フィリピーナと共に
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2011年12月25日

411.反面教師の効用

僕とモナで、毎月ママに3000ペソの小遣いをあげている。
少額ではあるが、生活にかかるお金は一切こちらが出しているので、これはママが自由に使えるお金となる。
それ以外、ママには古い家を人にレンタルして、その家賃収入がある。これが2500ペソだそうだ。合わせて月に5500ペソの収入があれば、ママの小遣いとしてはまあまあである。

しかしその家賃が滞納になっていると、今年の半ばくらいに聞いていた。その時点で2か月家賃が入っていないという話しであった。その理由は、家を借りている人のサラリーが2か月間支払われていないからだそうだ。
そこまではよくある話で驚きもしなかったが、家を借りている人の職業が公立学校の先生と聞いて、その途端に興味が湧いてきた。
そういえばママは家を貸す際、借主を良く見て選んでいた。おそらく公立学校の先生が、家賃を滞納することはないと踏んでいたのだろう。

公立学校の先生のサラリーが2か月間も遅延している?それは本当か?
事実かどうかは知らないが、とにかくその人はそう言っているらしかった。
しかし不思議なことに、電気や水道は滞納すると止められるので、それは払っていると言っていた。
これはママの問題なので、僕はそのような事態に対し一切口をはさまなかったし、それ以後もこちらはその問題に一切介入しなかった。
それでも公立学校の先生のサラリーが払われないことについては、本当のことかどうか興味があった。

フィリピンでは学校の先生の給与を含め、学校のお金は校長が思いのままにできるという噂を聞いたことがある。よってその学校の校長が使い込み(公金横領)をしている可能性もあるのだが、働いている先生の給与を払わなければ、誰もが納得する理由でもない限り問題になり表面化してしまうだろう。
先日マニラの幼稚園か何かの先生に、給与が2か月間支払われていないことが問題として、TVで大々的に取り上げられていたくらいである。

ママもこの事態を放置していたわけではない。時々取り立てに行っているらしく、つい先日も行ってきた。
そして家賃を回収してきたが、満額もらえず残りは来月という具合に、いつも少しは先延ばしになる。それを繰り返しているうちに、いくら家賃が滞納になっているのかわからなくなってきたらしいが、それについてはモナがきちんと記録を付けていて、よく調べれば抜けなく分かるようになっているらしい。

フィリピンで学校の先生と言えば、今やサラリーはまあまあのはずであった。
それがいつも全額払えないのは変だと思っていたら、そこにママとモナの憶測で補足が入った。
借主の男性は家族でそこに住んでいるが、どうやら奥さんと思われている人は愛人ではないかとのことだった。
その根拠は、家に行っても絶対に奥さんと称される人は表にでてこず、家のドアや窓はいつも締め切られている。そしてその男性の職場である学校はレガスピという隣街だが、それならわざわざタバコシティーに家を借りて住む必要はないだろうというその2点であった。
借主のサラリーは本宅にほとんど持っていかれ、タバコの愛人に当てる生活費が少ないのではないかという話しであったが、それで納得して良いことかどうかは別としても、なるほどそれであれば納得がいった。さすがにママの事前調査でも、そこまでの事情は分からなかったのだろう。

愛人に部屋を与え生活の面倒をみるなど、日本でもありそうなことではあるが、このフィリピンでそのようなことは、日常光景の一つと言っても過言ではない。
ずっと夫婦だと思っていた2人に、今度正式に結婚するから披露宴には是非来てくれなどと言われ、「はぁ?まだ結婚してなかったの?」などと、時々とても混乱する事象が結構身近にある。
子供がいて普通の家庭を築いているように見える人に、結婚は一生のことだから慎重に考えていたなどと言われると、随分日本人と考え方が違うとますます驚いたりする。

要はくっついたり離れたりが自由奔放に行われる風土が一部にあったり、それは有りだと思われている風土があるわけで、親戚筋の男性の1人も恋人に子供が生まれ一緒に暮らはじめ、我が家に妻子を連れて来たこともあったが、若い奥さんが貧乏生活に嫌気がさして他の男の元に逃げてしまったらしく、彼はあっという間に独身に戻った。それすら正式に結婚をしてからそうなったのか、そうでないのか僕には分からずじまいで、「あ〜、そうなんだ」というあっけない感じで幕を閉じたし、本人も何事もなかったようにケロッとして、時々我が家に1人で顔を出している。

やはり親戚筋のある夫婦は子供が3人いるが、うち2人は奥さんの連れ子で、その2人の子供はそれぞれ父親が違うらしい。つまり3人の子供の父親は全員別人だが、まだ正式に結婚していないことを最近知って夫になぜかと訊いたら、奥さんか自分の気が変わるかもしれないから怖くて籍を入れられないという返事が返ってきた。
僕は何度もそのような事象を目の当たりにしているにも関わらず、なかなか慣れずにやっぱり驚くことになる。

フランクと言えばフランクで、節操がないと言えば節操がなく、自由奔放でありながらみな敬虔なクリスチャンであり、そのようなことが世間的に容認されることは羨ましいと言えば羨ましいが、怖いと言えば怖い。
結局どう考えて、どう表現すれば良いのか分からず、コメントさえつけられずにハァとため息交じりの言葉にならない言葉を発することになる。
少なくとも我が家の常識はそれとは全く違うと信じているが、フィリピンの恋愛では、日本人の常識をくつがえす事象が多いことは事実である。

もう一つ紹介するなら、やはり親戚筋の若い娘が、恋人を紹介したいと言い我が家に連れてきたのは、男性のような女性だった。
紹介する方も紹介される方も全く悪びれることなく、我が家に集まっていた皆の衆の反応もそれぞれで、当人の祖母が無言で目を白黒させたのが、唯一僕に至極理解できる反応だったが、それ以外の叔母やモナまで、それもありでしょうという反応であった。
当人に言わせると男性は信用できないが、女性であれば浮気の心配がないなどとケロッとして話していたが、当人は以前我が家でしばらく一緒に暮らしたことがあり良く知っていた人だっただけに、僕には意外以外の何物でもなかったわけである。
そして更に意外だったのは、目を白黒させた祖母を始め、誰1人としてそのような関係を否定せず、恋人と飛ばれる男のような女を普通に受け入れてしまうことで、やはりフィリピンはアメリカナイズされ、普段から恋愛の自由を標榜するだけのことはあると恐れ入った次第だ。

とにかくフィリピンは面白すぎるが、しかし良く考えれば、これが世界標準に近い形のような気もしてくるし、日本も男女(恋愛)関係に関しては世界標準に近づいてきたように感じないわけではない。
それでも飛躍し過ぎの実態に僕はどうあがいてもついていけないが、このように僕は、度々野次馬根性を刺激される事例に触れることになり、その度男女のあり方について勉強させて頂いている。
正しい恋愛関係、夫婦関係などもはやないかもしれないが、僕は僕なりにこのフィリピンで、自分の考える正しい夫婦関係を是非貫いて、清く正しき日本人の見本をフィリピン人に見せねばならぬと、本来力みたくもないことについつい力んでしまうのである。
これぞ素晴らしき「反面教師の効用」の見本である。


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410.宗教とは?

フィリピンでクリスチャンに囲まれて暮らしていると、日本にいる時よりも格段に宗教について考えることになる。
クリスマスにちなんで、少しそれを書いてみたい。
以下に述べることは自分のまことに勝手な解釈で、立派な宗教家が目にしたらお叱りを受ける内容かもしれないが、その点はご容赦願いたいと勝手なことを言いながら、勇気を持って掲載するものである。

実は僕には宗教アレルギーというものがあった。これは過去の自分の体験に基づくものである。
具体的な宗教名は差し障りがあり伏せるが、一つはかつて自転車で日本全国を駆け巡っていた時に、ある地方のある教会に泊めてもらった時のことである。
ここは飛び込みで泊めてもらったわけではなく、母の遠い親戚にあたる家だった。
そこの家族はみな宗教一家らしく、暮らしは質素で、会話も思慮深く控えめで尊敬に値する人ばかりであった。
住んでいたのは教会兼自宅で、当然余分な客間などない質素な暮らしであるから、僕は2階の神殿前に堂々と敷かれた布団で寝ることになった。
自転車で旅行などしていると、長期間まともに風呂も入れず、まともな寝具に包まれて眠ることもないので、風呂上がりで柔らかい布団に入った時にはとても幸せを感じた。

翌早朝何やら賑やかな物音に目を覚ますと、僕の布団の周りをぐるりと囲むように家族が座り、そして高校生と大学生の娘2人が、儀式用の服を着て踊っていた。神父さんは太古を叩いて歌い、奥さんは金物の打楽器を打っていた。娘2人は手に持った鈴を鳴らしながら僕の布団の周囲をぐるぐる歩き回るように踊っていたので、僕は仰天して飛び起き、そそくさと部屋の隅へ移動し正座をし、その儀式が終わるまで神妙にしていた。

儀式終了後神父さんが、毎朝のお勤めだったのでお騒がせした、気にせずゆっくりと寝ていてくれて良かったのにと言ってくれたが、その状況でゆっくりと眠れる人とは一体どんな人だと思ったものだ。
普段話をする時には、しっかりとした若い娘と物静かな御夫婦で、何事にも素朴な言動に、宗教を率先して進める方というのは自分のような世俗的な人間とは一味も二味も違うオーラを感じるのだが、しかし一旦その奥を垣間見ると、自分とは相容れない世界の人という印象が否めない部分があった。つまり朝のお勤めの出来事やその時の会話のように、こと信仰に関することでは理解し難い部分があるのだ。
当然さりげなく宗教へのお誘いも受けたが、丁重にお断りした。

それはもう一つの体験でも同じだった。
長く付き合いのある友人宅で、その友人夫婦が信仰している宗教への強烈なお誘いを受けたのである。10人ほどの人間に囲まれ、無理だと固辞する自分を延々と説得してくるのだが、自分の世界しか見えていないようなその姿勢に僕はほとほと閉口し、そのような世界に入り込むなどまっぴらごめんだと強く感じるようになった。
自分たちの世界がこの世でもっとも素晴らしく絶対だと言わんばかりの物言いは、やはり理解し難いものがあったのである。

それから僕は、特定の宗教というものに常に警戒心を持つようになった。
勿論それぞれの宗教には、個別に同調できることが多々あることも知っている。しかしそれが何にしろ、それこそに絶対的な価値があるとは、僕には到底思い込めそうになかった。
自分は自分の目で見て体験し、その時々で自分なりの価値観というものを醸成していきたいという想いが強かったため、今これを絶対と思えと言わんばかりに強要されると、それは無理ですと言うしかなかった。

ここフィリピンで家族は皆クリスチャンで、僕だけが唯一何にも属さない人間だが(死後の骨もどこに埋められても良いと思っている)、日本で味わったような押し付けがましいことが皆無で有り難いと思っている。
しかし子供もクリスチャンの洗礼を受けているわけで、押し付けはないにしても、理解しておく必要はあるだろうと思っているから、機会あるごとに関連図書などを読むようにしている。
しかし宗教関係図書は、分かりにくく退屈この上ない。
聖書など、日本語で書かれたものはさっぱり頭に入らず、では原文はどうかと言うともっと分からない。
なるほど分かりにくいから、神父様というその道に導いてくれる偉い人が必要なのかと、それだけが妙に理解できた始末だった。

しかし最近になって、少しだけ自分なりに宗教というものをおぼろげに理解できるようになってきた。
宗教とは、やはり心の拠り所であり、人生の道標ではないかと思うのである。
そう言ってしまえば、これほど前置きをして結論づけたのがそれだけかと言われそうだし、自分にしてもそれは前々から分かっていたことで、だからこそ宗教とは心の弱い人間がやるものだと、僕はかねてからそんな乱暴な考えを持っていたわけだから、もう少し話を付け加えたい。

世の中には、人のために命を捧げる覚悟で働いている人が大勢いる。特に知られているのは、シスターや神父様と呼ばれる方々で、便利で快適な文明生活を捨て貧困の局地と言われる現場に移り住み、日本で普通に暮らす人にはとても想像できないような大変な苦労をしながらボランティアに邁進されている。
その実態を知れば多くの日本人は、何も見返りがなく、なぜそこまで人のために尽くせるのだと不思議に思うほどの状況がある。
実際に、日本から遠い彼方に地で人のためだけに生きて生涯を閉じる日本人や欧米人のクリスチャンが多数いることを、多くの日本人は実感を伴って知らない。

彼ら彼女らは、迷うことなく自分の信じた道を進み、自分の生涯をそこに捧げるのである。
なぜ迷いがないかと言えば、そこに自分と神との会話が常に存在し、神の導きがあるからである。
だからこそ、それが人として生まれた自分の使命だと信じ、そこからわき道に逸れることなく困難が付きまとう道をつき進むことができる。
結果としてそのような方々の人生とは、宗教とは無関係に、強烈すぎるほどに充実した意味のあるものに見えてくるのである。
宗教とは何かという解説書を読むよりも、まるで宗教とは無縁の図書でこのような方々の具体的な活動報告なり体験談を知り、そこからそのような方々の生きざまを感じ取る方が、よほど宗教の本質を知ることができる。

思えば自分など、わき道に逸れ、迷いだらけの人生だったし、未だに迷っている。
迷いというのは一種の苦しみを伴い、またこのままいけば、人生を不完全なままに終焉させるようにも思えてきて、それが妙な不安感を生むこともある。
この苦しい迷いから救ってくれるのが宗教であるとすれば、救われた分だけ人は安楽に生きていけそうな気がしてくる。
そして常に神を自分の傍らに感じながら信じた道をまっすぐに進めば、どのような境遇であろうとも、どこにいようと、安心してあの世に旅立つことができる。
人生など、本人が心おきなく満足してあの世に旅立出るかどうかであって、それ以外の評価は何の意味も持たないことである。
宗教とは、そのような意味における人生の道標であるかもしれないということが、年齢を重ねた自分に、ようやく理解できるようになってきた。

とすれば、これはキリスト教がフィリピン全体に広まったのは理解しやすい。
「人生とは何か」と考えることを常に無言で強いるフィリピンで、人々の迷いを払拭してくれる宗教は有り難い救いとなる。
神に相談すれば導いてくれる。聖書を解説してもらえばそこに人の道が見えてくる。
言わば行く先に続くレールのようなその道を歩けば、大きく踏み外すことなく人生を全うできると信じることができる。間違った時に告白し、許しを得ると楽になる。
そこに具体的な示唆が含まれない分、楽に素直に受け入れることができる。そのレールに沿って進めば安心できるのである。
そもそも迷いがある時に、誰かに決めてもらうことがとても楽であることは、宗教に限らず誰しも経験があることだ。

欧米にしても同じである。欧米人と一緒に仕事をすると良く分かるが、欧米人は何事にも最初からストーリーを決めて仕事に取り掛かる。実際の物ごとがそのストーリーから外れると、それを最初に描いたストーリーに無理やり乗せようとする。
例えばこの特性は直線に乗るはずだと考える。それを前提に物事を考えると都合が良く、問題も解決する。そこで実際に測定し、まるで直線を描けないデータが多数取れたら、直線に乗るデータだけを残し、乗らないデータを捨てる。それでも残ったデータは実際に取れたデータだから嘘ではないとうそぶく。

最初に企てたサクセスストーリーに無理やりにでも乗せた事象は、本人の中では必ず成功する。
だから戦略思考性が強く局所的に見ればみんな成功で、そうやって自分の成果を誇示するのが欧米人だが、このように、あらかじめ道を示したり示されたりすることは、欧米人の基本的な考え方そのものであって、彼らはそれが一番楽な方法だと知っている。

しかし日本人は違う。実際にデータを取ってみて、想定外のデータが多数現れたら、その時点でもう一度考え直す。そうしないと、本当は何が起こっているのか分からないから怖いと感じる。それにより結論が先延ばしになっても、本当はどうなのか分かるまで正直に追求するのが日本人で、だからこそ思考錯誤で極めた日本の科学技術、特に材料系などは世界の先端をいくものが多い。
日本人ははっきりと分かるまで結論を出さず、動かないのである。このように、苦労を背負い込んででも真実を追求していくのが日本人の性質である。

この欧米と日本の考え方に違いには、一長一短があり、その時々に都合よいスタイルを選択しながら物事を進めるのが良いと思われるのだが、日本人にはなかなかそれは難しいようで、日本はアメリカや中国の長期戦略にやられっぱなしだ。
つまり日本人には、自分の歩むべき道を示してくれる宗教はなかなか肌に合わないということが推測できる。
実際に変幻自在の人生はその場になってみないと分からないことが多く、その時々で一番適した選択をしながら前に進むのがベストだと考える。
もちろんフィリピンのクリスチャンも同じように考えるが、その大上段に人間はこうであるべきだという導きさえも、日本人には邪魔に感じることがあるのである。
それゆえに日本人は、特定の宗教に傾倒することが少ないのではないだろうか。

そのように考えると、自分が無意識に「自分を導いてくれるもの」を遠ざけているのが、何となく理解できてくる。
時にはそれが欲しくなることもあるが、それはその時々に自分で求めたいのであって、常に示され縛られるのはどうかと考えてしまう。
そんなご都合のよい人間は我々の我が宗教には不要だと言われたら「そうか」と言うだけだが、幸いなことに、信じた時に誰の中にも神は存在するのが宗教だ。

しかしここで良く考えなければならないのは、冒頭で述べたように、教えを自分なりに咀嚼してそこに生涯を捧げるような人々と、導きが合った方が楽だからと宗教にぶら下がるだけの人とは、大きな違いがあるという点である。もちろんそれは2極分化されるものではなく、その中間に位置する人も無数の連続する点として存在するだろう。
そのように、様々なレベルの人を見て宗教とは何かを考えると分かりにくいが、一切の迷いを捨てて人のために尽くすような方の生涯を垣間見ることは、宗教の本質を理解するには実に役立つ。

僕は自分なりに考えたこの話を通し、宗教を否定しているのではない。
宗教には人生において重要な意味を持つことが考えられるのだから、その選択も個人の自由だと思っている。
まして宗教を背景に、まさに目から鱗の生涯を貫く人々が大勢いることは、大いに認めるところである。
そして、クリスチャンであるフィリピーナと結婚した自分にとって、伴侶とその家族に少なからずこのような背景があることを頭の隅に入れておいても、荷物にはならないだろうと思っている。
家庭生活でも、また欧米人相手に仕事をする際にも、それらを理解して付き合うことは実は大切な要素となり得る。

フィリピンや欧米のクリスチャンは、日本人に対し、この道標なしにどうやって人生を乗り切るのかという、日本人には大げさにも聞こえる感覚を素直に持っている。
かつてダディーは、僕が特定の宗教を持たないことに目を丸くして素直に驚いた。
それは普段生活するのに、住む家はあるだろうとか、食事はするだろうとか、当たり前だと思っていることが違ったとでもいうような響きがあった。
僕がクリスチャンでなくても構わないのである。普通は何か確たる道標を持っているべきだろうと普通に信じているダディーに、それが無いと知られて率直に驚かれたのである。
そして日本人はその反応に、逆に驚くのである。
これはかつて仕事を共に遂行した欧米人も、同じ反応であった。
それは単にお互い驚いただけで終わり、その後の関係に何ら支障をきたすものでは全くないのだが、宗教に関する考え方に、日本人と欧米人やフィリピン人の間には実はそれほどギャップがあることが僕には不思議に思え、その不思議さが僕にこれらのことを考えさせるのである。
そしてこれからもおそらく、考え続けるだろうと思われる。


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2011年12月24日

409.お金が巡る

昨日23日、銀行に用事があって出かけた。用事は色々あったのだが、その一つに、日本の口座からお金を引き出し、それをフィリピンの口座に移し替えるという事があった。
日本の口座からの引き出しはATMを利用するしか手立てがないが、そのATMの前には長蛇の列ができていた。さすがにクリスマス前日である。みんな現金が必要だ。
そこでモナは、自分が窓口で行える手続きをしているから、その間僕にその列に並んでくれとカードを手渡してきた。
この列に並んでATMに辿り着くには時間がかかり大変そうだが、実はそれほど大変ではない場合もある。
あまり良い趣味ではないけれど、地元の人がどのように、そしてどれほどの現金をATMから引き出すのか興味深く観察していると、意外に早く自分の番がくる。
僕は他人の預金や財布の中身に興味があるわけではない。それを見ることで、地域の経済状況を何となく把握できるのである。一般の人が使える金額を把握することは、自分のビジネス感覚を磨く足しになる。
そのATMは1回で1万ペソまで引き出すことができる。1万ペソを数回に分けて数万ペソ引き出す人は、僕の前に並んだ15人ほどの人では皆無だった。
だいたいの人は引き出した現金をその場で数えるから、各自がどの程度の金額を引き出したのかが分かってしまうが、ほとんどの人が5千ペソ以下である。
順番が間近になると、今度は他人の預金の残高も分かるようになる。ATMは日本のように仕切りがなく、並んだ場所からその画面が良く見える。多くの人が始めに残高確認をするので、ほとんどの人が残高を目いっぱい引き出していることもそこで分かってしまう。
およそであるがペソを2倍すれば円だから、やはりこの地域の経済状況はかなり底が浅いことが分かる。

列に並んでいたら、みすぼらしい身なりの子供が自分の傍らでぼそぼそと何かを話している。
最初は気付かなかったが、良く聞けば歌を歌っているらしい。どうやらカロリンをしているらしかった。ポケットの中に5ペソコインがあったのでそれを手渡すと、その子供は列に並ぶ別の人の前で、再びぼそぼそと歌いコインを手に入れていた。
銀行に並ぶ列に目を付けたのはなかなか賢い。そこに並んだ人は、それを煩わしいと思っても逃げられないからだ。よって2割の人は無視を決め込んでいたが、8割はその子にコインを手渡していた。
もう少しやる気を見せて歌えば、その率はもう少し上がったと思われる。

この時期、フィリピンはカロリンだらけになる。
カロリンとは、クリスマスに向けて子供たちが各家庭を回り、その家の前で歌うことで小銭を稼ぐ行為だ。
僕はカロリンとはそれだけと思っていたら、このように街の中にも不意に頻繁に出現するし、ハイスクールの学生が使用使途(学校の設備購入、校舎の修復等)を書いたものをプリントアウトし、それを持参の上回ってくる場合もある。
カロリンに来たのかと思えば、その紙には翌日準備をして来るので宜しくといったことが書いてあるものを手渡すだけで、帰っていく場合もある。
その場合学生は、ギター演奏付きで練習したと思われる合唱をしたり、おそろいのコスチュームでダンスを披露したりするから、渡すお金もコインではなく100ペソ程度となったりする。
とにかくこの時期、寄付のようなものを募る行為があちらこちらで溢れかえり、それがまっとうなものかそうでないのか、判断が難しくなる。
まっとうであればできる範囲で積極的に協力したいし、そうでないものは敬遠したいというのが僕のスタンスだが、次第に判断が面倒になり、来るもの拒まず状態になる。

そうやって日本人である自分もクリスマスの雰囲気に毒されていき、昨日の散髪でも、通常料金が30ペソのところを、メリークリスマスと言い100ペソ支払って店員が喜ばれた。
日本で散髪すれば即席格安の散髪屋でも30倍強の料金だから、通常の3倍支払うくらいはまるでたいしたことではないのである。

我が家のクリスマスツリーの下に、クリスマスプレゼントがたくさん積まれているのは既にご紹介した通りだが、24日当日になっても、モナとママは朝から2人で、プレゼントのラッピングに忙しい。
まだプレゼントを積み上げるつもりかと少し呆れるが、そう言いながら僕も昨日、魚屋の叔父さん、ジュンさん、ダディーそれぞれにタバコ1カートンを買ってきたから、人のことは言えない。
昨日もコーヒーショップに行くついでにお願いされた料理の材料数点を買いにスーパーへ寄り、それだけの買い物のつもりでスーパーに足を踏み入れたはずだったのに、ついでにドリンクを少し買い足していたら支払いが2千ペソほどになった。
おかげでコーヒーショップに、お酒の瓶がたくさん入ったプラスティック袋を両手にぶら下げて入る羽目になった。

街のあちらこちらは電飾だらけになって、随分綺麗に化粧されている。
浮かれた人が大勢、街の公園に出ていた。
みんながこうして、いつもよりもお金を使う。お金を使うという行為は、実に楽しく幸せを感じる行為だ。使い過ぎて大変だなんてことは、イベントが過ぎ去ってから噛みしめることである。ここぞとばかりに、人それぞれの範囲でお金を使う。
使われたお金を手にした人もまた、高揚した雰囲気にお金を使う。
下手をすると自分の使ったお金が、再び自分の手元に戻ってくるのではないだろうかという気さえしてしまう。
こうしてお金がぐるぐるとまわり、それがクリスマスの幸せな気分を更に盛り上げるのだろう。

怪しい寄付が押し寄せ、怪しくお目こぼしに授かろうという人がいて、ここが稼ぎどころと頑張る人もいるのだろうが、さりとて所詮底の浅い経済である。
日本とは違う素朴さが怪しさも含めても十分残っていて、異国人の僕には、まだまだ純粋な趣きを感じるフィリピンのクリスマスである。

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