フィリピーナと共に
ブログ構成がわかる目次はここから入れます

フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2014年12月31日

732.2014年大晦日

 フィリピンの田舎は、マニラと違いとても長閑だ。ここには、都会で見る整然とした緑(木々)とは違う、ジャングルという名にふさわしい自然がふんだんにあり、自宅の庭で椅子に腰掛けているといつでも、そこを通過した肌寒く心地よい風が髪を乱しながら吹き抜ける。その都度豊富な木の葉が揺さぶられてこすれ合い、ざわめきに似た激しい音を立てる。そして日本の秋を思わせる虫の声が、そこら中の草むらから聞こえている。加えて十二月特有の、空を覆う厚い灰色の雲と不順な天候の連続。山に沿って地面近くまで降りてくる雲は、壮大なマヨン火山をすっぽり覆っている。これこそフィリピンであり、フィリピンのほとんどの国土がこれと同じような環境下にある。そして、大方の人がそんな長閑な町の中で暮らしているのだ。
 マニラやセブやダバオは特別な都会だ。そこで暮らす人は、フィリピン全体人口の一割から二割に過ぎない。都会度は特にマニラが突出していて(マニラ首都圏人口は一千万強、セブ百万人弱、ダバオ百五十万人)、更にその中のマカティは、フィリピンの中でフィリピンではない外国のようでもある。しかし最近は、マカティでも強盗や殺人事件の発生が目立つようになり、忘れていた大切なことを思い出すように、マカティもフィリピンだった、と言いたくなる状況だ。しかし大方のフィリピン人は都会の事件や喧騒とは無縁に、自然がもたらすいたずらに翻弄されつつも、それに寄り添うように暮らしている。
 自宅で休暇を満喫していると、どこからともなく聞こえる種種雑多な音楽が町や各家庭でクリスマスを祝い騒いでいる様子を想像させ、我が家の中では相変わらず大音量のラジオが鳴り響いている。自然に囲まれリゾートのような環境でありながら、ここは決してリゾートではない。ラジオの音もそうだけれど、家の中は生活感を漂わせる様々な物で溢れ返っているからだ。何もないところで何もしない、つまり日常生活を遮断するのが本来のリゾートバカンスだが、ここでは洗濯物が目に入り、子供が読書の邪魔をし、不意の来客者に犬がうるさく騒ぐような、まぎれもない生活の場である。生活の場であるなら、もっと便利で楽しい場所がよいと思うことも度々だが、フィリピンの都会は物騒だし金がかかる。安全を確保し美味しいものを食べることには、本当に金がかかるのだ。特にフィリピンという国の都会は、安全と水はただではないという言葉の意味を、身にしみて理解するのにうってつけの場所である。とすれば不便さはあっても、田舎の生活に身を沈めている方が幸せなのかもしれない。他国からマニラを通過して帰省し、またその逆を辿り他国に戻る身として自宅の環境を眺めていると、そのようなことを痛感する。

 帰省前夜の十二月二十二日、翌日は早朝便だから朝寝坊しないかと緊張した。年末の混む時期、寝坊で予約便に乗り遅れたら、その場で代替便を取り直すことは不可能だ。よほどの幸運に恵まれない限り、帰省を諦めなければならない。少なくとも、一年で最大のイベントであるクリスマスの自宅到着は夢と化す。十二月二十四日の夜、ファミリーが一同に会し、食事を共にしながら二十五日を迎えクリスマスを祝うのが、ここでの重要なしきたりなのだ。そこに顔を出すことが、とても大切なのである。
 搭乗前夜、いくつもの目覚ましをかけ、それを頭を取り囲むよう周到に並べた。そこまで気を遣いながら、クアラルンプールでは乗り換えのマニラ行き便搭乗時間を勘違いし、余裕でタバコを吸ったあとに搭乗ゲートまで走るはめになった。
 マニラには昼過ぎに到着したが、残念ながらその日の午後はレガスピ行きの便がない。よってマニラで一泊し、二十四日の朝八時の便に乗ることになっていたが、当日マラテのホテルで目覚めたのが六時三十五分だった。通常ゲートクローズは離陸予定時刻の四十分前、つまり七時二十分であるから、残すところ四十分しかない。完全なアウトというタイミングに、飛び起きてからやらかしてしまったと思った。
 慌ててチェックアウトを済ませ外に出ると、結構な雨が降っていた。しかもホテル前でタクシー待ちをしている客が二組もいた。クリスマスイブのせいか、やってくるタクシーがとても少ないのだ。タクシーだけでなく、昨夜あれだけ混雑していた道路にほとんど車がなく、これで車をキャッチできるのか不安になるほど閑散としている。札束を持っていれば、見せ金として使ってでもタクシーをつかまえたいほど気が競っていたが、残念ながら札束もなければ、仮にあっても見せる相手(タクシー)が簡単にやってこなかった。

 前夜、というより当日早朝まで、ホテルで知り合った日本人と案内がてら夜の街に出かけ、朝四時という中途半端な時間に寝たのがいけなかった。
 前日のホテルチェックイン時、ホテル従業員に懸命に話をしている日本人がいることは気付いていたが、言葉の問題もなさそうで無視を決めて部屋に向かおうとした時に、「日本人の方ですか?」と声を掛けられた。聞けばフィリピンは初めて、かつサポートしてくれる人は一切なしという状況で、クリスマスでごった返すマニラ市中、タクシーとうまく交渉できず行きたい場所に行けずに困っていたのだ。さすがに右も左も分からない日本人を、マラテという普段から欲望が渦巻く場所にこの時期放り出すのは心配で、少々のサポートをするつもりで付き合ったら、それが朝の四時になってしまった。一時間後にきちんと覚醒できるのだろうか、そんな不安を抱え起き続けるか仮眠を取るかで悩んでいる最中に寝てしまったようで、散々セットした目覚ましはまるで記憶がなく、モナの執拗な電話でようやく目を覚ましたのが六時三十五分ということだった。中途半端な睡眠のせいで、起きた瞬間は自分が置かれている状況をうまく飲み込めず、脳みそが回転するまで十秒ほど放心していたが、気付いてからの行動は素早かった。もちろん、無駄な抵抗かもしれないなどと考える余裕は微塵もなかった。

 ようやくつかまえたタクシードライバーに空港まで四百ペソと言われ、普段ならやり過ごすが、その時ばかりは即了承した。了承と言うよりも、フライト時刻を告げ、間に合えば五百ペソでよいなどと自然と口が滑るほど僕は絶望的心境に陥っていた。ドライバーが「空港近辺は酷い渋滞になっている」と言い顔をしかめた時に、僕は心の中で家族に、「今日中に辿り着くのは無理かもしれない、申し訳ない」と叫んでいたが、ドライバーは果敢な追い越しや割り込み、信号無視、急発進急停止を繰り返し、極めつけはマイナーロードでのショートカットで七時十五分に空港前に到着してくれた。タクシーを飛び降りると空港ビルディングの入り口に、最後尾が見えないほどの長い列ができていたが、列の先頭にいる警備員にチケットを示し、その裏にクリスマスチップを潜ませ割り込み成功。ビルディングの中は更に混雑を極め、まるで神社の初詣状態で先に進むのが困難なほどだったが、ごめんねを繰り返しながら人ごみを斜めに突破する最短距離でカウンターを目指し、チェックイン作業中でキーボードを叩く係員の前に、できるだけ真剣かつ哀願に満ちた顔をたたえてチケットを「ムン」とかざしたのが七時二十分を数分過ぎた頃だった。マラテのホテルで起きてから一時間も経たずしてこのようなことができている自分に感動を覚えたが、フィリピンのローカル線では、時間に遅れて冷たく断られた経験がこれまで二度ある。今回はどうかと心配したが、時期や混雑具合を考慮してくれたのか無事チェックインしてもらい、搭乗ゲートへと急ぐことになった。
 九割方諦めていたものがそこまで辿り着きこれはまさしく奇跡だったが、ゲートに到着すると悪天候が原因でフライトは一時間遅れとなっていた。これがずるずると更に遅れ、最終的には三時間遅れになったわけで、結果論だがどうあがいても飛行機に乗れた状況に、奇跡が起きたことへの高揚した気分は、急速に萎むことになった。
 タクシーの中から連絡を取り合っていたモナには、もう駄目かもしれないと話していたので、間に合ったと告げたときのモナの喜びようは、まるで一度死んだ人間が生き返ったごとくであった。後で知ったことだが、この日セブパシフィックでは従業員の遅刻や無断欠勤が多発し、全ての受付けカウンターを稼動できず、チェックイン作業が追いつかないために飛行機を逃した客も多く発生したようだ。当然客からのクレームが殺到し、ニュースにもなったほどだったから、絶望的な寝坊をした自分が飛行機に乗れたのは、やはり幸運だったのかもしれない。
 
 こうして綱渡りのような危うさを乗り越えビコールに辿り着いたわけだが、そこはマニラ空港の殺人的混雑とは打って変わり、田舎の緩やかな空気が疲れた体に優しかった。どこもかしこもメリークリスマスと手を差し出してくることに嫌気がさしていたが、レガスピのトライシケルドライバーのそれには愛嬌さえ感じ、所定料金の50ペソを支払うときに「ハイ、50ペソ+スモールメーリークリスマス」と言い60ペソを渡すと、嬉しそうな笑顔をたたえサンキューとお礼を言ってくれた。人の良さがにじみ出るところが田舎の良さであり、安心感を抱けるところである。

 今回の帰省における最大の楽しみは、今年一月に生まれたダイチの成長振りを見ることだった。ビデオや写真、モナの話で様子を知ることはできていたが、それだけに実際この目でそれを確かめたいという気持ちを強く募らせていた。
 来月に一歳となる彼は既に人を識別する能力が発達しており、抱こうとしたら予想通り泣かれてしまった。既に知らないおじさんと化しているから、仕方がない。確か、ユリのときにも同じことがあった。二週間近い休暇の最中でなついてくれたら嬉しいと思っていたが、三日もたたずに慣れてくれたようで、今はおとなしく抱かれてくれる。彼は丁度歩き始める頃で、ふらつきながらも時々自力歩行に挑戦している。自我も目覚め、欲しいものをしっかり要求できるし、それを手に取れないときには泣いて訴える。物真似もできるし、意思表示のいくつかの言葉も言えるようになっていた。その様子に僕は、父親が側にいなくても子供は立派に育つものだと妙に感心しながら、普段がんばってくれるモナや家族にあらためて感謝の念を抱くことになった。

 ダイチは二十七日に洗礼を受け、クリスチャンワールドの一員となった。モナがポギー(ハンサム)と言って憚らない彼の顔はまさに日本人的で、僕にはダイチの顔に、贔屓目に見てもクリスチャンという雰囲気の欠片も感じられないが、それでも彼は、紛れもなく日本社会とは別のところでフィリピン文化に影響を受けながら育てられるのだ。ユリのこれまでは、フィリピンと日本の良いところを上手くミックスできているように見えるが、ダイチのワンパク振りを見ていると、将来が少々心配になる。同時に、元気ではつらつとしているダイチの様子には大きな安堵もある。
 洗礼式のあとに記念写真を撮ってもらったが、それを見てあらためて思ったのは、気付けば僕とモナと子供三人の五人家族が板についていることだった。離れ離れで暮らす期間が長いせいか、普段の僕には、モナたちが自分の家族という実感が希薄なのだ。しかしモナと恋人同士の感覚かと言えばそうではなく、モナは変わらず愛妻で、ベルもユリもダイチも目に入れても痛くないほど可愛い娘、息子であり家族だから、この感覚をどのように表現すればよいか難しい。
 しかし写真の中に見る五人の姿は、普段の僕が抱く感覚とは少し違う、紛れもなく揺ぎない、年季の入った家族であった。おそらく、自分やモナが歳をとったと実感できる姿をそこに見ることができるせいもあるだろう。
 ベルと初めて会ったのは彼女が五歳のときで、それは現在のユリの歳だ。その分ベルはお姉さんになり、彼女は異性を意識したり服装を気にするレディーの仲間入りの時期に差し掛かっている。ベルは身長が高いため、ハイスクールの学生に見えることがあるほど女性らしくなってきた。ユリも幼さはあるものの、一人で化粧をし髪型や服装に気を遣い、カメラを向ければアイドル顔負けのポーズを作る。そこにまだベイビーのダイチが加わり、家族というユニットにずしりと安定感を増したように感じるのである。それを見て、自分自身のことでありながら僕は、何か不思議な気がした。本人にはまるでその意識がなくても、歴史は着実に作られていると感じることができるのである。
 僕はこれまで、二十五年以上も仕事というものをやってきた。モナと家族と名乗るようになってほんの五年だから、仕事にはその五倍以上の年月を費やしてきたことになる。しかしこれまで、自分の仕事上の軌跡に同様の歴史感を覚えたことはなく、あらためて考えてもそれを感じないのである。それは自分がこれまで、まるで大したことをやっていないという証拠かもしれないが、それでも普通の日本人として仕事に打ち込んできたはずだ。しかしそれとは対照的に、ふと撮った写真に確実な自分の足跡を感じるのが不思議だった。なるほどこれが家族の重みというもので、子供を育てるということは、それだけで自分の貴重な足跡をこの世に残すことになることが感じられた。そんなことを思いながら、子供の成長を全うできたら、僕はそれだけで、自分の人生に満足できるかもしれないという気さえするのである。
 
 今年はダイチの誕生に始まり、新しい職場や生活環境を得ることになった。最初は仕事に慣れることに必死だったが、気付けばローカルスタッフとのコミュニケーションも確立し、会社内での自分のポジションを作り上げることができた。
 昨夜は職場のスタッフから、「フィリピンで深刻な洪水があると聞いたが、大丈夫か?」などというプライベートメッセージをもらった。僕は、「雨は降っているけれど、ここはノーマルコンディションで、僕はすこぶる元気だ。問題はインターネットが遅すぎることや不安定なことだけで、それ以外は毎日暇を持て余すことに、幸せを実感している」と答えた。スタッフは、職場でいつも忙殺されている僕を知っているせいか、「HAHAHA Good!」と返事を返してくれた。久しぶりに帰省している僕を気遣い、誰も仕事の件では連絡をよこさないが、こうしたプライベートのやり取りがあることは嬉しいことである。
 今年は公私共に、自分にとって大きな転機の年であったのかもしれない。五十を過ぎてもまだ道半ばという現状は否めないが、余生への地固めができた良い年だったように思う。来年は来年でまたがんばることにし、大晦日の本日は家族で笑いながら食事をし、能天気に幸せを満喫したいと思っている。



↓ランキング挑戦中
にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ



posted at 11:46
Comment(10) | TrackBack(0)
カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:732.2014年大晦日
2014年12月22日

731.差別?

 在特会ヘイトスピーチの件が騒がれるようになり、それが様々なところで取り上げられている。在特会の主張など日本人は誰も認めていないとしながら、しきりにブログやブログコメントで取り上げ、差別問題に発展させ語られている。あれだけ話題になっているのだからこれは一つの社会現象であり、また主張をよく聞けば単なる思想運動にも思えないのだが、存在会そのものが日本人に認められていないとする発言も散見される。しかしこれだけ反響があるのは、運動としては成功しているのではないかと思われるし、日本人に認められていないというのは、認めたくない人の話ではないのか。
 まず、根本的にあの運動は差別なのだろうか。学校の前で暴言を吐く、民衆の前で「在日は皆殺しにしろ」といったことを言う。これには賛同できないが、ある種の問題がトリガとなってあのようになったのではと思うのは、自分だけだろうか。
 それを差別だと騒ぐ人は、自分ではない他者の意見や動向を必死に持ち出している。権威(最高裁)が差別と認定した? それが何か? 誰がどう決めたとか、どう話したとかではなく、騒ぐなら自分の考えを述べよ、それが聞きたいんだと言いたくなる。挙句、新右翼で民族派の鈴木なんとか? だからそれが何?
 一*会の鈴木邦*を持ち上げるのは勝手だが、彼は北朝鮮と強い繋がりを持つ人間である。言動には偏りがあると思うのが普通だ。彼がこの件をいつもぼかし、中立寄りのような物言いをするのは、多くの人が自分と北朝鮮との繋がりを知っているせいである。もし彼が、今騒がれているヘイトスピーチで云々言うなら、北朝鮮の強制収用所で何が起こり(人権蹂躪と差別の世界)、あの国が日本人に何をしたのかを棚上げするなと言いたい。日本人ロビイストとして北朝鮮の綺麗で高給な場所で歓待され、そういったところにはあえて目を向けず、日本人を拉致し未だ解決していない国、かつテロ国家に認定される国と民族の枠を超えて手を繋ごうと彼は言っている。大きな妄想に取り付かれているとしか思えない。大変な気分屋だ。北朝鮮は噂だけでなく、実際の言動に危険な臭いがプンプン漂っている。独裁国家で歯止めが利かないから、何をするか分からない。独裁者や既得権を持つ人間が自分たちの生活を心配しているうちは良いが、自暴自棄になればまじめに怖いだろう。それでも人類皆兄弟、手を繋いで仲良くしようと言うのか。まともな考えを持つ人ならば、とても賛同できる話ではない。

 ちなみに差別は世界中に蔓延している。北朝鮮内でもそうだし、中国でもそうだ。中国は毛沢東以来宗教を認めない文化が出来上がり、宗教に対し大変な差別がある。(チベットがよい例。前話で取り上げた孔子も一切認めずことごとく記念物を破壊した)フィリピン人も差別され差別する。差別される人は差別をするのである。アジアの優等生と言われるマレーシアでも同じだ。それらを見ていると、差別を根絶するなど無理ではないかと思えてくる。在特会の行動を取り上げ差別だ、日本は変わったと言うが、僕は日本ほど差別のない国をこれまで見たことがない。イギリスにもアメリカにも根強い差別があった。イギリスでは日本人も差別される。外からは見えにくいが、例えばイギリスの学閥世界や企業世界では、日本人がどれほど優秀でも決して上に上がれない。そのような仕組みが社会の空気として出来上がっている。白色人種は肌の色で人を差別することから抜け出せないのだ。自分たちの優位性やアイデンティティーの一つを、そこに見出しているからである。このようなことは、気分だけで語れる簡単なことではない。みんなで仲良くすれば素晴らしい世の中になる、世界は一つという妄想は、自分たちを危険にさらすことになる。

 だから日本人も、他民族を目の敵にしろとは言わない。全体を空気に流され気分で判断せず、もっと個別の事象に目を向けるべきだと言いたいのである。つまり、どこの国の人でも嫌いな人は嫌い、好きな人は好きでいいではないかということだ。僕は基本的に差別感情は嫌いだが、物事には印象というものがあるから、ある程度くくられて好き嫌いが生じるのは仕方ないと思っている。それは個々にお任せする話であるが、実際にあまりに印象が悪くなることがあれば、心情としては理解できることである。

 では、今問題になっている在特会の運動はどうだろう。少し自分の印象を述べてみたい。
 在日特権はないとした話もあるが、僕は本当にそうかと思っている。出回っているリストは嘘っぽいところも多い(在特会が特権リストは嘘だと認めている)が、在特会を非難する人たちは、当たらずとも遠からずの世界が実際にあることを知りながら、あれは嘘だと言っていないか。要は、明確な権利として保証されていなくても、運用上はそうなっているという実態がないかということである。
 僕は少なくとも、三件の実例を知っている。全てが在日朝鮮人ではない。一つは在日フィリピン人、一つは在日朝鮮人、そして一つは日本人だ。これは不正生活保護受給の事例である。どれも非常に腹が立つ話だった。僕はフィリピン人は好きだが、フィリピンパブで高給を得ていながら、不正に生活保護をもらい公営アパートに優先的に入り、日本はいい国だ、彼氏と一緒に住めないのがたまに傷だと堂々と言われた際、その女が嫌いになった。(これは差別か?)在日朝鮮人の場合、自分たちは優先して生活保護を受けられるから、手続きは簡単だった言われた。(それに胡坐をかくその人を嫌いになったが、これも差別か?)日本人の例は医者と結託し、偽の診断書(精神障害)で生活保護をもらいながら、自分の目の前で飲食店で働いていた。(腹がたったが差別か?)みんな自分たちのしていることが何かに気付かず、不正を働いていることを堂々と教えてくれた。それらの事実を知った際、何かがおかしいと僕は思った。
 だから在日特権がリストで明文化されていなくても、そのような実態に問題意識を持つ人が今のあの運動で立ち上がったのだろうという気がしている。(ただし特権的運用の攻撃対象は、役所のような気がするが・・)
 そしてよく言われている、在日の犯罪率が本当に高かったらどうか。統計上明確にそうであれば、在日の個々の人は将来犯罪を犯すかどうか分からないのだから、日本人が安心して暮らせるよう在日を日本から締め出せという主張は、それほどおかしい話ではない。特に被害者の立場に立てば、そのように叫びたくなる心情がよく理解できる。

 ただし、日本に生まれ日本人と同様に日本で暮らしている人に、今更北朝鮮や韓国に帰れと言っても中々難しいだろう。せめて日本に住み続ける場合は、学校は日本人と同じにし、同じ教育をすべきではないかと思われる。なにせ朝鮮学校では、強烈な反日教育が行われているからだ。そこで日本や日本人との協調性を見出す教育(日本人と同じ教育)をしてくれるならば祖国の言葉で教育を受けたいという気持ちを尊重したいが、日本人の税金で賄われるインフラその他を普段の生活で享受しながらの反日教育は、筋が通らない。
 
 いずれにしても、以上のような個々の問題が多くある中で、民族の枠を越え手を取り合おうという話には無理がある。韓国は自国国内で未だ反日教育がなされ、しかもそれを他の国にまで展開しようと国が努力している。一部の機関ではなく、国をあげて反日に躍起になっているのだ。それを知った日本人が韓国人に嫌な印象を持つことを、僕は差別ではないと思っている。日本人の嫌韓率が60%〜70%程度になっているのが産経や読売の調査結果として発表されているが(嫌韓率で検索するとたくさん出てくる。2014年12月21日の産経ネット記事には、それだけではなく様々な国に対する日本人の印象が掲載されている)、これは差別ではなく、理由があって韓国を嫌っているということだ。その証拠に、韓国が日本に友好的になれば、嫌韓率は下がるはずである。

 さて、前回が異常に長かったので、今回は短くしめたいと思うが、最後に一つだけ言っておきたい。この記事は、在日嫌いを擁護するものではなく、また韓国嫌いを助長するものでもない。全体の大きな空気に流されず、自分の目で事象を捉え判断することが大切であり、ぜひそうして欲しいと訴えたいのである。日本は世界で一番差別のない国であり、それは素晴らしいことである。なぜ素晴らしいか、それは、差別をする人間になれば自分が幸せになれないからだ。差別をすれば、それはいつか自分に返ってくると思ったほうがよい。逆に差別をしない人、社会は、どこかで称えられるのである。例えば反日教育を受けた中国人が日本に滞在した際、日本や日本人は素晴らしいと感じた体験談を多くの場で語っているのを読めば、それだけで日本人として誇りに思うし嬉しく感じる。それを読んだだけで、僕は少し幸せな気持ちになった。きっと逆に外人に日本人に対する悪口ばかりを読めば、心が痛み日本人であることを恥ずかしく思うだろう。よくも悪くも自分に返ってくるということは、そのようなことだと思う。



↓ランキング挑戦中
にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ



posted at 01:05
Comment(2) | TrackBack(0)
カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:731.差別?
2014年12月18日

730.日本人とは何か

 散髪しようとしてバスに乗ったけれど、小銭が足りなくて途中下車した。バスにおつりが用意されていないから仕方ない。(もちろん釣りは要らないという申し入れは、問題なく受け入れられる)目的地に半分も満たない場所で降りることは、バスに乗る直前に気付いていた。だから僕は慌てることもなかったし、むしろ知らない場所をぶらつく機会を得たことに楽しみさえ覚えながら、流れる景色をバスの中から興味深く眺めていた。
 降りたバス停の近くに散髪屋を探したが、残念ながら見つけられない。普段ぶらつくと、これほどヘアサロンが乱立し商売が成り立つのかと不思議に思うほど目に付くのに、必要に応じて探せばこんなものだ。それは、求めれば遠のき、引けば寄ってくる男女の関係に似ていなくもない。それに限らず世の中の法則とは、実はこれと同じような巡り合わせが多くを占めるのだろうと思いながら、近辺の散髪屋に入ることをあっさりあきらめた。

 街路樹が規則正しく並ぶ道筋は、見た目は美しい。歩道の整備が悪いので実際は歩きにくいが、写真に撮れば素敵な散歩道に見えるはずだ。まだ昼前の時間で、道路に車が少なく空気が澄んでいる。歩いていると頭上を覆う木々の隙間から日差しが時々差し込んでくるが、暑くてたまらないほどではない。風が適度に吹いて、散歩には絶好の日和だ。そんな日に音楽を聴きながらあてもなく歩くのことが、ちょっとした贅沢に感じられる。そして、ああ、ここは日本ではない海外の地なんだと、あらためて感じられるのだ。それがまた新鮮に思えて、得をしたような、あるいは、なぜ自分がこんなところで生活しているのか不思議な気分になってくる。

 ほんの十年前は日本国内企業の社員として、会社の歯車の一つになり窮屈な生活を送っていた。毎日渋滞の中を通勤し、深夜まで働くことが普通だった。そんな中、フィリピンの緩やかな雰囲気を知り、現地雇用でもいいからフィリピンで暮らしたいと漠然と思っていたものだ。結局僕は今、場所はフィリピンを通り過ぎもっと赤道寄りになったが、こうして南国マレーシアに暮らしている。暮らしてみるとここは意外に便のよいロケーションで、海外旅行をまるで近隣県にでも出かけるような手軽さでできる。土日の休みを利用し、シンガポールやタイや中国、ベトナムなどに簡単に行けるのである。チケット代は時期で変動するが、これらの圏内は往復3万円くらいで購入できる。職場環境は日本国内企業と違い、平気で一週間連続の有給休暇が取れるし、残業をしたくない人は徹底した定時間労働も可能だ。定時で仕事を上がっても、白い目で見られることはないし本人が罪悪感を覚えるような空気はない。安い物価のおかげで、望めばある程度の贅沢もできる。(食については高くつくことも多いが)住居は快適で、コンドミニアム内に設置されたプール、サウナ、ジムを自由に使うことだってできる。事の成り行きに従いながら、ある意味望みのかなった生活を手に入れたようなものだ。

 もちろん人生、全てが思い通りになることは極めて稀である。こうして書き並べれば素晴らしい生活環境を手に入れたようにみえても、実際は日本の素晴らしさを実感することが多い。飛行機で隣り合わせた外人のビジネスマンが、住むには日本が世界で一番だと話していたが、全くその通りだ。コンビニの品揃え、小売店セールスマンの対応、公共トランスポーテーションの充実度や時間の正確さ、食べ物の清潔さや美味しさ、警察の真面目な対応、道徳心がありルールを守る国民、医療や教育水準の高さ。日本のすぐれたポイントはあげればきりがないほどで、国内に暮らしている日本人には不満もいろいろあるだろうが、海外の実態と日本を比較したら、日本は多くのことで群を抜いて素晴らしい。
 一昨日だったろうか、日本に住む様々な国の人が参加し日本を語るNHK番組を観たが、その中で、日本には素晴らしいポイントが多く、日本人も素晴らしいということが多く言われていた。ただし当然ながら、国による文化背景、価値観の違いから、意見にばらつきの出る事象もある。
 TV画面の前で僕が同意したのは、やはり働き方の問題だった。24時間営業の多種多様なサービスは、利用者にとっては便利で、かつ、お客様は神様である日本人の考え方は素晴らしいと言うものの、自分の国でそのような文化は根付かないというものである。サービスを充実させるほど労働者に負担がかかり、特に長時間労働、残業対応などの時間的制約については、海外で展開するのは困難、もしくは時間単位あたりの支払いが2倍か3倍でなければ対応できないという意見が占めていた。

 市場に出回る物の品質について、日本製は世界中で絶対の信用を勝ち取った。メイドインジャパンでなくても、日本人が扱う物(例えば輸入ブランド品)は確かという信用も高く、日本人そのものが評価されている実態がうかがえる。なぜ、そうなるのだろうか。今やISOという世界標準の品質管理システムが行き渡り、どこの国の会社もこれに準拠している。しかし相変わらず、品質については日本が首一つ出ている状況だ。
 なぜ他国が日本品質に肩を並べられないのか。それはどこの国も、このシステムをおさえておけば高品質を達成できると勘違いしているからである。これはもはや幻想に近い。顧客サービスを含む商品の高品質達成には、システムには表せない、仕事に魂を込めるということが必要なのだ。これを理解しない限り、他国は日本の品質作り込みに追いつけない。
 魂を込めるとはどのようなことか、ここで説明をするのは中々難しい。つまりそれは、システム化するのが難しいことを意味する。しかし日本人であれば詳しい説明をしなくても、それがどのようなことかを何となく理解できるはずだ。この、日本人が体得している仕事に対する考え方というものは、世界の中で日本人が持つ非常に大きなアドバンテージとなる。しかし、それだけの付加価値を生み出すためにはそれなりの努力が必要で、それが働き蜂化につながってしまうというわけだ。
 ここで僕が言いたいことは二つ。
 一つは、世界の中で日本人の多くは、仕事に対する考え方において大きなアドバンテージを持っているということ。ISOを導入しそのシステムを毎年見直しても品質が悪いのはなぜだと唸っている海外企業に、日本人の仕事に対する姿勢は大変有効で、一旦経営者がそのことに気付けば、経営者は高給を払ってでも日本人を雇いたくなる。しかも日本人のこの特性は明文化しにくいノウハウのようなものだから、内容の流出がし難く日本人が世界に出れば安定した雇用を得ることができる。
 もう一点は、サービスを含めた品質維持のため、日本では精神的なものも含め、労働の負担が大きいということである。魂を込めた働き方というものは、とても疲れるのだ。同時に、魂を込めた働き方によって、より充実感を得ることもある。結局は私生活とのバランスをうまくとりながら働ける環境が一番よいが、日本ではそれが許されない空気がある。
 よって僕にとって、それほど素晴らしい日本から逃げ出したくなる要素は唯一、働き方の問題ということだ。その働き方、考え方が住みやすい国を作っているとも言えるが、もう少し人生をゆったり楽しむ余地が欲しい。それさえあれば、日本は染み一つなく世界で最高の国だと言える。

 しかし、世界が見えない人は、日本は大変素晴らしい国だということを中々実感しにくいようだ。日本には、そんな素晴らしい日本をどうしても貶めたい人がいるのである。良いところには目をふさぎ、悪いところ、もしくは悪く言えそうな部分をことさら強調し、日本は劣悪な国と喧伝するのを目的とする行為が好きな人たちだ。自分はこれだけ問題意識を持っていると、自己アピールしたいのだろうか。私は他の人とは一味も二味も違うのだよと・・・。インターネットの世界では、滑稽なくらい、違うだろうと言いたくなる人をよく見かける。

 従軍慰安婦問題は、日本を貶める材料としてよく使われている。一時アメリカ国内でも、まるで神輿担ぎに楽しく参加するようにこの問題で盛り上がっていたが(陰でロビイストが暗躍していたのは有名な話)、さすがに狡猾な国は偉大だった。米国はこの問題に対し、引き返せるうちにさっさと幕を引いてしまおうとしている。韓国のように引き返せなくなれば、これは国益を損ねるということだ。これには、著名なアメリカのジャーナリスト「マイケル・ヨン」が対象となる各国を調査し、中間報告として従軍慰安婦問題はでっちあげとしか思えないと発表したことが一つのトリガになっていそうである。これを契機にヨーロッパ各国も、従軍慰安婦問題を見直す風潮が出始め、日本国内での各国ジャーナリストや公的出先機関の情報収集活動が活発になっている。そして、いくつかの国や機関は、韓国に対しいい加減にしなさいと言い始めているのだ。米国はそのような風向きを読み取り、韓国の姿勢に苦言を呈したようだ。
 国益を損ねるとは何か、それについては具体的に説明する必要があるだろう。アメリカはそれを、国内企業が損をすることと定義しているが、日本に明確な定義はないようだ。しかし、国家には国民の安全を担保するといったような義務があるのだから、それに反することが国益を損ねることになるだろう。日本の吊るし上げが増長し、各国との国交がぎくしゃくし、そして経済制裁などに事が及べば、これは誰にでも国益を損なったということが理解できると思われるが、それに類すること、例えば多くの保証金、援助金を掠め取られることや、国家安全保障に絡むことなどもその類に含まれる。
 慰安婦問題では、朝日新聞も白旗をあげた。そもそも、強制連行による性奴隷20万人と、それほど大規模な国家犯罪が行われていたなら何かしらの証拠が出てくるはずだが、これが一向に見つからない。(でっち上げた写真、嘘の証言などはいくらでもあるが)逆に、当時兵隊を相手に売春をしていたとされる女性たちは大変高額の収入を得て、借金を返せてよかった、プレゼントをもらった、食事をご馳走になった、休みの日は楽しくお出かけした、嫌であれば断わることができたなどと、性奴隷とはかけ離れた実態の資料や証言が出てくる。客観的にみて、日本が国家ぐるみで性奴隷制度を運用していたという話は変だと思うべきだろう。
 このようなことを書けば、いやいや、実際にそのようなことがあったという証言があると言う声が聞こえてきそうだ。そうだろう、そんな事例もあっただろう。それについては僕も疑っている。昔のフィリピンの話を現地の人に実際に聞いているのだから。しかし同時に、日本兵は規律に厳しく礼儀正しくて立派だったという話も聞いている。個別には色々な話があるのだ。それを一部分だけ取り上げ、さもそれが全部であったような口ぶりで国の名を傷つけるのがそれほど楽しいのか、はなはだ疑問である。いや、これは国を思えばこその発言だなどとは言わせない。この問題が日本の国益を大きく損ねたことは、説明をするまでもなく明確な事実である。
 この問題で盛り上がっていた人は、行き場がなくなれば今度は売春はいかんと言い出すのだろうか。体を売らなければ飢え死にする人たちが、この地球上にはごまんといるのに。その人たちの面倒を見れないならば、それは法律上や道徳上いけないことだから止めなさいなどと、簡単に言えることではない。人としての心を持つほど、直面したときには言えないのである。そして、日頃食えない当人にしてみれば、それほど意味のない説教はない。

 とにかく批判が目的で批判を展開しているとしか思えない人が、こじつけの論理を自身のブログで展開し悦に入っているのをみかけるが、それらはある意味滑稽の域に達している。僕はそのような人たちに共通する、不思議な特性を感じることがある。それは、自分たちに対する反対者を貶め排除しようとすることだ。偉そうなことを言うわりには、反論者にきちんと説明しようとしない。自分の意見をインターネットという場に公表するなら、せめて質問や反論にはきちんと答えればよい。もし答えたくなければ無視すればよいだけである。しかしこの種の方たちは、差別はいかんと言いながら、差別的かつ挑発的表現を用い反論者を攻撃して排除しようとする。散々攻撃の対象としている在日会と、やっていることの本質はさして変わらない。反論者は許せないのだろう。それとも意見を交わすのが怖いのだろうか。説明をする場合も、まるで真摯ではない表現を好んで使う。差別やヘイトがいかんと言うなら、あなたの話しは笑えるなどと言わず、少しはまじめに対応すべきだ。それができなければ無視すればよい。主張していることとやっていることが大きく乖離しているこのような姿勢に、当事者たちは気付いていないのだろう。僕はそれを滑稽だと言っている。主張の中身については自由にやればよいが、この人たちは国を貶めるのが好きなばかりか、意見の合わない人を徹底的に貶めるのも好きらしい。

 最近感じていることを言い始めたら止まらなくなり、本来言おうとしていたことから随分話題がそれてしまった。実は本日は、日本人の特性について書いてみようと思っていたのだ。きっかけは、ある若いローカルのエンジニアと話したことである。
 バスを降りてぶらついたところに話を戻したい。

 一時間も歩いたら少々疲れて、目に入ったスターバックスの店内に吸い込まれるように入った。エアコンの冷ややかな空気がほてった体を包み込み、まさに砂漠の中のオアシスに辿り着いたようだった。せっかくだから家用のコーヒー豆を買い、店内用のコーヒーを手に取り席についてみると落ち着いた雰囲気が心地よく、しばらくそこに留まりくつろごうと決めた。
 スターバックスの店内は、どこもセンスのよいインテリアが揃っているが、そこはまた、格別に金がかかっている様子だ。フランチャイズであれば出資したオーナーがいるはずで、金に糸目をつけない中国系の富裕層が手がけたものと思う。
 濃い目のコーヒーをすすりタバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出してから本を開いた。耳にあてたイヤフォンから、ピアノが聞こえている。これでくつろぐ準備が万端整った。さあ、いよいよ気合を入れてくつろぐぞというときに、せっかくの気分を壊すようなチャットメッセージが携帯に届いた。
「今何をしている?」
 相手は外人友達と、ここでは言っておこう。
 実際には、僕は何もしていないようなものだったが、正直にそれを言えばチャットが長引く。僕はチャット相手にスターバックスに立ち寄った経緯を説明し、儒教に関する本を読み始めたところだと答えた。
 その返事を送ったすぐ後にしまったと気付いたが、後の祭りだった。すぐさま「儒教って何?」と、予想通りの面倒くさい質問が、こだまのような速さで返ってきたのだ。一旦僕は、英語でそれを説明するのは難しいと答えたが、どうせ暇だからと思い直し、説明文章を英語で書き始めてみた。やってみると、それは意外に簡単だった。
『日本人は宗教を持たない、もしくは宗教心が希薄だと言われるけれど、僕たちの中には孔子の儒教的教えが染み付いている。この教えは仁、義、礼、智、信に基づいている。
仁は、人を思い遣る心が大切ということを言っている。義は、欲にとらわれず、すべきことをしなさいと教える。礼は、仁をどのように具体的に実践するかを表している。智は、学ぶことが大切であることを説いている。信は、嘘をつかず、約束を守り誠実に生きなさいと教えている。日本人はこれらを、宗教としてではなく、躾として学校や家庭で学ぶ』
 僕の英語であなたがこれらを理解できるか自信がないと付け足し送信したら、すぐに、「十分理解できた。最後の信が、ほとんどの人にとって一番難しい」と、まともな答えが返ってきた。僕の大切な時間をこれ以上奪わないで欲しいという、文脈にさりげなく込めた願いが通じたのか、一先ずチャットはこれで終了して僕はほっとした。

 僕がなぜ儒教の本を読んでいたのか、それは海外生活の経験で、多くの不思議なことを見聞きしているからだ。つい先日、職場の若いエンジニアと、マレーシアでの不思議について話した。例えばこんなことだ。
「未成熟の文明人に文明の利器を与えることは危険だ。車やバイクがその最たる例だ。信号無視、車線規制無視、速度無視は当たり前、バイクが歩道を走ることすら信じられないのに、車道を逆走するのは危険だから歩道を逆走する。人がいても相手が逃げると思って突っ込む。なぜこうもルールを無視し、相手のことを考えないのか。未成熟な人は車やバイクを意図的に凶器にしかねない。これは本当に怖いことだ」
 フィリピン人の運転も酷いが、フィリピンではここまで感じることがなかった。なぜかと考えてみると、フィリピン人はみんなが車を買うことができないからだと思われる。ある程度裕福で、社会性を持ち合わせた人、もしくは社会性を持ち合わせたふりをしなければならない人が車を所有できるのだ。しかしマレーシアでは、平気で十年ローンを組み、誰でも車のオーナーになれてしまう。そこに多くの悲劇が生まれることになる。
 彼は笑って僕の話を聞いていた。
「ここの人は並ぶということを知らない。周囲から明らかに苦情の出るところ(例えばスーパーのレジ)は別として、少しでも曖昧なところは、それはもう酷いものだ。例えばバスの乗り場は、日本の感覚で並んでいたら、先頭でバスを待っていてさえ乗るのが最後になる。時間にルーズなのは言うまでもなく、約束だって、それはやぶるためにあると言わんばかりだ。街を歩いていればみんながポイポイとごみを道路に捨てる。この前は車の窓が突然開いて、ぬぅーっと手が出てきたと思ったら吸殻を道路にがばぁーっと捨てていった。みんなで街を綺麗にしたら、掃除をする人がわずかな収入を失ってしまうことは理解している。それでもあの感覚は、日本人の自分には理解できない。ごみは道路に捨てろと言われても自分は躊躇してしまう。交通を取り締まる警察官のテントの前で、ほとんどの歩行者が信号無視をする。警官はそんなことにはまるで構わず、携帯をいじったりカードゲームをしている。ここまでくると、ここには道徳があるのかどうか、とても疑わしくなってくる」
 相変わらず彼は僕の話に笑いながら、「自分は日本人をとても尊敬している」と言った。彼は日本への留学経験がある。当時、現在の僕とは逆の立場から多くの日本人を見て、僕と同様にマレーシア人と日本人の違いを多く発見しながらいつも驚いていたと彼は続けた。そう言われれば嬉しいが、相変わらず僕は、同じ人間でこれほどの違いを生み出すものとは何だろうかと考えていた。おそらく人が育つ環境において、決定的な違いがありそうである。それが僕の、儒教(正確には江戸時代に学んだ朱子学で、本家儒教とは解釈が異なる部分もあるが、以下、総じて儒教と記載する)に対する興味の発端だった。

 フィリピンにもマレーシアにも、しっかり根付いた宗教がある。宗教とは、人間の生き様がどうあるべきかを教えてくれるものだと僕は信じている。しかし、フィリピン人もマレーシア人も、そしてインド人も中国人も、日本人の感覚で見ればそれほどモラルの高い民族とは思えない。頭脳が優秀かどうかという観点で比較すれば、日本人が優秀とは言い難い。おそろしく頭脳明晰な人間が各国に揃っている。ペーパー試験をしたら、平均点はおそらく日本人が負けるだろうとさえ思われる。しかしながら工業技術の世界では、どの国よりも日本がリードしている。それはなぜだろうか。
 韓国は儒教の国と言われ、中国は儒教が生まれた国だが、彼らには残念ながら、日本人とは異質のものを感じる。それは僕が直接見たごく狭い世界でのことであることは十分承知しているが、自分の知る範疇でははっきり異質であると言える事象をいくつか知っている。
 先ほど儒教の基本となる、仁義礼智信の五つの教え(五倫)を紹介したが、これらは日本人にはあらためて言うまでもなく、自然と心に入ってくる内容である。最近の若い人がこの教えにどれほど縛られているか知らないが、良いことと悪いことを区別する認識レベルは同等だと思っている。それを身をもって実践できるかどうか、そこに人による違いが生じているのだ。
 しかし、日本以外のどの国の人も、日本人とは基本的な態度が違うように感じられることがある。諸外国人の基本は利己的で(特に白色人種)、他人を思い遣る気持ちが希薄だ。その代わり、他人のことにも寛容である。表面的には日本人と似ている人もいるが、彼らも簡単に割り切ることができるのである。そのようなときには、突然冷たい人になったような気がしてしまう。そして冷たくされた人も、それが当たり前だというようにまるで気にしない。
 中国は人の命さえ軽く見る傾向があり、かの新幹線事故の際、人はどうせたくさんいるから少しくらい死んでも問題ないというコメントがどこかで紹介されていた。僕はそのようなコメントを簡単に信じたくはないが、You Tubeにアップされた中国国内のビデオには、おぞましいものを見た気がした。
小さな子供が車にひかれたが、車は一度速度を緩め、再び発進し後輪で子供をひきながら走り去った。(ドライバーはおそらく子供をひいたことを自覚している)倒れた子供はまだ動いているが、近くを歩く人たちは子供を助けようともせず、それを物珍しく眺めながら平然と通り過ぎていく。子供がまた別の車にひかれ最後は命を落とす様子を見た時、彼らは根本的に自分たち日本人と違うと直感した。これが日本での出来事であれば、周囲の人たちはすぐさま子供を助け、救急隊や警察に連絡するだろう。ここまで酷い事例は中々ないが、海外経験を積む中でそれと同様の直感を覚えることがある。つまりそれは、日本人としての感覚が違和感を生むのであり、そのことが、日本人と彼らは違うという印象につながる。

 日本人には、このような体に染みついたある種の感覚があり、時にはそれが他国の人から尊敬の対象になったり、つけ入られる隙になるようだ。またある意味では、それがあいたたおじさんになり易い体質というか、素質につながっているように思える。これはまさに、体に染み付いた儒教の教えのせいではないだろうか。(儒教が多くの日本人あいたたおじさんを生み出したと考えると、孔子はやはり偉大な人だったと言える。それにより、何人の人が救われたことか)
 日本人が持つ道徳としての価値観を、儒教の教えと認識している人は少ないかもしれない。しかしそれらの規範は、前述した儒教五倫に通じるものである。しかし子供は学校や家庭でそれを宗教色なしに教え込まれるから、そのような躾が儒教の流れを汲むものだと認識していないのだ。これらのことを日本人は、当たり前の常識として捉えている。そうあるべきだ、そう目指したいというものではなく、それが人として当たり前だという感覚を持っているのである。
 しかし外国人は、そうあるべきとは思っていても、当たり前という感覚であるかどうかは人によって疑わしい。つまりここに、日本人と外国人の間の、根本的で決定的な違いがある。まずはそのことを認識しなければ、外国人のことを理解するのが難しい。それはプライベートでも仕事上でも、外国人と関わり合う全てのケースにおいてだ。
 例えば日本とフィリピンの国際結婚夫婦でも、時々この不思議な思想的違いにイラつきながら生活を共にする。そして、ずっと不思議に思っていた違いの正体に明確に気付けば、誓い合った生涯の愛が一気に冷めることもあるだろう。しかし、もう我慢ならんと思うことがあったとすれば、根本的な違いは相手にとっても同じことで、相手もこちら側を不思議だと思っている可能性がある。つまり、当たり前と思っている事柄が違うだけでどちらにも悪気がないから、お互い相手の言動を理解できないというケースが多分にあるということだ。
 しかし幸いなことに、日本人の姿勢や態度や考え方は、どちらかと言えば外国人に受け入れやすいようだ。なぜならそれは、宗教で教わる理想の生き方に近いからである。もう一度五倫を振り返れば分かるが、その内容は、間違っていると堂々と言えるものではない。人に思いやりを持って接してはいけない(愛は要らない)、誠実であってはならない(嘘つきでありなさい)、学ぶことは害(無学が一番)と、反対のことを並べてそのように生きろと教えられたら、どの国の人でも違和感を覚えるだろう。つまりその教えそのものが、正しいものであることをみんなが知っているのである。
 それでもそのように生きられないのは、宗教をもってしてもそれが耳から入る教えに過ぎないからだ。だから、「そうは言っても実際にそのように生きたら損をする」という、現実的で利己的な考えに支配されるのである。教えを体得できていなため、その時々で都合の良い解釈を持ち出し行動に移すということが起きるのだ。ここに二面性が生じるが、この二面性が日本人を混乱に陥れる。「お前、言ってることとやってることが違うじゃないか」と言っても、「だってなんで損を承知でなぜ人助けをしなくちゃいけないの」と意見が一致しない。それでいながら、「愛は海よりも深いのよ」と言って思い入れの深い人間(ファミリー)は手厚く助けようとするから、日本人には分けがわからんということになる。

 昔の日本が良かった点は、そのような教えを親や学校の先生が身を持って示してくれたことである。(今もそうであると信じたいが、モンスターペアレントやそれを気にし過ぎる教育委員会の話を聞くと、どうもそうではないように感じられる)親や先生は普段から見本を示し、子供が道から外れたら本気で叱った。それが教えを体に染み込ませることになる。そうなると、子供の育て方において今の日本は昔と随分変わってしまった気がするから、今の日本の世の中が変わってしまったのも少しは頷けてしまうのである。
 フィリピンにおいては、子供への体罰を悪と考える風潮がある。そして甘やかし過ぎる例もよく目にすれば、子供を躾ける資格のない親もいる。(もちろん日本にもいる)そのような環境で育った子供は、理想の生き様が体に染み付かず、生き方や考え方を状況解釈でどうにでも自在に変えられることになり、主義主張や行動に一貫性がなくなる。
 もちろん日本人のどのような人間にも、多面性を見ることはできる。ご都合に合わせて主張や行動を少なからず変える人である。しかしそのぶれ幅の大きさは、どのような哲学をどれほどしっかり持つかで変わってくる。
 生き方に関する哲学というものは脳に記憶するものではなく、心で感じて体得するもので、それが体に染み付くということである。体得するには、経験を積まなければならない。その経験の大きな部分を占めるのが幼少期の育ち方(教わり方)であり、人格もそこに大きな影響を受けることになる。またその経験は、環境や風習などに大きく左右されることは言うまでもない。一番身近に子供を躾ける親の態度や考え方が、社会の影響を受けているからである。道路にごみを捨てることを社会が悪しきこととする空気があれば、そのような行為に恥を感じ、子供がそれをしたら叱るだろう。社会の影響を受けるということは、そのようなことである。
 つまり、それが民族の規範や文化であり、世代間で受け継がれていくものなのだ。よって日本人の気質というものは、儒教の教えをもとに社会全体で作り上げられたものであり、どこかの教祖が作った経典を集会などで教わり身に付けたものではない。少しずつ広がり、それを守れない人は恥知らずという恥の文化(空気)が出来上がり、躾けという行動に繋がり定着したものである。
 このような形態は、どこの国にも同様にあっておかしくないが、社会に多様な恥の文化が形成されなければ、素晴らしい教えの伝承もままならない。そして恥の文化を形成するのは、民族がもともと持つ生き方と直結する。同じような教えを受けても、社会全体の比較において随分違いが出るのは、それが民族の持つもともとの生き方に左右されるからであり、その生き方というものは、気候や天災、外敵の多さ、歴史的事象など、命に繋がる環境の違いに強く影響されると思われる。よってそこに類似の教えを持ち込んでも、捉え方や理解に違いが出るのは当然で、それはまた別の方向の規範や文化が醸成されるのだ。 
 それぞれの文化とは、こうして長年かけて培われたもので、互いに体に染み付いているものだから簡単に軌道修正できない。当たり前であることを否定されたら、納得したふりをすることはできても、簡単に納得できるものではないのである。とすれば異文化交流に直面する人は、ある程度相手の文化を尊重しなければ良好な交流の継続が難しく、理解する努力をしたり、理解したふりをして目をつぶり飲み込むことが大切なことも多いのだ。

 さて、随分長く書いてしまったため、まとまりのないぼやけた話になってしまったが、ここで僕が言いたい一番のことは、日本人とは素晴らしい気質を身に付けた民族であるということである。思いやりがあり、人の尊厳を守り、誠実に生きたいと思い、様々な宗教上の理想の生き様を実践している(しようとしている)民族なのだ。それが世界一の品質を産み、信用を勝ち取り、産業の世界でリーダー的役割を果たす結果に繋がっている。
 誠実さが仕事のやりすぎに繋がっているケースや、その気質が他人のいい加減さを許せない性質に繋がっているケースも見受けられるが、そこはもう一皮むけるつもりで割り切ってみたり飲み込めば、日本人はもう少し楽に生きられる世の中を作れるだろうし、どの民族ともうまくやっていける資質を十分持っているのではないだろうか。

 尚、ここに書いたのは一般論であり、もちろん個別にはどこの国にも素晴らしい人がいるし、だめな人もいる。しかし日本と諸外国というくくりで論じてみれば、少なくとも日本や日本人は、貶める対象になり得ない国や民族ではないかということを、ここで言いたいのである。



↓ランキング挑戦中
にほんブログ村 海外生活ブログ フィリピン情報へ
にほんブログ村
人気ブログランキングへ



posted at 00:57
Comment(6) | TrackBack(0)
カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:730.日本人とは何か

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。