうなると不思議と、ますます僕の気持ちは冷めてしまった。冷めた気持ちの通り、実際に冷たい態度も取った。
そこまでしたら彼女も怒るだろうと思うような僕の態度だったが、彼女は決して怒らなかった。彼女はどこまでも優しかった。
しかし次に僕は彼女のそのような底なしの優しさを、人間とはそれほど優しくなれるものではないから、きっとそれは偽りの優しさかもしれないと疑うこともあった。我慢の限界に達すれば、きっと本性を現すに違いないなどと考えることもあった。
そして、冷たい僕のことなど放っておいて、衣替えをするように、あなたに一生懸命アプローチをしてくれる人にあっさり乗り換えた方がいいのではないかと、何度か僕は彼女に進言した。

しばらくしてから彼女に言われたことは、彼女は僕のこのような冷たい言動に心を痛めながらも、それがますます自分を燃え上がらせたような気がするということらしかった。一生懸命アプローチされると、逆に気持ちが冷めてしまうと彼女は言った。
それは僕が以前あなたに感じていたことだろうと彼女に言ったような気もするが、そう言われると、それは心のどこかで納得できるような気もした。もともと恋愛は、押せば引く、引けば押されるというシーソーのようなものだというのが僕の持論である。
しかしいくら持論といっても、実践でそのようなことを意識しながら相手のマインドをコントロールしようなどと思ったことはない。僕はあくまでも地で、彼女に接していただけであった。

そのような経過を経て、僕の心は氷がゆっくり溶けるように、次第に変わっていった。
いきなり燃え上がった恋ではないから、いきなり冷めることもないだろうという妙な安心感もあった。彼女とならば、これから長い時間を共有できるだろうという確信が、僕を結婚に踏み切らせた。
そして気付いたら僕は、日頃から彼女に感謝し、彼女を認め、彼女が必要だと思うようになっている。そのことは、率直に不思議に思い時々なぜだと自分で分析を試みたりするのだが、そのことは僕自身、とても嬉しくも思っている。
よって長年の付き合いを経て結婚したにも関わらず、僕の中にはますます新婚気分になっているような新鮮さがある。

先日横浜の関内で、フィリピン関係ブログで有名なcmさんとお会いした。あの方は会う度に、必ず一つは僕をハッとさせてくれる言葉を残してくれる。
「いくら愛されたってだめだぁ〜、自分が愛さなければだめなんだ」(cmさん談)
僕もまさにその通りだと思う。いくら愛されていても、自分が愛していなければ決して自分は幸せにはなれない。
愛していればこそ昂りを伴った気持ちの高低が生まれ、トキメキが持続し、喜びがある。一緒にいて、心から幸せな気持ちになれるのである。

風呂の中でこんなことをぼんやりと考えていたのは、実はcmさんと会った翌日の朝である。一夜明けてもどうやら僕は、cmさんの言葉に毒されていたようだ。
おかげで思い切りのぼせてしまった。


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2012年04月07日

504.強風から

先週の水曜日の話しである。
朝目覚めてすぐ、激しい尿意を感じてトイレに駆け込んだ。前の晩に大量のペットボトルで売られている緑茶を飲んだせいで、まるでぶちまけるように豪快に尿を出した。
そのこと自体は朝目覚めた時によくあることで特筆すべきことでもないが、その日に限ってはそのことが、僕の神経をささくれ立たせ、朝の髭剃りまで忘れさせた。
というのも、その日は朝一番から健康診断が予定されていたからだった。せっかく来日しているのだから、これを機会に久しぶりに健康診断をしておこうと最寄りの小さな病院に申し込んでいたのである。そしてその際、病院からの検診注意事項として、5時間前から一切の飲食を控えることと、尿が出る状態で来院して下さいと、念を押されるように言われていた。
にも関わらずすっかりタンクが空になってしまったので、しばらくは尿がでる予感がまるでない。せっかくの検診だから当然尿検査も受けておきたいが、果たしてうまい具合に尿が出るだろうかと、後の祭りながら僕はうじうじとそれを心配していた。

病院に到着し受け付けを済ませると、マスクで顔半分が覆われた若い女性看護士が、早速僕に、「最初にこれに尿を取って下さい」と紙コップを差し出してきた。
そこで僕が、「済みません、ちょっと出そうにないので、採尿は最後にしてもらえませんか」とお願いをすると、どうも美人ではないかと想像されるその女性は、その切れ長の美しい目をさらに際立たせるようにキッとこちらを睨み、「尿が出る状態で御来院下さいと申し伝えていたはずですが」とはっきりとした口調で言ってきた。
こちらは少しムッとしかかったが、「あなたは臨機応変という言葉を知っているか」というセリフをグッと飲み込み、「いやぁ、朝起きたてはもれそうだったもので。それでも皮を引っ張って紐でしっかり縛ってくれば何とかなったかもしれませんが、僕はそこまでやるべきだったのでしょうか?」と目を瞬くようにしながら言ってみると、相手は「ふふふ」と冷笑しながら、「それでは後で」といとも簡単に紙コップを引っ込めた。
実際は、面白い奴だとうけたのか、それともくだらないことを言うアホだとばかにしているのか、顔半分がマスクで覆われている表情からは上手く読みとれない。

体重、身長、血圧、視力、聴力、色覚、胸部レントゲン、採血と、検診はあっという間に終了し受付の前に戻ると、再び同じ女性から、例の紙コップを「ほんの少しでも検査できますから」と言われ再び手渡された。
では頑張ってみますと採尿部屋の中で力んでみると、ちょろちょろと出てきた。
受け付けに戻り、「無事に放尿が終了しました」と報告すると、やはり先ほどと同じように「ふふふ」と、少しは気持ちが通じ合っているのか、それともさっぱりなのか分からないような冷笑が返ってきて、それがくだらないことを口走っている自分をやや辱める恰好となった。
結果は後日でどうなのか分からないが、とにかくこうして、ものの30分の検査に14000円もの大枚をはたき、それでも無事に採尿できた安堵感を胸いっぱいに抱きながら、春の陽気にさわやかな気分で病院を後にした。その時初めて、その日も前日に引き続き結構風が強いことに気がついた。

その日は昼から出かける予定があったので、昼食時間を削り、伝票処理、新規案件の見積もり作成、現在進行中プロジェクトでの問題点対応、そしてもうじきスタートする別プロジェクトの回路図修正を手短に済ませ、午後1時過ぎくらいに東京外れのM田駅に向けて事務所を出た。
M田駅前には外注さんが車で迎えに来てくれることになっていたが、少し早目に到着してしまった僕は、駅前の沿道で街並みや往来の人をぼんやりと眺めていた。

その日の気温はまあまあ高く、そしてその前日都会を中心に被害をまき散らした暴風の名残か、かなり強めに吹いている風を気持ちよく感じながら、僕は歩道にじっと佇んでいたのである。そしてふと、これだけの風が吹きあれる中、スカートをはいている若い女性はなかなか度胸があるなと妙に感心しながら、あることに気がついた。
それは、ひらひらの軽い生地で作られたスカートでも、この風でめくれあがったりするケースが皆無ということだった。
決して厭らしい目的ではなく、それに気付いてからは街を歩く短めでひらひら系のスカートを身につけた女性に随分と着目したが、やはりスカートはめくれない。これは不思議だ。
おそらくこれは、マジックテープを使っているに違いないと勝手に結論づけようとしたところに、今度はいかにも軽そうな生地でできたフリル付きのスカートをはいた10代と思われる女性が、自転車をこいでこちらをめがけてやってきた。
これはめくれるだろうと見ていたが、自転車に乗る女性は手でスカートを押さえるわけでもないのに、結局それも何事も起こらず、普通に僕の目の前を通過した。
これはいくらなんでもおかしいだろうと考えた結果、この場合はスカート生地に、おもりが仕込まれているに違いないと結論付けた。
吹き荒れる強風にも関わらずスカートのしぶとくめくれない様は、どうしてもマジックテープや重りの効用のように見えてしまい、しかもそう考えるとその現象に極めて納得できてしまうのである。
真偽のほどは別として、スカートにおもりが仕込まれているとすれば、勢い良く自転車を降りた時にスカートはずり落ちたりするから、別の意味で危険だ・・・などとくだらないことを連想しながら、駅前での人待ちの時間、暇つぶしをしていた。

それにしても最も感心すべきはめくれないスカートのことではなく、あの二日間の強風が事前にしっかりと予想され、テレビの天気予報などで注意が喚起されていたことだった。
最近の天気予報は、雨でも雪でもずばり当たる。それに加え、台風でもないのに強風の予想まで当たるとは恐れ入った。
フィリピンの天気予報などを見ると、毎日同じ予想天気マーク、同じ予想気温が続き、どうみても手抜きで信用ならぬというケースが多い。
それと日本を比べるのが土台間違いかもしれないが、とにかくその予報の仕方や結果には、フィリピンと日本で雲泥の差がある。

日本では、とても天気の良い日に傘を持ち歩く人がやたらと多かったりすると、天気予報は雨と言っているなとすぐに分かる。そしてそのような時には、たいがい傘が必要となる。それほどすごく確度の高い予報が毎日流れている。それはなかなか素晴らしいことで、素直に感心もするのであるが、しかしふと思った。
それは、これだけしっかりとした天気情報を提供してくれると、人は天気図を読んで天気を予想するなどということは決してしないだろうなということである。

僕は学生時代に山登りをしていたが、まず始めに叩き込まれたのは天気図の読み方と天気予想の立て方だった。場合によっては生死を左右する山の天気のことであるから、教える方は真剣だった。教わるこちらは、ラジオの天気予報を聞けば良いくらいに思っているから、教える側ほど身が入らない。そもそも山の天気情報がどれほど重要かなど、自分が冬山で遭難しかかるまで分かっていなかったから、かなりちゃらんぽらんに聞いていた。
しかし何度か危険な目に遭遇すると、結局自分の命がかかっている情報はラジオの天気予報だけではなく、自分の目でしっかりと天気図(天気図はラジオ放送の緯度・経緯・気圧情報から山の上で作る)を読みとり、それが山岳地帯にどのような影響が出そうかを自分の頭で考え予想することが如何に重要かを知ることになった。

しかし普通の人は、テレビで傘が必要と言われたら傘を持って出かけ、寒くなると言われたらコートなどを羽織って出かけるだけである。
このようにいつの間にか人は、よくお膳立てされた大量の情報をいつも受け取れる立場にあり、いつの間にかその情報を信じ、その情報に沿って行動を決めているということが増えている。
たまたま天気の話しから始まったが、このような現代人の行動様式を決める情報源は、天気予報だけとは限らない。株式情報、為替情報、交通情報、意味不明のランク付け、グルメ情報・・・。
とにかく情報と呼ばれるものが大量に発信され、現代人はそれを簡単に信じてしまう傾向にある。そしてそれを信じ、自分の考えや意見や行動を決める。

もちろん利用できるものは利用すれば良い。十分参考するに値する情報が多いことも確かだ。
しかし僕が強風の中でふと思ったのは、巷で溢れる便利でおせっかいすぎるほどの情報が、人間本来のの能力を弱体化させているのではないかということである。つまりそれらが、人の思考する能力、五感を磨く能力を、摩耗させ続けているのではないかということであった。
情報に慣らされ自分で考える力が減退すると、情報が無くなれば物足りなくなり、時には右往左往することになる。
もし今電気が無くなり情報が極端に入りにくくなったら、果たして現代人のどれほどの人が、自らの能力を発揮して逞しく生き延びていけるのだろうか。

僕がフィリピンに住むようになって驚いたのは、フィリピン人の生きる能力の高さであった。
特に田舎に住むフィリピン人は、もともと情報に振り回されることなどなく、贅沢で便利な暮らしにも縁遠く、その分暮らしの知恵というものが世代を重ねてしっかり継承されている。そして行動力があり思い切りがよい。加えて不思議な能力を兼ね備えている。
これから雨が降るということなど、雲行き、風の吹く方向、強さ、気配でモナにさえ予感できる。スコールを予告されると、本当に雨が降り出して驚くのである。

僕は最初それを不思議な能力だと感じたが、実は山を歩き回っていた頃の自分にも、同様の直感めいた能力が備わっていたような気もする。しかしいつの間にか僕の中から、その能力が消失してしまったようで、まるで蘇る気配はない。
どうやら便利な世の中に慣らされることは、このような人間の持つ可能性の芽を摘み、更に備わったそれをそぎ落とすことに繋がるようである。ついでに考える力や身にかかる困難を受け入れる精神力も一緒に、いつの間にかいびつになっていく。

フィリピンでは停電になっても、誰も特に慌てず不便がることもせず、みんな普通に生活する。これもフィリピン人の生きる逞しさを証明している出来事である。
おそらく水道が止まってもガスが無くなっても、フィリピン人はみんなそれなりに何とか工夫をし、どうにもならないものは受け入れながら普通に生きていけるだろう。
とすれば仮に地球に大異変が起これば、最初に死んでいくのは先進国や気候の特に厳しい地域の人々で、フィリピン人は最後まで生き残る部類の人種になるのではないだろうか。そしてひ弱になってしまった日本人の自分は、その逞しさに助けられて生き残る、地球上では珍しい日本人の一人となる。

今の情報社会で一番厄介なのは、溢れる情報の信憑性が高いものとそうでないものが混在し、見わけが付きにくくなっていることだ。しかし天気予報の例の通り、確度の高いものが確かにあるので、人は情報に踊らされる。
タクシーの運転手に言わせれば、首都高速道の道路情報など嘘ではないが、あれは道路公団に都合がよいように発信されているので、あのような物を100%あてにするととんでもない目に遭うと言う。
このように職業的に深く関わる情報については、その真偽と扱いについて経験上よく分かってくるが、そのような人も関わりの薄い分野では簡単に情報に踊らされる。
なぜならば現代人は、情報を咀嚼する能力が減退しているからに他ならない。便利で確度の高い情報が増えるほど人はそうなっていく。そして情報が無くなれば、途端に生きにくくなる。そしてますます情報中毒になっていく。しまいに情報が無ければ、自分の力で何ともならないことがどんどん増えていく。

もし今突然、携帯電話が一切使用できなくなればどうであろうか。死にはしないが、暴動寸前の不満が吹き出ることだろう。電車の中ではみんなが手持無沙汰で、暗く陰鬱な空気が充満しそうだ。それが理由で自殺する人なども出て、それが大きな社会問題になることだって有り得る。最近の若い人には、そのような不安定さがある。
便利すぎる社会とは、考えようによっては怖いものである。


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