フィリピーナと共に
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フィリピン生活:カテゴリの記事一覧です。

2012年01月21日

429.生きる力

昨日は朝から雪が舞っていた。その割にはそれほど寒さを感じなかったが、昼頃になると少し外に出ただけで、まるで背中につっかえ棒でも入ったように体の柔軟性が奪われ、手が急激にかじかんだ。太陽が真上近いところにいるのに、気温はどんどん下がっているように感じられた。
冬本番の2月に近づき、いよいよ寒さが厳しくなってきたのだろうか。
これまで異常なくらいに寒いと思っていたのは、まだまだ序の口だったのだろうか。

日本に到着してからすぐに、たまたま五木寛之の「親鸞」という単行本上下2冊を買い、それを時間のある時に読み進めていたが、一昨日の夜読み終えた。
それが夜中の1時頃で、その後また新しい別の本を読み始め夜更かしをした。
もしかしたらその頃から、外には雪がちらついていたのかもしれない。
昨日の朝は目覚めてから、外に降り注ぐ雪を見て寝不足気味の頭が一気に覚醒した。
普段天気予報を気にしていないので、雪が舞っていたことには本当に驚いた。

モナに天候が雪であることを教えたら、「いいなぁ、見たいなぁ」という反応だった。
もしその場にいたら、寒すぎると震えあがって文句を言うことは分かっている。以前横浜に居た頃がそうだった。
何を呑気なことを言っているのだという気持ちもあったが、聞き流した。
そして雪が降っても、僕はいつも通り仕事場へと出かけた。

最近こうして朝を迎える時に、また日付が変わったと思うようになっている。
これを365回繰り返しただけで、一年という一つのくくりになると考えると、一年とは何と短いことかという想いに至る。
今年の9月には49歳になり、来年は50歳となる。日本人の平均寿命が80ゆ歳として、自分が平均通り生きることができても、余命はわずか30年。
短い1年をたった30回繰り返しただけで、僕は黄泉の国へ旅立ってしまう可能性が高い。
同時に自分が、完全に人生の折り返し地点を通りすぎていることを痛感する。
そこで残りの30年をどのように消化するかということも考える。
ここ数年、自分のこれまでの人生を振り返り、そしてこの先のことを度々考える。

最近は、生活に追われ目の前のことに精一杯になりながら生きていることに、果たしてこれで良いのかと疑念を抱くようになっている。
余命が30年だとすれば、残りの人生は、これまで以上に自分や家族を大切にした生き方をしたいと思うようになっている。その考えは、モナと結婚し、子供が生まれ、フィリピンに生活の拠点を移したことと密接な関係がある。
どこかで基礎を築き、数年のうちに生き方を変えていきたいなどと漠然と思っている。
しかしいざそのように考えると、それがどのような生き方であれば良いのか分からなくなることがある。
すると、これまで50年近く生きてきて、自分は仕事の上で、また人間として様々な体験をしキャリアを積んでいるようで、意外と積み上がったものはたいしてないのかもしれないような気がしてくるのである。そして、このままその延長線上で歩み続けて良いのだろうかと思うが、それがここ数年の自分の漠然たる焦りの正体である。

そのことは、過去や現在の自分の生きざまに意味が無いということとは少し違う。
自分が社会の中で活動し、何らかの製品を世の中に送り出す手助けをしてきたことは揺るがない実績として残っている。モナやその家族の人生に自分が大きく影響を与えていることも事実である。
だからそれは、自分という存在そのものの意味が何かしらあることを否定するものではない。
しかし、自分自身がこれまでの経験から積み上げ、これから生きるための拠り所にするものは何かと考えた時に、それが思った以上に希薄であることに、何か暗澹たる気持ちになるのである。
結果として今でも、目の前のことに追われながら、流されるように生きている。

人生とはそのようなものかもしれないが、そう考えることで、中味のない自分を慰めているだけのような気もしてくる。
もちろん現在、生活のために飛び回り胃が痛くなるような思いをしながら仕事に励むことは必然であり、そこから逃げたいとは思っていない。それはそれで必要なことである。
生きるということは、特に考えなくても何とかなったりするもので、深く考え出すときりがなく、考えようで簡単にもなれば難しくもなるものだ。

現実の問題はある。
これから年を重ねる中で、まだしばらく自分と家族の食いぶちを得なければならない。
世の中が右肩上がりに延びていて、その流れに乗ってさえいれば何とかなりそうだということであれば良いが、今の世の中はそうではない。
少なくとも日本やアメリカ、ヨーロッパには、限界が見え始めている。
アメリカやヨーロッパはそれを十分自覚しているから、ここ十年、しっかりと狙いをアジアに定めている。
常に搾取で生きる習性を持つ欧米は、今延びているアジアに搾取の種をせっせと撒いてきた。それが現在、花を咲かせ、実を収穫できるようになっている。
中国はまた違った側面から、膨大なネットワークを頼りに神出鬼没で世界中にはびこって力を増強している。
そのような流れの中で、自分はまだまだこれから、現実的な食いぶちを探していかなければならない。
その食いぶちも、これまでの自分の経験を活かしたものにしていきたいと思うのだが、その足場が何とも頼りないと思うことはしばしばある。

もしかしたら、これが現代人の持つ悩みというものかと、ふと我に返る。
現在は満たされているが、その満たされたものが自分の確たる力で勝ち得たものではなく、世の中の流れに乗っているうちに天から降ってきたようなものだとすれば、実感も満足感もなく、これからも同じだという保証が無ければ不安にもなる。
自分が積極的に何をして、それがどう実を結んだのか実感が湧かなければ、自分が生きている意味とは何かを考える。
悩み多き人が大勢いることは、昨今言われていることである。

一昨日読み終えた小説「親鸞」によると、親鸞という人も悩み続けた人であった。
若くして仏門の世界に入り、自分に過酷な行を課すが、いくら修行を積んでも自分の道が中々見えてこなかった人である。
煩悩を捨て切れず、そのような自分を嘆き、過酷な修行の中でも観仏の姿が見えず声が聞こえない。そのような自分に仏性はないと親鸞は思い悩む。
当時名門の家系かよほどの天才でなければ入山を許されなかった叡山に入り目をかけられながら、結局自分が周囲の高僧とは違う考え方を持ち、そこで実践される仏教のあり方に疑問を持った親鸞は山を降り法然上人に弟子入りをした。そしてそれまでの清僧のあり方をやぶり、肉食・妻帯をすることになる。
師匠の法然は生涯肉食・妻帯をせず、一切の煩悩を絶ち切った生活を貫き通した人であるが、しかし世の中に蔓延する悪・煩悩を否定する人ではなかった。むしろ煩悩の成すままに生きる人を羨ましいと告白する。自分がそれをできなかったのは、縁が無かったからであり、強い意志による結果ではないことを大勢の弟子の前で親鸞に告げるのである。
法然は、むしろ世の動向を得るためには、その世界に入りその世界の人々と混じり合うことで掴みとった方が良しとした人であった。
よって親鸞は、俗に言われる僧の戒律にとらわれずに、民衆の生きざまそのものを実践しながら、貧しい大衆の抱える不安や悩みを考え、それを救うことに人生をかけたような人である。
親鸞については残された資料が少なく憶測の域を出ないことも多いが、小説の主人公として描かれた親鸞に触れることで、共感を覚える内容が多々あった。

親鸞は法然に魅かれながらも、法然に弟子入りするまで10年の歳月を費やしている。
それは、法然に抱いた疑問や危うさを、自分の中で消化できるようになるまでの期間であった。
一旦法然についていくと決めた親鸞は、徹底的に法然の教えを信じることになる。
なぜ法然上人を信じるかの問いに、親鸞は、法然が自分を信じ切ってくれるから自分も法然を信じ切ると答える。自分が分からないこと、迷えることは、自分が信じる法然がそう言ったのだから自分もそう信じることを正直に口にする。
それでありながら、師匠の法然が自分に門外不出の教えを書いた巻物を託した時に、それは法然が自分の考えを継承しろという意味ではなく、親鸞自身の新しい道を開きなさいという意味だと親鸞は解釈する。
また法然も、親鸞がそう解釈してくれることを分かっていたから、長年ついてきた弟子を差し置いて、年月の浅い弟子である親鸞に全幅の信頼を置いた。
新しい教え、姿勢、体制は危うい。しかし危うくとも必要とされることであれば、新しく踏み出さなければならない、それをやるのが自分の使命であり、親鸞は数々訪れる絶命の窮地に際しても、決してその信念を曲げない。
親鸞は法然の教えを徹底的に信じながらも、自分の新しい道を更に探すことになる。

なるほど悩める現代人にこそ読んで欲しい一冊と宣伝されたそれは、読み応えがあり心に響くものを感じた。
そしてまた、宗教という自分には縁遠くて理解の難しい世界の一端を垣間見ることができた小説でもあった。

僕はこの小説から、様々なことを感じとった。
信じあうことの素晴らしさ、信念を貫くことの大切さ、他人と自分を裏切らないことの大切さ、生きるとは何か・・・。しかし一番僕の心に響いたのは、親鸞の生きる逞しさであった。
親鸞は叡山の恵まれた生活を捨て、民衆の中の聖に身を落とす。そして托鉢で生計を営むのである。
食べるものがなければ断食行だと思い食べず、お布施代わりに頂くものは有り難く頂く。そのような自然体で生命を繋ぎなら人々を救うことだけを念頭において教えを広める。
ゆるぎないものを持った人の逞しさがそこに見えるのである。
それこそが僕の理想とする「生きる逞しさ」であり、それを具体的に見せられた思いがしたのである。
世間との比較論で決まる幸せではなく、財の増減にも惑わされず、大切だと信じることだけを一心に見つめることができる強さは、おそらく自らの人生を満足したものへと導く。

現代で一般の人がそのような生き方を地でいくのは勿論難しい。
しかしその精神は自分も学びたいと思い、子供たちにも身につけてもらいたいと願っているのである。

昨日ある方の事業の雲雪が怪しくなってきたことを知った。それは前々から薄々ご本人が漏らしていたことでもあった。
ご本人はそれほど深刻に悩んでいるわけではないが、笑っていられる状況でもないと言っている。
たまたま「親鸞」を読んだ後だったので、僕はこの小説から感じた力を、エールとしてその方に送りたいと思い、昨日からこれを書き始めていた。

前に進む力のみなぎっている人はどのようになっても何をしても、魅力的である。
魅力さえ失わなければ、人は集い、幸運にも恵まれる。
社会的地位や収入など、人間の魅力とは一切関係ないことは、報道等で知る偉いとされる人を見ていても一目瞭然である。
人間として何が大切か、何が未来を切り開くかは、もっと別の次元に存在している。
決してご本人が気落ちしているわけではないし、陳腐なエールも必要はないように見受けられたが、それでも自分の気持ちとして何か応援せずにはいられずに、これをしたためた次第である。


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カテゴリー:フィリピン生活
エントリー:429.生きる力
2012年01月17日

428.この寒さは何だ?

またまた寒さが激しさを増しているように感じる。
オフィスは禁煙なのでタバコを吸う時に屋外に出るが、その度に「タバコを吸うのも命がけだ、気を抜くと凍死する」などと言えば、周囲の人には大げさだと笑われる。
この寒さにしてそれが大げさだと言われるのは府に落ちないほど、僕にはとにかく寒すぎる。

かつて山登りをしていた僕は、あまり好きではなかった冬山登山の経験が多くある。
厳冬期の山の上は氷点下20℃や30℃は当たり前の世界で、コップに注いだウィスキーを飲もうとすれば、ほんの数秒前には液体だったそれが凍って固まっているほどだった。そのような信じられない寒い世界が、僕は昔から大嫌いだった。
山登りは好きだったが、それは気候の良い時期に、ハイキングのようにのんびりと尾根を歩くような自然を楽しむ山歩きがよかっただけで、僕は縦走や冬山のような厳しい登山はできるだけ避けたいくちだったのである。しかし、1人で出かけるほど山登りに精通していたわけではなかったので、部活としてやっていた関係上、性に合わない山登りも散々付き合わされた。

冬山に登ると、登山靴を脱ぐことは一切厳禁となる。
なぜなら、汗を吸収した登山靴が一旦凍ってしまうと、次に履こうとした時に大変苦労するからだ。しかも凍った登山靴は冷たく硬くて歩きづらい。
だから寝る時でも、シュラフ(寝袋)の中にあのごつい登山靴を履いたまま入る。
就寝時、素足派の僕としては、これほど気持ちの悪いものはなかったが、疲労が体に蓄積しているので気持ちが悪くても意外と早く寝つける。

朝はまだ暗いうちから起きて、ごはんを炊くための雪をかき集めなければならない。表面の雪は汚れが酷いので、できるだけ下側から掘り起こすようにしてなべに雪を詰め込むが、周囲が暗いことと相まって、体感温度は極限に近いほど低くなる。寒いを通り越して痛いという世界である。
朝食など食べなくてもよい自分が、なせ極寒の暗闇の中でごそごそとこんなことをしているのだろうと、自分の境遇を疑問に思う時だった。
ようやくできたご飯は、「野外で作って食べるご飯は美味しいね」などという生易しい感動など微塵もない。雪を溶かした癖のある水を使用し、気圧が低いせいでお湯の温度も上がらない状態で作ったご飯は結構まずく、食事はあくまでもエネルギーの補給という割り切りが必要である。
これらの経験が、僕をますます寒さ嫌いにした。

もともと僕は北国育ちではあるけれど、田舎にいる時から寒さに弱い体質で冬が嫌いだった。だからスキーを手軽にできる環境にいながら、スキーは嫌いでほとんどやらなかった。リフトに乗っている時の寒さがたまらなく辛いからである。
傍から見れば僕は冬山にも登るばりばりの野外活動家なのだから、周囲の人たちは僕が寒がりだというのを一種のポーズか何かだと思っていたらしい。
スキーに誘われると僕は「ス」のつく物が嫌いだから行かないと断るが、それじゃ「寿司は?」「好き」「スイカは?」「好き」といったやり取りの後に、「ス」がついても問題ないじゃないかということになり、無理やりスキーに連れ出されたことが何度かあった。そのような時には、結局リフトに乗ってガチガチと歯で音を立てながら、次は絶対に来ないぞといつも後悔した。
よってスキーに行ったとしても、僕は温泉にぬくぬくと浸かっているだけの方がはるかに幸せな人だった。若年寄だと馬鹿にされても、昔から積極的に寒いところへは決して行かない人だったのである。

そんな自分がフィリピンという常夏の地を安住の地として選び住み始めたのだから、こうして寒い時期に日本へやってくると、まさに天国から地獄に突き落とされてしまったような感覚に襲われる。なぜわざわざ寒いところに来なければならないのか、その境遇を恨みもする。
優雅な人は、寒さを避けて寒い地から暖かい地へとバカンスに出かけるものだ。僕はまるでその逆をやっているのだから、優雅な人たちとは対極の位置にいることになる。
暑いのはいくらでも大丈夫な性質(たち)なので、できれば冬は日本に近づかないようにし来日は夏限定と宣言したいが、財布の中身と相談すれば、優雅に立ち振る舞えるような立場ではないわけだから仕方がないということになる。

それにしても同じ地球上でこれほど気候環境が違うのを実感すると、そもそも地球というものは、本当に大丈夫なのかなどと考えてしまう。飛行機でほんの4時間足らず飛んだだけで、これだけ環境に違いが出るということが、ある意味怖い。
フィリピンの方々は日本人から見れば宇宙の方々のような面も多分にあるが、(そしてフィリピンの方々は同じように日本人をそう思っている部分もあるが、)しかし決して宇宙の果てにロケットで来たわけではない。たった4時間、飛行機で飛んだだけの地だ。
その4時間ばかりを隔てたあちら側は半そで半ズボンで過ごし、こちらは長袖を着こんで皮ジャンやダウンを羽織っても尚寒くて身が縮んでいる。

もちろん物理的にこの違いを説明するのは簡単だ。
地球の地軸が23.5度傾いているために、冬の季節は北半球が太陽から見て外側に位置しながら自転し、その半年後に地球は同じ傾きを持ったままその反対側に位置するから、北半球は今度内側の太陽側に向いて自転する。当然内側にあった方が太陽光線を効率良く受け取ることができるため暑くなる。赤道に近い部分は地球の傾きの影響を受けにくいので、一年中暑い状態となる。
フィリピンは赤道よりやや北側にあるので、一応冬はやや涼しい季節となる。

単にそれだけだが、それだけでこれほど気温が変化してしまうところがミソだと考えるのである。
もし地球の公転が止まったらどうだろうか。地球上の季節は固定される。公転が止まる位置により、日本はずっと冬だったり夏だったりする。
もし地球の地軸の傾きが変われば、気候は激変することになる。実際に地震などで地軸の傾きは若干変化している。
もし夏は異常に暑く、冬は異常に寒い状態が長く続くようなら、地球の地軸の傾きは公表されているよりも大きくなっている可能性もある。(昨年夏の暑さと今の寒さを考えると、僕はその傾きが大きく変化していないかと疑いたくなっている)

地球に何も変化がないとしても、少し太陽光線の入る角度が変わっただけでこれだけの変化が現れるなら、もし太陽自体のエネルギーが減少したら、地球はたちどころに冷え冷えとなる。
これは公転による影響よりも恐ろしい結果を招く。どこに行っても氷点下の世界になる。
もしそうなったら、まずは南国暮らしの貧しい人たちが大勢凍死することになる。
道端やおんぼろ屋で暖房無しに寝たら、必ずそうなる。なにせ暖房とは無縁の世界で生きてきた人々だ。
エネルギーの確保が死活問題となる。地球上の人々は暖房エネルギーの奪い合いで、戦争が勃発する。

寒いというだけで僕の妄想は尽きないが、とにかくそれだけ今の日本は寒い。
実家の母は、南国の人をこんな寒い時期に日本に連れてきたら大変だと言うが、それ以前に日本人のあなたの息子が大変なことになっていると言いたくなっている。


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エントリー:428.この寒さは何だ?
2012年01月15日

427.休日らしい休日

日本は四季があって情緒があるなどとよく言われる。確かに日本人の多くは季節の変動による様々な恩恵を受けている。
山のミネラルを豊富に含んだ雪解け水が美味しい米を育て、紅葉はたくさんの人の目を楽しませる。季語を用いる俳句の世界には、限られた字数でその情緒をいかに表現するかという文化もある。
協調性、生活の計画性、仕事に対する勤勉性なども、厳しい冬の到来に備えるための、日本人が長く培ってきた知恵が体に浸みこんだ結果の習性と言えるかもしれない。

それでも現実の寒さの中に身を置けば、冬などいらないと悲鳴をあげたくなる。
ここ数日の寒さを体験しながら、日本の冬の寒さとは、以前からこれほど厳しかったかと記憶を一生懸命に手繰っているが、どうしても思い出せない。
おそらく自分の体が、南国の生ぬるい気候に順応してしまったがゆえの反動だろうが、かつてはこの厳しい寒さを跳ね返す精神的な厳しさが自分の中にはあったような気がする。随分と気も緩んでいるようだ。

よって緩んだ気に喝を入れてもらいに、昨晩は武蔵新城のP居酒屋さんに行った。
ここは日本滞在中の根城になりつつある。
おそらく最近の体たらくぶりをブログで披露した自分を気の毒に思い、気遣ってくれたのだろうと思うが、サラマさんよりお誘いを受けてのこのこと出かけた。
サラマさんには家庭の温かさをお裾わけしようという意図があったと思われるが、P居酒屋さんの後は自宅にご招待まで受けていたので、心と体が弱り切っていた僕はその言葉に素直に甘えさせていただくことにし、図々しくお泊りセットを忍ばせた鞄を抱えP居酒屋さんに出向いたのである。

P居酒屋さんには、サラマさんご夫妻はもとより、ブンソさん、kazuさん、群青さん、そして後から登場したトモさんなる人もご一緒し、楽しく歓談させて頂いた。
トモさんとは初対面だったが、話しの中で僕とトモさんの間には、随分と懐かしい共通の知人がいることが判明した。
かつてラーメンをご馳走してくれたフィリピーナや、飲食店経営の日本人の他、首実験をすれば「あっ!」と声をあげてしまいそうな古くからの知人が数名いそうだった。
随分とローカルで局所的な話題で盛り上がり、そして破天荒なトモさんのフィリピーナに対する考え方、接し方を起点とし、フィリピーナの習性やフィリピーナと関わった人の運命(さだめ)のような話しに花が咲いた。
あいつら(フィリピーナ)は頭がおかしいと豪語するトモさんは、電話越しにその頭のおかしいフィリピーナに強気の発言をするが、その実少々頭の上がらない部分もあるようで、強気の発言と惚れた弱みの微妙なずれが実に面白く心地よい。
そのトモさんが、何度も携帯にかかってくるフィリピーナの電話をさばきながら、サラマさん御夫婦と僕を、自分の車でサラマさん自宅まで送ってくれた。

サラマさんの自宅へ到着したのが午前1時。それから3人で少し話をした後、奥さんが就寝してからも、僕とサラマさんは2人で炬燵に足を突っ込みながら、4時近くまでとりとめのない話をしていた。
最近は何をしていても常に仕事のことが気になっていたが、僕は敢えて仕事を忘れ、ゆっくりくつろいで歓談させて頂いた。
寝不足になるほど遅い時間まで着き合わせてしまったサラマさんには申し訳なかったが、久しぶりにゆったりした時間を過ごすことができた。

翌朝は約5時間後に目覚めた僕がごそごそしているのを見計らったかのように、8時には目が覚めたと言いながらサラマさんが登場。僕が勝手に淹れさせてもらったコーヒーを、丁度飲み終えた頃だった。
前夜たまたまトモさんが、フィリピーナ習性の一つとして、彼女たちは最低8時間、標準12時間の睡眠時間が必要であることを述べられていたが、サラマさんのフィリピーナ奥さまは11時頃にお目ざめだったようで、僕とサラマさんの予想より1時間早めのご登場となった。客がいなかったらもっとゆっくりできただろうと少し恐縮である。

奥さんが登場したのは、奥さんが僕のためにあらかじめ用意してくれていたカレーをサラマさんが温めていた最中だったが、それからご夫婦で昼食の準備をしてくれ、美味しいカレーと見事に黄色に色づいたゴールデンチャーハン(卵の使い方が本格的だとそうなる)が登場した。
そのおかげで舌の調子が悪かった僕は、久しぶりに美味しいと感じる食事にありつくことができた。
何とも暖かいもてなしを受け、ついついお暇する機会を逃し長居してしまったが、サラマさんの自宅から駅までの道のりは、昨日まであれほど骨身にしみた寒さも緩和されたように感じ、ようやく元気を取り戻しつつあることを実感しながらの帰路となった。

しっかりと準備したお泊りセットは、ソックスを変えただけで、それ以外は前日とまるで変わらない衣類を着用して帰ってきた。朝は敢えて髭もそらず、昼前には部屋に戻って進めようと思っていた仕事も、朝目覚めた時に早々と放棄しようと決めた。
朝目覚めた時に、今日一日はルーズに過ごそうと決めていたのである。
ルーズに過ごすのは、本当に気持ちがいい。予定を決めず、成り行きでどうするかを決める。コーヒーが飲みたいと思えばコーヒーショップに入りそこで読書をする。ラーメンが食べたいと思えばちょっと寄り道をする。アパートの最寄り駅についても、そこで電車を降りたくなければそのまま電車に乗っていてもよい。
お泊りセットが入った鞄が少し重かったので、とりあえず最寄り駅で降りることにしたが、降りなければならないから降りたのではなく、降りたくなったから降りた。
この成り行き任せは、本当に自分の性に合っている。

サラマさんのご自宅を出たのが2時頃だったが、部屋に辿り着いたのはすっかり日の落ちた7時近くであった。
途中で食べたラーメンはいつもよりやや薄味だったが、かなり味覚が復活したようだ。
部屋に帰ってから食べたサキイカも、塩味がわかるようになっている。
味覚の復活が、たまたまサラマさんが用意してくれたリラックスタイムと重なったのかどうかわからないが、僕はやはり、気の病を解消しつつあることが味覚の復活と深く関係しているのではないかと思えて仕方ない。

モナと少し話しをし、おそらく8時頃には布団の上で居眠りしていたようだ。
TVの音に目を覚ました時、時計の針は午前1時を指していたが、眠りが深かったためか随分すっきりとした目覚めだった。
おかげさまで、徐々に日本の生活に勢いがついてきたように感じられる。休日らしい休日を過ごすことができたことに感謝する。
布団の中が暖かくて気持ちが良い。今日はもう少し惰眠をむさぼることにする。


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